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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 2-10

02 カルカンド 状況は加速する|10 絶望 

 
 タラスとスラーヴァ伯爵が、寝室に続くカテリーナの居間に足を踏み入れたとき、正式な側妃に許された色合いの黄白おうはくが、朝日を受けて柔らかに光る室内には、屈辱に燃える二人の王子と、身を寄せ合って震えている三人の王女が、一塊になって監視されていた。一人では着替えの置いてある場所さえ分からない彼らは、寝衣の上に薄い上着を羽織っただけの頼りない姿を晒していた。
 平然と入室してきたタラスを目にした瞬間、第四側妃の子の中で最も年長の王子であり、王太子候補の一角と目されていたアドリアンが、激しい怒声を浴びせ掛けた。

「タラス、これはどういうことだ。これ程の無礼、申し開きがあるなら申してみよ。如何いか家令かれいとは言え、父上は決しておまえを許さぬぞ。まさか、ロジオン王国の妃であり、陛下の妻であられる母上にも、無礼な真似をしているのではないだろうな。答えよ、タラス」

 エリク王の王子達の中では最も気性が激しく、目尻の上がった碧瞳が高貴な猫を思わせる青年は、王族らしく美麗なおもてを激怒に歪め、裂帛れっぱくの気合を込めてタラスに迫った。エリク王のみに絶対の忠誠を捧げ、王子王女が相手であっても、求められる儀礼以上にはへりくだらないタラスであっても、正当な王子であるアドリアンの怒りには、即座に膝を折らなければならないはずだった。
 ところが、眼差まなざしを凍らせたタラスは、アドリアンの叱責になど、一欠片も心を動かされることのないまま、酷薄にわらいながら言った。

「さて、そなたの父とは誰であろう」
「気でも狂ったか、タラス。我らの父上とは、偉大なるロジオン王国の至尊の主、エリク国王陛下に決まっておろう」
みだりに尊き御名を口にするな、愚か者が。そなたらは、既に王子でもなければ王女でもない。他ならぬ陛下が、そう御決めになられたのだ。そうでなければ、ローザ宮の奥深く、抜刀した王国騎士団が踏み込める筈がないではないか」

 タラスの言葉がもたらした衝撃に、アドリアンは絶句して立ち竦んだ。余りにも突然の成り行きに、混乱の極みに達したアドリアンも、タラスの言い分を否定は出来なかった。王国騎士団が側妃の宮殿に大挙して押し入り、剣を抜いて王子王女を脅し、自由を奪って拘束するなど、本来なら大逆罪と言われても申し開きの出来ない程の蛮行ばんこうである。エリク王の家令であるタラスが、それを許している時点で、エリク王の命であることは疑いようがなかった。
 蒼白になって絶句したアドリアンの代わりに、口を開いたのはロージナだった。数日前、子猫を連れてボーフ宮を訪問し、父王ちちおう謁見えっけんしたばかりのロージナは、エリク王の面影を心の拠り所として、涙ながらにタラスを詰った。

「嘘よ。お前は嘘をついているのよ。この無礼者。御父様がわたくし達を御捨てになる筈がないわ。お前なんて、御父様と御母様に申し上げて首を刎ねてやるわ」
「私の言葉が嘘だと思うなら、そなたらの母に訳を聞いてみれば良い」

 瞳に暗い愉悦を宿したタラスが、幼い少女に冷たく言うと、傍に立っていたスラーヴァ伯爵が、すかさず騎士達に合図を送った。無言で控えていた騎士達は、王国騎士団長の下知げちを受け、即座に隣室に踏み込んだ。王の妃の寝室に、男達が乱入するという不敬に、王子王女らが目を見開いている中、騎士達は数人がかりで重い何かを引き摺り出してきた。

「まさか、母上」

 そこに現れたのは、敷布に包まれて縛り上げられた、カテリーナと愛人の男だった。アドリアンは驚愕きょうがくに息を飲み、王女達は余りにも無残な母の姿に細い悲鳴を上げた。しかし、タラスはその悲嘆を気にも留めず、言葉も選ばず、淡々と子供達に宣告した。

