連載小説 邂逅 ー神霊術少女チェルニ外伝ー〈前編〉
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こちらは、現在連載中の、〈神霊王国物語〉シリーズ『神霊術少女チェルニ〈連載版〉』の外伝作品です。前編・中編・後編の全3部構成となっています。
なお、本作『邂逅』と『神霊術少女チェルニ〈連載版〉』『神霊術少女チェルニ〈往復書簡〉』では、作品のイメージに合わせて文体が大きく異なります。
ぜひ、『〈連載版〉』そして、同作の登場人物による文通の様子を描いた『往復書簡』と、合わせてお楽しみください。
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その日、ルーラ王国の王国騎士団を統べる騎士団長、レフ・ティルグ・ネイラは、数人の部下を連れて、王城の長い回廊を進んでいた。
堅牢な石造りの土台の上に、純白の大理石を惜しげもなく張り巡らせた巨大な王城は、高い尖塔を連ねた優美な外観から、〈白鳥城〉の名で知られている。造営から千余年、一度として戦火に焼かれたことがなく、美しい純白を保ち続ける王城は、ルーラ王国民の誇りであり、他国の羨望の的でもあった。
回廊を突き当たり、優雅極まりない螺旋階段を登ったところで、三人の男達が一行を待ち受けていた。そのうちの一人、王城の高等官吏であることを示す、漆黒の官服を身に着けた壮年の男が、片膝をついて礼を取りながら、恭しい口調で言った。
「畏れながら、言上つかまつります。本日はわざわざの御運びを賜り、恐悦至極に存じます、王国騎士団長閣下。宰相閣下が御待ちでございますので、先導をさせていただきたく、御待ち申し上げておりました」
レフ・ティルグ・ネイラは、まだ二十代半ばの青年である。ルーラ王国でも指折りの大貴族、ネイラ侯爵家の嫡男として生まれ、史上最年少で王国騎士団長の座に上り詰めた逸材とはいえ、自身も貴族位を持つであろう高等官吏の態度は、不自然な程に慇懃だった。
レフは、視線を合わせることさえ畏れるかのような官吏の姿に、特に関心を向けることもなく、穏やかな表情のまま頷いた。レフにとっては、物心のついた頃から繰り返される、当たり前の情景だったからである。
レフのすぐ後ろを守っていた、副官と思しき壮年の騎士が、静かに進み出て口を開いた。
「御迎え、恐縮でございます。御先導の程、御願い致します」
「畏まりました。宰相閣下に御到着を御知らせ致したく、先触れの神霊術を使わせていただいても、よろしゅうございますか」
「もちろんでございます」
「では、そのように。ありがとうございます」
高等官吏は、視線を下げたまま背後を振り返ると、背後に控える濃紺の官服の男に向かって、一つ頷きかけた。濃紺の官吏は、胸元から小さな紙片を取り出すと、それを左の手ひらに乗せたまま、素早く右手の指先で〈印〉を切り、小声で詠唱を行なった。
「風を司る御神霊に願う。我が手にある紙片を、宰相閣下の執務室前、護衛に立つ近衛騎士に届け給え。対価は我が魔力を必要なだけ」
すると、男の目の前に指先ほどの小さな水色の光球が現れ、二度三度、手のひらの紙片の上を旋回する。そして、光球が水色の光となって溶け出したかと思うや否や、ふわりと浮かび上がった紙片が、どこへともなく飛び去っていった。巨大な王城では、一日に何十度も使われるであろう、風の神霊術の一つだった。
神霊術とは、万物に宿るとされる神霊の力を借り、自らの魔力などを対価に捧げることによって、人知を超える現象を引き起こすことをいう。ルーラ王国の別名は、千年の安寧を誇る〈神霊王国〉。国民のほとんどが、何らかの神霊術を使うことから、そう呼ばれているのである。
〈森羅万象、八百万、遍く神霊の御坐す〉。この世の全てのものに、ことごとく神霊が宿っているという、この言葉こそが、千年の時を経ても変わらない、ルーラ王国の国是だった。
神霊術を行使するためには、神霊から〈印〉と呼ばれる証を得なくてはならず、その印は無数といって良い程に細分化されている。風や火、水や土というように、応用範囲の広い力を持った神霊から印を与えられることもあれば、〈釘〉〈卵〉〈絹糸〉〈まな板〉など、極めて限定的な物質を司る神霊から、印を与えられることもある。
