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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 5-4

05 ハイムリヒ 運命は囁く|4 訪れし日に

 その日、リーリヤ宮に居るアリスタリスの下を密かに訪れたのは、コルニー伯爵とイリヤだった。元第四側妃の不貞ふていに端を発した騒動から約一月、近衛このえ騎士団に対する厳しい非難の眼差まなざしも、ようやく薄れ始めた頃である。

 鍛え上げた長身に、近衛騎士団の純白の団服をまとったイリヤは、既に元第四側妃の不貞に関する謹慎きんしんが明け、近衛騎士団の連隊長職に復帰している。一方のコルニー伯爵は、近衛騎士団長の地位を返上する覚悟を固めてはいるものの、未だに王城からの引き留めが続いていた。アリスタリスを前にしたコルニー伯爵は、自身の不確定な未来には一言も触れず、仕えるべき王子の無事を喜んだ。

「殿下の御健勝な御様子を拝見し、心から安堵致しました。召喚魔術が行使された日に起こった、得可うべからざる異変とゲーナ師の悲報を聞き、殿下の御身は大事ないのか、ずっと案じておりました。御側で御守り出来ず、誠に申し訳ございませんでした」
 深々と頭を下げるコルニー伯爵の傍で、イリヤは苦し気に眉をひそめた。幼い頃から王子に剣を教え、アリスタリスこそが未来の王に相応ふさわしいと信じるイリヤである。護衛騎士の大任を果たせなかった悔しさに、薄っすらと涙さえ溜めながら言った。

「左様でございます。魔術師団長の訃報を聞いたときは、生きた心地が致しませんでした。あのゲーナ師が亡くなられる程の異常事態に、殿下が御無事で在らせられるのかと不安でたまらず、護衛を務められなかった我が身を呪った程でございます。近衛からの報告で、御怪我などはなかったと聞いておりましたが、それだけで御無事とは言い切れませんので」

 裏表なく案じていただろう臣下の言葉に、アリスタリスは鷹揚おうように頷いたが、少女めいた美貌びぼうには恐怖の残滓ざんしが浮かび上がっていた。大ロジオンの王城の奥深く、掌中しょうちゅうの珠のごとく大切に護られてきたアリスタリスにとって、あれ程の惨劇を目撃した経験など有るはずがなく、四散して果てたゲーナの鮮烈な血の色が、今も脳裏に焼き付いていたのである。

「あの夜の出来事は確かに衝撃だった。儀式の間の魔術障壁が強固であり、私達には差し障りはなかったが、記憶は消えてはくれないからな。父上が御臨席になられたことを思えば、本当に危ない所だった。叡智えいちの塔の責任を問うにも、肝心のゲーナが死亡した以上、矛先は鈍るだろう。いずれにしろ、彼のゲーナ・テルミンですら耐えられなかった召喚魔術など、今後は棚上げになるのではないかな」 
「御意にございます、殿下。陛下や殿下の尊き御身を危険に晒す魔術など、決して許されるべきではございません。亡くなられた魔術師団長はともかく、召喚魔術を主導なさった方々は、責任を御取りにならないのでございましょうか。賢王で在らせられる陛下や、王家に忠節を尽くしておられるトリフォン伯爵閣下が、このまま見過ごしになさる筈がなく、何れは御沙汰さたが下るものと存じます」

 アリスタリスとイリヤが話し合う傍らで、無言のまま耳を傾けていたコルニー伯爵は、ここで半ば強引に割って入った。不敬ふけいとがめられ兼ねない無作法だが、コルニー伯爵には是が非でも進めなければならない話が有ったのである。

おそれ入ります、殿下。御話中の所、誠に無作法とは存じますが、御指示をたまわりたい問題がございます。御聞き届け頂けませんでしょうか」
「確かに無作法だな、コルニー伯。しかし、伯の日頃の働きに免じて、大目に見てやろう。何を聞きたいのか話してみれば良い」
「有難き幸せでございます、殿下。わたくしが御たずね致したい問題とは、召喚魔術の儀式の前に、殿下から地方領主達へ、御約束を賜った件に就いてでございます。予定通り進めさせて頂いても、よろしいのでございましょうか」
「約束というと、方面騎士団の維持費の件だったな、コルニー伯。私の王太子位冊立を支持する見返りに、地方領主達から方面騎士団へ、毎年拠出している維持費の額を見直してほしいという話だった。勿論もちろん、覚えている」
「左様でございます。方面騎士団に拠出する維持費の額と、報恩特例法ほうおんとくれいほう撤廃てっぱいに就いての御約束でございます、殿下」

 曖昧な表情で頷くアリスタリスから、確実な言質を引き出そうと、コルニー伯爵は敢えて言葉を重ねた。地方貴族の多くが維持費の減額を望み、領民を苦悩の淵に沈む領民をかえりみなかったとしても、コルニー伯爵にとっての宿願はただ一つ、報恩特例法の撤廃に他ならなかった。

