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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 3-3

03 リトゥス 儀式は止められず|3 王子と妃

 第二側妃オフェリヤが暮らしていた蘭の宮殿、〈アルヒデーヤ宮〉で生まれ育ったアイラトは、クレメンテ公爵家の姫を正妃として迎えたとき、独立した王子宮として〈ドロフェイ宮〉を与えられていた。神の賜物という意味の名を持つ宮殿は、黄白おうはくの輝かしい光に照らされながら、何処どこ静謐せいひつで優美なたたずまいを見せる。豪華絢爛けんらんな装飾よりも、洗練を極めた典雅な品々を好むアイラトの美意識が、ドロフェイ宮を支配しているのである。

 その日、ドロフェイ宮の主客室を三人の客が訪れていた。義父であるクレメンテ公爵と、王国騎士団の団長を務めるスラーヴァ伯爵、王国騎士団連隊長のラザーノ・ミカル子爵である。アイラトを含めた四人は、護衛騎士を隣室に待機させ、一つの机に向かい合わせに腰掛けて、近習きんじゅが注ぐ葡萄酒ぶどうしゅの淡い色目を眺めていた。立ち上る香りにほのかな微笑みを浮かべ、爪の先まで磨かれた繊細な指で杯を掲げて、アイラトが言った。

「先のローザ宮の不始末では、王国騎士団に随分と世話になった。王族だった者達の愚かさ故に、伯らに手間を掛けさせたことは、私も王子として遺憾に思う。せめてもの慰労に、杯を重ねてほしい。乾杯」

 クレメンテ公爵は同じように杯を掲げ、スラーヴァ伯爵とミカル子爵は、アイラトに向けてうやうやしい座礼を見せてから、両手で杯を持った。ロジオン王国では、血縁関係や姻戚関係を持たない貴族が、王族の私的な宮殿に招かれることは少なく、飲食を共にする機会は更に少ない。スラーヴァ伯爵が、王国騎士団長を務める高位貴族とはいえ、副官である子爵共々、王子と杯を酌み交わすのは、破格とも言える歓待だった。
 互いに慎重に言葉を選びながら、高位貴族の儀礼が必要とする時間だけ、取り留めのない話題が静かに流れていく。アイラトに言われるまま、スラーヴァ伯爵の杯に二杯目の葡萄酒ぶどうしゅが注がれたとき、本題に踏み込む機会を見定めたクレメンテ公爵が、おもむろたずねた。

「ところで、スラーヴァ伯爵。先日話した召喚魔術の実施が、いよいよ三日後に迫ってきたのだよ。伯が興味を持つのなら、儀式の場に立ち会わせることも出来るだろう。王国騎士団の団長としては、如何いかが思われるのかな」

 唐突とも言えるクレメンテ公爵の問い掛けにも、スラーヴァ伯爵は動じなかった。武官であれ文官であれ、情報収集が生命線を握る王城にあって、スラーヴァ伯爵もまた、地位に相応ふさわしい情報源を持っているのである。スラーヴァ伯爵は、アイラトに問い掛ける視線を向けてから、クレメンテ公爵に丁寧に答えた。

「御配慮をたまわり、誠に有難う存じます、公爵閣下。御迷惑にならないのでございましたら、是非とも御供をさせて頂きたく存じます。新しい力となるかも知れない存在を、大ロジオンに呼び込む試みだと伺っております故、陛下から王国騎士団を御預かりしている身として、関心を持たずにはいられません」
「それは結構。王国の盾であるスラーヴァ伯爵が、召喚魔術の意義を分かってくれたとは、大変に喜ばしい。今回の召喚の成否はともかく、その可能性を垣間見かいまみるだけでも、閉塞した現状を動かす契機になるのではないかな。勿論、私の言う閉塞とは、偉大なるエリク国王陛下が憂慮しておられる問題に他ならない。ロジオン王国が魔術大国であるからこそ避けられない、魔術触媒しょくばいの減少のことだ」

 上機嫌に微笑むクレメンテ公爵の様子にならい、いとも優雅な微笑みを浮かべながら、アイラトも言葉を重ねた。

「魔術触媒、あるいは動力源の問題は、陛下の善政の下、欠けることなき大ロジオンの唯一の心配事だからね。儀式の場にはアリスタリス殿下も立ち会うであろうから、当然、近衛このえが護衛騎士として付いて来る。その意味でも、スラーヴァ伯爵の判断は正しかろう。私に付く護衛騎士は、近衛の中では主流を外された者達であるし、伯が来なければ、近衛は情報を秘匿ひとくして、またしても王国騎士団を爪弾きにするに違いない。そうではないかな、スラーヴァ伯爵」
「御意にございます、殿下。少し昔話をさせて頂けば、近衛騎士団長のコルニー伯爵とわたくしとは、王立学院の同期生なのでございます。当時はかなり気安い友でありましたし、今でも御互いに友情は残しているものと信じております。ただ如何いかんせん、余りにも立場が隔たってしまい、会話すらままなりません。コルニー伯爵の心がどうであれ、近衛と我らとの溝は埋まりますまい」

