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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 4-9

04 アマーロ 悲しみは訪れる|9 その瞳は

 儀式の間で召喚魔術が行われようとする丁度その頃、アントーシャは、三匹の猫達と共に不思議な空間にいた。広いといえば地平線も見えない程に広く、狭いといえば一つの部屋程にも狭い。上下左右の区別も有るといえば有り、ないといえばない。曖昧なままほのかに光る空間こそは、アントーシャの〈真実の間〉だった。

 魔術師にとって真実の間とは、己の魔力によって作り上げた〈界〉を意味し、そこには物質的な制約は存在しない。謂わばアントーシャの精神世界に近い空間ではあるが、だからと言って現実世界にアントーシャの肉体が取り残されているわけでもない。精神世界でありながら、現実に在る物質をも内包してしまうのが、真実の間と呼ばれる空間の特徴であり、全ての魔術師が渇望かつぼうする唯一無二の世界なのである。

 己が真実の間に立ったアントーシャが、右の掌を開いて上に向けると、そこに銀色に光り輝く小さな鍵が現れた。古の宝物殿の鍵にも見える優美な造形の鍵は、ゲーナの真実の間にいて継承されたものであり、アントーシャにほどこされた封印を解く為の暗号を、鍵の形をとって具現化した魔力結晶である。腰を落としたアントーシャは、足元に寄り添う三匹の猫達に掌を差し出し、興味津々に見開かれた緑金の瞳に鍵を見せた。

「御覧、おまえ達。何とも美しい鍵だろう。ぼくの父上になって下さった方が、ぼくの能力を封印する為に、ずっと膨大な魔力を注ぎ続けて下さったから、鍵までが高純度の魔力結晶になってしまった。今回の召喚魔術の触媒しょくばいとして使われている聖紫石、その希少性と美しさから、魔術師達がフリゾリート〈宝玉〉と呼ぶ宝石と比べても、遥かに強く美しい魔術触媒なのだよ」

 勇敢な三匹の猫達は、代わる代わる小さな鼻先を寄せては、恐れ気もなく鍵の匂いを確かめた。母猫のベルーハは、新雪のごとき純白の毛並みをきらめかせながら、思慮深い瞳でアントーシャを見上げ、可憐な声で鳴いた。

「ぼくの力が封印された理由を知りたいのかい。第一の理由は魔力量だよ、ベルーハ。膨大な量の魔力は産まれたての赤子には扱えないから、一時的に余剰よじょう分を封印してしまうのさ。父上も幼少期はそうされたという話だし、力の有る魔術師にとってはめずらしくはないだろうね。父上がぼくの両親だった人達に会いに来たのも、母であった人の出産と同時に、大きな魔力の発生を感じたからだと言っておられた。そして、もう一つの理由は、ぼくが特殊な〈眼〉を持って生まれてしまったことだよ」

 そう言って、アントーシャは猫達の前に屈み込むと、自分の目元を指で示しながら、ベルーハの緑金の瞳を覗き込んだ。

「ぼくの眼は、今は有り触れた金茶色に見えているだろう。でもね、生まれたときは、全く違っていたそうだよ。それこそ、偶々ぼくの生家を訪ねておられた父上が、異常を感じて部屋に飛び込んできて下さらなかったら、息子の瞳の不気味さに怯えた実の両親が、鋏で赤子の両眼を抉り取ろうとするくらいにね」

 アントーシャが自嘲するように言うと、今度はベルーハだけでなく、コーフィやシェールまでもが声を合わせて鳴いた。悪戯いたずらな茶猫のコーフィと、しとやかな灰色猫のシェールは、其々に主人と定めたアントーシャを慰めているかのようだった。アントーシャは、優しい眼差まなざしで猫達を見詰め、平然とした口調で言った。

「ああ、分かっているよ。お前達は、ぼくがどんなふうに変わっていても、変わらずに側にいると言ってくれるのだろう。有難う。小さな猫の思い遣りは、詩人の残した百の詩作にも勝る慰めだよ。とは言え、今のぼくは、そのことで傷付いてなどいないよ。ぼくの父上になって下さった方は、どれ程の異形であっても、温かい愛情を注いで下さったからね。本当に大丈夫だよ、ベルーハ、コーフィ、シェール」

 アントーシャが嬉し気に笑うと、猫達も喉を鳴らし、交互にアントーシャのローブに身体を擦り寄せた。アントーシャの愛用する漆黒のローブは、瞬く間に三色の猫の毛を吸い寄せたが、アントーシャは構わずに笑った。

