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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 5-10

05 ハイムリヒ 運命は囁く|10 宣言

 短くはない時間を掛けて、真実の間で起こった出来事を語り終えたアントーシャは、もう一度深々と頭を下げた。頬には薄く涙の跡が光っていたものの、表情は晴々と明るく、見る者を安心させるだけの力強さが有った。

「ベルーハの指摘の御陰で、ぼくは最後に父上に御目に掛かることが出来ました。そして、父上が残して下さった鍵を通して、ぼく達の魂と霊は固く結び付けられました。今でも悲しくてたまらず、耐えがたい気持ちになる瞬間は有りますけれど、ぼくは大丈夫です。父上は、今もぼくの側に居て下さいます。父上が魔導師と呼んで下さったぼくには、それが分かるのです。御心配を御掛けして、本当に申し訳ありませんでした」

 アントーシャが話す間、静かに目を閉じて聞き入っていたオローネツ辺境伯は、潤んだ瞳で何度も繰り返し頷いた。

「そなたが救われたと感じてくれたのであれば、これ程の喜びはないよ、アントン。一途にゲーナ様を慕っていたそなたが、如何いかに深く傷付いたのか、私達はそれを案じていたのだ。ゲーナ様は、御自分の信念に従って道を御選びになられ、そなたという息子の手で本懐ほんかいを遂げられた。さぞかし御満足であったろうと思うよ」

 オローネツ辺境伯と共に、召喚魔術の儀式に向かう直前のゲーナに会い、胸の内を打ち明けられていたイヴァーノは、赤く充血した目でアントーシャを見詰めていた。極めて有能な実務家であり、容易に感情に動かされないはずの男は、しわを刻んでも尚端正な顔に涙の跡を残したまま言った。

「そうですとも、アントーシャ様。わたくしは、ゲーナ様が羨ましゅうございます。貴方様のような御子息を迎えられて、ゲーナ様は誠に御幸せでございます。最後にアントーシャ様に御会いになり、生死を超えた縁で結ばれ、如何いかに御喜びになられたことか。誠に良うございました。オローネツ城の者達も、安心致しますでしょう。閣下も年々涙脆くなられ、御慰めするのに骨が折れて参りましたので、助かりました」

「いや、涙脆くなったのは、イヴァーノ様も同じではありませんか。アントーシャ様が相手となると、閣下もイヴァーノ様も大差は有りませんな。市井しせいの者達が言う所の、立派な〈過保護親父〉ですよ」

 ルーガの大らかな冗談に、オローネツ辺境伯やイヴァーノも含め、皆が笑った。アントーシャも、嬉しそうに微笑みながら言った。

「今度からは必ず、真っ先にオローネツ城を訪ねさせて頂きます。今のぼくにとって、我が家とも言える唯一の場所ですからね。今回は、この先の選択肢に就いて考えてみたくて、わざと時間を掛けて馬で旅をしてきたのです」
「この先というと、そなたの身の振り方かい。冗談ではなく、本当にオローネツ城で暮らすわけにはいかないのかね、アントン。テルミン子爵領の領主になったからといって、そこに住まねばならぬ法はなかろう。魔術師団長で在られたゲーナ様は、御役目故に王都に住んで居られたし、王城に職を持たぬ地方貴族でも、王都での暮らしを選ぶ者は多い。テルミン子爵領の運営も、これまで通り代官に任せおいても良いのではないかね。私とイヴァーノの精神の安寧の為にも、そなたはオローネツ城に居ておくれ」
「有難うございます、閣下。御言葉はとても嬉しく思います。ぼくも出来るだけ御側に置いて頂きたいと思っています。亡き父上からも、そう勧められておりましたから。ただ、今回ぼくが考えたかったのは、我が身の置き所ではなく、ロジオン王国に就いてなのです。この国を倒すにはどうしたら良いのか、旅の間ずっと思案していました」

 アントーシャが然り気なく口にした瞬間、領主執務室に漂う空気が一変した。優し気に微笑んでいたオローネツ辺境伯は、瞳を鋭く光らせて威風を放ち、穏やかに微笑んでいたイヴァーノは、微笑んだまま護衛騎士であるオネギンの名を呼んだ。オローネツ辺境伯の護衛騎士筆頭を務めるオネギンは、即座に二名の部下に指示を出し、一人を扉の外側、もう一人を扉の前に立たせ、以後の入室を固く禁じさせた。椅子に座ったままのルーガは、異様な程に瞳をきらめかせ、じっとアントーシャを凝視ぎょうししている。わずかの間を置いて、静かにアントーシャにたずねたのはオローネツ辺境伯だった。