 初めて聞く話に、アイラトは軽く目を見張った。近衛騎士団の団長として明敏を謳われるコルニー伯爵と、王国騎士団の団長として勇猛を称されるスラーヴァ伯爵が、親しい友であったとは、王城でもほとんど知られていない話だった。

「そなたらが親しい友であったとは、寡聞かぶんにして知らなかったな。近衛と王国騎士団は、水と油のようなものであるから、団長同士も同じだと思い込んでいたのだろう。義父上は御存知だったのですか」
「随分と上の年代ながら、私は王立学院の卒業生なので、噂として知ってはいたよ、殿下。立場が分かれた故、今は御互いに敬遠しているのだと思い込んでいたがね。スラーヴァ伯爵とコルニー伯爵といえば、当時の王立学院の双璧と謳われていたな」
「私くしには過分な御言葉です、公爵閣下。優秀で正義感にあふれたあの男が、近衛騎士団長を務めているのですから、王国騎士団には高い壁でございます。貴族としての政治的な素養を比べれば、わたくしなどコルニー伯爵の足下にも及びますまい。コルニー伯爵に率いられた近衛このえ騎士団は、あらゆる意味で強うございましょう。乗り越える為には、私くしも色々と手を尽くしませんと」

 そうとは意図しないまま、然り気なく紡がれたスラーヴァ伯爵の呼び水に、クレメンテ公爵は一気に話の駒を進めた。

「その〈手〉の中に、おそれ多くもアイラト殿下が加わって下さり、そなたらの望みを叶えて下さるだろう。天才の中の天才、宰相スヴォーロフ侯爵の実のおいで在られる殿下は、〈智のスヴォーロフ〉の大いなる才気を身に宿しておられるのでな。言うまでもなく、そなたら王国騎士団がそれを望み、アイラト殿下に忠誠を誓ってくれたらの話ではあるが」
「我が王国騎士団の忠誠は、常に偉大なる陛下とロジオン王国に捧げております。また、いつの日か、アイラト殿下に剣を捧げられる日が訪れましたならば、喜んで殿下の御麾下ごきかに馳せ参じることでございましょう」

 クレメンテ公爵は、満足とも不満足とも取れる曖昧な表情を浮かべたものの、流石さすがにそれ以上の言質を取ろうとはしなかった。一方、アイラトは義父の進めた話の駒を、今度はいとも流麗に後退して見せた。

「王国騎士団の比類なき忠誠は、陛下も日頃から頼もしく思っておられる。そうでなければ、先のローザ宮の制圧に際しても、王家の夜だけを動かされただろう。王族の一員として、私も得難えがたく思っているよ、スラーヴァ伯爵、ミカル子爵」

 はかりごとに慣れ切った大貴族らしく、素早く引き際を見極めたクレメンテ公爵も、アイラトが作り出した話の流れに乗った。

「そう。王家の夜ならば、人知れず全てを終えることは難しくなかっただろうに、敢えて隠蔽いんぺいしようとなさらず、王国騎士団を王城に招き入れたのは、陛下の確固たる御意志に違いない。何にしろ、近衛このえ騎士団があれ程の醜態を晒したのだから、王国騎士団の忠誠は更に輝くであろう。今後とも、活躍を期待しているよ、スラーヴァ伯爵」
「誠に有難き御言葉、恐懼きょうくの極みでございます、アイラト王子殿下。御期待に添えますよう一層精進致します、クレメンテ公爵閣下。我ら王国騎士団は、至尊の主たるエリク国王陛下のしもべにして、ロジオン王国の剣なのでございますから」

 そう言うと、スラーヴァ伯爵はミカル子爵共々、椅子の上で深く頭を下げた。一幕の会話の意味を測れない者は、この場には存在しない。薄氷とは言わないまでも、決して分厚くはない氷の上を、彼らはそれぞれに渡り終えたのである。
 しばらくの歓談の後、王国騎士団の二人がドロフェイ宮を退出すると、待ちかねたように女官が先触さきぶれを告げた。クレメンテ公爵の娘であり、アイラトの正妃でもあるマリベルの訪れである。父親に似た高貴な面差おもざしに微笑を浮かべて、マリベルは女官が差し替えた椅子に座った。王家の血を引く公爵家の姫は、目下の男が先程まで座っていた椅子になど、腰かけるはずがなかった。

