連載小説 邂逅 ー神霊術少女チェルニ外伝ー〈後編〉
少年少女の誘拐に手を染めている、アイギス王国の外交使節団長、シャルル・ド・セレント子爵を捕縛するため、王国騎士団の精鋭たちは、王都の通用門を駆け出した。やがて、見晴らしのいい草原の彼方に、場違いにも立派な箱馬車と、騎馬の騎士たちの姿を見つけたとき、一行は微かに安堵の息を吐いた。
門を出る直前、密かに尾行を続ける〈黒夜〉から届けられたのは、〈集められし《荷物》は、依然として馬車の中にあり〉という知らせである。ルーラ王国を守護する者として、必ず救い出さなくてはならない子供たちは、ようやく王国騎士団の手の届くところまで運ばれてきたのだった。
やがて、馬車の紋章が微かに確認できる距離にまで迫ったところで、状況が動き出したかに見えた。馬車を降りて守備隊に対応していたのだろう、豪奢なジュストコールを身に着けた男が、馬車に乗り込もうとしていたのである。
レフの身を護るかのように、その馬に並走していたブルーノは、馬上とも思えない落ち着いた口調で、レフに言った。
「セレント子爵は、逃亡しようとしているのございましょうか」
「恐らくは。外交官特権を理由に、守備隊の捜査を拒んでいるのではないか。ここまで追い詰めてきた、キュレルの街の守備隊は、さぞ悔しい思いをしているだろう」
「全くでございますね。それだけに、守備隊の総隊長は、素晴らしい強運の持ち主だと存じます。何しろ、この瀬戸際で、ルーラ王国の守護神の御降臨を賜るのですから」
レフとブルーノが、そう言って話し合ううちに、アランと王国騎士団の一行は、遂に目的地に到着した。
すでに半ば馬車に乗り込もうとしているセレント子爵と、剣の束に手をかけて逡巡している騎士たち。その顔の表情までが、はっきりと見える。焦りも露わにセレント子爵に取り縋ろうとしているのは、セレント子爵が雇った護衛の者たちだろう。
緊迫した空気を切り裂いて、真っ先に集団の中に駆け込んだアランが、大柄な壮年の騎士に向かって、叫びを上げた。
「総隊長。援軍を出していただきました。通用門も、何があっても開かない。犯人たちは、もうどこへも逃げ込めません」
「よくやった、アラン。信じていたぞ」
総隊長と呼ばれた壮年の騎士は、大きな手でアランの肩を叩き、瞳を輝かせて笑いかけた。総隊長の周りを囲む、キュレルの街の守備隊員とらしき男たちも、歓声を上げてアランを労った。
一方、セレント子爵は、王国騎士団の一行を一瞥し、存在を確認しただけで、平然と言い捨てた。
「王都の衛兵なら、少しは道理がわかるだろう。我が名は、シャルル・ド・セレント子爵。アイギス王国、国王陛下の命によってルーラ王国へ派遣された、正式な外交官だ。外交官特権も知らない田舎者に足止めされて、迷惑千万。自分の国が大切なら、おまえたちで下劣な衛兵たちを退けろ」
それだけ言って、今度こそ馬車の扉を開け放ち、乗り込もうと身を乗り出したセレント子爵に、キュレルの街の守備隊員たちは、悔しげに唇を噛み締める。レフは、穏やかな口調のまま、セレント子爵を呼び止めた。
「待て。先行してきたキュレル街の守備隊員から、ことの概略は聞いた。これから、そなたの馬車を調べ、場合によっては拘束する」
「何を馬鹿な。わたしは外交官特権を持っている。聞こえなかったのか。それとも、その意味も知らない愚者なのか」
「どちらでもない。外交官特権は、我が国が悪質かつ緊急性のある事案だと判断した場合、それを一時的に凍結できる。今回は、それに該当するだろう」
繊細に整った権高な顔に、傲慢な余裕の笑みを貼り付けていたセレント子爵が、ここで初めて、動揺を露にした。強い権力を持つ外交官特権を凍結され、アイギス王国の紋章を刻んだ馬車に、誘拐した子供達を乗せていることが発覚したら、〈終わり〉が訪れる可能性さえあるだろう。セレント子爵は言うまでもなく、王弟やその妃、あるいはアイギス王国そのものの〈終わり〉である。
セレント子爵は、必死に動揺を押し殺し、傲慢な態度を取り繕ったままに、レフの言葉を切り捨てた。
「外交官特権の凍結だと。そんな判断が許されるのは、王族と宰相、近衛騎士団と王国騎士団の両団長だけのはずだ。適当なことを言って、騙そうとしても無駄だぞ」
「もちろん、騙したりはしない。そんな必要はないからな」
そう言って、レフは、すっぽりと被っていたフードを下ろした。中から現れたのは、最上級の紅玉を溶かし込んだような、鮮やかな紅色に輝く髪と、世にもめずらしい、灰色の金剛石を思わせる瞳である。
人が持つにしては、あまりにも澄んで美しく、抑え切れない〈神威〉に溢れた色は、神霊の恩寵の証左であり、ルーラ王国の国民であれば、誰一人として知らない者のいない、王国騎士団長の象徴でもあった。
この緊迫した現場へ、レフを導いた張本人であるアランも、守備隊の隊員たちも、セレント子爵の護衛に雇われていたのであろう者たちでさえ、息を飲んで静まり返り、やがて口々に囁きあった。
「おい、アラン。おまえ、一体誰を連れてきたんだ。まさかとは思うが、我らがルーラ王国の騎士団長閣下ではないだろうな」
「いや、まさか。わたしは、通用門で援軍を頼んだだけですよ、隊長」
「誰だよ、あの人。あの髪と瞳は」
