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連載小説 神霊術少女チェルニ 小ネタ集 マルーク・カペラの祝祭夜

 一年の最後を締めくくる夜、マルーク・カペラは、黙々と料理を作り続けていた。マルークが、最愛の妻と共に経営している、高級宿兼食堂の〈野ばら亭〉には、飛び切り美味しい料理と共に、行く年を見送ろうという客たちが、今年も続々と集まっているのである。

「後のことは、俺たちに任せてくださいよ、親父さん。そろそろ家に帰らないと、お嬢さんたちが待ち兼ねているんじゃないですか?」

 そういって、マルークに声をかけたのは、真横でフライパンを振っている男だった。まだ若さの残った顔には、目立つ古傷ふるきずがある。刃物で切られたのだと、一目でわかってしまう傷跡は、ほおからあごにまで伸びていた。
 たくましい身体つきと相まって、小さな子どもなら、怖がって逃げてしまいそうな程、厳つい風貌の男だが、その瞳は優しく澄んでいた。

「ああ。ありがとう、ルクス。しかし、今年は一段とお客が多いからな。おれが早上がりだと、皆んなが大変だろう?」
「いや。〈野ばら亭〉が満員なのは、いつものことじゃないですか。人手は十分に足りているし、親父さんの味見も終わっているし、後は俺たちだけでも、何とかなりますって。そうだろう、皆んな?」

 ルクスと呼ばれた男が、広々とした厨房を見回すと、あちらこちらで一斉に賛同の声が上がった。

「俺たちのことは気にしないで、ご家族で新年を迎えてくださいよ、親父さん」
「アリアナさんもチェルニちゃんも、楽しみにしていますよ、きっと」
「わたしたちは、交代で休ませてもらいますから、心配は要りませんよ。それに、年末年始の勤務は、役得の方が多いんですから」
「まったくだ。特別手当に代休、最高のまかない、家族への土産まで付いた職場なんて、王都にだってありませんよ」
「そうそう。ルクスさんだって、すごい料理人になってるんですから、安心して家に帰ってくださいよ」

 〈野ばら亭〉の厨房では、この夜、三十人以上の料理人が働いていた。その全員が、声を揃えて帰宅を勧めてくれるのである。マルークは、男らしく整った相貌に、柔らかな笑みを浮かべた。
 姉娘であるアリアナの友人たちが、〈しぶい大人の魅力〉だと噂しては、こっそりと黄色い悲鳴を上げている、男盛りの微笑みだった。

「そうか。だったら、皆んなの言葉に甘えさせてもらおうか」
「是非、そうしてください。親父さんと同じとはいきませんが、一生懸命に努めますから、安心してもらって大丈夫ですよ」
「ありがとう、ルクス。抜身ぬきみの刃物みたいだった小僧が、いい男に育ってくれたもんだ。嬉しいよ」
「貧民街の盗人ぬすっとに、毎日毎日、最高に美味いパンを食べさせてくれた、馬鹿な大人がいましたからね。いつの間にか、すっかり更生しましたよ。さあ、行ってください、親父さん。良いお年を」
「ああ、そうしよう。皆んな、今年もありがとう。良い年を」

 大食堂に響く程の声で、〈良いお年を〉と送られて、マルークは、帰宅の途に着いた。〈野ばら亭〉の大きな建物から、大通りを挟んで向かい側、街中にしては広い庭に囲まれて建っているのが、マルークの自宅である。
 主人の帰りを待って、煌々こうこうと明かりの灯された玄関を開けると、すぐに明るい声が響いてきた。

「あ、お父さんだ! お帰りなさい、お父さん。待ってたよ! お仕事、お疲れ様でした」

 小さな足音を立てて駆け寄ってきたのは、妹娘のチェルニだった。春に咲くルーラ王国の国花に似た、清らかに優しいサクラ色の髪が、華奢きゃしゃな肩先で揺れている。夏空のように清々しく、強い意志の光を宿したあま色の瞳は、父親の帰宅を喜んで、生き生きと輝いていた。

「お父さん、お帰りなさい。お疲れ様でした」
「お帰りなさい、あなた。今年は早かったのね。嬉しいわ」

 屈託くったくなく抱きついてきたチェルニの後ろから、姉娘のアリアナと、妻のローズがやって来た。厨房の料理人たちがいう通り、マルークの愛する妻子は、今か今かと主人の帰りを待っていたらしい。

 姉娘のアリアナは、可憐な笑顔を浮かべて、父親に優しく手を差し伸べた。白く細い指先から、黄金の色をした髪の一房ひとふさまで、まるで名画のような娘だった。
 アリアナの肩に手を置いたローズは、とても年頃の娘を持つ母親とは思えない、若々しい美貌の持ち主として知られている。アリアナと同じ色をした瞳は、明るく輝くエメラルドを思わせ、見る者を強くきつける力を持っていた。

