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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 4-1

既刊『フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 黄金国の黄昏』を大幅リニューアルしたものを、投稿しております。
同じものを小説家になろうでも連載中です。

opsol bookオプソルブックより書籍化された作品に加筆修正を加えたリニューアル版で、改めての書籍化も決定しており、2022年春期刊行予定となっています!
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04 アマーロ 悲しみは訪れる|1 姉と弟

 ロジオン王国暦五一四年六月七日、初夏の爽やかな風が吹き抜けた夜、遂に召喚魔術が行使される時が近付いていた。王城の一角にそびえ立つ叡智えいちの塔に於いて、召喚魔術の儀式が開始されるのは、最も魔力の高まる時間だと考えられている午前二時である。儀式を行う魔術師達は勿論もちろん、何らかの形で召喚魔術に関わる人々は、前日の夕刻から王城に詰め、其々が緊張の内に時間を過ごしていたのだった。

 召喚魔術の行使を画策した権力者の一人、大ロジオンの宰相たるスヴォーロフ侯爵は、執務室に続く休息の為の私室で、静かに葡萄酒ぶどうしゅを口にしていた。護衛騎士さえ部屋から出し、一人切りになったスヴォーロフ侯爵は、足を組んで長椅子に身を預け、灰色の瞳を虚無の海に揺蕩たゆたわせる。天才の中の天才と称される頭脳は、その人格に常人では想像も付かない陰影を与え、容易には思考を読ませない。何が本心なのか、あるいは本心などというものが有るのか如何かすら、推し量れる者は居なかった。

 スヴォーロフ侯爵は、気怠けだるげな仕草で頬杖を突き、部屋の一角に視線を投げた。スヴォーロフ侯爵が見詰める先には、磨き抜かれた飴色の飾り棚が有り、片隅には小さな額に入れられた絵が置かれている。肖像画に描かれているのは、十代半ばの少女だろうか。その微笑みは夢見るように甘く、それでいて何処どこか妖精じみた儚さと冷酷さをまとっていた。スヴォーロフ侯爵は、肖像画の美少女に向かって、小さな声で呟いた。

「此処ではない何処かで、貴女は私の声を聞いているのでしょうか、オーファ。これからまた一つ、王城で下らぬ茶番が行われようとしていますよ。る者は名誉、或る者は権力、或る者は力、また或る者は未知の動力源を求めて、異世界若しくは異次元から人を呼び寄せようとしているのです。世界を二分する大国である大ロジオンで子供騙しの召喚魔術とは、貴女が生きて在れば、呆れてわらっていたのでしょうね」

 数時間後に行使されるであろう召喚魔術は、ダニエが発案し、クレメンテ公爵か推進した計画ではあるものの、スヴォーロフ侯爵自身も、中心となってエリク王の許可を取り付けた功労者である。そのスヴォーロフ侯爵は、瞳に冷たいあざけりの色を浮かべながら、更に口を開いた。天才であるが故に、人と親しく語り合う時間を苦痛に感じるスヴォーロフ侯爵にとって、聞く者のいない独り言は、数少ない癖の一つなのである。

「異次元或いは異世界は、果たして実存しているのか否か。それ自体は、興味を持てる命題ではありますが、実証出来る可能性は限りなく低いでしょう。あのゲーナ・テルミンが、異世界からの誘拐まがいの召喚魔術など成功させようとするはずがなく、必ず何らかの形で妨害するでしょうから。そう、隷属れいぞくの魔術紋を刻まれた身で、ゲーナがどう動く心算つもりなのか、の者の動向だけは面白いかもしれません。更に言えば、ゲーナがロジオン王国から自由であれば、私も色々と楽しめたかも知れません。そうは思いませんか、オーファ」

 オーファと呼ばれた少女は、スヴォーロフ侯爵の同腹どうはらの姉であり、後にエリク王の第二側妃となったオフェリヤ・スヴォーロフである。幼少の頃からろうたけて美しく、スヴォーロフ侯爵家の妖精姫と呼ばれていたオフェリヤは、当時は王太子であったエリク王が正妃を迎えた一年後、正妃懐妊の発表を待って、第二側妃として王城に迎えられた。