誰に何の印が与えられるのか、いつ与えられるのか、いくつの印を与えられるのか。その決定は、人の身には予測することさえ叶わない、神の領域なのである。
こうしたルーラ王国の神霊術は、他の国々からは、およそ理解不能な現象だといわれている。全ての人々が魔力を持ち、魔術を使う世界にあって、他国が行使するのは魔術だった。複雑に決められた術式に、身の内の魔力を流し込むことによって、様々な現象を引き起こすのである。
ルーラ王国の国民でない者は、どれだけの努力を重ねても、神霊術を会得できず、神霊術を使うルーラ王国の民も、決して魔術の行使はできない。それぞれの〈理〉が違うのだと、ルーラ王国では、幼い子供でさえも知っていた。
風の神霊術によって、宰相執務室への先触れが行われたことを確認すると、ひざまずいていた官吏たちは、微塵も上半身を動かさないまま、真っ直ぐに立ち上がった。高等官吏は、レフに深々と一礼すると、優雅な足取りで歩き出し、二人の部下がそれに続く。
王国騎士団の側も、副官が先に立って官吏たちの後方を歩き、さらにその後ろをレフと部下達が進んでいく。王城の慣例となっている儀礼は、洗練を極めた様式美であり、無意味な程に典雅だった。
ルーラ王国の宰相執務室は、そこから広々とした廊下を進み、さらに階段を登り切った、王城でも奥まった一角に設けられている。近衛騎士が守っている扉を、三度までも通り抜け、王国騎士団の一行は、ようやく宰相執務室に隣接する面談室へとたどり着いた。
先触れによってレフの到着を知らされていた、ルーラ王国の宰相、王国随一の大貴族である、アル・ティグネル・ロドニカ公爵は、長椅子にゆったりと座ったまま、にこやかにレフに話しかけた。
「呼び出してすまないな、レフ。供の者達も、楽にしなさい。茶菓の用意もしてあるので、そちらの椅子に座って、自由におあがり」
大王国の宰相にしては、気安く親しみのこもった口調に、王国騎士団の者達は、丁寧に頭を下げることによって謝意を示した。レフは、ロドニカ公爵の向かい側の椅子に腰掛けてから、こう言った。
「御召しにより参上致しました、宰相閣下。王城でわたしを御呼びとは、何か急なことでもございましたか」
「あった。かねてからの懸案事項が、進展を見せたので、そなた達の力を借りたいのだ」
「御意に。御話を御聞かせください」
ロドニカ公爵が視線を投げると、壁際に控えていた官吏の一人が、恭しく歩み寄った。襟元に、銀糸で三つの星の刺繍を施された漆黒の官服は、官吏の最高峰ともいえる、宰相府の主席事務官の身分を示すものである。
「レフに詳細の説明を」
「畏まりました、閣下。誠に僭越ながら、御説明申し上げます、王国騎士団長閣下」
「ええ。よろしく御願いします」
「畏まりました。この場には、既に防音の神霊術が施されておりますので、率直に御説明を申し上げます。かねてより、宰相閣下が御心痛であられました、ルーラ王国の少年少女誘拐に関しまして、有力な情報が得られたようでございます。現在のところは、真に有力情報かどうかの確定までには、至っておりませんけれども」
主席事務官の言葉に、宰相執務室にいた者達の間に、密かな緊張が走り抜けた。少年少女の相次ぐ誘拐は、千年の平和を維持するルーラ王国にあって、稀に見る重大事件だったのである。
主席事務官は、資料一つ見ることもなく、次々に正確な数字を上げていった。
「改めて御説明申し上げますと、ルーラ王国内で、少年少女の誘拐が頻発化致しましたのは、ここ二年の間のことでございます。それまでも、単発的な事例としてはあったのでございましょうから、王城に報告が相次ぐようになったのは、という意味ではございます。数的には、それまでは年間十件未満であった誘拐事件が、二年間で三十八件に達し、被害者は百五十人を超えるものと思われます。被害者のほとんどは、寄る方なき孤児でございますので、件数、人数とも、実際にはこの数を大きく上回る可能性が高うございます」
王国騎士団長という、王国の重職にあるレフはもちろん、その側近を務める部下達も、かねてから誘拐事件の概略は知らされている。しかし、改めて語られた事態の深刻さに、誰もが息を飲まずにはいられなかった。
