フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 2-6
02 カルカンド 状況は加速する|6 相克
ロジオン王国の王都ヴァジムは、王城が聳え立つ丘陵を囲むように広がる、美しくも洗練された都である。王城に最も近い外周には、五家の公爵家を始めとする高位貴族の大邸宅が豪奢を競い、更にその外周には、地方領主達の王都屋敷が立ち並ぶ。ロジオン王国に存在する八百余の貴族家の内、半数程の貴族達は、この貴族街に屋敷を構えているのである。
貴族街の外周の一角、高位貴族と地方領主の端境とも言える区画に、一際目立つ屋敷が有った。侯爵家の屋敷にも匹敵する敷地の広さと、高々と張り巡らされた石造りの外塀、そして何より、庭園を整える気配さえもなく、半ば自然のままに放置されたかに見える木々の深さが、却って視線を吸い寄せる。道行く人々は、異質な屋敷の設えに首を傾げ、そこがロジオン王国の誇る魔術師団長にして、千年に一人の天才と謳われる大魔術師、彼のゲーナ・テルミンの住まいだと知って、それぞれに得心していくのだった。
ゲーナの屋敷は、広大な敷地に比べれば、比較的小さなものに見えた。塀と同じ石造りの外壁には、所々緑の蔦が絡まり、山間の古城を思わせる風情が漂う。魔術師団の限られた魔術師以外、滅多に訪れる者もなく、使用人でさえ最低限の古参しか居ない屋敷に、ゲーナはアントーシャと暮らしていた。
賢者の間での会議を終えた日、少し早目に寝室に入ったゲーナが、浅い眠りに就いていた夜半、屋敷の中で高度な魔術を発動する気配が有った。唐突に出現した巨大な魔力に、一瞬で覚醒したゲーナは、身動きも出来ないまま暗闇で目を凝らす。ゲーナが求めたのは、目に見える何かではなく、魔術の術式の残像であり、いつの間にか寝室を満たしている魔力の痕跡でもあった。発動された魔術が、自分を傷付ける可能性などないことを、ゲーナは既に知っていたのだった。
黄金にも勝る煌めきで、柔らかな金色の粒子を漂わせる魔力の持ち主に、ゲーナは優しく話し掛けた。
「来たのか、アントン。私の身動きを封じて、どうしようというのだ。相変わらずの悪戯坊主め。夜中に甘えて、私の寝室に潜り込んでくるのは、八つの年に止めたのではなかったのかね。まあ、おまえが何を考えているのか、分からぬわけではないが」
ゲーナの密やかな含み笑いに誘われるように、闇の中から姿を見せたアントーシャは、二十歳を超えた青年にしては幼く、一目で思い詰めているのだと分かる程に強張った表情で、父と慕う相手に宣言した。
「ぼくは今から、大叔父上の信頼を裏切り、貴方の誇りを傷付け、自分自身の信念をも曲げる心算なのです。何度も何度も御願いして、その度に断られてきましたけれど、今日こそは後に引けません。大叔父上の胸に刻まれた、その忌々しい隷属の魔術紋を、ぼくが消させて頂きます。必ず、大叔父上を自由にして御覧に入れますので、どうか御許し下さい」
「それは、成らぬと言った筈だ。おまえの気持ちは嬉しい。おまえなら、この胸の魔術紋も消せるだろう。しかし、駄目なのだ。私の魔術紋は、ヤキム・パーヴェルとの命を懸けた誓いでもあると、今日も言った所だろうに」
「ええ。だからこそ、魔術師としての誇りを重んじる大叔父上は、ぼくに召喚魔術を破らせて、その反動で自ら死のうとしておられるのです。分かっていますとも。けれども、ぼくにだって、感情というものが有るのです。たった一人の家族、たった一人の父上と慕う方を、みすみす死なせることなど出来ません。ぼくには、貴方を死なせずに、召喚魔術を破るだけの力があるというのに」
悲しい目で己を見詰め、更に口を開こうとするゲーナに構わず、アントーシャは身の内の魔力を練り上げる。如何に言葉を重ねようと、ゲーナの心を動かすには足らず、既に説得など無意味であると、アントーシャは理解していたのである。