 正妃であるエリザベタは、四代前の王であるラーザリ二世、報恩特例法ほうおんとくれいほうを制定して中央集権化を推し進めた〈賢王〉を曽祖父そうそふに持つグリンカ公爵家の姫として、強い後ろ盾を持って入宮した。更に、資質的にも王妃の器と呼ばれたエリザベタとの対立は、当時、どの貴族も望んではいなかった。そこで、新たに迎える側妃には、高位貴族ではあっても三代以内に王家の血が入っておらず、政治的な野心の希薄な家柄の息女が望まれ、周到に選び抜かれた結果、オフェリヤに白羽の矢が立ったのである。
 スヴォーロフ侯爵家は、幾人もの宰相を輩出した名門中の名門ではあるものの、学者気質の者が多く生まれる家として知られており、ロジオン王国では〈智のスヴォーロフ〉と呼ばれてきた。王統を尊び、側妃との婚姻を国王の義務のごとく考えるロジオン王国に在って、高貴な血筋でありながら、政敵となる可能性の低いオフェリヤを側妃に迎えるという議会の決定を、グリンカ公爵家も拒否は出来なかった。

 幼少の頃からほどこされた帝王教育の中で育ったエリク王は、正妃の立場を十分におもんぱかると共に、オフェリヤにも大王国の第二側妃に相応ふさわしい待遇と寵愛ちょうあいを与え、巧みに均衡を保った。エリザベタが早々に懐妊したこともあり、ロジオン王国の後宮は誰の目にも安泰に見えた。ここで誕生した第一子が王子であれば、エリザベタの地位は盤石となり、オフェリヤの立場も定まっただろう。ところが、正妃の第一子が王女だったことで、王城は微かにざわめき始めたのである。

 一人目の王女を産み落としたエリザベタは、産褥さんじょくの床で小さな娘を傍に寝かせたまま、エリク王に頭を下げた。ロジオン王国では、女子には王位継承権が与えられておらず、王の妃は必ず男子を得なくてはならない。合理主義者であるエリク王は、女子誕生をエリザベタの責任とする心算つもりは毛頭なかったものの、これまで一点の不足もなく正妃となったエリザベタにとっては、初めての挫折とも言える出産だった。

 王女出産から一年後、エリザベタは再び懐妊した。この報告を待って、王城に於ける暗黙の了解によって控えられていたオフェリヤの懐妊も許され、正妃に遅れること三月で、第二側妃の懐妊が発表された。
 次こそは男子であろうと、多くの宮廷人が根拠もなく予想する中、エリザベタはまたしても女子を産んだ。この瞬間、権力に対する欲求の薄いスヴォーロフ侯爵家の妖精姫、自身でも宮廷の陰謀とは距離を置いていたオフェリヤは、一度として望まないまま、王太子位を巡る暗闘あんとうの渦中に叩き込まれたのである。

 オフェリヤが入宮したとき、スヴォーロフ侯爵はわずか八歳の少年だった。英才揃いのスヴォーロフ家でも、歴代最高の天才児と名高く、幼児の頃から大人を遥かに凌ぐ理解力と冷静さを持った子供だった。そのスヴォーロフ侯爵が、唯一、子供らしい思慕しぼを示したのが、十歳年長の姉であるオフェリヤである。大貴族の家に生まれた美貌びぼうの令嬢でありながら、浮世離れして世情をいとい、幼少期のスヴォーロフ侯爵には容易に理解出来ない精神世界に生きるオフェリヤは、少年にとって未知なる存在であり、興味を引かれる数少ない対象の一人でもあった。
 オフェリヤがエリク王の側妃になると知らされた日、丸い少年の頬を青褪あおざめさせたスヴォーロフ侯爵は、己が父親である当時のスヴォーロフ侯爵に、こう予言した。

「我が姉君は、王城では決して幸福にはなれないでしょう。姉君の幸福を護って差し上げるには、王城の狐は狡猾に過ぎ、我が家は高邁こうまいに過ぎます。また姉君御自身も、王城で謀略の波を泳ぎ切る程、生きることに執着してはおられないでしょう。悲しい結果になる前に、どうか姉君の入宮を回避する策を御探し下さい」

 スヴォーロフ侯爵の言葉は、元々権力欲の稀薄だった父の胸を打った。しかし、如何いかに名門貴族家の嫡男ちゃくなんであろうと、わずか八歳の子供の言葉によって王命を退けられるはずがない。何一つ為す術のないまま、オフェリヤは予定通りに入宮し、二年の後、期せずして正妃エリザベタの政敵となってしまったのである。

「オーファ、我が姉上。八歳の私は貴女の入宮を止められず、十歳の私は貴女の命を護れなかった。私に力が有れば、貴女は今も笑い掛けて下さったのだろうか。ろうたけて美しく、この世にんで冷たく、人としての湿度を失った貴女の笑みが、とても懐かしく思い出されます。貴女を失ってから、私は全てが退屈で仕方ないのですよ、姉上」