 キュレルの街でも有名な、〈野ばら亭の三美人〉から、愛情と尊敬を一身に集めているマルークが、人知れず〈真の勝ち組〉と呼ばれるのは、極々当然の結果だったろう。

 愛する娘たちに、左右から腕を引かれて、マルークは家に入った。暖かい風呂で疲れを落とし、気を利かせたルクスが届けてくれた、〈野ばら亭〉の料理で空腹を満たす。その間にも、父親の側を離れようとしない姉妹が、可愛い声で話し続けていた。

「今年も一年、あっという間だったね、お父さん。去年に比べても、早く時間が過ぎていった気がするんだよ。こんな風だと、気がついたらおばあちゃんになってるんじゃないかな、わたし」
「ふふふ。チェルニだったら、おばあちゃんになっても可愛らしいわよ、きっと。それに、チェルニよりも先に、わたしの方がおばあちゃんになるわね」
「アリアナお姉ちゃんは、おばあちゃんにはならないよ。そんなに綺麗で可愛いおばあちゃんなんて、さすがにいないと思うんだ。だったら、妹のわたしも、まだまだかな?」
「相変わらず、面白いことをいうのね、わたしの可愛い子猫ちゃんは」
「お母さんってば、娘をそんな風に呼ぶのって、お母さんだけみたいだよ? まあ、別にいいんだけど」
「あら。だって、こんなに可愛い子たちですもの。名前を呼ぶだけだと、わたしの愛情を表現し切れないのよ。わかってくれるでしょう? わたしの大切なお花ちゃん?」
「ええ、まあ、そうかもしれないわね。ありがとう、お母さん。嬉しいわ、多分」
「あぁ! また、日和ひよってる! お姉ちゃんってば、本当に気配りの人なんだから、困っちゃうよ」
「それよりも、問題は子猫ちゃんの進路よ。年末だっていうのに、今日も担任の先生からお手紙をいただいたのよ?」
「何ていってきたの、先生は?」
「チェルニを、王都の高等学校に行かせないのは、ルーラ王国の損失なんですって。何としても、進学させてほしいって、お願いされちゃったわ」
「まあ! やっぱり、先生方にも、チェルニの優秀さがわかるのね。姉として、わたしも誇らしいわ、チェルニ」
「ありがとう、お姉ちゃん。でもなぁ……」
「子猫ちゃんは、王都の高等学校には行きたくないの?」
「行きたくないわけじゃないし、勉強はしたい。わたし、勉強は好きだからね。でも、王都の学校に行くなら、家を離れないといけないでしょう? それって、寂しいじゃない。王立学院ならともかく、ただの高等学校なら、キュレルの街の学校でもいい気もするんだよね」

 めずらしく、難しい顔をして、チェルニが首を捻った。妹娘の進路は、この一年、カペラ家の大きな関心事なのである。
 マルークとローズは、こっそりと視線を交わして、微笑みを浮かべた。家族への愛情と、向学心との狭間で、少女なりに悩み迷っている娘に、何の憂いもなく望む道を歩ませてやりたい。そう願うマルークは、ローズと手を携えて、こっそりと準備を進めていた。

 食事を終えたマルークに、目で合図を送ってきたローズは、妹娘の気持ちをらすように、明るくいった。

「さあ、そろそろ日付が変わるわ。二人とも、暖かい上着を着ていらっしゃい。お庭に出ても、風邪を引かないようにね」

 ローズの言葉を聞いて、二人は、いそいそと部屋に戻って行った。毎年の恒例行事を、〈野ばら亭〉の姉妹も、楽しみにしているのである。

 この世界で唯一、国民のほとんどが神霊術を使うルーラ王国では、大晦日の夜、特別な光景が繰り広げられる。旧年の礼を述べ、新年を祝う言葉を、神霊術によってお互いに届け合う、〈祝祭夜〉である。
 〈風屋〉や〈手紙屋〉の看板を掲げる人々にとっては、大晦日から新年にかけてのひとときが、一年で最も忙しい。魔力を補う対価を、大量に用意して、神霊の助力を願う様子は、ルーラ王国の冬の風物詩でもあった。

 日付が変わる少し前の時刻から、ルーラ王国の人々は、次々と灯りを消していく。そして、手元を照らす小さな光だけを手に、冬の夜空を見渡せる場所へ、思い思いに足を進める。新年を告げる七つの鐘が、王国中に鳴り始めると、人々は夜の闇の中で、じっとその瞬間を待つのだった。

 通りを隔てた〈野ばら亭〉でも、客も料理人も従業員も、そろってベランダやテラスに出て、白い息を吐いている。今夜ばかりは、王国中の人々が、同じように夜空を見上げているだろう。