 しかし、思わず前のめりの姿勢を取ったコルニー伯爵が、アリスタリスを見詰めて更に口を開こうとした瞬間、重々しく扉を叩く音が響いた。リーリヤ宮を守る護衛の近衛このえ騎士が、客の訪れを告げたのである。

「御話中に失礼致します、殿下。王妃陛下が直々の御越しにございます」

 リーリヤ宮の高位の女官が、しとやかな声で告げた直ぐ後に、微かな衣擦れの音をさせながら入室したのは、エリク王の正妃エリザベタだった。先触さきぶれの手間さえ省いた性急な振る舞いは、完璧な淑女と名高いエリザベタにしては異例である。アリスタリスは素早く椅子から立ち上がり、母の華奢きゃしゃな手を引いて上座へと誘う。コルニー伯爵とイリヤは、流れるような動作で片膝を突き、深く王妃への礼を取った。

「母上が急に御出ましになるとは、何かございましたか。御顔の色はよろしいですね。御呼び頂ければ、ぐに私が御伺いしましたのに」
「今日はとても気分が良いので、心配して頂かなくても大丈夫ですよ、殿下。貴方に早く御知らせしたいことがあって、勝手に来てしまったの。許して下さいね」

 そう言って微笑むエリザベタは、確かに健やかな様子だった。この日のエリザベタは、淡い藤色に染め上げた薄琥珀と呼ばれる絹地に、レースと真珠を縫い付けたドレス姿である。涼やかに透ける最上の装いをまとい、ほのかに頬を上気させてアリスタリスに微笑み掛けるエリザベタは、七人の子を持つ母には見えない程に麗しかった。

「母上に御目に掛かる以上に大切な用など、このリーリヤ宮にはございませんよ。コルニー伯爵とイリヤ先生には、別室で待ってもらいましょう」
近衛このえ騎士団長と連隊長ね。ならば、このまま同席を許します。そなた達にも無関係ではないのだし、明日には王城で知らぬ者は誰一人いなくなるのだから、少しくらい早く耳にしても構わないでしょう。許します。御立ちなさい」

 コルニー伯爵とイリヤは、王妃の命令する通りに立ち上がり、即座にアリスタリスの背後に控えた。エリザベタは、楽し気な微笑を浮かべたまま、前置きもなく本題に入った。

「先程、わたくしの所へタラスが報告に来ましたのよ、殿下。元第四側妃カテリーナの不貞ふていに関して、マリベルの嫌疑が立証され、本日中に関係者の処罰が発表されるそうです。罪状は反逆罪でも大逆罪でもなく、単なる不敬ふけい罪に留まるのだけれど、王家の恥を晒すわけにはいかない以上、る程度の隠蔽いんぺいは致し方のない所でしょう。不貞をそそのかした二人の実行犯、マリベル専属の侍女と弟の近衛騎士は、即刻処刑されます。マリベルは一旦幽閉ゆうへいされた後、離縁されてクレメンテ公爵家に戻されると決まったのですって。父であるクレメンテ公爵と、マリベルの夫であるアイラト殿下も、其々に謹慎きんしんおおせつかり、陛下の御沙汰さたを待つ形になります」

 エリザベタの知らせに、アリスタリスは少女めいた美貌びぼうを輝かせた。アリスタリスが王太子を目指す上で、エリザベタの生家であるグリンカ公爵家に次ぐ後ろ盾となるのは、他ならぬ近衛このえ騎士団である。その近衛騎士団が、元第四側妃の不貞ふていを許し、愛人や協力者までもが近衛騎士だったという不始末を犯したのは、アリスタリスには手痛い失点だった。

 王妃エリザベタは、近衛騎士団の失地しっちを回復させる為、タラスを通してエリク王に働き掛けた。結果、王太子位に近付こうとしていたアイラトが、最大の後ろ盾であるクレメンテ公爵家共々、アリスタリス以上の打撃を受けたのである。大ロジオンの王になるのだと、固く決意しているアリスタリスには、明らかな朗報に他ならなかった。滑らかな頬を薔薇色に染めて、アリスタリスが吐息混じりに言った。

「では、やはり母上の御推察の通りだったのですね。元第四側妃の不貞は、ドロフェイ宮が火元となって仕組まれたものだった、と。マリベル妃は、何という愚かな真似をしたのでしょう。詳しく教えて下さい、母上」

 溺愛できあいする王子に憧憬どうけい眼差まなざしを向けられたエリザベタは、満足気に頷いてから、タラスから教えられた顛末てんまつを語って聞かせた。アリスタリスが蕩然とうぜんと聞き入る後ろでは、コルニー伯爵とイリヤは衝撃に戦慄した。マリベルの指示を受けた実行犯の一人として、またしても近衛騎士が関わっていたからである。近衛騎士団の団長たる自分に、一言の叱責しっせきもしようとしないエリザベタに、コルニー伯爵は王妃の激しい怒りを感じ取っていた。