 スヴォーロフ侯爵が、父と共に出産を間近に控えた姉を見舞ったとき、オフェリヤは別人かと見紛みまごう程に衰弱していた。オフェリヤの状態は、宮殿で毒を飼われた結果であり、母親か子供か、どちらかは助からないだろうと診断されているのだと、スヴォーロフ侯爵はこのとき初めて聞かされた。義兄となった男の前に跪き、姉の命を優先してほしいと懇願こんがんした義弟に、エリク王が告げた言葉を、スヴォーロフ侯爵は今も一言一句記憶している。

「それは出来ぬよ、エメリヤン。オフェリヤは不憫ふびんなれど、王子かも知れぬ子を犠牲にするなど、出来る筈がないであろう。オフェリヤを欺き、密かに堕胎薬を飲ませていた侍女は、〈王家の夜〉が始末した故、此度はえてくれるが良い」

 実行犯となった侍女は、勿論もちろん、グリンカ公爵家の手の者だったのだろう。しかし、エリク王は、密かに侍女を処刑して正妃へのとがめとしただけで、エリザベタもグリンカ公爵家も、その地位を保ったまま捨て置かれた。

 オフェリヤの死に就いて、エリク王を恨んでいるのかと訊かれたら、当時も今も、スヴォーロフ侯爵は否と答えるに違いない。王統の維持と国の繁栄はんえいこそが、国王たる者の絶対的使命である以上、当時は王太子であったエリク王が、側妃の命よりも生まれて来る〈王の子〉を護ろうとするのは、極めて当然の判断だった。また、エリザベタにしろグリンカ公爵家にしろ、オフェリヤを害した証拠を残しているとは思われず、エリク王が表立ってエリザベタを罰することが出来ない事情も、スヴォーロフ侯爵にはく分かっていた。

 やがて、オフェリヤの死を予感させられてから間もなく、煌々こうこうと月の輝く夜に、オフェリヤは産褥さんじょくによって身罷みまかった。側妃の命と引き換えに、初めての王子を得たエリク王は、オフェリヤの遺体が眠る寝台の横に座って、長い間じっと黙祷を捧げていた。恐らくは愛でなく、それは王子の母となった者への敬意だった。
 オフェリヤの死から一年後、王統府の側妃選定議会が選んだ新しい側妃として、バステルナク侯爵家の息女セラフィナをめとるときも、エリク王はセラフィナを第三側妃とし、亡きオフェリヤを第二側妃の呼び名のまま留め置いた。更に一年後、エドガル侯爵家のカテリーナが入宮したときも、与えられた身位は第四側妃だったのである。

 スヴォーロフ侯爵は、エリク王もロジオン王国も恨んではいない。そうした執着に囚われるには、スヴォーロフ侯爵は理性的であり過ぎ、ただ、今に至るまで彼をさいなみ、突き動かしているのは、真の天才であるが故の、どうすることもできない程の退屈と倦怠けんたいだった。

「愛しい姉上。貴女の命と引き換えに、王子が生まれた瞬間から、私は何度も考えました。貴女を死に至らしめ、私を退屈という不治の病に落としたのは誰だったのか、と。エリク王ではない。我が父上でもない。直接手を下した実行犯だけは、既に始末された。貴女を護れなかった王家の夜は、単に無能だったに過ぎない。無能であることが罪とはされないのであれば、彼らにも責はないのでしょう」

 スヴォーロフ侯爵は、適温に保たれた葡萄酒ぶどうしゅの瓶を手に取ると、静かに硝子の杯に注ぎ込んだ。年代物の高価な葡萄酒は、血の色を超える真紅に輝き、芳しい香りを立ち上らせる。オフェリヤの肖像画に向かって杯を掲げてから、スヴォーロフ侯爵はわずかに唇を湿らせた。

「貴女の死に罪ある者は、エリク王でもなく、我が父でもなく、王家の夜でもない。勿論もちろん、腹の子であるはずもない。そうであるならば、私に残された敵は、王妃エリザベタとグリンカ公爵家、そして王妃が心血を注いで王太子の座に押し上げようとしている、アリスタリス王子ということになる。オーファ、我が姉上。このエメリヤン・スヴォーロフのせめてもの退屈凌ぎに、あの女の息子を王位から遠ざけて御覧に入れましょう」

 そして、スヴォーロフ侯爵は、もう一つ心に誓っている。全ての元凶とも言える祖国、黄金の国と讃えられるロジオン王国そのものを、己が玩具にしてみせよう、と。己を退屈と倦怠けんたいの海に置き去りにしようとする大ロジオンは、混乱と衰退という代価を以て、その負債を支払うだろう。

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