フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 3-5
03 リトゥス 儀式は止められず|5 王妃と王子
ロジオン王国の王妃と定められた者は、代々がリーリヤ宮と名付けられた壮麗な宮殿に暮らす。典雅に咲き誇る大輪の白百合は、ロジオン王国に於いて、花の女王とも呼ばれているからである。何れの王の時代も、王城には高貴な花々が咲き乱れ、花の女王たる白百合と姸を競っていた。
当代のリーリヤ宮の主人、エリク王の正妃であるエリザベタ・ロジオンは、王妃だけに許された割合の黄白が煌めく自室で、豪奢な天蓋付きの寝台に横たわったまま、己が産んだ唯一の王子であるアリスタリスを迎えていた。
エリザベタは、四代前の国王であり、〈征服王〉とも呼ばれたラーザリ二世の曽孫に当たる。ラーザリ二世の王女の一人が、グリンカ公爵家に降嫁して産んだ嫡男がエリザベタの父であり、彼女とエリク王とは、複雑に血の混じった遠縁の間柄なのである。
幼少の頃より美貌と聡明さで知られ、グリンカ公爵家の白百合〈リーリヤ〉と呼ばれたエリザベタは、その呼び名が暗示するまま、早くから未来の王妃と目されていた。そして、実際に王妃として冊立されたにも拘わらず、エリザベタは王子にだけは恵まれなかった。六人もの王女を立て続けに産み、七人目で漸くアリスタリスを出産したときには、元々繊細だった身体は、長時間寝台を離れていることが難しい程に弱っていた。
「このような姿のままで御迎えしてしまって、無作法を御許し下さいましね、殿下。今日は、貴方ときちんと御話をしたいから、楽な姿勢にさせて貰っているのです。本当に気分は悪くないのだから、心配しなくても大丈夫ですよ」
寝台の脇に運びこまれた薄紫の繻子張りの椅子に、ゆったりと腰掛けたアリスタリスは、そっと白くて華奢な母の手を握った。
「御無理をなさらないで下さい、母上。母上の御身は、何にも増して大切なのですから。私に御用が御有りだったのですか」
「ええ。元第四側妃カテリーナのことなのだけれど」
母の言葉に、アリスタリスは気不味い顔で目を伏せた。十八歳になったときから、アリスタリスは近衛の差配を任されるようになっていた。成人近くのアリスタリスに、王族としての経験を積ませようという、エリク王の配慮である。更に、正嫡の王子であることから、元々近衛騎士団と距離が近く、近衛を最大の支持母体とするアリスタリスにとって、父の側妃と近衛騎士との醜聞の果ての粛清は、途轍もなく大きな打撃だった。
「御心配を御掛けしてしまって、申し訳ございません、母上。名誉ある近衛騎士があれ程までに愚かなことを仕出かすとは、思ってもおりませんでした。母上には御詫びの言葉もなく、父上に至っては御顔を見る勇気も出てはきませんよ」
悔し気に唇を噛んだアリスタリスを、じっと醒めた目で見詰め、エリザベタは気怠そうな口調で質問を投げ掛けた。
「聡明でいらっしゃる筈なのに、わたくしの大切な息子は、少し清純に育ち過ぎたのかしら。ねえ、殿下。貴方はカテリーナの醜聞に就いて、何か疑問には思わなかったの。ここはロジオン王国の王城、女の謀の表舞台ですのよ」
アリスタリスは、思い掛けない母の言葉に驚いて、目を見開いた。事件の発覚から今に至るまで、アリスタリスに同じ疑問を呈した者はいなかったのである。
「私は、事態の深刻さに衝撃を受ける余り、頭から聞かされた通りに信じ込んでおりました。そうではなかったと仰るのですか、母上」
