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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 5-5

05 ハイムリヒ 運命は囁く|5 激怒

 アリスタリスの正妃を選定する為に、動きを早めようと決意したエリザベタは、不意に視線を流した。アリスタリスの座る椅子の背後、無言で控えているコルニー伯爵とイリヤを、内心のうかがえない瞳で見据えたのである。コルニー伯爵は、顔を伏せる仕草で王妃の視線をはばかり、イリヤはわずかに身を震わせた。

「殿下への支持と言えば、そなた達は二人して、地方領主の下を回っているのだったわね。殿下から伺っていますよ。直答を許します。どう進んでいるのか、わたくしに状況を説明なさい。簡潔に、正確に、嘘偽りなく」
かしこまりました。王妃陛下」

 唐突な王妃の介入に、コルニー伯爵は内心で舌を打った。権謀術数けんぼうじゅっすうの海に漕ぎ出してもいないアリスタリスと、王城の奥向きを支配する賢妃エリザベタでは、臣下に対する厳しさに雲泥の差が有る。何としても報恩特例法ほうおんとくれいほう撤廃てっぱいを進めたいコルニー伯爵は、間の悪さを呪いたい程の気持ちになったが、王妃の命令を拒否する術など有る筈がない。一礼した後、コルニー伯爵は地方領主との交渉に就いて語り、エリザベタは途中から白いレースの扇を広げて口元を隠したまま、じっと耳を傾けたのだった。

わたくしとイリヤ・アシモフ連隊長が面談致しました、地方貴族家の当主達は、概ねそうした返答でございました。更に、態度を保留しておりました辺境伯爵家の内の一家からも、既にアリスタリス殿下の支持を約する書状が届いております。方面騎士団の維持費の見直しと共に、報恩特例法の撤廃を実現するとの御誓約をたまわりましたら、地方領主達は一丸となって、アリスタリス王子殿下の御麾下きかに馳せ参じることでございましょう」

 コルニー伯爵が長い説明を終え、居間に重苦しい沈黙が広がっても、エリザベタは口を開かなかった。広げたままの扇を閉じようともせず、ただ、冷たい瞳でコルニー伯爵を凝視している。アリスタリスもコルニー伯爵も、扇で口元を隠したままで居ることが、率直な物言いを良しとしない貴婦人特有の表現方法であり、王妃の不快の表明だと理解している。エリザベタの放つ威圧感に戸惑いながら、アリスタリスがたずねた。

「母上、偉大なるロジオン王国の王妃陛下。コルニー伯爵の説明の中に、何か母上に御叱りを受けなければならない内容が有ったのでしょうか。どうか御教え下さい」

 扇の奥で細く息を吐いたエリザベタは、もうコルニー伯爵を一顧いっこだにしようとせず、アリスタリスを見詰めた。先程まで甘くとろけていた瞳は、激しい怒りに燃え上がり、溺愛できあいするアリスタリスを責める色を浮かべている。音を立てて扇を閉じ、エリザベタは言った。

「今回の殿下は、少し短慮でしたわね。マリベルの陰謀が発覚するまで、近衛このえの不始末によって殿下の御立場が悪くなっていたのですから、無理のない所も有りますけれど。地方領主を味方に付けるという考えは、悪くはありません。方面騎士団の維持費についても、る程度の譲歩は仕方ないでしょう。余り地方領主の不満を放置するのも、得策ではありませんからね。但し、報恩特例法ほうおんとくれいほう撤廃てっぱいなどは論外ですよ」

 エリザベタの厳しい言葉は、イリヤを怯ませ、コルニー伯爵を失望させ、アリスタリスを混乱させるものだった。アリスタリスの立場を尊重するエリザベタは、常に王子に敬意を払った物言いをする。そのエリザベタに、はっきりと叱責しっせきされたアリスタリスは、思わず顔を強張こわばらせた。

