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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 4-11

04 アマーロ 悲しみは訪れる|11 痕跡

 ゲーナがほどこした封印を解除し、生まれて初めて解き放たれたアントーシャは、真実の間に留まったまま、自身の力と向き合っていた。封印のない状態を知らないアントーシャにとって、突然もたらされた巨大な力は、想像を超えるものだったのである。

 ロジオン王国にける魔術の頂点であり、世界最高の魔術の殿堂でもある叡智えいちの塔に於いて、アントーシャが持つ魔力量は、平均的な魔術師の水準だと考えられていた。大きな魔力を持って生まれた者は、己の魔力を自在に操れる年齢になるまで、魔力の一部を封印される場合が有るものの、十歳を超えて封印を解かれない事例は稀である。だからこそ、既に成人したアントーシャが、魔力を封じられていると考える魔術師は居らず、誰もが目に見えるままの姿を信じ込んでいた。

 ゲーナによって施された厳重な封印は、アントーシャの二つの力を隠蔽いんぺいしていた。この世に有り得べからざる異形の瞳と、ゲーナにも匹敵する膨大な魔力である。魔術の申し子とも言うべきアントーシャは、幼児の頃から自在に魔力を制御することが可能だったが、ゲーナは頑なに封印を解こうとはしなかった。アントーシャの存在が王家の目に留まり、契約の魔術紋によって隷属れいぞくさせられる危険性を、絶対に排除しておきたかったからである。
 ゲーナが王家に隷属させられている以上、そのゲーナの命を盾に迫られれば、アントーシャは王家に絶対的な忠誠を誓い、隷属の魔術紋を受け入れるしかないだろう。封印を解除する前から、この世の誰にも使えない魔術を行使出来たアントーシャは、自力で封印を破壊することも可能だと知りながら、ゲーナと自分自身を守る為に、進んで封印を受け入れていたのである。
 そして、正に召喚魔術が行われている頃、ゲーナから継承した鍵を発動させ、二十二年の時を経て封印を解除したアントーシャは、生まれて初めて完全なものとなった魔力と、神秘の極地とも言える己が瞳と向き合っていた。猫達しか聞く者の居ない真実の間で、アントーシャは小さく呟いた。

「成程。封印を解除する前と比べると、魔力量は十倍くらいになったか。飛躍的に伸びはしたものの、これは想定の範囲内だな。ぼくが自在に制御出来る量だから特に問題はなし、と。それにしても、これでもまだ百四十歳を超えた父上に並んだだけなのだから、つくづく怪物だな、ゲーナ・テルミンという方は」

 誇らし気に言うアントーシャの足下では、三匹の猫達が耳を澄ませている。悪戯いたずら者のコーフィは、薔薇色の鼻先をひくつかせ、母猫のベルーハと灰色猫のシェールは、緑金の瞳でじっと主人を見詰めていた。アントーシャは、猫達に柔らかな微笑みを向けた。

「そうかい。お前達も、そう思うのだね。ぼくも、最も偉大な魔術師である方の息子になれて、この上もなく光栄だと思っている所だよ。さて、魔力量に違和感がない以上、問題は奇妙なこの瞳の方だな。見た目が異常であることは、一先ず棚上げにするとして、働きはどうなのだろう」

 そう言って、アントーシャは半ば無意識に抑え込んでいた力を解放し、不可思議な瞳を金色に輝かせながら、ゆっくりと周囲を見回した。至近距離でアントーシャの瞳を覗き込んでいる者が居れば、回転する度に瞳孔が色を変え、星のごとく瞬く様子を目にしただろう。しばらくの間、そうしていたアントーシャは、やがて深い溜息を吐いた。

「こちらは中々、相当に厄介だな。真面まともに全てを視ようとすると、余りにも情報過多で気が狂いそうになる。父上は美しく〈全眼〉と名付けて下さったけれど、る種の呪いではないのかな、この瞳は。赤子の瞳を鋏で抉り出そうとした両親は、やはり息子への慈悲じひの心を持っていたのだろうな。ああ、いや、待てよ。少し要領が掴めてきたかも知れない」

 口をつぐんだアントーシャは、ず右手で右目を隠したまま視線を巡らせ、次に左目だけを隠した状態で周囲を見回した。

「思った通りだな。片目を隠しても、見えるものは変わらない。それは右目であっても左目であっても同じだ。だとすると、やはり回転軸の問題か」

 アントーシャは両目を瞑り、深く息を吐いた。二度三度、深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着けたアントーシャは、まるで何かに導かれたかのような滑らかさで詠唱した。