グリンカ公爵家の息女であり、誕生の瞬間から正妃になるべく育てられたエリザベタは、王城と貴族社会の実像を知り尽くしている。漸く生まれた唯一の王子を溺愛する母親ではなく、一流の政治家だけが持つ冷徹さで、エリザベタはアリスタリスを叱咤した。
「貴方も十八歳を過ぎたのだから、もう少し物事の裏を読まなくてはなりませんよ、殿下。カテリーナという女は、確かに愚かだったし、男にだらしのない淫蕩な質だったのでしょう。けれど、心の中で目移りをすることや、言葉だけで恋の駆け引きを楽しむことと、実際に不貞に足を踏み入れることでは、全く話が違います。第四側妃に過ぎないとはいえ、カテリーナはこの大王国の正式な妃だったのですよ。常に人目もあるし、発覚すれば大逆罪で処刑されるかも知れないというのに、そう簡単に火遊びなどできるものですか」
「母上は、カテリーナが無実だったと仰るのですか」
「いいえ。あの女の罪は明白ですとも。閨に踏み込まれるなど、女として死にも勝る恥辱です。只、自然に生まれた罪ではなかったのでしょう。わたくしは、あの愚かな女が不貞の泥沼に落ちるように、上手く誘導した者が居たのではないか、と申しているのです」
正統なる王妃として、長く大王国を支えてきた母の言葉に、アリスタリスは虚を突かれた。言われてみれば納得出来る解釈であり、寧ろ元第四側妃と女官達が、単純に大罪を犯したと考えるよりも、遥かに自然な言説だった。
アリスタリスは、悔しそうに唇を歪めて微笑みの形を作った。己れの幼さを嘲笑うかのような、仄暗く自虐的な笑みだった。
「私は馬鹿だな。仰る通りですよ、母上。相手の近衛騎士にしても、余程の自信がなければ、陛下の側妃に手出しなどする筈がない。何らかの意図を持って、積極的に行動する者がいなければ、不貞は起こり得ないでしょう」
「ええ、そうなのよ、殿下」
「扇動者の目的は、カテリーナの処罰。しかし、陛下は別に元第四側妃を御寵愛ではなかったのですから、カテリーナ本人を追い落としても、王城の勢力図に大きな影響はない。可能性として考えられるのは、カテリーナの処罰によって、元第四側妃の子である王子達を、王太子位争いから完全に排除すること、ですね」
エリザベタは眦を緩め、己が王子に微笑み掛けた。大ロジオンの王子たるに相応しい聡明さを誇り、多くの座学を苦もなく修めてきたアリスタリスである。漸く謀の存在に気付いた後の勘の良さに、厳しい王妃も及第点を与えたのだった。優しい母の声で、エリザベタは言った。
「そうですよ、殿下。正式な側妃が簡単に不貞を行える程、我が王城は隙の有る場所ではありません。誰かが作為的に仕掛けたと考える方が、余程自然なのです。更に、罪の相手が近衛騎士となれば、正嫡の王子たる殿下にも傷を付けられると考えたのでしょう」
「元第四側妃が推していたのは、長子たるアドリアン元王子。今回、汚辱の泥を被ったのは、私を支持してくれている近衛騎士団。一石二鳥を狙うとすれば、アイラト殿下ですね。まさか、あの方が」
王太子位を競う相手であるアイラトの名を出しながら、アリスタリスは懐疑的な思いで首を捻った。異母兄でありながら立場を異にし、同じ王城に住まいながら遠く隔たったアイラトの、秀麗な面差しを脳裡に浮かべても、側妃の不貞とは中々結び付かなかった。アリスタリスの疑いを、エリザベタもまた、即座に否定した。
「様々な状況から考えて、アイラト殿下の住まうドロフェイ宮が火元であるのは、間違いない所でしょう。ですが、わたくしはアイラト殿下は無関係だと思います。あの方は殿下と同じで、陛下を心から崇拝していらっしゃいますもの。陰謀を仕掛けるとしても、陛下の御名に泥を塗るような方法は選ばれないでしょうね」
