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連載小説 神霊術少女チェルニ 小ネタ集 パトリック・クレマンの美味探究 2 あの人たちに会っちゃいました!

 わたしの名前は、パトリック・クレマン。三十二歳、独身。恋人募集中。

 わたしは、ルーラ王国で最大の発行部数を誇るグルメ月刊誌、〈美味天空ー星々が選ぶ美味うまいものー〉、通称〈うま天〉の記者である。王都において、美味という美味を堪能したわたしは、少し足を伸ばして、王都郊外のキュレルの街を訪れた。今にして思えば、それは、大いなる運命の呼び声だったに違いない。

 端的にいうと、キュレルの街でも評判の、高級宿兼食堂〈野ばら亭〉の料理を口にした瞬間、わたしは、魂の底から魅了されてしまったのである。わずか一泊の滞在の後、王都に戻ったわたしは、その日の夜から、深刻な禁断症状に悩まされることとなった。
 〈野ばら亭〉の美味し過ぎる料理を、心ゆくまで味わいたい。豊潤な香りを胸いっぱいに嗅ぎながら、冷えたエールで喉を潤したい。いや、安いくせに上質な白ワインも良い。紅玉の色をした赤ワインも、一本は空にする自信がある。目移りするほど数の多いメニューを、端から順に攻略してもいい。何だったら、看板娘の妹の方がメニューに書き殴った、大変汚い文字でさえ、懐かしくてならないのである。

 生まれつき味覚が鋭く、グルメ記者として数多あまたの経験を積み重ねてきた、このパトリック・クレマンが、ここまで一軒の店に惚れ込んだのは、初めての経験である。こうしてペンを握っている今でさえ、モツ煮込みがわたしを呼んでいる気がする。あぁ、恐るべし、〈野ばら亭〉!

 先日、禁断症状に耐え兼ねたわたしは、〈うま天〉の敏腕編集長であるミランダ女史に、在宅勤務を願い出た。〈野ばら亭〉に通いたいから、キュレルの街に住みたいと、ぶっちゃけちゃったのである。
 グルメ記者の仕事は、もちろん続ける。王都の店にも取材に行く。しかし、自宅はキュレルの街に置いて、仕事以外の食事は〈野ばら亭〉で食べるのだと、わたしは、固い決意で宣言した。やや冷静になって思い返せば、正気を疑われても仕方のない態度だったかも知れない。反省である。

 有能で厳しく、同時に部下思いでもあるミランダ女史は、眼鏡を指で押し上げながら、わたしにいった。〈落ち着け〉と。
 そもそも、〈野ばら亭〉の存在を、わたしに教えてくれたのは、ミランダ女史だった。グルメ業界では、〈神の舌を持つ女〉と名高いミランダ女史は、当然、熱烈な〈野ばら亭〉のファンである。ミランダ女史自身が、キュレルの街への移住を検討していると聞いて、わたしは感動に打ち震えた。
 そのミランダ女史が、〈落ち着け〉というには、確かな理由があった。まだ、明らかにすることはできないが、わたしやミランダ女史を救済する、素晴らしい計画があるというのである。

 わたしとミランダ女史は、早々に〈うま天〉の編集部を出て、近くの店で情報交換を行った。王都でも〈安くて旨い〉と評判の店だったが、〈野ばら亭〉を知った後では、とても満足などできなかった。
 しかし、しかし。ミランダ女史がつかんできた極秘情報が、現実のものになれば、この不満は解消されるだろう。わたしとミランダ女史は、更なる情報を求めて、なんとか〈野ばら亭〉の予約を取り、キュレルの街へ向うことにした。何しろ、編集長が一緒なのだから、有休申請は簡単だった。

 毎日毎日〈満員御礼〉の〈野ばら亭〉で、わたしたちは意気揚々と店に入った。前回と同じ、やけに値段の安い大食堂である。
 食欲を刺激する素晴らしい香りと、暖かなざわめきで満たされた店内に、わたしたちの期待は高まるばかり。そして、その期待が、決して裏切られないことを、わたしもミランダ女史も知っていた。

 大テーブルに座ったわたしたちは、まず最初に、モツ煮込みとエールを注文した。比喩ではなく、本当に夢にまで見た一皿が、湯気を上げながら運ばれてくる。視線はモツ煮込みに据えたまま、ミランダ女史と冷え冷えのエールで乾杯し、一口目を口に入れた。
 記憶に残っていた美味よりも、更に研ぎ澄まされて奥深い、いっそ暴力的な程の旨味が、口の中で弾けた。すかさず、そこへ冷たいエールを流し込む。

 うんまいぃ! やっぱり、うんまいぃ! 自分の家であったら、ごろごろごろごろ転げ回りたいくらい、うんまいぃぃ!