レフは、眉間にしわを寄せただけで、無言を貫いた。その沈黙によって先を促された主席事務官は、淡々とした声音で報告を続けた。
「王国騎士団長閣下も御承知の通り、市井の誘拐事件の捜査に当たるのは、各町村の守備隊でございます。我が王国の守備隊は、それぞれに規律正しく、王国の民を守護する使命に注力しておりますが、町村ごとに半ば独立した組織であることから、広域的な犯罪には対処の及ばぬ部分がございます。過去の誘拐事件につきましては、基本的に町村内で起こった限定的な事件であり、逃亡犯を追うために町村を跨ぐ程度のことでございましたので、これまではおおむね検挙してまいりました。しかし、この二年間の事件は、王国中の町村を対象とした犯罪と申し上げて良い程に、発生地点が点在しているのが特徴でございます」
ほのかに芳香を立ち昇らせる紅茶を、苦い表情で口にしてから、ロドニカ公爵が話を引き継いだ。
「これらの状況から、宰相府では一つの仮説を立てている。二年前までに起こった誘拐事件が、別々の犯人によって起こされた偶発的なものである一方、この二年間の誘拐は、同一の犯人による組織的な犯行ではないか、と。その見通しについては、そなたにも話していた通りだよ、レフ」
「存じ上げております。宰相閣下が、広域犯罪であるという仮定の元、我ら王国騎士団の投入を御考えであり、適切な機を計っておられることも」
「どうやら、その機が訪れたらしい。昨日、王都の南西にあるセアラという街の守備隊から、重要な情報が入った。孤児院から子供を拐った犯人を追っていたところ、目の前で逃げられてしまったのだが、その際、転移魔術と思しき術が使われる現場を、何人かの守備隊員が目撃したというのだ」
「転移魔術ですか。何らかの神霊術ではなく」
「そうだ。遠目に追いついた犯人どもは、印も切らず、魔術陣を展開したらしい。痕跡も残されていたと申したな」
ロドニカ公爵が確認した相手は、傍に立つ首席事務官だった。首席事務官は、重々しくうなずいた。
「御意にございます、閣下。神霊術と魔術、双方の観点から急ぎ検証致しましたところ、ほぼ魔術の行使で間違いはないものと存じます。物証と致しましては、魔術の威力を増大させるために使われたと思しき〈触媒〉の一部が、現場に残されておりました。いくつかの国で好んで用いられる、高純度の水晶であり、魔力の痕跡も検出できております」
「この情報から導き出される回答は、今のところ一つしかない。我ら、ルーラ王国の国民であれば、魔術は使わず、使えない」
「つまり、犯人は他国ですか。他国の者たちが、ルーラ王国の少年少女を誘拐しているとおっしゃるのですね。そう考えれば、拐われた子供たちの行方が杳として掴めないことにも、納得がいきますけれど」
「転移魔術を用いて、他国に連れ去ったと考えるのが、合理的な結論というものだろう。これは、極めて深刻な事態だよ、レフ。子供たちの安全とは、全く別の次元においてな」
「自国の子供たちを、百五十人以上も拐われたとすれば、国家としての誇りに懸けて、見過ごしになどできません。不戦を貫くルーラ王国とはいえ、厳しく立ち向かうしかないでしょうね」
「そう。内心はどうであれ、開戦するしか道はなかろうな。それが、国際政治の常道だよ。御神霊に守護され、平和を謳歌してきたルーラ王国とはいえ、所詮はこの世界に生きる国家の一つに過ぎないのだから」
そうして、ロドニカ公爵の密かなため息と共に、宰相執務室を支配したのは、不安をはらんだ重苦しい沈黙だったのである。
◆
やがて、自らのもたらした暗雲を吹き払うかのように、ロドニカ公爵は表情を改めた。長椅子の上で威儀を正し、じっとレフを見つめる瞳に、ルーラ王国の宰相たるに相応しい覇気が漲っていく。
「とはいえ、みすみす開戦などという事態を招いては、我らは無能の謗りを免れないであろう。早急に事態の鎮静化に当たらねばならぬ。誘拐犯どもが、いずれかの国家の意思によって動いているのではなく、単なる犯罪者であれば、国と国との関係においては、穏便にすませることも可能なのでな。そうであってほしいものだ」