アリスタリスと話す内に気力が湧いてきたのか、エリザベタは眼を輝かせ、息子に握られたままの手に力を入れた。アリスタリスも、母の言葉に大きく頷いた。
「私もそう思います、母上。異母兄弟とは言え、アイラト殿下と私とは、子供の頃から親しく話した経験すら有りません。今も遠い方であり、余り兄とも感じませんが、あの方の父上への憧れが、本物であることは分かります。父上の妃に不貞を働かせるなど、聞くだけで不愉快に感じられるのではないでしょうか」
「ええ。アイラト殿下は、狡猾な陰謀家で在られる反面、高潔で潔癖な気質の方ですから、不貞を謀に用いたりはなさいません。崇拝する陛下の妃に対しては、ですけれども。それに、上手く女官達を誘導するようなやり方は、殿方は御好みになりませんし、不得手でもありましょう。ドロフェイ宮には、陰謀家を自認している方がおられますから、アイラト殿下の知らぬ間に陰で動いたのではないかしら」
「マリベル妃ですか。父親のクレメンテ公爵と、アイラト殿下の叔父であるスヴォーロフ侯爵は、この謀を知っているのかな」
「クレメンテ公爵の方は、或る程度は力を貸している筈ですよ。あの俗物は、己が娘の力を過信して、王妃の器だと公言していますしね。宰相に就いては何も分からないわ。真の天才であるからこそ、あの者の心は複雑過ぎるもの。低俗な陰謀に加担する程愚かではないけれど、反面、面白がって無責任に煽りそうな気もするし」
じっと耳を傾けていたアリスタリスは、上目遣いでエリザベタの目を覗き込んだ。十八歳という年齢よりも幼く見える、少女めいた美貌の王子は、蕩けるように甘えた微笑みを浮かべて、エリザベタに尋ねた。
「それで、母上はどうなさる御心算ですか。事実はどうであれ、私が立場をなくしたのは確かです。事態を好転させる手段を御存知なら、私に教えて下さいませんか」
「分かっていますよ、殿下。この度の成り行きなど、陛下は御存知に決まっています。それでも、これ以上騒動を広げない為に、マリベルを放置なさる可能性はありますからね。陛下に重い腰を上げて頂けるように、わたくしが動きましょう」
エリザベタから望む答えを引き出したアリスタリスは、微笑を一層深いものにして、大王国の王妃たる母に尋ねた。
「その結果、事態はどう動くと御考えですか、母上」
「あの愚かなマリベルとその父親は、陛下から切り捨てられるでしょう。アイラト殿下に関しては、御本人の行動次第ですね。マリベルを放置して、あの女の行動を追認してくれるのなら、陛下からの評価は暴落します。ですが、陛下に妃の罪を告発するようなら、あの方との勝負は続きましょう。何れにしろ、クレメンテ公爵家の力を削げるのですから、この度の近衛の失態など幾らでも取り戻せますよ、殿下」
アリスタリスは、夏の空の如く澄んで輝く瞳に、陶然とした憧れの色を纏わせて、母の白く美しい顔を見詰めた。
「有難うございます、母上。貴女のような方を母に持てるとは、私は本当に幸せ者ですよ。母上は、ロジオン王国で最も価値のある貴婦人で在られるだけでなく、私の女神でも在らせられる。至らない息子の為に、どうか御力を御貸し下さい。アイラト殿下は無理でも、私に恥を掛かせたマリベル妃には、一矢報いておきたいのです。私の素晴らしい母上なら、助けて下さいますね」
命を削って産み落とした王子の手放しの賛辞と、幼く甘え掛かる微笑みに、常に冷静なエリザベタの青褪めた頬が、淡い薔薇色に染まった。この瞬間、アイラトの正妃たるマリベルは、自分でも気付かぬ内に、ロジオン王国に於ける女性の頂点、王妃エリザベタの敵と定まったのである。