「我が瞳に映すはこの世の成り立ち。形有るものと形なきものとを、等しく看破するだろう。人には過ぎたる叡智えいちの瞳、その名は〈真眼〉」

 詠唱の終わりと共に、アントーシャの身体が金色に発光した。まばゆい光が収まり、アントーシャが目を開けたとき、その瞳孔は様変わりしていた。ずっと緩やかに回転を続けていた正二十面体の瞳孔が、ある一面で停止していたのである。

「やはり、想像の通りだったな。瞳の権能けんのうを限定すれば、自ずと視界は固定されるのか。ああ、それにしても凄い。ぼくたちの世界は、こんな風にして構成されていたのか。真眼で視ると、複雑怪奇な幾何学模様のようだ。成程、世界の真理に近づいたのは確かだろうな。残念ながら、余り詩的な光景ではないにしても」

 しばらくの間、複雑な表情を浮かべていたアントーシャは、緩りと首を振ってから目を瞑り、再び謳うがごとく詠唱した。

「我が瞳に映すは肉体を支配する主人。誰にも掴めぬ幻影を、余さず看破するだろう。生死を隔てぬ神秘の瞳、その名は〈霊眼〉」

 柔らかな金色に全身を輝かせたアントーシャが、光の消滅と共に目を開けたとき、神秘の瞳孔はまとう光を変え、先程とは別の一面で停止していた。何度か瞬きを繰り返したアントーシャは、興味津々の顔付きで白い髭を動かしていた猫達の方へ、おもむろに振り返った。

「凄い。お前達の魂魄こんぱくと魔力が、はっきりと見える。今のぼくの瞳は、我々の存在を司る三つの主人、魂と魄と魔力とを視認出来るようなのだ。色彩や輝き、濁りの有無まではっきりと。それにしても、おまえ達の精神世界は、随分と綺麗なものなのだね。ベルーハは、毛並みと同じ純白に輝く魂と、澄み切った緑色の魄。金色の強い光はぼくの魔力だね。猫にはほとんど魔力はないはずなのだけれど、ぼくの眷属けんぞくとしての回路が開いたから、おまえ達も魔力を持つようになったのだろう。本当に麗しいよ、ベルーハ」

 アントーシャの言葉に、ベルーハは嬉しそうにアントーシャの足先に頬をすり寄せた。コーフィはアントーシャのローブに爪を引っ掛けて催促し、シェールも待ち切れないとばかりに左右に尾を振りながら鳴いた。アントーシャは、喉の奥で笑って言った。

「分かっている、分かっている。今言うから、良い子で待っておくれ。さて、コーフィは赤く燃え盛る魂だから、随分と気性が強いな。魄は濃い緑色に輝いている。元気一杯だね、おまえは。シェールは穏やかに澄み切った水色の魂。とても優しい良い子だね、シェール。魄も冴え冴えとした緑色だから、元気だよ。どちらも魔力はぼくの金色だ」

 喜んで益々足元に絡まって来る猫達を、優しく構ってやりながら、アントーシャは真剣な表情で何かを思案していた。アントーシャの異形の瞳が、どれ程の権能けんのうを秘めているのか、その解明は未だ始まったばかりなのである。

「ぼくの瞳には、他にも色々なものが見えそうな気がするし、現在の魔術のことわりでは説明出来ない事象を引き起こせるのではないかな。ぼくの魔術は、元々が他の人とは全く異なるものではあったけれど。父上でさえ、ぼくの魔術は全き謎でしかないと言っておられたしな。しかし、検証は後回しにしよう。ぼくの魔術師の人生は長いのだから、ゆっくりと調べていけば良いだろう。今、この場で必要となるのは、やはりこの瞳だろうな」