「今、ロジオン王国を倒すと言ったね、アントン。そなたのことだ。全てを理解し、覚悟を決めた上で言っているのだろう。そして、一度口に出したからには、王国を倒す道筋を見出したに違いない。そなたの考えを、どうか私達に聞かせておくれ」
「これ以上は、聞くだけでも危険かも知れませんよ、閣下。正直に申し上げると、オローネツの皆様方を巻き込んでしまう可能性に、ぼくは今も悩んでいるのです。ぐにオローネツ城を御訪ねしなかったのは、その悩み故でもありました」
「今更だよ、アントン。そなたが案じてくれる気持ちは分かるが、この部屋には話を聞くことを躊躇ちゅうちょする者など居ないよ。さあ、どうか話しておくれ」

 オローネツ辺境伯に断言され、アントーシャが執務室の者達に視線を向けると、イヴァーノは豪然ごうぜんとしてうなずき、ルーガは獰猛どうもうに笑った。オネギンら護衛騎士や文官達も、強い瞳でアントーシャの言葉を待っている。大きく一つ、迷いを断ち切るように頷いて、アントーシャは話し始めた。

「分かりました。では、少し迂遠うえんになりますけれど、最初に魔術のことわりに就いて説明させて下さい。今、オローネツ城の牢には、第七方面騎士団の襲撃者達が囚われており、中には魔術師も含まれています。の魔術師達は、けがらわしい拘束の魔術を使って、ルーガさん達の身体の自由を奪いました。ロジオン王国では、十六の方面騎士団と王国騎士団、近衛このえ騎士団、更には公爵家がようする各騎士団にも魔術師が配置され、戦力の一部となっています。しかし、そうした魔術師達は、ときに拘束の魔術を使い、ときに情報の伝達を行い、ときに移動の補助をしたとしても、直接的には人を殺傷したりはしません。違いますか、ルーガさん」

 話を振られたのは、常に戦いの最前線に身を置いてきたルーガだった。ルーガは、少しの迷いもなく言った。

「アントーシャ様の仰る通りです。方面騎士団に居る魔術師達が人を殺した事など、過去に一度も有りませんな。第七方面騎士団だけじゃない。閣下に拾って頂くまで、幾つもの地方領を渡り歩いてきましたが、どの方面騎士団でも同じだったと思います。おれが生まれ故郷を出奔しゅっぽんする原因になった、る地方領での大掛かりな襲撃でも、魔術師達は領民の家を焼いているだけでした。うずたかく積み上げられた領民達の死体ごと」

「非道を行って恥じぬ者は、いつか必ず報いを受け、魔術の恩恵を失うでしょう。ともあれ、ルーガさんの仰る通り、魔術師は直接的な戦力には成り得ません。それが何故なのか、御分かりになりますか。ルーガさん」

 アントーシャの問い掛けに、ルーガは首を傾げた。全ての者が魔力を持つ世界に在って、魔術を直接的な戦力として利用しようとする者は居ない。有史以来、魔術師が直接的な戦力にならないことは、誰もが知る常識だった。

「なぜ魔術師が人を殺さないのかと聞かれたらそういうものだからとしか、御答えの仕様が有りませんよ、アントーシャ様。今、貴方様から御質問を受けるまで、魔術師が魔術によって人を殺傷するなど、考えもしませんでした。しかし、改めて考えてみると、確かに妙な気がしますね。国の権力者などという連中が、魔術師に目を付けないわけがないでしょうに」

 ルーガの答に、アントーシャは大きくうなずき、そっと自身の掌を見詰めた。そこには、ゲーナの残した鍵が、銀色の光を放って輝いている。大切な鍵から目を離さないまま、アントーシャが話を続けた。

「我が父上は、契約の魔術紋によって王家に縛られておられました。どれ程理不尽な命令を下されようと、抵抗すら出来ない隷属れいぞくくさびです。千年に一人の天才であり、魔力量では歴史上でも並ぶ者のない程の大魔術師たる父上を、ロジオン王家は自由に利用することが出来たのです。もし、魔術によって人を殺傷出来る世界であったなら、王家は父上を兵器として扱い、父上御一人の力をもって一国を滅ぼしていたでしょう。言い換えると、隷属の魔術紋で強制したとしても、魔術によって人を殺めたりは出来ないという証拠なのですけれど」