ゲーナから視線を逸らし、呼び掛ける声に応えようともせず、魔術師としての誇りからも目を背け、アントーシャは昏い声で詠唱した。
「我が父を縛り、貶め、利用しようとする契約よ。我、アントーシャ・リヒテルは、それを認めぬ。偉大なる大魔術師、この世の至宝たる天才、魔術の深淵に臨みし賢者にして、我が最愛の父たる者。ゲーナ・テルミンが身に受けし隷属の魔術紋よ、疾く砕け散るが良い」
アントーシャの詠唱が終わるや否や、ゲーナの寝室は黄金の光に満たされた。それは、青天の白日の如く輝かしく、夜空の月に似て優しく、激しく打ち寄せる波かとばかりの力強さで、ゲーナの身体を包み込んだのだった。
静かに寝台に横たわっていたゲーナは、深い感嘆の吐息を吐いた。魔術師ならざる者は言うに及ばず、この世の殆どの魔術師が理解出来ないであろうアントーシャの魔術を、ゲーナは正確に読み解いていた。アントーシャの魔術には、世の常の術式は存在せず、詠唱に込められた意志が、自動的に術式としての回路を形成していく。魔術触媒さえ必要としない、アントーシャだけが成し得る魔術の芸術的なまでの美しさに、ゲーナは當然と視線を吸い寄せられていた。
ゲーナは、アントーシャに聞かせるでもなく、己の胸に溢れる感嘆の思いを吐露する為だけに、そっと呟いた。
「我が息子の魔術は、何と美しいのだろうな。私を含め、この世の全ての魔術師が使う魔術とは、成り立ちからして違うのだ。魔術にして魔術に非ず。只、純然たる神秘が在るのみ。アントーシャの魔術を崇敬する者は、そこに魔術の理を見るであろうし、アントーシャの魔術を妬む者は、自ら救いなき嫉妬の渦に落ちるだろう。おまえこそは、世の魔術師にとっての試金石であり、魔術の申し子に他ならないよ、アントン」
部屋を満たしていた金色の光は、ゲーナの身体を起点に収縮し、緩やかに点滅した。一度二度三度と瞬き、光が点滅を終えたとき、アントーシャの魔術は完成し、百余年に渡ってゲーナを縛り付けていた隷属の魔術紋は、見事に消え去っている筈だった。魔術に失敗するという経験のないアントーシャは、術の成功を疑ってはいなかった。
しかし、間もなく最後の点滅を終えようとした瞬間、金色の光は輝きを失い、黄金の魔力で描かれた術式ならざる術式は、粉々に砕けて消え失せた。魔術の失敗というよりも、それは魔術そのものが自らを破壊した果ての消失だった。
薄い硝子を割ったかの如き音なき音が、長く鋭く響く中、呆然とした顔をしたアントーシャが、悲痛に言った。
「どうしてです、大叔父上。どうして、そこまで為さるのです。後ほんの少しで、完全に魔術紋を消してしまえたのに」
術者であるアントーシャの目には、自らが行使した魔術の動きがはっきりと見えていた。具現化した魔力そのものである金色の光が、複雑な回路を組み上げながら、ゲーナの胸の魔術紋に絡み付き、ヤキム・パーヴェルの魔力によって刻み込まれた術式を引き剥がそうとしたとき、ゲーナ自身の銀色の魔力が立ち上り、内側から魔術紋を護ろうと、ヤキムの術式に力を注いだのである。
強引に魔術紋を破棄することは、アントーシャには可能だった。しかし、ゲーナの魔力が魔術紋に結び付き、分かち難く一体化しようとする以上、魔術紋を引き剥がせば、ゲーナ自身の魔力もまた塵となって消え失せるだろう。魔術師とって、それは死にも等しい結果に他ならなかった。
知らずに流れ出した涙を拭おうともせず、アントーシャは寝台の前に膝を突き、必死になってゲーナに懇願した。
「お願いです、大叔父上。魔術紋への干渉を御止め下さい。ヤキム・パーヴェルには、死して後まで大叔父上の魔力を動かす力など有りはしない。魔術紋を護ろうとするのは、大叔父上御自身の御意志なのでしょう。ぼくが術の行使を止めなかったら、大叔父上の魔力を永遠に奪ってしまう所だったのですよ。何故ですか。魔術師としての誇りの為に、魔術師であることさえ捨てる御覚悟だと言うのですか」