「ここは真実の間、物質界であって物質界ではなく、精神界であって精神界ではない狭間の界。お前達がローブをいくら毛だらけにしても、ここを出れば消えてしまうのだろうから、遠慮は無用だよ。ローブを毛だらけにするのは、元気な猫の仕事のようなものだからね。ああ、でも、そろそろ時間になってしまうな。ぼくに迷いが生じない内に、ほどこされていた封印を解くとしよう。生まれたときから共に在ったものだから、封印から解き放たれた自分というものが、どうも想像出来ないのだけれど」

 アントーシャがそう言うと、猫達は緑金の瞳を瞬かせ、軽やかに身を引いた。一セルラ程の距離を置き、アントーシャの背後に行儀良く並ぶ。猫達が離れたことを確かめたアントーシャは、一度だけ深く息をすると、荘厳そうごんな声で謳うがごとく詠唱した。

「事実に隠されし真実、封印に守護されし謎の中の謎。時至りし上は、我が前に全てを解き明かすが良い。我が手に戻りし力はあやまたず、真にして善、善にして美なる儀にこそ使われん。我が全眼はたじろがず、見るべきものらを映し出す。我が最愛の父にして、真に偉大なる大魔術師、永久の師たるゲーナ・テルミンが与え給いし封印よ、正当なる鍵の継承者、アントーシャ・リヒテルが命じる。今こそ解けよ、ヴァシーリ」

 次の瞬間、真実の間の望洋たる空間に、激しい爆発が起こったかに見えた。アントーシャが手にしていた鍵から、無数の閃光が迸り、辺り一面を真っ白に染め上げたのである。アントーシャ以外の者が真実の間に居れば、目を塞いで倒れ込み、二度と立ち上がれなかったかも知れない程の、恐ろしい光の激流だった。

 永遠なのか一瞬なのかも分からない時間が経過した後、いつの間にか閃光は消え去り、元のほのかに白い空間が現れた。じっと立ち尽くしていたアントーシャは、背後の猫達の様子を見る為に振り返った。魔術的な眷属けんぞくとなった猫達は、アントーシャから発した爆発にも耐えられるはずだったが、予想を超えた光の奔流ほんりゅうの激しさに、思わず無事を確かめたくなったのである。 
 猫達の為に腰を落とし、優しい微笑みをたたえて三匹の顔を覗き込んだアントーシャの瞳は、封印を解除する前と同じものではなかった。三匹は揃って丸い猫の眼を大きく見開き、忙しなく耳を動かした。恐れるでもなくいとうでもなく、同時に驚愕きょうがくの余り混乱しているであろう猫達に、アントーシャは苦笑して言った。

「驚きが過ぎると、猫でも目を見開いて硬直するのだね。そんな様子も、とても可愛らしいけれど。封印を解き放った、生まれたままの姿のぼくは、お前達でさえ驚愕する程に変わったのかい。自分の内面の変化は分かるけれど、流石に容姿は見えないから、今一つ実感が湧かないな。どれどれ」

 そう言って立ち上がったアントーシャの手には、いつの間にか手鏡が握られていた。アントーシャは鏡を近付け、じっと自らの顔を覗き込む。思わず口を開け、瞳を見開いたアントーシャは、やがて小さく吹き出した。

「何とまあ、これは実の両親を責めるのは気の毒だったな。むしろ、父上がぼくを引き取って下さったことの方が、奇跡というものだ。ぼくが両親の立場でも、赤子の将来と生家の体面を守る為に、目玉を抉りたくなったかも知れないよ。魔術を知らない両親は、どれ程の混乱と悲嘆に晒されたのだろうね。いくら幼いとはいえ、両親には申し訳なかった。そうだな。状況が落ち着いたら、いつか謝りに行くとしよう」

 主人を慰めるかのように、ローブの足下に揃って身を擦り寄せてくる猫達に、アントーシャは優しく声を掛けた。

「それにしても、何という異形の瞳なのだろう。何故ぼくだけが、これ程までに奇妙な瞳に生まれ付いたのか。あるいは、この瞳に生まれ付いた意味は何なのか。次の世で再び父上に御目に掛かれたら、二人で研究してみよう」

 自らを異形と言いながら、今のアントーシャには、戸惑いも屈託も見当たらなかった。封印を解かれたアントーシャは、異形の瞳が持つ巨大な力を、既に正しく把握していたからである。アントーシャが望めば、異形の瞳は息を吸うよりも容易く隠蔽いんぺいされ、決して誰の目にも触れはしないだろう。

 真実の間において、アントーシャの瞳は深い金色に輝き渡り、目を凝らした者だけに見える瞳孔は、様々に色を変えながらゆっくりと回転する正二十面体だった。