「なあ、あれ程見事な赤毛なんて、他にはいないだろう。しかし、どうして、あの方がここにいるんだ。おかしいだろう」
「王国騎士団長か。まさか」
そうして注目されることが日常であり、すでに心を無にして受け止める術を身につけているレフは、目を見開いて硬直するセレント子爵に向かって、平然と名乗りを上げた。
「わたしの名は、レフ・ティルグ・ネイラ。ルーラ王国騎士団長の職を拝命しているので、外交官特権の一時凍結を命令できる立場だ」
「馬鹿なことを言うな。王国騎士団長が、なぜ一人でこんなところにいる。適当なことを言って、言葉を取り繕っても、我がアイギス王国への無礼は消えぬぞ」
王国の騎士団長と、外交使節団長として、レフとセレント子爵とは、王城で着任の挨拶を交わしたことがある。当然、レフの顔を覚えているはずのセレント子爵は、頑なにその存在を否定していた。
「ルーラ王国の王国騎士団長が、騎士どもを連れもせず、一人で王都の門を出ると言うのか。ルーラ王国がそんな勝手を許すのか」
「我が王国の者たちは、誰もわたしの為すことを止めようとはするまい。それに、今のわたしは、一人ではないよ」
レフが言うと、王国騎士団の騎士たちは、すかさず右手で胸を叩いた。その間髪入れない洗練された所作と、夏の日差しを受けて煌めいている、佩刀の銀星の象嵌を目にして、セレント子爵は口惜しげに奥歯を噛み締めた。
一度目にしたら、忘れる者などいないであろう神秘の瞳で、じっとセレント子爵を見つめながら、レフは改めて言った。
「最近、いくつかの街で、子供たちが拐われる事件が頻発していたのでね。我ら王国騎士団も、捜索に加わっていたのだ。ちょうどこの場にいられて良かった。ルーラ王国、王国騎士団長、レフ・ティルグ・ネイラの名に於いて、アイギス王国外交使節団長、シャルル・ド・セレント子爵の外交官特権について、只今から一時凍結を宣言しよう」
「馬鹿な。そんな強引なことをすれば、国と国との関係が悪化するぞ。この程度の事件の捜査のために、そこまですると言うのか。外交官特権の凍結など、国交断絶の引き金にもなりかねないのだぞ」
「承知の上だ。キュレル街、守備隊総隊長」
「はっ」
「ここまで追いつめたのは、あなた方の尽力の賜物です。どうぞ、馬車を調べてください」
「ありがとうございます。皆んな、行くぞ」
レフの言葉に、動揺を振り切った守備隊員たちは、勇躍してセレント子爵の馬車に殺到しようとした。十人はいるだろう、護衛役の者たちは、反射的に剣の束に手をかけて、応戦する体制にはいろうとする。
しかし、総隊長に目配せされたアランが、勢い良く剣を抜いた瞬間、護衛役の一人が、慌てて鞘のまま剣を引き抜くと、音を立てて地面に投げ捨てた。ここで捕縛されれば、重罪に問われることはわかっていても、すでに逃れる術のないことは明白だったからである。
それを合図に、護衛役の者たちは、一人残らず剣を投げ捨てた。一合たりとも斬り合わず、剣を抜くことすらないまま、勝敗は決まったかに見えた。
どこか安堵した空気が流れた瞬間、レフは、セレント子爵の馬車を見つめたまま、傍にいる騎士に小さく声をかけた。
「ブルーノ」
「如何なされました、団長」
「セレント子爵の馬車の中で、魔術が発動されようとしている。恐らくは、転移魔術でこの場を逃れようとしているのだろう。一気にアイギス王国まで転移できない限り、どこに逃げても同じだと言うのに」
「それはまた、愚かなことを。我らが王国騎士団長閣下の御前で、魔術が用をなすはずがございませんのに」
「わたしが馬を降りたら、皆に馬車から距離を取るように指示を。あの者らの魔術は、発動までが呆れる程に遅い。わたしは、全員が避難したのを確かめてから、魔術を切り捨てるとしよう」
「御意にございます」
レフが話す間にも、セレント子爵は、素早く馬車に乗り込んだ。それと同時に、セレント子爵の大型馬車は、淡い光をまとって輝き始める。馬車下の地面に浮かび上がったのは、赤黒い光線で描かれた、複雑な魔術陣である。
神霊術とは明らかに異なる、異様な魔術の気配に、その場にいた者たちは騒然と声を上げた。取り残された護衛役の者たちは、馬車に乗ろうと手を伸ばすが、見えない壁にでも阻まれるように、誰も馬車に近づけない。セレント子爵は、馬車の窓を開け放ち、嘲笑を浴びせかけた。
「おまえたちの相手など、いつまでもしていられるか。わたしは国へ帰る。文句があるなら、追いかけてくるがいい」
レフは、軽い身のこなしで馬を降り、悠然とセレント子爵の馬車に歩み寄った。指示を受けていたブルーノは、全員に馬車から距離を取らせるため、鍛え上げた声で退避を命じる。もう数歩、馬車に近づけば、レフは腰の佩刀を優雅に一閃させる。それだけで、大きな魔力と高価な魔術触媒によって、綿密に練り上げられた転移魔術は、何の苦もなく切り捨てられるだろう。
王国騎士団の誰もが、欠片の疑問も持たずに、その成り行きを予測した瞬間、場違いにも明るい少女の声が、甲高く夏空に響き渡った。
「錠前の神霊さん。捕まえて」
少女の声に続いたのは、振動と共に起こった轟音と、もうもうと巻き起こった砂煙だった。