金色の光が消滅すると共に、身体の自由を取り戻したゲーナは、微かに震える腕を上げ、ゆっくりとアントーシャの頭を撫でた。思わずそうせずにはいられなかった程、アントーシャの声は哀切であり、表情は痛々しくも傷付いていた。
「ずっと隠し続けてきた真実を打ち明けなければ、おまえは諦めてくれないのだろうな、アントン。おまえに軽蔑されるのは死ぬより辛いが、言わぬわけにはいかないらしい」
「真実とは何ですか、大叔父上。何を聞かされても、ぼくが貴方を軽蔑することなど有りません。諦めることも、有りはしませんけれど」
涙に濡れたアントーシャの瞳を見詰めながら、ゲーナは深い溜息を吐いたかと思うと、何の前置きもなしにこう言った。
「魔術紋の誓いより重く、魔術師としての誇りより深く、私の心を縛っているのは、忠誠心というものなのだ、アントン。このゲーナ・テルミンが、千年に一人の天才と呼ばれる大魔術師ともあろう者が、最後の最後まで捨て切れないのは、ロジオン王国と王家への、愚かな忠誠心なのだよ。信じられないだろうがな」
ゲーナの言葉に、アントーシャは返事を返さず、何度か瞼を瞬かせた。自由奔放な大魔術師であり、国家の枠組みに価値を見出しているようにも見えず、増してロジオン王家に対する忠誠など、感じている素振りさえ見せなかったゲーナの告白に、声も出ない程に驚愕していたのである。
「軽蔑しただろう、アントン」
「いえ、軽蔑などしませんけれど、到底信じられません。ぼくを揶揄っておられるのでしょう、大叔父上。ロジオン王家を批判し、地方領の苦境に心を痛めていた貴方が、王家への忠誠心に縛られているなど、とても真実とは思えません」
アントーシャにそっと微笑み掛けて、ゲーナは寝台から身体を起こした。咄嗟に差し伸べられた手に拘りなく支えられながら、ゲーナは言った。
「揶揄ってなどいないよ、アントン。私の為に優しい心を痛めているおまえを、こんなときに揶揄うわけがない。誠に残念ながら、私の心の奥の奥、魔術紋よりも更に深い奥底には、ロジオン王国と王家への忠誠が刻まれている。遥か昔、私が幼児だった頃から、私の父母が繰り返し教え込んだからだろう」
そういったゲーナの表情を、アントーシャは長く忘れられなかった。常に超然として誇り高く、膨大な魔力に相応しい若々しさを湛えたゲーナが、百歳を超えた老人の顔で、自分自身を嗤ったのである。まるで堰を切ったようかのように、ゲーナの言葉は滔々と続いて途切れなかった。
「私の周りの大人達は、恐れていたのだろうな。ロジオン王国でも過去に例のない、膨大な魔力を持って生まれた子が、自分達や王家に御せぬ存在になるのではないか、と。だからこそ、生まれて間もない頃から、我が母は赤子の無垢な魂に囁き続けたのだ。テルミン伯爵家は建国以来の忠臣にして、偉大なる国王陛下の股肱の臣。大ロジオンと国王陛下に身を御捧げするは、この上もなき喜びなのです、とな」
ゲーナは、怒りとも哀しみともつかない感情に、必死に耐えているかに見えた。アントーシャは、ゲーナを支える腕に力を入れながら、戸惑いを隠せなかった。アントーシャの知るゲーナと、王家への忠誠心という言葉が、どうしても結び付かなかったのである。混乱するアントーシャに、ゲーナは尋ねた。
「〈国王陛下に弥栄。大ロジオンの栄光は、天壌無窮と定まれり〉。この言葉を知っているかい、アントン」
「初めて聞きます、大叔父上。言葉の意味としては、分かりますけれど。国王を褒め称え、ロジオン王国の栄光が永遠に続くものと、寿いでいるのでしょう。ぼくには、とても気味の悪い言葉に聞こえます」
「ああ、それは良かった。おまえには、決して聞かせぬようにしてきたのだからな。今の言葉は、他国との戦争に向かう兵士らが、出陣に際して口にする決まり文句だよ。私が幼い頃には、ロジオン王国は激しくスエラ帝国との戦いを繰り返していた。貴族の子も庶民の子も、朝に夕に詠唱せよと義務付けられていたのだ。私など、一日に何十回も、子守唄代わりに聞かされたものだ」
