見出し画像

フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 3-14

03 リトゥス 儀式は止められず|14 月夜は暗く

 アリスタリスの王太子冊立に賛同する見返りに、報恩特例法ほうおんとくれいほう撤廃てっぱいするという言質を取り付けたコルニー伯爵は、即座に動き始めた。近衛このえ騎士団長として元第四側妃の不貞ふていを許した責任を取るのだと、自ら宰相府に謹慎を申し出ると、その申告が認められる前から自邸に引き篭もり、膨大な数の手紙を書き続けたのである。
 広大なロジオン王国の四方に位置する辺境伯爵家に対しては、報恩特例法の撤廃を見返りに協力を求める為の書状であり、王都に暮らす地方領主達には、極秘の面談を願う書状である。王城から正式に謹慎の沙汰さたが有ってからは、極秘で自邸を抜け出し、やはり謹慎となったイリヤと共に、連日、地方領主の下を訪ねたのだった。

 その日、コルニー伯爵とイリヤが訪れたのは、王都に程近い場所にそれなりの広さの農耕地帯を有する、ボリス・サッヴァ子爵の邸宅だった。子爵家の王都屋敷としては贅沢な邸宅の奥深く、瀟洒しょうしゃな客間で向かい合った彼らは、硬い表情で話し合いを続けていた。サッヴァ子爵が言う。

「コルニー伯爵閣下の仰ることは、十分に理解致しました。しかし、当家の判断を誓詞にしたためるとなりますと、簡単には参りませんな。わたくしにも領地を背負う責任がございますので、家の存続を第一に図らなくてはならないのです」

 コルニー伯爵は、さながら剣を交えるかのごとき気迫で、サッヴァ子爵の仕掛けた駆け引きの糸を、一歩身を退きながら手繰り寄せた。

「サッヴァ子爵の御意見は、御もっともと存じます。ですが、我がロジオン王国の正嫡せいちゃくは、元々アリスタリス殿下でございます。陛下の御寵愛ちょうあいが、王妃陛下が御産みになったアリスタリス殿下に注がれていることは、王城でもく知られておりましょう。アイラト殿下が王太子に冊立される可能性は、現在でも高くはありません。そこに、地方領主の皆様がアリスタリス殿下の支持を表明して下されば、形勢は一気に傾くでしょう」
「さて、コルニー伯爵の御言葉程に、上手く運びますかな。アイラト殿下には、宰相閣下とクレメンテ公爵閣下という後ろ盾が付いておられますし、陛下はアイラト殿下のことも、こよなく御寵愛でございましょう」
 貴族家の当主としては、当然ともいえるサッヴァ子爵の追求に、コルニー伯爵はここであらかじめ用意していた手札の内の一つを切った。
「最近のアイラト殿下は、王国騎士団長のスラーヴァ伯爵と御昵懇じっこんで在らせられます。そのことは御存知でしたか、サッヴァ子爵」
「何と、それは初耳ですな」
「スヴォーロフ侯爵閣下とクレメンテ公爵閣下は、異世界からの召喚魔術を行いたいと願い、叡智えいちの塔を動かしました。それもまた、王国騎士団との関係を強化する為だと聞いています。異世界から新しい力を引き込む筋道が見えれば、王国騎士団の悲願であるスエラ帝国への侵攻が、現実味を帯びて来るかも知れませんからね」

 サッヴァ子爵は、それまでの取り繕った表情を改め、剣呑な瞳で忌々いまいまし気に眉をひそめた。コルニー伯爵が語った、如何いかにも有りそうなはかりごとは、多くの地方領主達にとって、絶対に認めることの出来ない未来だったのである。

「王国騎士団の侵攻など、我らにとっては迷惑でしかありませんな。どうせ戦費は地方領主の拠出となり、戦果はロジオン王家と王国、王国騎士団が我が物とするのですから。コルニー伯爵の御話の通りなら、召喚魔術など言語道断ですな」
「此度の召喚魔術は、陛下の御裁可で実施日まで決まっておりますので、今更止めるわけには参りません。ですが、アリスタリス殿下に御力添えを頂ければ、王国騎士団の増長は止まるでしょう。アリスタリス殿下は、他国への侵攻など、夢にも考えておられません。アリスタリス殿下御即位の暁には、報恩特例法ほうおんとくれいほう撤廃てっぱいも御約束致しましょう」