 三匹の猫達から離れ、三度、アントーシャは目を瞑った。二度の詠唱を超える緊張をもって、謳うように言葉を紡ぐ。

「我が瞳に映すは、果てしなき魔術の深淵しんえん。全ての世界で成される術を、あまねく会得するだろう。我が最愛の父の名付けし魔導の瞳、その名は〈法眼〉」

 金色の光の残像が真実の間を駆け抜けた後、緩りと目を開けたアントーシャは、こらえ切れずに笑い出した。瞳孔はまたしても色を変え、一つの面で固定されている。ゲーナが法眼と名付けた瞳で見渡せば、真実の間を含めた全ての魔術の理と術式が、既にアントーシャの掌の内に在った。更に、他の誰とも違うアントーシャの魔術の深淵も、法眼の力によって余すことなく解き明かされた。術式も触媒しょくばいも詠唱も必要とせず、魔力量でさえ意味を持たない真の魔術、世の魔術師がその有り様を知れば、命に代えても渇望かつぼうするだろう〈魔〉の神髄が、今、アントーシャのものとなったのである。

しばらくの間、楽し気に笑っていたアントーシャは、尾を揺らして耳を動かしている猫達に話し掛けようとして、不意に眉をひそめた。アントーシャが足下を見ると、いつの間に変わったのか、ほのかに光っていただけの空間は満天の星空になっていた。アントーシャの真下には黄金に輝く満月、冴え冴えとした濃紺の空には無数の星々が瞬いているのである。

 息を飲む程に美しく、震える程に神秘的な光景を目にしながら、暗い絶望の表情を浮かべたアントーシャは、足下に広がる星空の一点を凝視したまま呟いた。

「ああ、遂に始まってしまった」

 その視線の先の先、界すら隔てているのだろう遥か下方で、ゲーナの魔術が発動する様子が、アントーシャには有り有りと視えていた。魔術触媒である聖紫石の色をした光線が、ダニエによって刻み込まれた回路を辿って夜空を上り、ゲーナの力強く輝く銀色の魔力が、ぐ後を追うがごとく巻き上がる。アントーシャは、銀色の光の鮮やかさに溜息を吐き、憧憬どうけいを込めてゲーナの魔術を見守った。
 薄紫の光線と銀色の光線は、やがて放射線状に広がり、広大な夜空を埋め尽くすばかりに輝いたかと思うと、小さく一点に収斂しゅうれんし始めた。ゲーナの召喚魔術が、遂に目指すべき召喚対象を探し当てたのである。

 血が出る程に唇を噛み締めたアントーシャは、ゲーナとの約束を果たす為に顔を上げた。すると、アントーシャの視線の先には、薄っすらと輪郭を曖昧にした人型の何かが存在していた。アントーシャが魔術で作り上げた人ならざる、血肉も意志も持たず人を模した熱量体である。封印されてきた法眼を取り戻したアントーシャは、何一つ詠唱せず、魔力を練る必要もなく、瞬時に奇跡とも見える魔術を発動出来るようになっていたのだった。

 真実の間の星空では、聖紫石が発する薄紫の光線と、ゲーナの魔力そのものである銀色の光線が、大きく螺旋を描きながら一本に寄り合わさり、無数の星の中の一つへと延びていった。アントーシャの瞳は正確に光線の軌道を追い、いつしか一つに混じり合って赤く変色した光線が、遥かに遠く見知らぬ世界に辿り着く様子を見守った。赤い光線は、召喚魔術の対象者と思しき青年の身体の上に、召喚の魔術陣を描き出していく。一つ目の正三角形、二つ目の正三角形が光線で繋がり、正に三つ目の正三角形が完成しようとした瞬間、アントーシャの真実の間に、ゲーナの声が響き渡った。切迫した色を隠さないまま、ゲーナはアントーシャの名を呼んだのである。

 アントーシャは、一瞬たりとも迷わなかった。最後の父の求めに応じて、間髪を入れず人型の熱量体を星空へと飛ばす。すると、今にも完成されようとしていた召喚の魔術陣の只中に、熱量体が音もなく滑り込み、召喚対象となった青年の姿と重なり合った。
 瞬き程の間も置かず、四つ目の正三角形が描き上がり、召喚の魔術陣が一気に赤く発光する。完成したはずの召喚の魔術陣は、何回か明滅を繰り返し、一際強く発光した次の瞬間、残像も残さずに消え去った。召喚対象を見事にとらえ、その身体を魔力の鎖で強く縛り付けたまま、再び界を超える為に夜空に舞い上がったのである。

 やがて、召喚の行われた星から魔術の痕跡が全て消え去ったとき、静かに眠っていたらしい青年は、何一つ損なわれないまま元の世界に残っていた。ダニエが完成させた召喚の魔術陣は、アントーシャの投げ入れた熱量体を召喚対象者として認識し、儀式の間へと運んでいったのだった。