あまりにも突然の出来事に、声を失った人々は、ようやく砂煙の消えた現場で、再び茫然と立ちすくんだ。そこで目にしたのは、少女の腕程の太さの鎖で、セレント子爵の馬車が雁字搦めに縛られ、人の身長にも等しい巨大な錠前につなぎ止められているという、異様な光景だったのである。
◆
一体何が起こったのか、誰一人として説明のできない衝撃に、依然として凍りついた空気の中で、レフだけは、大きく肩を震わせて、こみ上げてくる笑いを堪えていた。
戦乱の気配と共に、ルーラ王国に暗い影を落としていた、悪辣で醜悪な誘拐事件が、一人の少女の声と共に吹き抜けた一陣の風によって、今、どこか明るい救いの色を帯びた。〈神威の覡〉であるレフには、錠前を司る神霊が、少女に頼られた歓びに湧き立っている気配さえ、明確に感じ取ることができたのである。
セレント子爵の馬車に向かっていたレフは、進むべき方向を変え、守備隊員たちの後方、少し離れた位置で目を見開いている少女の元へと、足早に歩いていった。
守備隊員の一人に守られるようにして、馬に同乗している少女がいることは、〈黒夜〉からの報告でわかっていたし、パトリックの〈遠見〉の神霊術でも確認されている。羅針盤の神霊術を巧みに使う少女は、キュレルの街の守備隊が、セレント子爵を追い詰める上で、文字通り羅針盤の役目を果たしたのだろう。
その場にいる全員の注目を集めながら、少女の面前に立ったレフは、柔らかな笑顔を浮かべて、そっと話しかけた。
「初めまして、御嬢さん。あの錠前は、きみが顕現させてくれたものだろう。きみは、素晴らしい神霊術師だね。協力してくれて、本当にありがとう。もう大丈夫だから、きみの素敵な錠前の神霊さんに、鍵を開けてくれるように頼んでくれないかな」
まだ幼さの残る少女は、驚いた表情のまま、微かな声で返事をし、小さく頷いた。白く円やかな頬が、瑞々しい薔薇色に染まっていく。呆然と自分を見つめている少女から、一瞬たりとも視線を逸らすことのないまま、レフはもう一度微笑みかけた。
少女は、人の美醜に関心のないレフから見ても、大層美しかった。ルーラ王国の国花である、優しい桜の色の髪に、強い意志の光を宿した、清々しい夏空の瞳。可憐に整った目鼻立ちは、王都にも滅多にいない程の美少女だと、レフにすらわかった。
とはいえ、現世と神世の狭間に生きるレフは、姿形の美しさには心を動かされない。〈神威の覡〉であるレフが、幼い少女に視線を絡めとられているのは、その存在の故だった。
セレント子爵が指示した転移魔術は、すでに術式を完成させ、発動しようとしていた。少女は、〈捕まえて〉というたった一言で、綿密に構築されたであろう高等魔術を、根底から消し去ってしまったのである。
詠唱もなく、対価も定めず、魔術そのものを無効化するほどの神霊術を使える者は、この世界に只一人、レフ・ティルグ・ネイラしか存在しない。目の前の少女は、その〈神威の覡〉にも迫る術を、いとも容易く使って見せたのだった。
人の子の目には見えないものを、自在に見通すことのできるレフの〈神眼〉には、錠前の神霊術を使った瞬間、少女の天色の瞳が、銀色の光をまとって輝く様が、はっきりと見えていた。
そして、まさにこのとき、神霊庁に奉職する神職と、王家の血を引く者の全てに、新しい神託が降り注いだことを、レフは知っていた。〈いとも目出たき邂逅を、讃え、寿ぎ、畏みよ。《神威の覡》は我らが化身、《神託の巫》は我らが縁。《神託の巫》が在りてこそ、制約多き現世に、《神威の覡》の留まらん。《神託の巫》は雛にして、今暫くは微睡の内〉と。
今頃、神霊庁や王城は、突如としてもたらされた神託に衝撃を受け、激しく動揺しているだろう。レフは、その予測に微笑みながら、少女の純真な面差しを、脳裏に深く刻みつけたのだった。
やがて、少女が神霊術を解除し、大きな音を立てて錠前が外れたところで、ようやく周囲の者たちが動き出した。
王国騎士団の騎士たちは、セレント子爵の護衛役だった男たちを拘束し、キュレルの街の守備隊員たちは、セレント子爵の馬車に殺到した。大型の箱馬車から引き摺り出されたのは、青いローブ姿の魔術師と、身をよじって抵抗する参事官のアダン。そして、屈辱に顔を歪めたセレント子爵である。
続いて、馬車に乗り込んだ守備隊員たちが、慎重に運び出したのは、セレント子爵が受け取った〈荷物〉だった。麻袋から出された八人の子供たちは、いずれも意識を失い、ぐったりと身体を横たえている。
守備隊と王国騎士団の者たちの中から、数人が慌てて印を切り、詠唱をして、神霊術を行使した。濃淡さまざまな水色の光球が、子供たちの周囲を旋回し、やがて大気に溶けて消えていった。
「薬で眠らされているだけだ。子供たちは全員、無事だぞ」
術を使ったうちの一人が、そう叫んだ途端、大きな歓声が湧き上がった。キュレルの街の守備隊員も、王国騎士団の騎士たちも、誰かれかまわずに肩を叩き合って、子供たちの無事と、犯人の捕縛を喜び合ったのである。
少女の元を離れて、セレント子爵の面前へと歩み寄ったレフに、ブルーノがそっと囁きかけた。
「先程、マルティノ大隊長から、連絡がございました」
「何と言ってきた」
「アイギス王国の外交官公邸を、無事制圧したとのことでございます。本格的な捜索や証拠の確保は、これからではあるものの、子供たちを拘束していたらしい痕跡は、すでにいくつか発見したそうでございます」