ロドニカ公爵の言葉に、レフが初めて頬を緩めた。すると、どこか人形めいた無表情にも見え、近寄りがたい雰囲気をまとっていた面に、青年らしい明るさが浮かぶ。王国騎士団の中ではめずらしくはなく、貴族社会にあっては滅多に見られない、レフの打ち解けた表情だった。
身体から力を抜き、長い足をゆったりと組んでから、レフはロドニカ公爵に屈託なく微笑みかけた。
「相変わらず、伯父上は〈政治家〉でいらっしゃる。いずれかの国が意図して起こした誘拐事件ではなく、単なる犯罪者どもの仕業であると、伯父上が御判断なさるのでしょう」
「そなたは、高位貴族のくせをして、言葉を飾ることをしないので困る。もちろん、そうだとも。今回の誘拐事件は、国家的な犯罪などではなく、一部の愚かな犯罪者が強行したに過ぎぬ。したがって、どの国に対しても開戦はしない。真実はどうであれ、それがルーラ王国の選ぶ事実だよ。構わないであろう、レフ。我が愛する甥にして、王国の守護神たる王国騎士団長よ」
「もちろん、異論など一切ございませんよ、伯父上。戦をしたがる愚か者など、この場には連れてきておりませんので。しかし、そう決まったのであれば、なおのこと犯人どもの検挙に努めなければなりませんね」
「そうだとも。相手の国家そのものを救ってやるのだから、相応の対価は支払わせなくてはならぬ。子供たちを残らず救出し、犯人を逮捕して厳罰に処し、関係者のことごとくを処分させる。それが他国の王族であろうともな」
「当然ですね。子供を拐うような犯罪者には、手加減など必要ありません。わたしは、何をすればよろしいですか、伯父上。王国騎士団は、英邁なる宰相閣下の御命令を、今か今かと御待ちしておりますよ」
「まずは、実行犯の確保が先決であろうな。子供たちの救出と背後関係の洗い出しは、宰相府の指揮のもと、王国騎士団と他部署との合同で行うことになろうし、実行犯の確保には、そなた自身にも出張ってもらわなくてはならぬ。いかなる魔術であれ、必ず打ち破ることのできる者は、神霊王国と呼ばれる我が王国でも、只一人、〈覡〉であるそなただけなのだから」
レフは、黙って微笑みを深くしただけだった。謙遜するまでもない、ロドニカ公爵が口にしたのは、単なる事実に過ぎなかったからである。
ルーラ王国では、神霊の恩寵を受けて現世に降臨した者を、〈巫覡〉と呼ぶ。女であれば〈巫〉、男であれば〈覡〉であり、神霊そのものの体現者として、世の常の神霊術を超えた、大きな力を振るうといわれているのである。
千年を超える歴史の中で、ルーラ王国には、何人かの巫覡が出現している。巫だけのときもあれば、覡だけのときもあり、その頻度はおよそ数十年に一度。巫覡ともに現れなかった空白期間はあっても、同時に複数の巫や覡がいたこともなければ、巫覡がそろって存在したこともなかった。
ネイラ侯爵家の嫡男として生を受けたレフは、産まれた瞬間から覡だった。レフが産声を上げるまさにそのとき、神霊に関係する諸事を執り行う、神霊庁と呼ばれる役所に奉職する神職と、王家の血を引く者の全てに、神託が降ったからである。
〈ネイラ侯爵家が嫡男は、めでたく現世に降臨したる覡なれば、護れ、寿げ、よく仕えよ。かの者は、覡の中の覡にして、千余年の時を経て神霊王国に現れ出でし《神威の覡》也〉
厳かな神命として、人々の魂に刻み付けられた神託は、覆しようのない重さを以て、レフの人生を決定した。
覡が神霊の体現者であるとすれば、神の威をまとった〈神威の覡〉は、神霊の化身そのものである。神託によって〈神威の覡〉であると予言されたレフは、地上の権力とは別の次元で、生まれながらに神霊王国の頂点に君臨する存在となったのである。
ロドニカ公爵は、自身もレフに微笑みかけてから、首席事務官に視線を投げた。有能な首席事務官は、それだけで宰相の意図を察し、漆黒の官服の胸元から小さな絹の包みを取り出すと、そっとテーブルの上に置いた。包みの中から現れたのは、指先ほどの大きさの水晶の欠片である。
「この水晶が、現場に残された魔術触媒なのですか、伯父上」
「そう。周囲を隈なく捜索させたが、他の物証は出なかった。この水晶についても、現在のところ、使用済みの魔術触媒であり、転移魔術の痕跡が残されていることしか判明していない。何かわかるかね、レフ」
