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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 4-6

04 アマーロ 悲しみは訪れる|6 月と猫

 ロジオン王国の歴代国王が暮らしてきた栄光の宮殿、この世で最も豪奢ごうしゃな建物の一つであるボーフ宮の最奥、厳重な上にも厳重に警備を重ねた王の私室で、エリク王は深々と長椅子に身を預けていた。透明な硝子の大窓の向こうには、星空にまろやかな月が浮かび、夜更けの密やかな気配を漂わせている。

 エリク王の傍には、純白の毛並みを輝かせた小さな猫が身を擦り寄せ、微かに喉を鳴らしていた。スニェーク〈雪〉と名付けられた子猫は、贈り主であるロージナが王女の地位を剥奪はくだつされ、既に王城から追放された後も、エリク王の寵愛ちょうあいを一身に集めているのである。
 部屋の片隅と扉の前には、エリク王の護衛を務める近衛このえ騎士達が、凛々しい彫像のごとき面持ちで、身動きもせずにたたずんでいる。エリク王の護衛に当たる騎士達は、思索に沈むエリク王の邪魔をしないよう、自らの存在感を何処どこまでも薄くし、同時にわずかの緩みもなく周囲を警戒し続けることの出来る、一騎当千の精鋭揃いとして知られていた。

 静謐せいひつな空気を変えたのは、愛らしい純白の子猫だった。エリク王に背を撫でられ、微かに喉を鳴らしていたスニェークは、不意に顔を上げると、緑金の瞳を大窓の外に向けて鳴いたのである。細く愛らしい子猫の声は、微笑ましいばかりのものだったが、ほとんど鳴くことのないスニェークにしては、めずらしい甲高さだった。ほのかな薔薇色の鼻先と、白く小さな耳を動かす様子からも、スニェークは何かを感じ取っているかに見えた。

 エリク王は、スニェークの背を撫でる手を止めると、子猫の緑金の瞳を覗き込み、真面目な口調で問い掛けた。

「そなたにしては、めずらしい声であるな、スニェーク。何を鳴くのだ。今宵は、大きな意味を持つ夜になるやも知れぬ。そなたには、それが分かるのだろうか」

 エリク王の言葉に耳を傾けているかのように、小さな頭を傾けたスニェークは、丸い瞳を瞬かせてから、もう一度エリク王の手に頬を擦り寄せた。繊細な指先でスニェークの頬を撫でてやりながら、エリク王は言った。

あるいは、引き離された親兄妹が気に掛かるのか。ローザ宮からの知らせによると、そなたの母と兄妹達は、何処どこともなく姿を消したらしい。余の第四側妃だった女がけがれた大罪を犯したとはいえ、飼い猫にまで罪は及ばぬ故、密かに探させていたのだがな。王国騎士団長のキース・スラーヴァは、猫を見付けて王国騎士団まで連れてくるか、見付けた者が飼ってやるか、自由に選ぶよう宣言したらしい。今になっても連れられて来ぬとなれば、何処かの物好きが連れ帰ったのであろう」

 ローザ宮の飼い猫として愛玩されていた猫達が、自ら王城を出ていくとは考えにくい。何かを食べさせてやった女中も、寝床を与えてやった従僕じゅうぼくもおらず、元第四側妃の断罪の日から、一度も姿を目撃されていない以上、誰かに連れられていった可能性が高かった。その誰かが、アントーシャだとは、如何いかにエリク王でも想像出来るはずがなく、猫達の行方はようとして知れなかったのである。

 ゆっくりとスニェークを撫でる手を止めないまま、エリク王が再び思索の海に揺蕩たゆたうかと見えたとき、静かに扉を叩く音が響いた。部屋の外で不寝番ふしんばんを務める近衛このえ騎士が、訪問者の来室を告げたのである。エリク王が頷くと、巧みに気配を殺して扉の前に侍っていた近衛騎士が、二度扉を叩いて入室の許可を出す。そこへ音もなく姿を現したのは、エリク王の家令かれいであるタラスだった。

「御呼びと伺いまかり越しました、陛下。そろそろ夜も更けて参りましたのに、まだ御休みになられないのでございますね。何かございましたか」
「遅くに呼び出したな、タラス。今宵行われる召喚魔術の儀式とやら、余も叡智えいちの塔まで見物に行こうと思い、そなたを呼んだのだ。急ではあるけれど、そなたならば手配に抜かりはあるまい。用意を整えよ」

 〈王家の夜〉の統率者として、完全に表情を制御出来る筈のタラスは、敢えて表情を隠そうとはせず、エリク王の前に苦い顔をして見せた。己が主をく知るタラスは、エリク王がそう言い出すかも知れないという、半ば確信に近い予感が外れるようにと、密かに願っていたのである。胸の内で敗北の溜息を吐きながら、タラスは言った。