「わかった。こちらの状況も伝えよ。宰相閣下にも忘れずに」
「御意にございます、団長」
「キュレル街の守備隊総隊長をここへ」
「畏まりました」
ブルーノは、傍に控えていた騎士に命じ、すぐに総隊長を連れて来させた。厳つくも堂々とした容貌を持った壮年の男は、美しく澄んだ瞳に感謝の念を浮かべて、レフの前に片膝をついた。右の手のひらを左胸に当てたまま、深く頭を下げる姿勢は、騎士の正式な礼である。
レフは、鷹揚に頷いて礼を受け取ると、ブルーノに視線を向けて、総隊長を立ち上がらせた。
「御挨拶が遅れました。わたしは、レフ・ティルグ・ネイラ。王国騎士団の団長職を拝命しています。この度は、御手柄でしたね、総隊長殿」
「御丁寧な御挨拶を賜り、恐悦至極に存じます、王国騎士団長閣下。閣下の御助力により、子供たちを救出できましたこと、御礼の言葉もございません。この御恩は、我らキュレル街守備隊一同、決して忘れは致しません。誠にありがとうございます」
「とんでもない。組織的な制約に縛られる中で、皆さんが懸命に力を尽くしてくださったからこそ、犯人を検挙できたのですよ。宰相閣下も王国騎士団も、皆さん方の至誠に敬意を払い、心から感謝しています」
王国騎士の頂点に立つ者が、平民の守備隊にかける言葉としては、余りにも暖かく誠意に満ちた物言いに、キュレルの街の総隊長は、黙って頭を下げることしかできなかった。一言でも返事をすれば、涙を零してしまい兼ねないことを、男は知っていたのである。
レフは、総隊長の様子には気づかない振りをしながら、事態の収拾に向けていくつかの指示を出した。
「捕縛した者たちと、救出した子供たちは、このまま王都に運びます。構いませんか?」
「勿論でございます、騎士団長閣下。犯人が犯人なのですから、この先、我ら守備隊にできることなどございません。御気遣いを賜り、恐縮でございます」
「理解してくれて、ありがとう。王都に連行する際、事情を説明するために、守備隊から何人か同行してもらうことは可能ですか。数日は、王都に留まらなくてはならないと思いますけれど」
「可能でございます。協力者の少女を送り届ける人員以外は、何人でも」
「では、総隊長御自身が同行してください。王都の通用門に駆けつけ、援軍を要請したアラン・ラポール殿も。その他に三名、事情をよく知る者を選んでください」
「畏まりました」
「協力者の少女というのは、羅針盤と錠前の神霊術を使った、あの御嬢さんのことですね。王城から褒賞が出ると思いますので、身元を教えてもらえませんか」
「キュレルの街で、〈野ばら亭〉という大きな宿屋と食堂を営んでいる家の娘で、チェルニ・カペラ嬢と言います。神霊術の使い手として有名で、今回も素晴らしい力を発揮して、我々を助けてくれました」
「チェルニ・カペラ嬢ですね。よくわかりました」
深い微笑みを浮かべ、少女の名を記憶したレフは、総隊長を現場に戻らせてから、ブルーノに言った。
「王都に戻ったら、すぐに〈黒夜〉のバラン男爵に許可を求めてほしい。あの少女のことを詳しく調べるために、〈黒夜〉の者の手を借りたいのだ」
「畏まりました。何か不審な点がございましたか」
「まさか。わたしが、個人的に知りたいだけだよ。あの少女と親しくなるには、まず相手を知らなくてはならないのだろう」
レフの言葉に、ブルーノは、何の答えも返さなかった。王国騎士団でも、王城でも、レフの発言は絶対である。些細な言葉の欠片でさえも逃さず、周囲が反応することに慣れ切ったレフは、思わずブルーノの顔を覗き込んだ。
ブルーノは、呆然と目を見開いてたまま、棒のように立ちすくんでいた。レフの側近の一人として、王立学院の在学中から傍にあったブルーノが、初めて見せる程の動揺だった。
「どうした、ブルーノ。気分でも悪いのか。わたしが、回復の術を使おうか」
「いえ、その、気分などは悪くございません。ただ、余りにも驚きすぎて、心臓が止まるかと思ったのでございます。大変、御無礼を致しました」
「何を驚くことがあるのか、わたしにはわからないが、大丈夫ならそれでいい。体調が優れなければ、必ずわたしに言うように」
「御言葉、忝う存じます、団長。王都に戻りましたら、すぐにバラン男爵を御呼び致します」
レフは、穏やかな笑顔を浮かべて、ブルーノに頷きかけた。どこまでも清々しい夏の日、レフと少女が邂逅を果たしたことによって、ゆっくりと宿命の輪が回り始めたことを、一人〈神威の覡〉だけが知っていた。
◆
アイギス王国の外交使節団長であるセレント子爵が、少年少女誘拐事件の現行犯として逮捕されてから数日、ルーラ王国の宰相であるロドニカ公爵は、国境線を目指して粛々と進んでいた。目的地となるのは、アイギス王国と国境を接した平原の只中であり、供をするのは三百人にも及ぶ騎士である。
行列の先頭を行く騎馬は、ルーラ王国騎士団の大隊長、マルティノ・エル・パロマが務めていた。堂々とした長身にまとうのは、光沢のある漆黒の団服で、肩からはサッシュと呼ばれる真紅の飾り帯を斜めがけにし、胸にはいくつもの勲章が光る。正式な儀式が外交式典でしか身に着けない、王国騎士団幹部の正装である。