「申し訳ございません、母上。それ程に成りませんか」
「ロジオン王国の法、それも百年以上前に、我が曽祖父そうそふ君たるラーザリ二世陛下が定められた法を、地方領主ごときの求めで易々と撤廃するなど、王家の威信にも関わりましょう。増してや、他国には類を見ない報恩特例法は、王家の力の源泉とも言える法律ですのに。貴方から地方貴族には、どのような形で約したのですか、殿下」
「コルニー伯爵からの提案で、私を支持する旨の誓詞を出してきた者に、私からの誓詞を返す手筈てはずになっております。実際には、未だ一枚も返しておりません。召喚魔術の失敗の余波で、何とはなしに慌ただしく過ごしておりましたので」
「それはよろしゅうございました。アイラト殿下の謹慎きんしんで潮目は変わったのですから、短慮な約束をする必要はありません。何よりも、王国法の撤廃を陛下の御許可もなく誓約するなど、反逆罪に問われても申し開きが出来ませんよ」

 エリザベタの発した言葉の衝撃に、アリスタリスは一瞬にして面を青褪あおざめさせた。ロジオン王国の国法では、最も重い罪は国王を害する大逆罪であり、一切の理由を問わず一族諸共に死罪となる。次に重いのは、エリザベタの言う反逆罪であり、王族を害したり、国家の体制を揺るがせようと目論もくろんだ者は、ほとんどの場合死罪を免れないのである。

 アリスタリスが絶句する横で、コルニー伯爵もイリヤも其々に顔を引き攣らせた。エリザベタの指摘は、正しくロジオン王国の法を理解する者の言葉であり、王権を侵害する行為だと断じられても、理屈として反論するのは難しかった。だからこそ、コルニー伯爵はエリザベタの足下に身を投げ出し、跪いて必死に懇願した。

「誠に申し訳ございません、王妃陛下。わたくしの短慮でございました。アリスタリス王子殿下の御身を危うくする意図など、欠片も有りは致しません。私くしは、ただ、ロジオン王国の民の窮状きゅうじょうを御知り頂きたかっただけでございます。王妃陛下に御願い申し上げます。何卒、私くしの話を御聞き下さいませ。地方領の領民達は、方面騎士団の暴虐ぼうぎゃくによって、塗炭とたんの苦しみに喘いでおります。ここで、アリスタリス殿下が御慈悲じひを御示し下されば、地方領の領民は、ことごとく殿下への忠誠を誓いましょう。何卒、報恩特例法ほうおんとくれいほう撤廃てっぱいを御検討下さいませ。御慈悲でございます、王妃陛下」

 コルニー伯爵は、額を床に擦り付けながら訴えた。二度、三度、四度、それは秀でた額が赤く染まる程の必死さだった。しかし、エリザベタは微塵みじんも心を動かされた様子を見せず、冷徹な瞳でコルニー伯爵を見据えたまま、こう言い放った。

「黙れ、不忠者ふちゅうもの。偉大なるラーザリ二世陛下が御決めになられた国法を、おまえごときが批判するなど、許されると思うのか。おまえの浅慮で、危うくアリスタリスが反逆罪に問われる所であったこと、どう詫びる心算つもりか。おまえの首一つで償えるとは、よもや思うまいな」

 エリザベタの言葉は、重大な罪の告発であり、躊躇ちゅうちょのない断罪でもあった。ロジオン王国の王妃から、不忠者と決め付けられたコルニー伯爵は、為す術もなくうずくまった。アリスタリスの背後に控えたままのイリヤは、蒼白になって成り行きを見詰めているだけで、口を挟めるはずがない。残ったアリスタリスは、唇を戦慄わななかせながら言った。

「母上、私くしが愚かでございました。簡単に臣下の話に乗らず、母上の御指示を仰ぐべきでした。もう二度と致しませんので、どうか御許し下さいませ。コルニー伯爵も、近衛このえの失策を取り戻したいばかりに先走ったのでございましょう。」