「突然、無作法に押しかけてしまいまして、申し訳ございません。殿下、御父様。王国騎士団長との御話は、如何いかがでございましたの」

 マリベルの問い掛けに答えたのは、父であるクレメンテ公爵だった。愛娘の登場に、嬉し気に頬を緩ませながらも、クレメンテ公爵は口では素っ気なく言った。

「何のことかな、マリベル。彼らは、ローザ宮の後始末をさせた労を称する為に、殿下が御呼びになられたのだよ」

 娘の言葉の意図を理解していながら、当り障りのない返答ではぐらかそうとする父親を、逆に己が弁舌で煙に巻こうとするかのように、無邪気さを装ったマリベルは、婉然えんぜんと微笑みながら言い募った。

「御父様は、相変わらず表向きの御話は教えて下さいませんのね。殿下も同じでいらっしゃるし、いつもそう。わたくし達女は、濁流が流れ去った後の何もない畑に、じっとたたずむだけの存在なのですわ。ローザ宮の事件は奥向きの事件なのですから、それに関係する動きでしたら、教えて下さってもよろしいでしょうに」

 マリベルの非難に応えたのは、夫たるアイラトである。マリベルを前にしたアイラトは、一枚の絵画を思わせる程に優美であり、秀麗なおもてほのかな微笑を浮かべた表情は、何処どこ精緻せいちな人形のように無機的だった。

「ローザ宮の事件では、近衛このえ騎士団ではなく王国騎士団が動員されたからね。当然、自らの聖地を守れなかったばかりか、けがらわしい罪人を出した近衛は、一気に王城での信頼を失墜させた。陛下からの勅命をたまわり、速やかに騒動を鎮圧した王国騎士団は、大きく面目めんぼくほどこした。私は王族の一員として、王国騎士団の労力に謝意を示そうと考えた。ただ、それだけの会合だよ、マリベル」
「殿下が仰るのでしたら、そういう話にしておきますわ。口出しを致しまして、申し訳ございません、殿下。もし御気を悪くなさったのでしたら、どうか御許しになって。わたくし、これからは大人しく沈黙を守っておりますわ」

 アイラトの落ち着いた口調の中に、わずかな冷淡さを感じ取ったマリベルは、潮目を読んで口をつぐんだ。クレメンテ公爵家の息女であり、王子の正妃でもあるマリベルが、軽く頭を下げて謝罪する姿に、クレメンテ公爵も取りなすように言った。

「マリベルは、男に生まれたかったのだよ、殿下。美しいドレスを着て宝石に飾られるよりも、人を用い、国を動かしたかったのだ。実際、マリベルが男であったら、と何度思ったか知れない。マリベルがクレメンテ公爵家を継いでおれば、当家は隆盛を極められたのではなかろうか。おまえも私も、御互いに残念であったな、マリベル」
「女と生まれた御陰で、わたくしは殿下の妻になれたのですもの。満足でございますわ。それに、女には女のまつりごとと闘いがございます。殿方が剣と智謀で闘っておられる後ろで、わたくし達は美貌びぼうはかりごともって、殿方を助けますのよ。特に、わたくしの崇拝すうはいする殿下は、波の高い大海に漕ぎ出そうとしておられるのですもの。わたくしも、出来るだけの手を尽くさなくてはなりませんわ」

 マリベルの意味を含んだ言葉に、クレメンテ公爵は機嫌良く微笑んだ。一方のアイラトは、一瞬、瞳を剣呑に光らせたかと思うと、次の瞬間には、穏やかな貴公子の仮面を被り直し、マリベルに優し気に問い掛けた。

「そなたは、いつも私を助けてくれているよ。だから、私に一つ教えておくれ、マリー。元第四側妃とアドリアン元王子が完膚なきまでに失脚した、この度のローザ宮の動乱は、もしかしてそなたが種を蒔いてくれたのではないのかい」
「あら、わたくしが糸を引いていると御思いですのね。随分と思い切った御たずねですこと。どうしてそう御思いになられましたの、殿下」
「私はね、ずっと不思議に思っていたのだよ、マリベル。確かに元第四側妃は愚かで淫蕩いんとうな女だった。しかし、反面では自ら愛人を作るだけの才覚もなかっただろう。女官達が揃って淫婦の閨事ねやごとに協力したというのも、それはそれで不自然ではないか、とね。誰かが上手く誘導してやらないと、あの女は浮気を楽しむことも出来なかっただろう。あれは、そなたの言う女の闘いの戦果だったのではないのかな」