マルティノに続き、やはり正装に身を包んだ騎士たちが、整然とした隊列を作って馬を歩かせる。行列の中程には、大型の箱馬車が五台連なり、その一台一台の扉に、ルーラ王国の紋章である桜が、大きな白金の馬車飾りとして留められていた。わずかでも知識のある者が見れば、正式な外交使節の一団であると、ひと目でわかっただろう。
外目には同じでありながら、内装は一際豪奢な一台には、ロドニカ公爵がゆったりと乗り込んでいた。その向かいには、王国騎士団長であるレフの姿が見える。レフが同乗することによって、ロドニカ公爵を乗せた馬車は、現世の何者にも害することができず、いかなる魔術をも受け付けない、完全な安全地帯となっているのである。
国境を臨む街で一泊し、早朝から正装に威儀を正して出発した一行は、正午を前にして目的地に到着した。同じように、約束の時間に現れたのは、やはり三百人程の騎士団に囲まれた行列である。
二つの行列は、御互いの姿を確認できる位置まで近づくと、馬を止めて横数列に並び、一斉に何十枚もの旗を掲げた。桜の紋章を描いた旗は、ルーラ王国の国旗。濃紺の地に太陽と星を意匠化した旗が、アイギス王国の国旗である。
ルーラ王国の行列から、レフの側近の一人であるリオネルが、ゆっくりと単騎で進み出た。その右腕には、柄に巻き付けたままの国旗を抱え、左手だけで手綱を操っている。腰には佩刀もなく、戦うための前進でないことは明らかだった。
リオネルの姿を見たであろう、アイギス王国の側からも、一騎の騎士がやって来た。明るい青色の団服に、左右の肩から襷がけにサッシュを垂らし、胸には勲章を光らせた正装である。片腕には、やはり国旗を抱えており、丸腰のままリオネルに歩み寄る。
二人の騎士が、双方の列の中央あたりまで到達したとき、先に口を開いたのは、リオネルの方だった。
「アイギス王国騎士団の方々と御見受け致す。我が名は、リオネル・セラ・コーエン。コーエン子爵が嫡男にして、ルーラ王国騎士団中隊長を拝命する者だ」
「ルーラ王国の申し出に応じ、アイギス王国騎士団が罷り越した。我が名は、ベニート・ガジェ・フェリコ男爵。アイギス王国騎士団中隊長である」
「我らがルーラ王国より会談に臨むのは、宰相アル・ティグネル・ロドニカ公爵閣下、レフ・ティルグ・ネイラ王国騎士団長閣下の御二人と、護衛の騎士が三名、書記官が一名」
「異論なし。我らがアイギス王国からは、輝ける光たるフィリップ・ルテル・アイギス王弟殿下、王国騎士団長たるラウール・フォン・グラント伯爵閣下、護衛騎士三名の五名と、別に書記官が一名」
「承知。我が方の席は、この旗の場所に定める。王国騎士団三百は、この旗より二十馬身後方に留めるが、如何か」
「異論なし。我が方の席も、神聖なる国旗の場所に定め、王国騎士団の精鋭三百は、二十馬身後ろに待機致す」
「時刻は如何か」
「席の整い次第、即刻」
「承知」
リオネルは、右腕を振るって大きな国旗をはためかすと、勢い良く地面に柄を突き立てた。アイギス王国の騎士も、同じく国旗を地面に突き立てると、そのまま馬を駆って行列へと戻っていった。
本来、こうした会談の作法は、休戦中の敵国同士が相対するときのものである。友好国として国交を結び、相互に外交使節団の公邸を置く国家としては、極めて異例の物々しさだったろう。外交使節団長であるセレント子爵を、公式に拘束したことによって、ルーラ王国とアイギス王国の間には、深刻な亀裂が生じていたのである。
二人が行列に戻ってすぐ、人々は馬から降り、慌ただしく動き始めた。リオネルが旗を立てた場所には、ルーラ王国の箱馬車から二脚の椅子が運び出され、横並びに据えられる。余分な装飾のない、折りたたみ式の椅子である。
王国騎士団の者たちは、馬車を見張る人数だけを残し、その椅子から二十馬身離れた後方に整列した。一糸の乱れもない動きと、威風堂々とした佇まいが、ルーラ王国騎士団の洗練を物語っていた。
アイギス王国の大型馬車からは、二人がかりで大きな肘掛椅子が運ばれてきた。飴色に光る木製の枠に、腰掛けの部分は青い絹張りである。背もたれとなる一枚板には、精巧な透かし彫りが施され、中央には金銀で太陽と星の象嵌が輝いていた。
草原の中で見るには、明らかに場違いな椅子が置かれると、その横にもう一脚、今度は肘掛のない椅子が運ばれた。背中の一枚板にも、透かし彫りはあっても象嵌はなく、座る者に身分の差があることは明らかだった。
そして、フェリコ男爵と名乗った騎士が、国旗を突き立てた位置の二十馬身後方に、アイギス王国騎士団の騎士三百人が整列すると、いよいよ会談の準備は整ったのである。
ルーラ王国の椅子には、ロドニカ公爵とレフが座り、ロドニカ公爵の斜め後ろに書記官が立つ。レフの後ろには、マルティノ、リオネル、ブルーノの騎士三名が並んだ。ロドニカ公爵とレフは、二人とも帯剣しておらず、護衛役の三人の騎士だけが、腰に剣を佩ていた。
一方、アイギス王国の豪奢な肘掛椅子に座ったのは、王弟であるフィリップ公だった。アイギス王国騎士団長は、もう一つの椅子に腰かけ、背後には帯剣した騎士三名と書記官が一名、身を固くして並んでいた。
最低限の挨拶だけを、儀礼的に済ませるや否や、貴族的な微笑みを消し去ったロドニカ公爵が、冷然とした口調で言った。