 母をく知るアリスタリスも、エリザベタの怒りを察していたが、敢えて口に出そうとはしなかった。マリベルの共犯者が近衛騎士であったことは、近衛騎士団にとってぬぐがたい汚点ではあるが、謀略の主犯がマリベルだと明らかにされた以上、夫たるアイラトの負った傷は、アリスタリスとは比較にならない程に深いだろう。今のアリスタリスにとって意味を持つのは、ただその事実だけだったのである。

「それにしても、言い逃れの出来ない証拠まで残すとは、マリベル妃は随分と迂闊ですね。最大の後ろ盾である筈の正妃に足を掬われるとは、アイラト殿下も御気の毒に。父であるクレメンテ公爵は当然として、アイラト殿下までドロフェイ宮で謹慎きんしんになられるとは。まさかとは思いますが、殿下も陰謀に関わっておられたのでしょうか」
「いいえ。残念ながら、そうではなかったわ。クレメンテ公爵は、知っていながら知らない振りをしていたけれど、アイラト殿下は何も御存知ではなかったから、一時的な謹慎で済んだと聞きました。陛下の無二の忠犬である、あのタラスが言うのですから、ず間違いはないでしょう。マリベルのたくらみに加担しておられたのなら、話は早かったのだけれど。とは言え、己が正妃の謀略に気付かなかったという事実だけでも、その方の器が知れますからね。今回の騒動で、アイラト殿下は大きく評価を落とされたと思いますよ」
「私もそう思います。迂闊な王など大ロジオンには必要ないと、父上なら御考えになるでしょう。それにしても、全ては母上の掌の上ですね。私の女神で在られる母上は、本当に素晴らしいな。感謝致します、母上」

 アリスタリスは、エリザベタの前に片膝を突いて跪くと、その白い手を取って口付けを贈った。エリザベタ淡く頬を染め、愛する王子に優し気な微笑みを返す。そこだけを切り取れば、画家達が好んで描きたがる清らかな母子像のようだった。アリスタリスの手を握り返したエリザベタは、張りの有る声で言った。

「さあ、これで天秤は一気に傾きますよ。わたくしの殿下も十八歳になられ、成人まで残すところ四年なのですから、良い頃合いでしょう。殿下に相応ふさわしい称号を得る為に、本格的に攻勢を掛けていかなくては。殿下の正妃選びも、そろそろ急ぎましょうね」
「私の正妃ですか、母上」
「ええ、そうですよ。殿下の御立場を考えれば、何年も前に婚約が整っていても良かったのです。当時の議会によって、わたくしと陛下の婚約が正式に決定したのは、陛下が十五歳になられてぐでしたもの。勿論もちろん、わたくしの殿下にも、御話は幾つも有るのだけれど」

 大国であるロジオン王国では、王位継承権を持つ王子に自由な婚姻は許されない。愛妾あいしょうを持つことはとがめられず、その身分にも制限は設けられていないが、正式な伴侶である正妃、側妃は就いては、伯爵家以上の貴族家の息女と決められている。更に、必ず議会による選定を経なければならず、この典範に背いた者は、王位継承権を剥奪はくだつされるのである。
 大ロジオンの正嫡せいちゃくの王子として、生まれながらに次の王と目されてきたアリスタリスは、自身の婚姻に夢など抱いてはいない。アリスタリスが望むのは、父王が座る至尊の玉座であり、妃は目的を達する為の伴走者に過ぎなかった。大国の王子だけが持つ傲慢ごうまんさで、アリスタリスは言った。

「正妃の選定によっては、王子の運命も大きく変わってしまう可能性が有るのだと、学んだばかりですからね。私の望む道の妨げにならず、私を支える力の一端と成れる家の姫であれば、我儘わがままは申しませんよ。私の母上は、もう候補を絞って下さっているのでしょうし」
「分かっていますよ、殿下。王子の正妃ははかりごとの要ですもの。家柄や能力だけでなく、そなたの地位を後押し出来るだけの才覚の有る姫でなくては成りません。候補を絞ってはあるけれど、どの娘も決め手に欠けているので、時間を掛け過ぎてしまったわ。殿下に釣り合う年頃の姫に、多くを求めても無理なのでしょうね」

「私の正妃と成る姫に足らないものは、母上が補ってくださると信じています。正妃としても女性としても、私は母上に似た方が良いのですが、崇拝すうはいする女神のような女性が、二人と居るとは思われませんからね」

 そう言って、アリスタリスは甘く微笑んだ。明るい夏空の色をした王子の瞳を見詰めながら、大ロジオンの王妃エリザベタは、一人息子を溺愛できあいする母親だけが浮かべるのだろう、危うい熱を孕んだ表情を輝かせた。

「わたくしに御任せになって、殿下。わたくしの大切な殿下への支持を集める上で、力と成る家の娘を探し出しますからね。殿下の大望を叶えるのは、このわたくし。そなたのただ一人の母にして、王妃の尊称を戴くエリザベタ・ロジオンの使命なのですから」