 アントーシャの言葉は、決して大袈裟なものではなかった。次元の壁を超えて異世界にまで届くゲーナの魔力が、直接的な戦力として敵軍を襲ったとしたら、立ち向かえる人間など存在するはずがない。ゲーナの膨大な魔力が、銀色の槍となって敵軍に降り注げば、瞬く間におびただしい数の兵士が骸を晒していただろう。

 ゲーナが戦力となったときの惨状を思い描いたのか、執務室に重苦しい沈黙が広がる中、アントーシャに応えたのはイヴァーノだった。ゲーナとの親交を通して、魔術への理解を深めていたイヴァーノは、何かを思い出そうとするかのごとく、宙を見詰めながら言った。

「閣下とわたくしは、幼い頃よりゲーナ様の薫陶くんとうを受ける栄誉に恵まれました。閣下の御祖父様と御親友で在られたゲーナ様は、定期的にオローネツ城を御訪ね下さったからです。ときには魔術を見せて頂き、多くの御話を聞かせて頂きました。そう、もう何十年前に為るでしょうか。私くしが十にもならない子供の頃に、ゲーナ様は確かこうおおせでございました。この世の魔術は、人を攻撃する力を持たない。魔術のことわりがそれを許さないのだ、と。覚えておられますか、閣下」
「思い出したよ、イヴァーノ。スエラ帝国の話題になったとき、ゲーナ様も戦を為さったのかと、私が御たずねしたのだ。不躾な質問にも御怒りに為らず、ゲーナ様は微笑んで御教え下さった。我々が使う魔術には、大きな制限が掛かっている。私は、その制限を理と呼び、素晴らしき恩寵であると感謝していると。そう仰せになったときのゲーナ様は、まるで叡智えいちが人の形を取ったかの如き御尊顔で在られた。不思議だな。幼い頃の出来事であり、今の今まで忘れていたのに、何故か鮮明に思い出される」

 オローネツ辺境伯の言葉には、何処どこ敬虔けいけんな響きが宿っているかのようだった。世界の神秘を知るアントーシャは、若々しい顔に不可思議な微笑みを浮かべ、ゆっくりと説明を続けた。オローネツ城の領主執務室は、更に緊張を高めていく。

「この世の魔術師は、魔術回路を組み上げて術式を構築し、魔力を用いて輝石きせき類に刻み込みます。その結果、聖紫石や青光石といった輝石類が、魔術触媒しょくばいとして完成され、魔力の注入によって、物理法則を超えた現象を引き起こすのです。術式を構築せず、自らの魔力で身体強化を行うだけの者は、魔術師とは呼ばれません。魔術師とは、術式によって物理を超越する術者の総称なのです」

 そう言って、アントーシャは右手を掲げ、掌に小さな火を灯した。火はほのかな明かりとなって揺らめき、執務室に居る全員の目を引き付けた。

「これは本物の火です。触れれば熱く、可燃物に接すれば燃え上がります。所が、これを火弓のように飛ばして誰かを燃やそうとしても、魔術は絶対に発動しません。魔術回路にも術式にも誤りがなく、発動に要する魔力が十分であっても、どうしても出来ないのです。比類なき大魔術師で在られた我が父上でさえ、小さな種火一つ扱えなくなる。それこそが、魔術の理というものなのでしょう」
 アントーシャは、ゲーナですら不可能だと言い、それは正しく事実であった。この世に唯一人だけ、術式を用いずに魔術を使い、触媒さえ必要としない存在が居るのだと、今のアントーシャは話さない。何処か敬虔な色をまとって、アントーシャの声が流れていく。

「父上とぼくは、魔術の理を祝福だと考えていますけれど、世の中には逆に不満を感じる者達も居るのです。その不満こそが、召喚魔術に踏み切った真の目的ではなかったのかと、父上は推察しておられました。異世界の人間であれば、魔術の理に縛られず、直接の火力、人を殺す兵器として魔術を行使出来る可能性が有るのではないのか。誰かがそう考えても、決して不思議ではないでしょう。実際、一度でも理を破る方法が分かってしまえば、この世界の魔術師でも模倣出来るかも知れません。父上は仰いました。召喚魔術の術式を研究していたヤキム・パーヴェルや、今回の召喚魔術に許可を与えたエリク王、智の巨人たるスヴォーロフ侯爵は、その可能性を推察していたに違いないと」