 すがるように言い募るアリスタリスに向かって、唇だけを微笑みの形にしたエリザベタは、鋭い言葉の剣によって、更に容赦なくコルニー伯爵を刺し貫いた。

「そうではありませんよ、殿下。この者は、元々偉大なる国法に不満を持っていたのです。だからこそ、近衛の失策を好機として殿下をそそのかしたのでしょう。愚かな不忠者であり、近衛騎士団にとっては獅子身中しししんちゅうむしです。このような者を、そなたの側に置いてはなりません。この者を捨て置けば、いつか取り返しの付かない裏切りを仕出かすでしょう」

 エリザベタの決定的な宣告に、アリスタリスはコルニー伯爵を庇うことを止めた。実際には、報恩特例法の撤廃を約束したからと言って、王子たるアリスタリスが罪に問われはしないだろうが、王妃の逆鱗に触れたコルニー伯爵の未来は、既に固く閉ざされたのである。意識して華やかな微笑みを浮かべたアリスタリスは、エリザベタに向かって大きく頷く。それだけで、アリスタリスの選択を知ったエリザベタは、満足気に言った。

「さあ、下らない話は止めに致しましょう。この部屋は、どうも空気が悪いのではないかしら。わたくしの居間まで送って下さいな、殿下。先程の話の続きは、余計な者の居ない所で致しましょう」
かしこまりました、母上。御供させて頂きます」

 先に立ち上がったアリスタリスは、うやうやしく母に手を差し伸べ、エリザベタは微笑みながら王子に寄り添う。そのまま女官や侍従じじゅう、護衛騎士達を引き連れて部屋を出ていくときにも、エリザベタもアリスタリスも、コルニー伯爵には一瞥いちべつも呉れなかった。残されたイリヤは、片膝を突いて二人を見送った後、慌ててコルニー伯爵の下へと駆け寄った。コルニー伯爵は平伏の姿勢のまま、血が出る程に唇を噛み締めていた。

「団長閣下、大丈夫でございますか」
「イリヤ、私はもう団長ではないよ。王妃陛下に不忠者ふちゅうものとまで言われたのだ。そんな私が、近衛このえ騎士団を率いるなど、出来るはずがないだろう」
「王妃陛下の御怒りは激しゅうございましたけれど、きっとアリスタリス殿下が取り成して下さいます。閣下は、アリスタリス殿下の御為に良かれと思って、懸命に動かれただけではありませんか。時間を置けば、王妃陛下も御許し下さるに相違ございません。どうか短気を起こさず、御辛抱下さいませ。御願いでございます」

 コルニー伯爵は何も答えず、ゆっくりと頭を上げた。痛まし気な眼差まなざしで見守っていたイリヤは、コルニー伯爵の表情を見た瞬間、胸を突かれたように目を見張った。王妃の断罪に絶望し、打ちひしがれている筈のコルニー伯爵は、何故か瞳に明るい色をたたえ、身体にも覇気がみなぎり始めていたのである。

「有難う、イリヤ。心配には及ばない。私はようやく踏ん切りが付いたよ。王妃陛下のおおせは正しい。私はどうやら、アリスタリス殿下の味方の振りをして、報恩特例法ほうおんとくれいほうを潰してやりたかっただけらしい。流石さすがに王妃の器と呼ばれる方は、慧眼けいがんでいらっしゃるな」
「何故、そのように明るい御顔をなさっておられるのですか。踏ん切りとは何のことでございますか。一体、何を考えておられるのです、団長閣下」
「今は未だ何も。ただ、自分が言い出した話の始末は付けなければならない。方面騎士団の維持費の軽減は、王妃陛下も御認めになりそうだから、そのままにしておいても特に問題はないだろう。私は、報恩特例法の撤廃てっぱいを求めた地方領主の元におもむき、この首を差し出して謝罪してくるよ。今の私が為すべきは、それだけだ」

 コルニー伯爵は、そう言って微笑んだ。不思議な程に柔らかく、透き通った笑みだった。イリヤはもう何も言えず、コルニー伯爵が静かにリーリヤ宮を去っていく後ろ姿を、黙って見送るしかなかったのだった。