 うっかり叫び出さないように、必死でこらえつつ、二口、三口。ようやく落ち着いたところで、隣に座るミランダ女史を見ると、そばかすがチャームポイントの白い顔を、濃い薔薇色に染め、黒い瞳を潤ませて、恍惚こうこつと微笑んでいた。
 何というか、大変に色っぽい。ミランダ女史って、わたしより、二つ三つ年上だっけ? いやいや、本当に落ち着け、パトリック・クレマン。今は、〈野ばら亭〉の料理を堪能し、あわよくば極秘情報の裏を取るべきときなのである。

 それから、わたしとミランダ女史は、それぞれに気になるメニューを注文しては、二人で分け合った。〈野ばら亭〉では、その日の仕入れや季節によって、メニューが変わることが多いので、できるだけたくさんの種類を制覇したかった。
 この夜、わたしたちが注文したのは、こんがりと皮目を焼いた鶏肉に、たっぷりの栗ときのこを合わせたクリーム煮。卵黄とバターを使ったソースを塗って、金色に焼き上げた白身魚のグリル。官能的な薔薇色に輝くローストビーフと、チーズ入りのマッシュポテト。丸ごとブイヨンで煮てから、冷やして味を含ませたルビー色のトマト煮。かぶとりんごと柿のサラダ。ひき肉となすとチーズとトマトソースを、何層にも重ねて焼き上げたグラタン。緑の野菜だけでグラデーションを作った、洗練された美しさのテリーヌ……。
 特別高級な料理でもないのに、本当に美味しかった。一口食べるごとに、心のおりが流され、明日への活力が湧いてくるくらい、どの料理も美味しかった。より良く食べることは、より良く生きること。ミランダ女史が掲げる、〈うま天〉の編集方針に、心の底から賛同した夜だった。

 ちなみに、メニューの横には、大変に汚い子供のような字で一言、何か書き添えられていることがある。〈すっごく美味しくて、わたしは大好きです〉とか、〈お酒をたくさん使っているからって、お父さんは一口しか食べさせてくれませんでした。でも、美味しいです〉とか、〈きのこが好きな人には、絶対にお勧めです〉とか、〈じゃがいもって、偉大な野菜ですよね〉とか、〈この料理を食べて、どうか長生きしてください〉とか。幼稚といえば幼稚、素直といえば大変に素直である。
 隣の席のご常連が、今夜もわたしたちに教えてくれた。この文字は、看板娘の妹の方が、お昼の手伝いをする合間に、少しずつ書き足しているらしい。ご常連は、〈何とも可愛いだろう? チェルニちゃんに長生きしてっていわれたら、もう百歳まで生きないとな〉と、嬉しそうに笑っていた。

 食べて飲んで、すっかり情報収集など忘れた頃、不意にミランダ女史が息を飲む気配がした。何事かと思って、ミランダ女史に問いかけると、不自然にならないように、こっそり奥の席を見ろという。
 さり気なさを装いながら、教えられた方向に視線を流すと、そこには三人の男性が座っていた。一人は初老で、二人は壮年だろうか。それなりに上質ではあるが、ありふれた服装に身を包み、和やかに食事をしている。〈野ばら亭〉を愛する、キュレルの街の平凡な紳士たち……には、絶対に見えないって!

 その三人は、まとっている風格とか、気品とかいうものが、普通とはまったく違うのである。平凡な服装が似合わないこと著しく、どんなに上手く気配を消しても、かもし出す威厳は誤魔化せない。どこからどう見ても、大貴族のお忍びである。すぐ側で、知らない顔で食事をしている何組かの男女は、絶対に護衛だろう。少し離れた席の一般客なんて、必死に見ない振りをしているから!

 〈うま天〉の編集長として、名だたる高級店に足を運ぶミランダ女史は、マナーの一環として、ルーラ王国の有名人の顔は、ほとんど判別できるという。その場慣れしたミランダ女史が、〈信じられない組み合わせ〉だと、少しばかり震えている。何となく聞きたくなかったのに、ミランダ女史は、無理矢理わたしにも教えてくれた。
 究極に上品な初老の男性は、某猊下げいか。壮年の男性のうちの一人は、某公爵閣下。もう一人の壮年男性は、某侯爵閣下だそうである。

 いやいや。いやいや、いやいや。おかしいって。いくら〈野ばら亭〉が素晴らしい店だからって、どうして王都を離れた食堂に、そんな三人が集まってるの? しかも、やけに値段の安い大食堂の方に。あり得ない。あり得ないったら、あり得ないから!

 あまりのことに驚愕し、必死で視線を逸らすことしかできないわたしの横で、ミランダ女史は素早く復活していた。曰く、あんな常識外れの方々が集まる店なら、例の極秘情報も本当なのではないか、と。
 そのささやきを聞いた瞬間、わたしもまた復活した。真のグルメ記者とは、権力よりも財産よりも地位よりも、一皿の美味に価値を見出す人種なのである。
 どんと来い、大貴族! どんと来い、権力者! わたしとミランダ女史の胃袋のために、極秘情報よ、真実であれ!

 わたしの名前は、パトリック・クレマン。三十二歳、独身。恋人は募集中だが、少しだけ気になる人の存在と、〈野ばら亭〉関連の情報に、胸をときめかせている今日この頃である。