自身が口にした通り、ゲーナの生家は、建国以来の忠臣の一つに数えられる伯爵家である。自我が芽生え、人格が定まる遥か前から、執拗に行われた思想教育は、百歳を越す年齢になっても、ゲーナに影響を及ぼし続ける枷となっていたのである。ゲーナは、また一つ、深い溜息を吐いて言った。
「幼な子の魂というのは、誠に恐ろしいものなのだな。只の洗脳に過ぎないと頭では分かっているのに、この歳になってまで、植え付けられた感覚を捨て去ることが出来ない。私の胸の奥には、信仰とも言える記憶が有る。祖国であるロジオン王国を愛し、偉大なる王家に忠誠を誓い、建国以来の貴族である身分に誇りを持ってきた、幼い頃の記憶が。これはもう、呪いだろうさ。隷属の魔術紋以上に悪質な、忠誠という名の呪いなのだよ、アントン。おまえが慕ってくれる大魔術師、ゲーナ・テルミンの正体は、その程度の俗物なのだ」
「けれども、大叔父上は、エリク王の意に背いてまでも、召喚魔術を破ろうとしておられます。これまでだってそうだ。地方領の人々の為に、影に日に力を尽くしてこられたではありませんか。魔術紋の誓約に触れず、巧妙に契約の隙を突いて、出来るだけの力を注いでおられるではありませんか」
余りにも悲痛なゲーナの述懐に、アントーシャは堪らず口を挟んだ。唯一の身内として、常にゲーナに寄り添ってきたアントーシャは、偉大なる天才が心の内に秘めてきた、拭い難い忠誠心を教えられても、それを蔑もうとはしなかった。美しい国土への愛情こそあれ、ロジオン王国への愛着も、王家への忠誠も持たないアントーシャは、ゲーナがそう望んだからこそ、何からも自由な自分で在れるのだと、既に気付いていたのである。
「私という存在は、矛盾の塊なのでな。魂の底から魔術師で在りながら、魔術師としてのみには生きられず、ロジオン王国の崩壊を望みながら、自らは忠誠心に囚われて手を下せないのだ。我ながら呆れ果てるよ」
微かに震える腕を動かして、ゲーナはもう一度、アントーシャの頭を撫でた。必死に縋り付くアントーシャの姿は、ゲーナの硬く強張った心を温め、魂の救済にも似た慰めを齎していた。ゲーナは、静かに言った。
「人は〈王〉を求めるのだよ、アントン。心の底から王を必要としないのは、自らが己の王である者だけだ。我が最愛の息子たるアントーシャよ。ゲーナ・テルミンは、魔術師である前に、骨の髄までロジオン王国の貴族なのだ。私はそう育てられ、既に血肉として染み付いた忠誠は、私のような年寄りには切り捨てられない。地方領の罪なき領民達が、地獄の責苦に落とされていると分かっていても、私には祖国を滅ぼすことは出来ないのだ。私に隷属の魔術を掛け、忌まわしい魔術紋を我が身に刻んだヤキム・パーヴェルは、憎むべき敵であると同時に、或る意味での恩人でもあった」
魔術紋が有ればこそ、ロジオン王家に反旗を翻そうとせず、王に膝を折る自分を、許してこられたのだから。そう言って、ゲーナは薄く嗤った。アントーシャは、もう何も言えず、じっとゲーナの瞳を見詰めるだけだった。
「おまえを盾に取られたら、私は祖国を捨てられるだろう。我が息子より大切なものなど、私には何一つないのだ。しかし、おまえ以外の全てのものは、私の天秤を動かせない。魔術紋ではなく、私自身が掛けた呪いが、私を縛っているのだから。この呪いを解き、錆び付いた刻を動かし、魔術師としての誇りを取り戻す為に、私の願いを聞いておくれ、アントン。ロジオン王国の臣民、王家の忠実な犬として残された寿命を生きるなど、私には耐えられない。生きて呪縛を解けぬなら、死によって心の自由を勝ち取りたい。ゲーナ・テルミンを、魔術師として死なせてほしいのだ」
潤んで揺らいでいたゲーナの瞳が、銀色の魔力を帯びて燃え上がり、発光したかとばかりに輝いた。魔術師として生きられないのであれば、魔術師として死にたいというゲーナの祈りは、否応なくアントーシャを突き動かした。皺の寄ったゲーナの手を握り締めながら、アントーシャは、このとき遂に陥落したのだった。