連載小説 神霊術少女チェルニ 小ネタ集 ブルーノ・ドゥ・ガルニエの副官日誌
ブルーノ・ドゥ・ガルニエは、王都の中心街に建つ屋敷の一室で、鍵付きの分厚い日記帳に目を通していた。ルーラ王国の栄えある王国騎士団において、団長補佐官、通称〈副官〉を務める者たちの間で、密かに回覧される日誌である。
王国騎士団では、現在、七人の騎士が副官の任に就いている。団長であるレフ・ティルグ・ネイラが執務に当たる際、少なくとも二人以上の副官が、必ず行動を共にできるよう、多くの人員を配置しているのである。
王族の警護を主とする近衛騎士団の場合、近衛騎士団長の副官は二名。レフより前に王国騎士団長を務めていた者たちの場合も、副官は二名から三名だった。そうした前例と比べると、現在の王国騎士団の人事は、極めて異例である。
レフ自身は、副官の増員を要求したことはなく、特に必要ともしていないだろう。副官の数が増大したのは、ひとえに王国側の事情による。
レフは、単なる王国騎士団長ではなく、他国でも〈この世で最も強い騎士〉として知られる英雄にして、ルーラ王国の頂点たる〈神威の覡〉である。欠片の粗略も許さぬ神霊庁と、騎士たちに広く薫陶を受けさせたい宰相府、少しでも縁を持ちたい貴族たち、さらには、レフに何らかの〈枷〉をはめたい王家との駆け引きによって、副官の人数が増え続けていったのである。
ブルーノは、副官日誌を手にする度に、必ず読み返す一文を、この日も目で追った。副官に就任した直後、筆頭補佐官であり、王国騎士団大隊長の重責をも担っている、マルティノ・エル・パロマ子爵が、ブルーノへの祝辞として、書き記してくれた言葉だった。
§
「王国暦一二三二年桜月二日
ブルーノ・ドゥ・ガルニエ小隊長へ。
我らが団長閣下の補佐官、通称〈副官〉への就任、おめでとう。優秀にして清廉なる貴君が、副官仲間となってくれたことを、わたしたちは誠に嬉しく思っている。
この日記帳は、表向きの業務記録とは別に、副官だけに回覧される日誌である。副官日誌については、閲覧を副官のみに限定し、それ以外の者に対しては、存在そのものを固く秘匿している。その上で、副官一同が、常に肝胆相照らし、些かの懈怠もなく、団長閣下に身命をお捧げするために、この日誌が存在していると考えてほしい。
貴君は、外交に携わるご父君を持ち、つい先日まで、他国で生活していたと聞いている。当然、貴君自身も、外交官を志していたのだろう。
その貴君が、王国騎士団の騎士となり、団長閣下の副官に抜擢されたのは、宰相閣下の推薦の故であった。英邁なる宰相閣下は、貴君の将来性を高く評価され、貴君が団長閣下の〈輔翼の臣〉足り得ると信じて、貴君を王国騎士団へとお導きになったのではないだろうか。
我ら王国騎士団は、地位も名誉も財貨も要らぬ、灼熱した信仰の徒であり、そうでなくてはならぬと、天命によって定められた存在である。信仰の対象となるのは、勿論、ルーラ王国の至尊たる〈神威の覡〉、我らの団長閣下である。
中でも、閣下の副官という、崇高なる使命を賜った我らは、すでに血肉を超えた兄弟である。一艘の船に乗る同胞である。共に生き、共に死する覚悟を持った仲間として、忌憚のない意見を述べ合おうではないか。
我ら副官一同は、貴君の就任を心より歓迎する。完全にして完璧、人にして人に非る団長閣下の御為に、我らの精神と運命は、今、固く結ばれたのである。
記録者 マルティノ・エル・パロマ」
§
初めて、マルティノの文章を読んだとき、ブルーノは大変に混乱した。マルティノは、穏やかな人格者であり、文武両道に優れた逸材であり、冷静沈着な指揮官としても名高い男である。そのマルティノが、酔っ払いの戯言の如き文言を、くどくどと書き連ねているのは、一体どうしたことなのか。混乱するなという方が、無理というものだった。
マルティノが書いていたように、ブルーノは、外交官である父の赴任に従い、幼少期から他国での暮らしが長かった。父親の帰国と共に、ようやくルーラ王国に腰を落ち着けることとなったブルーノは、外交官の席が空くまでの間、王国騎士団の騎士として、気楽な日々を過ごすつもりでいたのである。
異国育ちのブルーノは、王国騎士団長や〈神威の覡〉に対して、特別な思いを持っていなかった。だからこそ、宰相府は、ブルーノを副官に推薦したのだが、それは本人の与り知らぬことである。