「未知なる魔術を行使する場に、陛下が尊き玉体を御運びなられるのは、いささか危のうございます。御考え直し頂くわけには参りませんか、陛下。今宵の叡智の塔には、アイラト王子殿下とアリスタリス王子殿下という、王太子候補の殿下方が御二人御揃いになられます。そこに陛下までとは、余りにも危険が過ぎましょう」
「ゲーナが為す魔術が、見物の者まで危険に晒すとは思えぬ。また、余とアイラト、アリスタリスが一所に集まるなど、確かに悪事をたくらむ者には絶好の好機であろうが、そなた達が余に不逞ふていの輩を近付ける筈がない。そうであろう、タラス」

 エリク王は、じっとタラスの目を見詰めた。次代の王と、その王を支える次代の〈王家の夜〉の長として引き合わされたときから、エリク王が何度も見せてきた、王者としての威厳を込めた目の色だった。タラスはもう一度溜息を吐き、崇拝すうはいする王に言った。

おおせの通りでございます。何が起こりましても、王家の夜の威信にけて、陛下の玉体に近付けは致しません。けれども、陛下。大変に不躾ながら、一つ御たずねしてもよろしゅうございますか。何度か御尋ねしようとして、口をつぐんで参ったのでございますが」
「許す。何なりと尋ねるが良い、タラスよ」
「御意にございます。わたくしの疑問は一つでございます。陛下は何故、召喚魔術の行使を御認めになられたのでございますか。失敗すれば有形無形の損失が生まれ、万が一にも成功すれば、それはそれで大変に面倒な事態に陥りますでしょうに。スヴォーロフ侯爵閣下やクレメンテ公爵閣下に御話になられましたように、危険を冒してでも新たな動力源を御求めだったのでございますか」

 真剣な表情で自分を見詰めるタラスと、瞳を瞬かせて小さくとがった耳を揺らすスニェークに、それぞれ淡く微笑み掛けてから、エリク王は答えた。

「異次元しくは異界から召喚した者を、新たな魔術触媒しょくばいとして利用し、枯渇こかつする動力源の確保に繋がらないものか検証する。クレメンテ公爵とダニエ・パーヴェルは、そう説明していたのだったな。勿論もちろん、愚かな目論見もくろみだと思っておるよ、タラス。召喚魔術は誘拐に過ぎないのだと、ゲーナのごとく正論を説く心算つもりはないにしろ、実現する可能性など爪の先程も有るまいな」
「賢王のほまれ高い陛下は、そう御考えであられるだろうと分かっておりました。だからこそ、不思議なのです。何故、クレメンテ公爵閣下の請願を御許しになられたのでございますか、陛下」
「さて、何故であろうか。真実は余にすら分からぬよ。強いて言えば、余は契機となる何かを待っているのかも知れぬ。我が王国は、魔術触媒の枯渇に耐えられぬ。そして、取り得る手は限られているのだ。王国の四方、未だ未開の地へと探索の手を伸ばすか、スエラ帝国との関係を強化するか、逆にスエラ帝国と戦いの端緒を開くか。一つだけ、国内で魔術触媒を得る方法もないではないが、余がそれを命ずれば、否応いやおうなく国は荒れるであろうよ」

 一言たりとも聞き漏らさないよう、半ば瞼を落としてエリク王の言葉に耳を傾けていたタラスは、驚いた顔を見せはしなかった。王家の私事を差配する家令かれいであり、情報の統制と特殊任務を担う王家の夜の統率者として、何よりも少年の頃からエリク王に無二の忠誠を誓う者として、タラスは王の思考を理解していたのである。タラスは、落ち着いて言った。

「国内で魔術触媒を得る方法とは、如何いかなるものなのでございましょう。宜しければ、御教え下さいませ、陛下」

 スニェークを撫でる指先を止め、タラスの瞳を見詰めたエリク王は、囁くが如き声で一つの言葉を口にした。

「オローネツだ、タラスよ」
「オローネツとは、オローネツ辺境伯爵のことでございますか、陛下。王家の意向にも容易に従わず、叛意はんいを隠そうともしない不逞ふていの輩。ロジオン王国の異端者にして、王都にも勝る領土を有する北の大領主。彼のオローネツ辺境伯爵が、魔術触媒と関係していると仰せなのでございますか」
「然り。ラーザリ二世陛下は、王城を王白で満たす為、東の小国に向けて軍を進ませた。征服された国々は、今では東のイラワオン辺境伯爵家の領土となっているが、そこから産出されたのはあふれる程の金銀だけであった。更に、西のヤロス辺境伯爵領は海に面し、南のバルナウル辺境伯爵領はスエラ帝国に近く、どちらも大きな鉱脈は存在せぬだろう。唯一、魔術触媒を内包している可能性を持つのは、オローネツ辺境伯爵領の深い山々と、それに続く北の大山脈なのだ。神秘の霊峰れいほうたるプリヤーツェド大山脈までは、踏破とうはできぬとしても」