そう言って、ロドニカ公爵は、水晶を無造作に摘み上げ、レフの手に載せた。わずかの間、水晶を凝視した後、レフは尋ねた。
「この水晶の記憶を探ってみましょうか、伯父上」
「そんなことが可能なのか、とは問うまいよ。覡が申されるのであれば、その程度は造作もないのだろう。頼むよ、レフ」
「鉱物を司る神霊に、調べてもらう手もありますが、もう少し詳細に見てみましょう。幼い子供たちを拐うような、大罪人が相手なのですから、我々も力を尽くさなくては。今からここで、神霊術を使います。御人払いはよろしいですか、伯父上。我が部下は、わたし自身よりも信頼のおける者だけを、選んで連れてきております」
「大丈夫だよ、レフ。この部屋の者はもちろん、扉を護る近衛騎士さえも、今日は手の内の者で固めておる。如何様にもしておくれ」
「御意にございます。では、〈鏡〉に尋ねてみることに致しましょう」
「〈鏡〉とは、彼の御神鏡か」
「はい。それが最も早く、確かですから」
ロドニカ公爵は、レフの答えを聞くや否や、椅子から立ち上がって、周囲の者たちに声をかけた。
「我らが覡が、御神鏡を召喚なされる。皆、神威に備えなさい」
そう指示された者たち、王国騎士団の騎士や首席事務官、先導をしてきた高等官吏たち、宰相付けの官吏らは、即座に宰相の命に従った。ロドニカ公爵を含めた全員が、広々とした応接室の一角に、壁を背にして寄り集まり、床に両膝をついたのである。
戸惑いもなく跪いた人々は、背筋を伸ばして腰を落とし、軽く握った両手を床につけた。視線は目の前の床に置いたまま、じっとその姿勢を保つ。広い世界の中にあって、ルーラ王国だけで行われる、神事の際の座礼だった。
応接の椅子に残されたレフは、その場で威儀を正し、即座に神霊術を行使する。印も切らず、詠唱もせず、只一言、こう言った。
〈神照〉
その瞬間、部屋を満たしたのは、目に見え、手で掴める程に濃密な、神霊の気配だった。無条件に人を圧倒し、根源的な畏れを呼び起こす、こうした神の威光を、ルーラ王国では〈神威〉と呼ぶのである。
部屋にいた者たちは、握り締めた手に力を込め、姿勢を低くすることで、押し寄せる神威に耐えた。恐怖にかられたのではなく、我を忘れたわけでもなく、畏れ多さに震える心を、ひたすらに強く保とうとする。
彼らが、ルーラ王国の宰相と選び抜かれた側近たち、王国騎士団の精鋭でなければ、あまりの尊さに押し潰され、うずくまって呻くことしかできなかっただろう。
レフは、人々の様子を一瞥すると、自分の目の前の空間に向かって、すぐに言葉を続けた。
「我が宝具たる〈神照〉よ。この場では、そなたの神威を抑えてほしい。魂に穢れなく、神霊の守護ある者たちにとってさえ、そなたは眩しすぎるのだよ」
レフが言うと、部屋を覆い尽くしていた神威が、たちまちのうちに消え去った。そっと微かに、誰かが安堵の溜息を吐く。そして、ようやく身体の強張りを解いた人々が、いつの間にか深く下げていた頭を上げたとき、否応なく視線を奪われたのは、レフの目の前にふわりと浮かんでいる、一枚の鏡だった。
◆
鏡は、両手で捧げ持つ程の大きさの、全き真円に見えた。鏡の周りには一切の縁飾りがなく、仄かに発光した鏡面は、まるで夜空に輝く月だった。そして、縁飾りの代わりであるかのように、鏡を飾っているのは、煌めきながらたなびいている、淡い五色の雲である。
神霊に守護され、人智を超えた力に親しみ、人々が神霊術を行使するルーラ王国にあってさえ、見る者を慄かせずにはおかない、神秘なる神の遺物。レフの一言で顕現した鏡こそは、王国の宝物殿の奥深くに護られているはずの、国宝〈神照〉だったのである。
「我がルーラ王国の子供たちを、力ずくで拐っていった極悪人がいるのだよ、〈神照〉。机の上の水晶には、憎むべき犯人の記憶の欠片が眠っている。遍く全てを照らし出す、いとも尊き神鏡よ。わたしたちに、犯人の姿を見せてほしい」
レフが口にした、詠唱ともいえない言葉を受けて、〈神照〉は純銀の光に煌々と鏡面を輝かせた。鏡から溢れ出た光は、真っ直ぐに机の上に降り注ぎ、透明の水晶を五色に染め上げる。そして、銀色の光が消え、水晶が色を失ったかと見るや、〈神照〉は滑るように動き出し、床下近くまで移動した。