 マリベルは白くたおやかな手を口元に運び、楽し気な声で笑った。その瞳は濡れて輝き、明らかな愉悦をたたえていた。娘をく知るクレメンテ公爵や、政略で結ばれた夫であるアイラトには、それがマリベルが内心の喜びを表しているのだと分かっていた。

「わたくしの殿下は、やはり素晴らしい御方ですわ。殿下のそういう勘の鋭くていらっしゃる所、わたくしは御尊敬申し上げておりますのよ」
「少し種明かしをしておくれ、我が妃よ」
「大した手出しは致しておりませんわ。元第四側妃様は陛下の御渡りがなく、とても鬱屈しておられましたの。あの方の御実家は、有力な侯爵家ではありますけれど、それ程大きな後ろ盾にはなれませんでしょう。王太子位に手を届かせるには、陛下の格別の御寵愛ちょうあいたまわるしかございませんでしたのに、肝心の陛下が関心を御示しになられないのですもの。元第四側妃様は、焦りの余り、何かで憂さ晴らしをせずにはいられない状態だったのです。それに、あの方御自身が、何というのか、とても女らしい方でいらしたから、殿方の愛情がなければ御不満なのです」

 だから、人を使ってそそのかし、ほんの少し背中を押しただけ。マリベルは、そう言って微笑んだ。一見すると、無邪気で愛らしい貴婦人の微笑みだった。上目遣いにアイラトを見詰めたまま、マリベルは言葉を続けた。

近衛このえ騎士団の中には、容貌ようぼうの優れた騎士が多いものでございましょう。ですから、特に元第四側妃様の御好みに適いそうな者を探して、ローザ宮付けの護衛騎士に当てるように致しましたの。後は、女官達の思考を誘導させただけですわ。どの妃も楽しみは持っているのだから、少しくらいの火遊びはとがめられないと、噂を流して信じ込ませましたの」

 アイラトは少しも驚いた素振そぶりを見せることなく、穏やかな微笑みを浮かべたまま、笑顔のマリベルに質問を重ねた。

「素晴らしい手腕だね。そうした闘い方は、確かに貴婦人にしか出来ないだろう。中々に見事だな。ローザ宮にも、そなたの飼っている犬がいたのかい、マリー」
「少しだけ。身元も推薦者も確かな者達ですし、元第四側妃様がねやに護衛騎士を引き入れてからは、時期を見て異動させましたので、今回の捕縛対象にはなっておりません。最新の注意を払っておりますので、御心配には及びませんわ、殿下」

 クレメンテ公爵は、滔々とうとうと語られるマリベルのはかりごとについて、自らは知っていたとも知らなかったとも言わなかった。ただ、笑顔の仮面を被り続けたまま口をつぐんだアイラトに、気遣わしい視線を向けてから、ようやくマリベルをたしなめた。

「その辺りで止めておくが良い、マリベル。そのようなことをさかしげに口に出すのは、淑女の嗜みから外れよう」

 父親の視線の意味に気付いたマリベルは、一瞬にして表情を改め、絢爛けんらんたる美貌びぼうに憂いの色を浮かべた。眉を下げた悲しそうな顔で、マリベルは優雅に一揖いちゆうした。

「申し訳ございません、御父様。わたくしが短慮でございました。殿下も御気を悪くなさらないで下さいませ。余りにも思い通りに進んだものですから、少し良い気になってしまいましたの。差し出がましい真似をせず、少し大人しくしておりますわ」
「差し出がましいとは思わないよ、マリー。確かに、王城の貴婦人には貴婦人なりの闘い方がある。私の母も、私を身籠ったまま闘ってこられたからね。この度のそなたの手腕には、感服するしかないだろう。これからもよろしく頼むとしよう、私の妃殿下」

 アイラトの優し気な笑顔と明らかな賛辞に、クレメンテ公爵は安心したように目元を緩め、マリベルは頬を薔薇色に染めた。

「殿下の御言葉、嬉しゅうございます。こちらこそ、今後ともよろしく御願い申し上げますわね、わたくしの殿下」

 艶めかしい唇をほころばせて、マリベルが微笑み掛けると、アイラトは微かに瞼を伏せ、マリベルに手を差し伸べた。政略で結ばれた高貴なる王子とその妃は、如何いかにも仲睦なかむつまじい風情で、束の間、手を握り合ったのである。

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