 アントーシャの話は、執務室に居る者達に大きな衝撃をもたらした。そして、ゲーナとアントーシャが、ゲーナの死をもってしてまで召喚魔術を阻止しなければならなかった真の理由を、全員が正しく理解したのである。

ようやく分かったよ、アントン。この世の全ての人々の命と平和の為に、ゲーナ様は尊い御身を犠牲にして下さった。そして、そなたは最愛の父上をその手で傷付けてまで、世界を護ろうとしてくれたのだね。決して魔術の理を破る方法を見付けさせず、魔術紋に縛られたゲーナ様が兵器となる未来を、根底から消し去ろうとして」

 オローネツ辺境伯は、そう言った切り沈黙し、静かに目を閉じて胸に手を当てた。イヴァーノもルーガもオネギンも、執務室に居た全ての者達が、オローネツ辺境伯にならって黙祷した。自らもそっと瞼を閉じ、亡きゲーナに深い祈りを捧げたアントーシャが、ゆっくりと顔を上げたとき、澄んだ琥珀色の瞳は金色の光を帯び、煌々こうこうと輝いていた。アントーシャは言った。

「父上の御決断によって、叡智えいちの塔で強行された召喚魔術は、完膚なきまでの失敗に終わりました。被害も大きなものでしたので、少なくとも当分の間、魔術のことわりを踏み破ろうとする者はいないでしょう。しかし、愚かで欲深な権力者は、再び禁忌を犯そうとするかも知れず、ぼくは父上を死に追いったロジオン王国を許す気持ちになれません。ですから、一石二鳥の方策として、ロジオン王国を滅ぼそうと思うのです」

 アントーシャが再び宣言した瞬間、オローネツ城の領主執務室は、異様な気配に包まれた。誰一人として声を出さず、表情も変えず、執務室を満たす熱量だけが、一気に膨れ上がったのである。オローネツ辺境伯は、アントーシャには一度として向けてこなかっただろう、冷徹とも言える視線でたずねた。

「そなたの言い分はく分かる。我ら地方領の者達も、ロジオン王国への忠誠心は尽き果てているのだ。この部屋に居る者の中で、王国への叛逆はんぎゃくを夢に見なかった者など、一人として居ないだろう。しかし、問題は可能性だよ、アントン。私には、オローネツ辺境伯爵領の当主という立場と義務がある。万に一つも勝ち目のない戦いに、領民や臣下を巻き込むわけにはいかぬのだ。さあ、改めて尋ねよう。そなたが何をしようとしているのか、私達に教えておくれ」

 オローネツ辺境伯の厳しい視線を受け止めても、アントーシャはたじろがない。むしろ、金色を帯びた瞳は益々冴え冴えと輝き始めていた。

「父上によって魔導師と名付けられたぼくが、倒国の戦略を描く以上、魔術を軸にした展開になるのは当然の帰結です。父上が命を捨ててまで御守りになられた魔術の理は、ぼくにとっても絶対的なものですから、ぼく自身が直接的な火力となる戦いは致しません。ぼくは、ぼくだけに使える魔術によって、ロジオン王国の根幹を揺るがせようと考えています。喩えば、長距離の転移です。これまでのぼくは、超長距離の転移魔術によって、王都とオローネツ城を行き来していました。それに比べ、馬で旅をするというのは、途轍とてつもなく時間と手間の掛かる事でした。魔術による転移技術を持ちながら、王家がそれを地方領に使用させないのは、地方領の機動力と戦力を低減させる上で、極めて有効な策だからでしょう」

 アントーシャの言葉に、執務室に居る者達は、暗い怒りの表情をあらわにした。ロジオン王国では、通信と転移に関する一切の技術と魔術機器は、王家によって一元的に管理されている。王家が認めた者達が、一瞬の内に転移の魔術陣で移動し、通信の魔術機器によって遠隔地との会話を可能としているのに対し、地方領の貴族と領民達は、いまだに徒歩や馬で移動し、狼煙のろしを上げて急を知らせているのである。
 広大なオローネツ辺境伯爵領の騎士達は、第七方面騎士団が村々を襲撃したという連絡を受ける度、間に合わない悔しさに歯噛みしてきた。遥かに広がる豊かな領地が、そのときばかりは恨めしかった。湧き上がる激情に、思わず口を開いたのはルーガだった。