 コルニー伯爵の熱心な説明に、サッヴァ子爵はちらりと打算的な笑顔を浮かべた。サッヴァ子爵にとって、ようやく現実的な商談に至ったのである。

「それですよ、コルニー伯爵。当家にとっては、報恩特例法の撤廃などよりも、方面騎士団の為に毎年求められる維持費の方が、遥かに頭の痛い問題でしてな。単純に報恩特例法を撤廃するのではなく、維持費の軽減を優先して頂きたいのです」
「領民から略奪するのは構わない。サッヴァ子爵は、そう仰るのですか」
「いやいや、そこまでは申しませんよ。ですが、領民が方面騎士団に助けられたのなら、領民が支払いをするのは当然でしょう。逆に言えば、我ら地方領主からは維持費を徴収し、領民からも二重に取り立てるというのは、明らかにやり過ぎというものですよ。アリスタリス殿下は、その辺りを斟酌しんしゃくして下さるのでしょうか」

 コルニー伯爵は、サッヴァ子爵から視線を逸らさず、必死に表情を取り繕って、苦々しい思いを飲み下した。王都に暮らす地方領主達の口から、サッヴァ子爵と同じ言葉を聞かされたのは、既に何度目になったのか、コルニー伯爵は数える気力を失いつつあった。領民を蹂躙じゅうりんする報恩特例法の撤廃を、地方領主は一も二もなく望むだろうというコルニー伯爵の見立ては、ある意味、完膚なきまでに覆されていたのである。
 コルニー伯爵の目の前で、サッヴァ子爵は微かに身を乗り出し、瞳を期待に輝かせている。コルニー伯爵は、これまで地方領主に対して行ってきたものと同じ回答を、怒りとも諦観ていかんとも付かない思いと共に口にした。

「その辺りは、選択肢を持たせましょう。報恩特例法ほうおんとくれいほうの適用除外を受けるか、維持費を減額させるかは、地方領主の方々の御判断にゆだねることとし、いずれかを選択出来るようにするのです。それで如何いかがですか、サッヴァ子爵」

 コルニー伯爵から、ようやく望む通りの回答を引き出したサッヴァ子爵は、満面の笑みを浮かべて頷いた。裕福な子爵家の舵を取る男は、高潔な貴族であるコルニー伯爵とは、別の価値観に生きる男だったのである。

「よろしいでしょう。確実にその御約束を履行りこうして頂けるのでしたら、当家はアリスタリス王子殿下の王太子冊立を支持致します。今後の御話によっては、わたくしが親しくしている地方領主に、根回しをする御手伝いも致しましょう。いや、この件が上手くまとまれば、地方領主が百年に渡って失ってきた富を、今後は手元に残せるかも知れません。誠に有難いことですよ、コルニー伯爵閣下」

 結果として、コルニー伯爵とイリヤは、上首尾の内にサッヴァ子爵の邸宅から退出した。アリスタリスの立場だけを案ずるイリヤは、無事にサッヴァ子爵の言質が取れたことに安堵し、男らしい唇をほころばせていた。一方、コルニー伯爵の表情には欠片の喜びもなく、硬く強張こわばったままだった。
 人目を避ける為に用意した質素な貸馬車の中で、暗い瞳のまま無言を貫くコルニー伯爵に、イリヤは戸惑いがちにたずねた。

「今日の話し合いは、私くしには上首尾に思えましたけれど、団長閣下の御考えは違うのでしょうか。ここ数日というもの、地方領主の館を訪ねる度に、閣下が暗い御顔をなさっているのが、私くしは気になっております」

 心配に曇らせたイリヤが、一心に自分を見詰める視線を避けるかのように、コルニー伯爵は片手で顔を覆い、懸命に絞り出した声で言った。

「済まない、イリヤ。私はただ、自分の愚かさに嫌気が差しているだけなのだ。報恩特例法ほうおんとくれいほう撤廃てっぱいよりも、割り当てられた維持費の軽減を求める領主が、これ程までに多いなどと、想像さえしていなかった。つくづく甘い男だよ、私は。この無態振りでは、近衛このえ騎士団の団長など務まるはずがない。部下に裏切られ、王城でけがれた不貞ふていを働かれるのも、当然の結末だったのだろうな」
「何を仰るのですか、閣下。貴方様を指揮官と仰ぐのは、我ら近衛の誇りでございます。それは、私くしだけでなく、皆も同じ思いでありましょう」
「有難う、イリヤ。そう言ってくれて、私は本当に嬉しいよ」

 コルニー伯爵は、顔を上げて無理に微笑みを浮かべて見せた。アリスタリスに忠誠を捧げ、ロジオン王国の在り方に一片の疑いも持たないイリヤに、これ以上の説明を重ねる気力は、今のコルニー伯爵には残されていなかった。