勝手に〈兄弟〉にされても困るし、運命共同体になどなりたくもない。まして、王国騎士団である以上、剣を捧げるべき相手は国王陛下であり、王国騎士団長を〈至尊〉とし、〈信仰〉するのは、流石にまずいのではないだろうか。
ひょっとすると、取り返しのつかない道に踏み込んだのではないかという予感に、ブルーノはその日、眠れぬ夜を過ごしたのだった。
結論からいうと、ブルーノは、副官就任の三日後、初めてレフを間近に見た瞬間に陥落した。神霊術の使い手であるブルーノには、真紅の鳥の姿を取った、いとも尊い御神霊を肩に乗せ、鏡の如き銀色の瞳を輝かせる様が、はっきりと視えたからである。レフは、確かに〈人にして人に非ざる〉存在に他ならなかった。
言葉もなく崩れ落ち、拝跪したブルーノを、レフは優しく助け起こした。そして、灰色の金剛石に戻った瞳で、ブルーノの目を見つめ、〈これからよろしく、ブルーノ〉と微笑んでくれた。その刹那、ブルーノ・ドゥ・ガルニエもまた、厄介極まりない〈灼熱した信仰の徒〉へと、華麗に変貌を遂げたのである。
マルティノが、副官日誌に書いてくれた祝辞は、正しく天啓であり、ブルーノが進むべき道を指し示す、魂の指針でもあった。めでたく酔っ払いの仲間入りを果たしたブルーノは、マルティノの言葉をありがたく読み返し、歓喜の涙を流したのだった。
そして、その運命の日から三年、着々と副官としての実績を積み上げ、レフからの信頼も厚いブルーノは、今、若干震える指でペンを取っていた。
§
「王国暦一二三五年藍月八日
驚愕に値する出来事あり。未だに現実のこととは思えず、自分でも、自分の見聞きしたことが信じられない。
本日、我らが団長閣下は、子供たちの誘拐事件を解決するため、極秘に行動された。(詳細は表の業務記録を参照)。事件そのものは、順当に解決。我らが団長閣下がお出ましになったからには、万に一つの失敗もなきことは、火を見るよりも明らかである。
問題は、事件解決の後の、団長閣下のお言葉であった。キュレルの街の守備隊に協力し、犯人逮捕に功績のあった少女(幼いながらも、稀有な美少女であり、大変な神霊術の使い手であると推察される)のことを調べるため、〈黒夜〉を動かすと仰せになったのである。
善良な協力者であるはずの少女に、何か不審な点があるのかと、わたしはにわかに緊張した。ところが、我らが団長閣下が、畏れ多くも〈神威の覡〉で在られる御方が、わたしに仰せになったのは、〈わたしが、個人的に知りたいだけだよ。あの少女と親しくなるには、まず相手を知らなくてはならないのだろう〉という、凡そ信じ難いお言葉であった。
敬愛する騎士であり、共に団長閣下に身命をお捧げする同胞でもある、副官方であれば、彼の方のお言葉を聞いたときのわたしの心境を、お分かりいただけることと思う。
常に穏やかでお優しく、同時にどこまでも〈只人〉とは感覚の隔たった、あの団長閣下である。女性の美醜になど欠片の興味も持たず、数多の美女に熱い視線を注がれようと、無機質な一瞥で瞬殺してきた御方である。本当に〈人〉というものの範疇に収まっておられるのか、真剣に疑問を持たざるを得ないレフ様である。その方が、少女と親しくなりたい、と。
驚いた。驚愕した。信じられなかった。レフ様は、いったい、どうなさったのでしょう、先輩方??
失礼。動揺のあまり、つい筆が滑ってしまった。ともあれ、驚きに硬直し、団長閣下のご下問に、すぐに反応できなかったのは、誠に遺憾であった。団長閣下の副官という、身に余る栄誉を賜った以上、二度と同じ不始末を犯すことのないよう、精進を重ねなくてはならないだろう。
記録者 ブルーノ・ドゥ・ガルニエ」
§
ペンを置いて、ブルーノは深い溜息を吐いた。レフ・ティルグ・ネイラは、気まぐれという言葉とは、縁遠い存在である。そのレフが、少女一人の情報を得るために、〈黒夜〉を動かすという。
この先、必ず何かが起きるだろう。その何かは、ルーラ王国を震撼させ、王国の運命を左右するものではないのだろうか。絶対の確信を伴った予感に、ブルーノは震えるしかなかった。
宰相府からの極秘伝達事項として、〈神託の巫〉の出現が伝えられ、レフと少女との〈文通〉が始まり、副官たちの間に激震が走るのは、それから間もなくのことだった。