「そうなのです、アントーシャ様。アントーシャ様と同じように、おれ達が自由自在に転移出来れば、もっと多くの領民達を助けてやれたに違いありません。おれ達が出来るのは、浅ましく長居をしている下衆共をほふり、領民達に救助の手を差し伸べることだけなのです」
「どれ程悔しい思いをしてこられたのか、く分かる心算つもりですよ、ルーガさん。距離とは最大の障害であり、同時に最大の戦力でもあります。想像してみて下さい。ぼくが転移魔術を使い、武装したルーガさん達を瞬時に移動させたとして、その先がエリク王の寝室であればどうなるでしょうか。恐らく数ミラとしない内に、エリク王の首は落ちるでしょう。転移による襲撃を繰り返せば、ロジオン王国の王城から為政者を一掃し、国家を機能不全に陥らせることも、決して不可能ではありませんよ」

 オローネツ城の者達は、アントーシャの奇跡とも言うべき超長距離転移を、何度も目の当たりにしている。武装したオローネツの騎士達が、本当に王城に突入出来るなら、襲撃は必ず成功するだろう。語られた内容の凄まじさに、誰もが戦慄を禁じ得なかった。アントーシャは、気負いもなく話を続けた。

「けれども、ぼくは思ったのです。そうした襲撃を繰り返して、ロジオン王国を揺るがせたからと言って、本当に国が倒れるでしょうか。報恩特例法ほうおんとくれいほうの制定から約百年、方面騎士団に蹂躙じゅうりんされてきた人々の、尽きせぬ無念が晴れるでしょうか。魔術の理を守る為に尊い命を捧げた父が、能くやったと喜んでくれるでしょうか。答は否です。転移による襲撃は、手段の一つに過ぎません。歴史上、最も偉大な魔術師たるゲーナ・テルミンの息子として、この世のことわりを守護する役目を担った魔導師として、ぼくは真の意味でロジオン王国を倒し、人々を救済する手段を講じなくてはならないのです」

 そう言い切ったアントーシャに、オローネツ辺境伯は大きく頷き掛けた。オローネツ辺境伯は、重く胸に響く声で断言した。

「能く言った、アントン。その通りだ。エリク王のごとき、暗殺した所で国は倒れぬ。全ての為政者を殺したとて、代わりの者が地位を掠め取るだけであろう。転移による襲撃は、信じられぬ程に有効な手段ではあるが、ロジオン王国百万の兵を皆殺しに出来ぬのなら、それだけでロジオン王国に報いを受けさせる結果には為るまい」

 間髪を入れずもたらされた理解と激励に、アントーシャは嬉しそうに微笑み、オローネツ辺境伯に向かって、心をめて一揖いちゆうした。

「御理解頂いて有難うございます、閣下。だからこそ、単なる襲撃を繰り返すのではなく、倒国の旗を掲げなくては為らないのです。高々とひるがえり、見る者の心を震えさせ、ロジオン王国に決別を突き付ける理念の旗を。具体的には、ロジオン王国の屋台骨を根底から揺さぶる為の方策として、ぼくは神の使徒を名乗ろうかと思います」

 その瞬間、オローネツ辺境伯を含め、アントーシャの言葉に反応した者は居なかった。余りにも唐突な宣言に、戸惑った者達が目を見交わす。かなりの長さになった沈黙の末、戸惑いがちにたずねたのは、やはりオローネツ辺境伯だった。

「神の使徒。私の聞き間違いでなければ、そう言ったのかね、アントン」
「はい、閣下。確かに言いました。ぼくは、神の使徒を名乗る心算つもりです」
「改めて聞いても、そなたの口から出る言葉とも思えぬな。そなたが何らかの信仰を持っているなどとは、一度も聞いた記憶がない。もっと説明しておくれ。そなたは、簡単にそのような言葉を使いはしないだろう」
勿論もちろん、御話し致します。ぼくが神の使徒を名乗るのは、倒国の戦略としてであり、特定の信仰を意味するわけではありません。ですから、正確に言うとすれば、ぼくは神の使徒をかたるのですよ、閣下。恥ずかし気もなく、堂々と」

 アントーシャは、そう言って口元を緩めた。ゲーナと共に笑い合っていたときのままに、何処どこまでも明るく楽し気な微笑みだった。