「この場にフィリップ公を御呼びしたのは、交渉を持ちかけるためではない。我らの要求を、貴国に通告するためである。書面だけでは、伝わらぬこともあるのでな。心して聞き、即座に通告の通りにするがいい。祖国を失いたくないのであれば」
ロドニカ公爵の言葉に、フィリップ公は瞬時に顔を紅潮させ、グラント団長は、帯剣していないことを忘れたかのように、思わず腰に手を伸ばした。アイギス王国では、貴族の中の貴族とも言うべき二人が、思わず怒りを露わにする程、ロドニカ公爵の言い分は、外交的な礼を欠いたものだった。
フィリップ公は、大きく息を吐いて、込み上げる怒りをやり過ごしてから、ロドニカ公爵を詰問した。
「ルーラ王国の叡智とも呼ばれる、ロドニカ公ともあろう者が、何という無礼な口を利くことか。そなたの物言いは、ルーラ王国の国王陛下も承知のことか」
「勿論だとも。今回の少年少女誘拐事件に関しては、わたしが全権を与えられている。わたしの話すことは、ルーラ王国の決定事項なのだ」
「誘拐事件というが、それは我が国とは無関係だ。言いがかりに過ぎないと、書面で伝えたであろう」
「言い訳にもならない世迷言なら、確かに聞いた。しかし、我らは現行犯でシャルル・ド・セレント子爵を捕縛し、許可なく密入国したアイギス王国騎士団の騎士、十六名を捉えたのだ。議論の余地がどこにあろうか」
「外交使節団長であるセレント子爵が、貴国の少年少女を誘拐したというのであれば、確かに問題だろう。しかし、我々は事実を確認していない。こちらで調べるゆえ、早急に引き渡すがいい。王国騎士団の者については、すでに全員が退団して、行方不明になっていたのだ。こちらも、事情を聴取するので、早急に引き渡してもらおう」
ロドニカ公爵は、何も返事をしなかった。ただ、激しい侮蔑を滲ませながら、フィリップ公を嗤っただけだった。
あからさまな挑発を、奥歯を噛みしめることで耐え切ったらしいフィリップ公は、もう一度要求を繰り返した。
「セレント子爵を始めとする外交使節団の者たちと、元王国騎士団の者たちを、早々に引き渡してもらおう。貴国が要求に応じるのであれば、我がアイギス王国も協力し、セレント子爵らから得られた情報を開示しよう」
「無用だよ、フィリップ公。交渉はしないと、最初に申したであろう。ここからは、我が国の要求を通告する。一つ、アイギス王国は、誘拐事件に関わった全ての者を明らかにし、半年以内にルーラ王国に引き渡すこと。王族であっても例外なく。一つ、アイギス王国は、ルーラ王国から誘拐した、全ての少年少女を探し出し、半年以内に帰国させること。一つ、誘拐事件の関係者の処分に関しては、全てをルーラ王国に一任すること。以上だ」
「馬鹿なことを申すな。そのような条件を、飲むはずがないであろう。我らは属国ではないのだぞ。身の程知らずな異端の国が、生意気な」
「拒否をするなら、それでも構わない。我々は、それ相応の対応をするだけだ」
「対応とは、何を指すのだ」
「開戦する。アイギス王国には、地上から消えてもらおう」
ロドニカ公爵は、欠片の迷いもなく言い切った。千年余のときを超えて、固く不戦を貫いてきた国家が、開戦を宣言したのである。フィリップ公は、衝撃の余り言葉を失って慄いたかに見え、グラント団長は、今度こそ椅子を蹴って立ち上がった。
グラント団長は、厳しい顔に憤怒の色を浮かべ、ロドニカ公爵を睨み据えたまま、大きな声で言い募った。
「無礼も大概にせよ、ロドニカ公爵。そちらがその気であれば、受けて立ってやろうではないか。一切の交渉を受け付けず、正式な手順も踏まず、大国たる我らがアイギスを、属国の如く扱った挙句、軽々しく開戦を口にしたのだ。もう後には退けぬぞ。只の宰相であってさえ、その言葉は正式な布告となるであろうに、ルーラ王国のロドニカ公爵といえば、先王の甥にして、今も王位継承権を有する王族の内なのだからな。ルーラ王国の無礼と無法は、広く世界に告知するので、そのつもりでいるがいい」
グラント団長の激昂に応えたのは、ロドニカ公爵の更なる嘲笑だった。冷たく高貴な表情の中で、唇だけをわずかに歪め、ロドニカ公爵は言った。
「全て、そなたらの計画の通りなのであろう、グラント王国騎士団長。これで妃に面目が立つな、フィリップ公」
ロドニカ公爵の言葉は、激烈な変化をもたらした。グラント団長は、ぴたりと口を閉じて目を見開き、フィリップ公は、今度こそ本物の動揺に身体を震わせたのである。
◆
ロドニカ公爵は、二人の変化を一瞥しただけで、構わずに淡々と言葉を続けた。
「フィリップ公は、ヨアニヤ王国の王族である妃に唆され、我が王国の子らを拐わせた。ヨアニヤ王国の要望によって、神霊術の秘密を解き明かすためであり、ことが露見して開戦となっても、それはそれで構わない。我が国の宣戦布告を不当だと糾弾し、ヨアニヤ王国が参戦するので、負けはしないと考えたのだ」
「そなたは、何を言っているのだ、ロドニカ公爵。そのような荒唐無稽な話を、一体どこから聞いてきたのだ」
「ルーラ王国に勝利すれば、理由をつけて現在のアイギス国王を廃し、フィリップ公が王となる。王弟派の筆頭貴族でもあるグラント団長は、喜んでその企てに賛成し、アイギス王国騎士団を動かした。謀が成就すれば、公爵位と大元帥の座が約束されているのだろう、グラント団長」