 マルークたちは、ローズが丹精して整えている庭に出て、テラスに腰かけた。季節の折々に、美しい花を咲かせる庭では、冬咲きの雛菊ひなぎくやパンジー、紅白の椿といった花々が、夜の闇の中で、ほんのりと浮かび上がっている。
 暖かい上着を着込み、ストールを巻き付けた娘たちは、仲良く寄り添って新年の瞬間を待ち、ローズは柔らかな身体を預けて、マルークの肩に頬を寄せた。

 マルークは、そっと娘たちの小さな顔を見詰めた。姉娘のアリアナは、口紅ひとつ使わない素顔でありながら、ろうたけて美しい。可憐に整った目鼻立ちもさることながら、内側から光を発するような白い肌も、潤んだ瞳のきらめきも、世にも優美な姿形も、誰一人として比べる者のいない、まさに絶世の美貌だった。
 めずらしい蜃気楼しんきろうの神霊の力で、入念に偽装を施していなかったら、アリアナが穏やかに暮らしていくことなど、不可能だったに違いない。マルークは、もう何度目かもわからない感謝を、今夜も蜃気楼の神霊に捧げた。

 ローズの話によれば、アリアナには、もう好きな男がいるらしい。それを聞いた夜、マルークは、意識を失うまで酒を飲んだ。アリアナの好意を無碍むげにする男など、この世に存在するとは思えないのだから、然るべきときが来たら、娘は伴侶を得るだろう。
 〈豪腕〉と名高い経営者であり、人を見ることに長けたローズが、相手の男には太鼓判を押していた。そうであるならば、マルークも、覚悟を決めるしかない。一日でも長く、手元にいてほしいと願いつつ、マルークは妹娘へと視線を動かした。

 アリアナと腕を組み、大きな瞳で夜空を見上げているチェルニは、不思議な娘だった。偽装を解いたアリアナには及ばないまでも、王都でも稀な美少女であり、町立学校では開校以来の秀才と呼ばれている。三十を超える印を授けられた、神霊術の能力においては、天才と呼んでもいいかもしれない。
 しかし、チェルニの真価は、そうしたわかりやすい美点とは、別のところにあるのだと、マルークは理解していた。聡明で大人びた思考をする反面、無邪気で善良な娘は、恐ろしい程に〈この世ならぬ神聖なもの〉を惹きつけるのである。
 チェルニが生まれて以来、カペラ家に起こった数々の不思議を思い起こし、マルークはひっそりと溜息をついた。

 この先のチェルニの人生が、平凡なものになるとは、マルークには到底思えなかったが、一つだけ、父親の心を慰める予感もあった。賢すぎるからなのか、年頃の娘らしい情緒に著しく欠けるチェルニは、そうそう異性に関心を持ったりはしないだろう。

 ローズは予々かねがね、娘たちの将来を予測していた。姉娘のアリアナは、適切な時期に結婚し、妹娘のチェルニは、大変な晩婚になるか、一生独身のままかもしれない、と。万に一つの確率で、幼いうちに相応しい相手に出会わない限り、チェルニのような娘は、ずっと親元にいるものらしい。
 マルークにとって、ローズの見立ては、大きな心の支えである。何年でも何十年でも、家族と共に〈祝祭夜〉を過ごしたいと、マルークは思っていた。

 やがて、厳かな鐘の音が響き始めた。一つ、二つ、三つ。人々は、鐘の音に合わせて、過ぎ去ろうとする一年に感謝を捧げ、新しく訪れる一年に思いを馳せる。七つの鐘が鳴り終わると、いよいよ新年なのである。

「あ、始まったよ! 見て見て、綺麗!」

 鐘の音の終わりと共に、チェルニの甲高い少女の声がした。夜空を見上げると、数え切れない光が、長く尾を引きながら流れていく。
 風の神霊術は淡い水色の光球、手紙の神霊術は鮮やかな赤い光球、文字の神霊術は柔らかな緑の光球。そして、普段は黒い光球を顕現させる音の神霊術は、この夜ばかりは、明るい白の光球となって、一際ひときわ輝かしく駆け抜けていた。
 冷たく澄み切った空気の中、何百万、何千万もの光が、夜空を縦横無尽に行き交う光景は、言葉を失う程に美しい。ルーラ王国の〈祝祭夜〉は、こうして今年も、尊い神霊の恩寵おんちょうに満たされていくのである。

 娘たちの〈新年おめでとう!〉の声を聞きながら、マルークは、愛しい子らの幸福を祈った。新しいこの年、チェルニが〈宿命〉の出会いを果たすことなど知るはずもなく、マルークは、娘たちの幸せだけを、只々祈り続けたのだった。

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