 タラスは、ぐには応えなかった。脳内に詳細に描き出した地図を元に、エリク王の言葉を反芻はんすうする。一般的に魔術触媒しょくばい見做みなされるのは、魔力を通しやすい輝石きせき類や、〈聖石〉とも呼ばれる極めて透明度の高い宝玉である。北の大地の山間深く、鬱蒼うっそうとした木々に守られたオローネツ辺境伯爵領の山々には、きっと手付かずの魔術触媒の鉱脈が存在するに違いない。確たる根拠のない直感ながら、タラスはその事実を疑わなかった。

「御意にございます、陛下。あの生意気なオローネツ辺境伯の広大な領地には、我がロジオン王国を支えるに足るだけの魔術触媒が眠っておりましょう。何故かは知らず、そう思えてなりません。ただ、オローネツが抵抗なく領地を明け渡すかと言えば、難しいことでございますな。王家の姫君をめとらせようとしても、反対の声が高くなりましょうし」
「縁組一つで王家の手出しを許す程、甘い男ではなかろうよ、オローネツは。強引に事を進められぬわけではないが、流石さすがに名分が立たぬ故、国中の地方領主が離反する危険性も捨て切れぬ。オローネツに手を出すなら、王家も相当の犠牲を覚悟せねばなるまい。だからこそ、決断を下す前に、余はあらゆる可能性を検証しておきたいのだ、タラス。それが、召喚魔術などという夢物語であったとしても」

 じっとエリク王に見詰められたタラスは、軽く肩をすくめて白旗を上げた。容易に心の内を読ませないはずのエリク王が、今は秀麗なおもてに真摯な色を浮かべ、タラスに語り掛けている。血の一滴までエリク王に捧げ尽くす覚悟のタラスを促すには、それだけで十分だった。口元を緩ませながら、タラスは言った。

「陛下がそういう御顔をなさるときは、誰が何を申し上げても、決して聞き届けては下さいませんからな。わたくしもこの歳になりますと、無駄な努力は放棄するようになりました。かしこまりました、陛下。ぐに叡智えいちの塔と宰相府に先触さきぶれを出し、御臨席の用意を整えさせます。予定の時刻までは二ミル程ございますので、何とか間に合いましょう」

 エリク王は、喉の奥で満足気に笑うと、再びスニェークの細く柔らかな背中に手を伸ばし、ゆっくりと撫で始めた。

「流石に、余の家令かれいは物分りが良いな、タラス。王城の女共と違って、そなたは益体もない繰り言を言わぬので助かる」
「繰り言を聞いて下さる御方で在られましたら、私くしも老婆の如くくどくどと申し上げますとも。ともあれ、今宵に限って言えば、御止め立てをはばかる思いもございます。私くし自身、陛下が急に御臨席を御決めになられるような気がしておりましたので」
「そうであろう。余も、今宵の儀式は見ておくべきだという気がするのだよ。こういうとき、余の勘は外れぬ。もしかすると、何かが起こるのかも知れぬな、タラスよ」
如何いかなる事態になりましても、陛下の御身は私くし共が御護り申し上げます。王家の夜の総力を以ちまして、陛下の盾とならせて頂きますので、御安心下さいませ。我らがエリク国王陛下が、見ておくべきだと御考えになられますものは、全て貴方様の御目の前に引き出されることでございましょう」
「そなたに任せる。良きように」
「では、御前を失礼申し上げ、しばしの猶予ゆうよを頂戴致します。用意が整いましたら、私くしが御迎えに参じます」

 そう言って、深く立礼を取ったタラスは、足早に居間を退出していった。後に残ったエリク王は、静かに立ち上がると、庭園に面した大窓の前へと足を進めた。素早く近付いて来ようとする侍従じじゅう近衛このえ騎士を、視線一つで制したエリク王は、自身の繊細な手で窓を開け、広々とした露台に出る。日頃は何事も侍従に任せ、扉一つ自分では開ける必要のない立場の王である。常にない行いに、タラスやスヴォーロフ侯爵であれば、注意深くエリク王の表情を読もうとしただろう。

 露台から外に目をると、鏡にも似て輝き渡る満月に照らされて、初夏の花々の咲き乱れる庭園が青白く光っていた。じっとその光景を眺めるエリク王の足下に、そっとスニェークが寄り添う。エリク王がそっと自分の肩を叩くと、スニェークはふわりと跳び上がり、その肩の上に丸くなった。純白の子猫の被毛も月光を弾き、さながら青光石のようだった。


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