「この女は、おそれ多くも陛下から側妃の地位をたまわりながら、半年前から己の護衛騎士を愛人とし、恥知らずにも陛下から賜ったローザ宮で関係を持っていたのだ。昨夜も男をねやに引き入れていた故、王家の夜が現場にて捕縛した」
「戯言は許さないぞ、タラス。そんな馬鹿な。誇り高い母上が、そのような大罪を犯すはずがないではないか。これは何かの陰謀に違いない。妃の地位を危うくさせようと目論む輩が、母上を陥れたに決まっているだろう」
「そなたが如何いかに思おうと勝手ながら、証拠の記録用魔術機器もある故、言い逃れは出来ない。何より、そなたらの母は罪を認めておる。今朝、その女と男の額に刻んだのは、真実しか告げられなくなる隷属れいぞくの魔術紋なのだ。自害も虚偽も許さぬ印であることは、王子として魔術を学んできたそなたらにも分かるであろう」

 タラスの言葉と共に、カテリーナと男の額が淡く発光した。そこに描かれた魔術紋を目にして、反論する術をなくしたアドリアンは、今にも崩れ落ちそうな両足に力を入れ、喘ぐような声で必死に母に問い掛けた。

「母上、まさか、まさか、タラスの言うことは真実なのですか。嘘だと仰って下さい。母上が、大ロジオンの正式な妃である母上が、父上を裏切るなんて、私には信じられない。信じたくない。これは悪質な陰謀なのだと、母上は潔白なのだと、どうか仰って下さい」

 悲愴な顔で髪を振り乱していたカテリーナは、溺愛する息子の問いに、一言も話すまいと唇を噛んだものの、額に刻まれた魔術紋は沈黙をも許さない。恥辱と後悔に塗れながら、カテリーナは、決して言わない筈の真実を口にした。

「許して、アドリアン。誰にも分からないと思ったの。分からなければ、そんな事実はないも同じだもの。王家の夜に調べられているなんて思わなかったの。彼のことは気に入っていたの。ねやも素晴らしかった。陛下よりもずっと。彼は優しかったの。陛下は三年も御渡りにならず、会ってさえも下さらない。わたくしは、いまだ若く美しいのに。彼に抱かれている間は、とても満ち足りていた。王宮ではくある話だというし、黙っていれば平気だと思ったの。ごめんなさい、アドリアン。わたくしは」
「黙れ、女」

 水のごとしたたり落ちる第四側妃の告白を、厳しい声でさえぎったのは、それまで沈黙を貫いていたスラーヴァ伯爵だった。スラーヴァ伯爵は、大ロジオンの王国騎士団長に相応ふさわしい風格を漂わせた相貌そうぼうに、侮蔑の怒りの色を浮かべ、カテリーナに言った。

「そのようなけがらわしい言葉は聞くに耐えぬ。我らが陛下を愚弄した罪は、我が王国騎士団が必ずや千倍にして償わさせてやろう」

 スラーヴァ伯爵の発する威圧の凄まじさに、カテリーナは喉を引き攣らせて黙り込み、アドリアンでさえ口をつぐんだ。満足気に頷いたタラスは、飴色の木目に黄白おうはく象嵌ぞうがんほどこした柱時計に目を向け、さり気なく時刻を確認してから、半ば放心状態の王子王女らに告げた。

「その女は、夜半に情事の現場を視認された瞬間から、ロジオン王国第四側妃としての地位と、地位に付随する一切の権利を剥奪はくだつされている。その上で、一緒に縛られている愛人の近衛このえ騎士に下げ渡された。元第四側妃カテリーナは、つい先程、王城での執務が開始されると同時に、その男の正式な妻としての届出が裁可されたのだ」

 タラスの言葉を聞いた途端、元第四側妃となったカテリーナは、悲痛な叫びを上げながら、狂ったように身をよじった。

「嫌よ、嫌よ。わたくしはロジオン王国の妃なのよ。近衛騎士風情の妻になるなど、あり得ない。アドリアンが王になれば、わたくしは国母として全ての女が羨む地位に就くのよ。他の男と寝たくらいで、王族でなくなるなんて酷過ぎるわ」