部屋中の人々が固唾を飲んで見守る中、鏡面を上に向けて、低い位置で浮かんだ〈神照〉から、再び天井に届く程の銀光が迸り、その光の幕の中に、数人の男たちの姿が等身大に映し出された。
実体よりはいくらかぼんやりとした輪郭を見せて、銀光に浮かび上がった男の一人は、商人らしき身なりの中年男であり、目を離した瞬間に忘れてしまいそうな、特徴のない目鼻立ちをしていた。ただし、極めて注意深い者や、人を疑うことに慣れた者が見れば、男の度を越した平凡さこそが、不自然であると気づいただろう。
商人風の男と共にいるのは、荷運びの仕事をする者らしき服装をした、三人の男たちである。彼らの肩には、いくつかの大きな麻袋が担がれており、一見すると、商人風の男が扱う荷物を、運んでいる最中にも思われた。
最後にもう一人、男たちの影に隠れるようにして身を潜めているのは、白髪まじりの黒髪を無造作に束ねた、痩せぎすの男だった。やはり商人風の身なりで、中年男の部下にも見えるが、狷介な表情は商人には不似合いであり、青白い顔に汗を浮かべる様子からは、激しい焦燥が感じられた。
こうした五人の男たちは、どこかの街の裏路地だろう物陰で、声を抑えて言い争っているのである。
「おい、早くしろ。守備隊の奴らが追ってくるぞ。時間がない。転移魔術陣はまだ発動しないのか」
「うるさい。気が散るから、静かにしてくれ。これだけの大人数を転移させる魔術なんだ。そう簡単に発動できるものか」
「だからこそ、一級品の水晶を用意したんだろうが。魔術触媒として必要だとはいえ、その水晶一つで、子供が一人買えるくらいの金がかかるんだぞ」
「いい加減にしろ、おまえたち。騒いだところで、事態は悪化するだけだ。魔術発動に集中力が必要なことくらい、おまえたちにもわかるだろう」
「しかし、隊長」
「黙れ。その言葉を口にするな、愚か者」
「申し訳ありません。気をつけます」
「わたしたちは、守備隊の者たちに顔を見られている。散り散りになって逃げても、追い立てられる可能性が高い。守備隊がこの路地まで迫ってきたら、倒すしかあるまい。おまえたちは、荷物を持って魔術陣の発動地点で待機しろ」
「あなたが、一人で戦われるのですか」
「魔術を使う。我が術なら、守備隊の者たちなど、何十人おろうと恐るるに足りん」
「それは、確かに。しかし、そうすると、我らがルーラ王国のものではないと、悟られる結果になりますが」
「仕方あるまい。荷物の中身を改められたら最後なのだ。ともかく、この場を切り抜けるしかない。拠点まで逃げ込んでしまえば、この国の者は誰も手を出せないからな」
「来ました。来ました。守備隊の奴らです」
「発動準備完了。転移します」
「よし。全員、魔術陣に乗れ」
そこからは、騒然とした場面となった。路地裏の古ぼけた敷石の上に、赤々とした魔術陣が浮かび上がり、人の身長を超す程の大きさに広がっていく。五人の男たちが、魔術陣の上でひと塊になって身を寄せると、赤い魔術陣が輝き出す。路地裏の入口に、ルーラ王国の守備隊が突入して、必死に追い迫ってくる直前で、男たちは首尾よくその場から消え失せたのである。
男たちの姿が消え、赤い輝きを失った魔術陣の上で砕け散った水晶の欠片が、守備隊と思しき男の手に拾われたところで、水晶の記憶は途切れていた。
忠実に一連の情景を再現した〈神照〉は、水晶の記憶が終わると同時に銀光を消し、滑るようにレフの眼前へと戻っていった。レフは、役目を果たした〈神照〉に、優しい口調で話しかけた。
「ありがとう、〈神照〉。そなたには、いつも助けられるよ。宝物殿の奥の奥、十重二十重に守護された結界の中へ戻って、また微睡んでおいで」
〈神照〉は、今度はレフの言葉に従おうとはしなかった。まるで嫌だと訴えかけてでもいるかのように、ゆらゆらと揺らめくと、瞬く間にその姿を縮め、五色の雲を持ち手にした小さな手鏡に変じて、レフの上着の隠しに滑り込んだのである。
ゆっくりと立ち上がり、官吏の手で丁寧に埃を払われたロドニカ公爵は、レフの前の椅子へと戻ってから、苦笑まじりに言った。