「そんな、そんなことはない。王国騎士団長たる身で、国王陛下への不忠などあり得ない。いい加減なことを言うな」
「そなたらが否定しようと、認めようと、どちらでも構わない。我がルーラ王国は、成すべきことを成すだけだからな。先程、拐った子らを探し出して、半年以内に帰国させよと申したが、それはセレント子爵の独断で、奴隷として売った子らのことだ。そなたらアイギス王国の魔術師どもが拘束している子らは、明日にでも返すがいい。ヨアニヤ王国に運んだ子らに関しても、早急に取り戻すのだ」
「知らぬと申しているであろう、ロドニカ公爵。この上、証拠もなき誹謗中傷を重ねるのであれば、受けて立つだけだ。そうであろう、グラント団長」
「左様でございますとも、王弟殿下。ルーラ王国の如きは、我がアイギス王国騎士団が、瞬く間に蹂躙して御覧に入れましょう」
瞬間の動揺から脱し、すでに傲慢な態度を隠すこともなくさらけ出したフィリップ公に、グラント団長が力強く呼応した。謀が露見したとはいえ、彼らの望み通りに事態が動いていることは、疑いようがなかったからである。
ロドニカ公爵は、自身の傍でじっと気配を殺し、沈黙を守ったままでいるレフに向かって、呆れた顔で言った。
「誠に困ったものだな、レフ。アイギス王国は、我がルーラ王国に勝つ気でいるらしい。千年の余も戦をしておらぬと、随分と甘く見られるものだ。他の時代はともかく、〈神威の覡〉の御坐す今のルーラに、対抗することのできる国など、この世にあろうはずがなかろうに」
ロドニカ公爵の言葉に、フィリップ公とグラント団長は、揃って息を飲んだ。世界最強と呼ばれるルーラ王国の王国騎士団、一目で只人ではないとわかるレフの存在を、今の今まで、全く意識していなかった不自然さに、唐突に気づいたのである。
ロドニカ公爵は、鼠を嬲る猫の残虐さで、自国の子供たちを拐わせた犯人に、ゆっくりと言った。
「先程の通告は、正式な書面にてアイギス国王へ伝えるよう、すでに手配してある。アイギス王が、書面を見てどう動くのか、我らにはわからぬが、それは大きな問題ではない。通告に従わなければ、アイギス王国の名が、地上から消えるだけのことだ」
フィリップ公は、レフに視線を引き寄せられたまま、本能的な恐怖に震える声で、必死に声を上げた。
「如何に強い騎士がおろうと、一人の存在によって戦局が変わるものか。その程度のこと、そなたが知らぬはずはないだろう。ルーラ王国の叡智たるロドニカ公爵よ。我らがアイギス王国騎士団とて、世界有数の強兵なのだ。そうであろう、グラント団長」
「その通りです、フィリップ殿下。戦いの場に出たこともない男が、世界最強の騎士などとは、ただの戯言でございましょう。我らアイギス王国騎士団が、その増長を叩き伏せてやりましょう」
そう言って、グラント団長は、素早く右腕を振り上げた。すると、後方に整列した騎士団のなかから、十数人の男たちが進み出て、一斉に何事かを唱え始めたのである。彼らの手には、いつの間にか大きな水晶らしきものが握られ、夏の日差しの中で輝いていた。
フィリップ公は、肩で息を吐いて緊張を緩め、グラント団長は、勝ち誇った口調でレフを嘲笑った。
「これで決まりだ。拘束の魔術は、すでに完成した。そなたは、魔術そのものを切れるなどと嘯ているそうだが、丸腰ではどうしようもあるまい、ルーラ王国騎士団長。そなたの剣は、ルーラ王国の国宝だと聞く。護衛騎士の剣では、魔術は切れまい。ヨアニヤ王国の魔術師団は、〈神威の覡〉とやらの研究にも、余念はないのだ。思い上がった愚か者が。我が国まで引きずっていき、世界最強などという虚名を、このラウール・フォン・グラントが地に落としてやろう」
蕩々と語ったグラント団長が、大きな笑い声を立てた瞬間、レフは羽虫でも払うかのような手つきで、一度だけ右手を振り、初めて口を開いた。
「魔術を切るのに、本当は剣を持ち出す必要などないのだ、アイギス王国騎士団長。そら。そなたらの国の魔術師と、ヨアニヤ王国の魔術師が、共同で発動した拘束の魔術は、もう切り捨てた。魔術師たちの魔力も、同時に切っておいたので、あの者たちは全員、この先は魔術を使えないよ」
弾かれたような勢いで、グラント団長は、後方の行列を振り返った。その目に映ったのは、アイギス王国騎士団の騎士に偽装していた魔術師たちが、手に握った水晶を取り落とし、次々に地面に倒れ伏していく姿である。彼らが発動したであろう魔術が、脆くも砕け散ったことは、誰の目にも明らかだった。
ロドニカ公爵は、ゆっくりと椅子から立ち上がると、顔色を失って立ち尽くすグラント団長と、小刻みに震え出したフィリップ公に向かって、最後の言葉をかけた。
「只今を以て、会談は終了する。我が国の要求は通告の通り。今後は、アイギス国王と、直接やり取りをすることとしよう。会談の最中、一方的に拘束の魔術を発動されたのだ。そなたらの国王も、嫌とは言えまいよ。レフ」
「何でしょう、宰相閣下」
「アイギス王国もヨアニヤ王国も、〈神威の覡〉の力を理解できないようだ。にもかかわらず、〈研究〉したなどと言われては、中々に気分が悪い。わたしの鬱憤を、晴らしてはくれないかね」
「畏まりました。少し神霊術を使って、この者たちに見せておきましょう。マルティノ」
「御側におります、団長」