 恐怖と恥辱の中で、ここまで為す術もなく無言を貫いていた愛人の近衛騎士も、若々しく端正な顔を歪めて叫んだ。

巫山戯ふざけるな。俺だって、こんな年増の淫売いんばいを妻にするなんて真っ平だ。側妃だというから、優しくしてやっただけだ。俺には婚約者だっているんだ。助けてくれ」

 スラーヴァ伯爵は、足を踏み締めて男に近付くと、物も言わず蹴り上げた。剣の名手と呼ばれるまでに鍛え上げられた、スラーヴァ伯爵の容赦のない攻撃に、重ねて縛り上げられていた元第四側妃も共にね飛ばされ、痛みにうめいた。そんな醜悪な情景を前にして、もう誰も何も言わなくなった部屋で、タラスは淡々と話を続ける。

「元第四側妃が何と言おうと、既に処理の終わった話である。王子王女であった者達も、母親の下賜に伴って王籍を剥奪され、その男の養子として男爵家の籍に入った。売女ばいたを陛下の後宮に送った元第四側妃の父親は、王国を侮辱した罪で侯爵から男爵へと降爵され、王都の屋敷と領地も没収される。これらの届出に就いても、ヴィリア大宮殿の執務開始と同時に正式に裁可された故、何が有っても覆りはしない」

 既に立っているだけの気力を失い、きらびやかな黄白おうはくの床に座り込んだアドリアンは、掠れた声でタラスに聞いた。

「国王の妃が不貞ふていを働いた。ならば、何故処刑しない。妃の不貞は、子諸共大逆罪と決まっているはずではないか」
「陛下は、我が子であった者達の命をあわれまれたのだ。不貞を助けた使用人共は、一人残らず処刑する。しかし、そなたらの命は取らぬ。そなたらを生かすために、女と男の命も取らぬ。陛下がそう決められたのだ」
「いっそのこと、殺してくれた方が慈悲ではないのか」
「そう思うなら、そなたの好きにすれば良い。但し、これ以上王城をけがすことは許さぬ。男の家に着いてから、好きに死ねば良い」

 唇を震わせたアドリアンは、タラスの無慈悲な宣告に、遂に言葉を失った。悲痛な沈黙に沈んだ兄の傍で、ずっと哀れな程に震えながら、真っ赤な目をして泣いていたロージナは、最後の望みを懸けてタラスに縋った。

「御願い、一度で良いから御父様に会わせて。御会いして一生懸命に御願いしたら、御父様はきっと許して下さると思うの。御母様のことは怒っていらしても、わたくし達は宮殿に置いて下さるに違いないわ」

 タラスは、ぐには返事をしなかった。ただ、張り付けたかに見える無表情のまま、ロージナの元に近寄って行くと、少女のか細い顎に白手袋に包まれた指を添え、じっと瞳の奥を覗き込みながら、したたるばかりの憤怒を込めて囁いた。

「そなたの父は、そこに転がっている男だ。今度、陛下のことを父と呼んだら、このタラスの誇りに懸けて、そなたをゆっくりと斬り刻んでやろう」

 生まれて初めて向けられた激烈な殺意に、ロージナは声もなく倒れ伏した。タラスは、白手袋を取って無造作に投げ捨てると、ロージナへの関心を失ったとばかりに離れていった。
 スラーヴァ伯爵もまた、ロージナを一顧いっこだにせず、王子王女だった者達に告げた。

「さあ、そなたらに残された時間は一ミルしかないと思え。その間に、三枚の衣服を選び出すが良い。そなたらがローザ宮から持ち出すことを許されるのは、只それだけだ。王子王女として王国から与えられていた物は、王籍と共に全て剥奪はくだつされた。宝石一つでも盗もうとすれば、盗賊として首を晒すことになろう」

 その命令を最後に、スラーヴァ伯爵もタラスも、彼らには視線さえ向けなかった。大王国の王子王女として、この世の栄華を極めていた子供達は、たった一夜にして訪れた運命の激変に、声もなくうずくまるしかなかったのである。