「どうやら〈神照〉の御神鏡は、宝物殿へ御戻りになるおつもりはないらしい。いつものことではあるけれど、御神鏡の御気の済むまで、そなたの身近に置いて差し上げるしかなかろうな、レフ」
「清浄なだけの宝物殿など、退屈なのですよ、〈神照〉は。わたしが、国宝を私物化したと言われても困りますので、持ち歩くのは望ましくないのですが」
「馬鹿馬鹿しい。御神鏡が、御自らの御意志によって、〈神威の覡〉の元におられるのだ。神ならぬ身で口出しをするなど、畏れ多い限りだよ。そもそも、御神鏡はルーラ王国のものではない。王家、王国といえども、神の遺物を物として所有することなど、許されるはずがないではないか。わたしの目の黒いうちは、誰にも文句など言わせるものか」
「伯父上の仰せの通りだと、胸元の〈神照〉が喜んでいますよ。まあ、今回は、退屈以外の理由もあるのでしょう。子供たちの誘拐事件が解決するまで、わたしと共にいてくれるそうですから」
「ということは、御神鏡の御助力が必要になるのであろうな。先程、犯人どもが漏らした言葉を聞けば、予測がつくというものだ」
「〈隊長〉。確かにそう言いましたからね、犯人は」
「盗賊の類であれば、隊長などとは呼ぶまいし、その言葉を咎めることもあるまい。彼奴らの物腰も、専門の教育を受けたものとしか思われぬ。いずれかの国の騎士団か、暗部の者であろうな」
「今後の御指示をいただけますか、宰相閣下。単なる犯罪者として処理するためには、先手を打たなくてはならないでしょう」
ロドニカ公爵は、しばらくの間、半眼となって考え込んだ。有能な高等官吏たちは、紅茶の入れ替えを手配し、王国騎士団の者たちを席につけ、記録を取る用意を整えて、宰相の言葉を待った。
やがて、ゆっくりと顔を上げたロドニカ公爵は、迷いのない口調で、次々と指示を出していった。
「御神鏡の御力によって、我々は極めて有力な情報を得ることができた。新たに判明した事実は五つである。一、犯人は他国の者であり、組織的な犯行である。二、犯人の中には、魔術師らしき者が含まれる。三、犯人は拠点を確保しており、その安全性に強い自信を持っている。四、犯行には高価な魔術触媒が使われていることから、金銭だけが犯行の目的ではない可能性がある。五、犯人の中の最低一人は、戦闘における魔術に長じている」
部屋中の者たちが、一言も口をはさまず、宰相の言葉に耳を傾ける中、官吏がペンを滑らせる音だけが、微かに響く。ロドニカ公爵は、淀みなく言葉を続けた。
「以上の情報から、我々は二つの点に力を入れなくてはならない。一つは、相手の魔術に備えることであり、もう一つは、犯人の背後関係を探ることである。レフ」
「何でしょう、宰相閣下」
「先程も申した通り、今回は指揮官ではなく、現場の戦力として働いてほしい。栄えある王国騎士団長にして、ルーラ王国の英雄たるそなたには、申し訳なきことながら」
「勿論、仰せの通りに致します。御遠慮なく、何なりと御申し付けください」
「〈隊長〉と呼ばれていた男は、何十人もの守備隊員を一人で倒せるのだと、自ら豪語していた。余程、強力な魔術を使う自信があるのであろう。この者の魔術を打ち破り、生きて捕らえてほしい」
「畏まりました」
「さて、問題は、どうやって犯人どもの居所を探るかであろうな」
「それは、造作もなきことのようです。〈神照〉が、そう伝えてくれております」
「御神鏡は、何と仰せなのかね」
「犯人どもの姿を映したのだから、居場所を知ることなど容易い、と。セアラの街の守備隊が、犯人を追い詰めてくれた御陰ですね」
「成る程。一度鏡面に映り込んだ者は、何人たりとも御神鏡の御威光から逃れることはできないのだな」
ロドニカ公爵の言葉に呼応するかのように、レフの胸元の〈神照〉が、上着の布越しに光を瞬かせた。レフは、左胸の隠しを右手で押さえながら、微笑んで言った。
「では、早速、犯人どもを捕らえに参りましょう。どこに逃げ込もうと、すでに彼らは〈神照〉の虜囚です。鏡に映し出された姿が、水晶の記憶に残るだけの、儚い残像に過ぎなかったとしても」
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ニコラ・ド・バクーニは、中位貴族の庶子としてこの世に生を受けた。血統上の父親は、アイギス王国の伯爵位を持つ男であり、花を摘むよりも気まぐれに侍女に手をつけ、ニコラを産ませた。