「宰相閣下を御守りして、少し後ろへ下がってほしい」
「御意にございます」
「ブルーノ」
「何なりと」
「後方の者たちにも、備えを」
「畏まりました、団長」
レフの言葉が終わるや否や、マルティノはロドニカ公爵を先導し、三馬身程離れた位置に移動する。それを確認したブルーノは、後方を振り返ると、二十馬身先で整列する者たちに向かって、只一言、こう叫んだ。
「神威に備えよ」
それだけで、整列した三百人のルーラ王国騎士団の騎士たちは、一斉に動いた。即座に前後左右に間隔を取ると、両膝を地面につけたのである。
戸惑いなく跪いた人々は、背筋を伸ばして腰を落とし、軽く握った両手を土につける。視線は目の前の地に置いたまま、じっと威儀を正す姿は、ルーラ王国に於いてのみ行われる、特殊な座礼だった。
ロドニカ公爵やマルティノらも、やはり同じ姿勢を取り、無言のままに呼吸を整えた。彼らは、これから何が起こるのかを、はっきりと予測していたのである。
他国から見れば、余りにも特異なルーラ王国騎士団の姿に、アイギス王国側は、ある種の恐慌に陥った。フィリップ公とグラント団長は、護衛騎士に回りを固めさせながら、撤退の機会を伺う。突如として倒れ伏した魔術師たちに動揺し、介抱しようとしていたアイギス王国騎士団は、口々にルーラ王国への不信を口にした。
「おい、何が起こっているんだ。団長の声は聞こえたか」
「無理だ。内容まではわからない。しかし、交渉は決裂したのだろう」
「ルーラ王国の奴らは、なぜ跪いているんだ。我らに降参したのか。魔術師が倒れている以上、そうではあるまい」
「何という不気味な奴らだ。魔術師たちは、どうしたのだ」
「まさか、呪いか」
アイギス王国の者たちが騒然とする中、椅子に腰掛けたままでいたレフが、おもむろに立ち上がった。それだけで、草原にいた全ての者が、固唾を飲んでレフの気配だけを探る。レフは、フィリップ公とグラント団長に向かって、淡々と言った。
「ここで少し、そなたたちを脅しておくとしよう。その結果、宰相閣下の通告に従う気になれば、アイギス王国は開戦を回避でき、無駄に命を捨てずに済むだろうから。〈神照〉」
レフが呼びかけると、漆黒の団服の胸元から小さな手鏡が滑り出て、瞬く間に形を変えた。両手に捧げ持つ大きさの、真円の鏡である。鏡の周りには一切の装飾がなく、縁飾りの代わりに鏡面を飾っているのは、煌めきながらたなびいている、淡い五色の雲だった。
その神鏡を目にした者が、驚愕に慄く様子を気にも留めず、レフは優しく鏡に語りかけた。
「少し御魂を降ろすので、我が王国の者たちを、神威から守ってほしい。頼めるかな、〈神照〉」
鏡は数度、喜びに震えるように揺れてから、ロドニカ公爵たちの頭上へと飛んでいった。そして、夏の日差しを受けて、皓々たる銀色に照り輝いたのである。
レフは、鏡を一瞥し、守りが施されたことを確かめると、たった一度だけ右手を振って、こう言った。
「神鳴」
一体何が起こったのか、首を傾げる者たちの前で、変化は唐突に訪れた。それまで、一点の曇りもなく晴れ渡っていた夏空に、瞬く間に分厚い鈍色の雲が立ち込め、遠く雷の音が聞こえてきたのである。
鈍色の雲の下、遠雷と稲光を背にして佇みながら、レフは冷たい微笑みを浮かべた。
「誰一人、殺しはしない。そんな必要はないのだから。ただ、許されぬ行いに手を染めた者には、相応しい報いを受けてもらおう」
レフの言葉が終わった瞬間、フィリップ公の足元に、轟音と共に雷が落ちた。そして、その一発を呼び水に、グラント団長の足元にも、アイギス王国騎士団の整列の中にも、次々に雷が降り注いだのである。
立て続けに鳴り響く轟音の中、雷光は辺り一面を薄紫の光に染め上げ、地面は立っていることが難しい程に揺れる。この世の最後かと思われる光景を前に、平静を保てる者がいるはずもなく、アイギス王国騎士団の精鋭たちは、成す術もなく蹲るしかなかった。
ある者は、助けを求めて泣き叫び、ある者は、正気を失って倒れた。フィリップ公は、一瞬のうちに色を失った白髪の頭を抱え、地面に身を伏して啜り泣いた。グラント団長は、膝から崩れ落ちた姿勢のまま、正気を失った眼差しで、何事かを虚に呟ているだけだった。
ルーラ王国の者たちは、身を固くして、じっとその光景に耐えていた。〈神照〉から発せられる光は、彼らの頭上で輝き続け、雷光からルーラ王国騎士団を守っている。そうでなければ、余りにも圧倒的な神威は、ルーラ王国騎士団の騎士たちにとってさえ、耐えられるものではなかっただろう。
呻くような声で、誰かが呟いた祈りが、声にならない声として、人々の胸を満たした。〈神威の覡よ、鎮まり給え〉と。
やがて、雷鳴は少しずつ間遠くなり、稲光は光を薄くし、鈍色の雲は晴れていった。神の威光である神威が、不意に平原から掻き消えたとき、その場に立っていたのは、レフ・ティルグ・ネイラ只一人だったのである。
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この〈後編〉にて、『邂逅 ー神霊術少女チェルニ外伝ー』は完結となります。
明日からは、『神霊術少女チェルニ 小ネタ集』を投稿いたします。
引き続き、『神霊術少女チェルニ』をお楽しみください。