アイギス王国では、正妻以外の女が産んだ子供は、母親の身分を受け継ぐと決まっている。したがって、父方が貴族であっても、庶子は一切の継承権を持つことができず、父親が養子に迎えない限り、父子の関係さえ認められない。父系相続を基本とするアイギス王国では、それが貴族家の法だった。
ニコラの母親は、それなりに裕福な商人の娘で、行儀見習いのために貴族家の侍女となった女である。側室にもなれない平民である以上、相場通りの金銭を支給された上で、ニコラと共にバクーニ伯爵家を出されるのが、ありきたりな結末だった。ニコラが平凡な赤児であり、特別な才能を持って生まれてこなかったら、実際にそうなっていただろう。
ニコラの父であるバクーニ伯爵は、片手間に侍女を弄ぶような男だったが、貴族としての計算には長けていた。ニコラの魔力量が、相当に多いことを確認すると、すぐに養子の手続きを取って、バクーニ伯爵家の一員とした。母親についても、本人の望むまま妾として屋敷に留め、ニコラの養育に当たらせたのである。
ニコラは、自分が不幸だとは思わなかった。伯爵家の養子に迎えられ、母親と同じ屋敷で何不自由なく育った。魔術の才能に恵まれ、学問も苦手ではなかった。伯爵家の当主である父親や正妻、正妻の産んだ嫡子たちとは、打ち解けた関係ではなかったが、虐めを受けた覚えはない。貴族の庶子としては、ずいぶんと恵まれた暮らしだと、ニコラは考えていたし、それは事実でもあった。
成人したニコラは、父親の勧めに従って、アイギス王国の王国騎士団に入団した。ニコラの使う魔術は強力であり、生来の性格である冷静さも、騎士団では高く評価された。入団から十数年、二百人の部下を持つ中隊長にまで上り詰め、騎士爵の一代爵位を与えられたニコラは、順風満帆の人生を送っていた。王国騎士団の極秘任務として、ルーラ王国への潜入を命じられるまでは。
「用意はいいか。もう一度、手がかりとなるものを残してはいないか、よく確認しろ」
「我らの身分を示すものは、全て破棄しました。あちらに繋がるものも、何一つ残しておりません」
「いいだろう。早々にこの屋敷を引き払う。出発の準備はどうだ」
「全員、すでに終えています」
「では、撤収するとしよう」
「了解致しました。忌々しいルーラ王国を離れ、祖国に帰れるかと思うと、嬉しい限りですよ。なあ、皆んな」
「全くです。この国は、本当に気味が悪い。あの神霊術とかいう怪しげな術は、我らの使う魔術とは、相容れないものですよ」
「まあ、だからこそ、今回の任務を命じられたのだろうよ」
「迷惑なことですよ。栄えある王国騎士団の騎士ともあろう者が、人攫いの真似事をさせられるとは。我が祖国の大義のためには、仕方のないことだとわかっていても、いい気はしませんね」
「それも今宵で終わる。夜通し馬を走らせて、国境線まで行けば、後は転移魔術で帰国するだけだ。新しい触媒は持ったのだろうな」
「もちろんです、バクーニ隊長。先日は、貴重な水晶を壊してしまって、申し訳ありませんでした」
「いや。あの緊急時では、仕方がないだろう。我らが魔術を使うことを、ルーラ王国側に悟られた可能性があることは、面倒だがな」
「しかし、隊長。だからこそ、緊急帰国の命令が出たのですから、我々としては願ったり叶ったりですよ」
慌ただしく出発の準備を整えながら、ニコラの部下たちは、内心の不満を次々に口に出していた。王都の郊外、周囲には貴族たちの別邸が立ち並ぶ、湖畔の屋敷の中である。ニコラは、特に叱責しようともせずに聞き流し、証拠の隠滅だけに気を配っていた。
昨日、セアラという街で、三人の孤児を拐ったときに、たまたま行き合わせた守備隊に不信を持たれてから、ニコラは得体の知れない不安に苛まれている。本国の上官と緊急に連絡を取り、半ば強引に帰国の許可をもぎ取ったのも、押し寄せる不安に従ったからだった。騎士として研ぎ澄まされた、こうした直感こそが、幾度となく自身を救ってきたことを、ニコラは知っていた。
七人の部下を伴って、ニコラが屋敷の裏口を出たとき、外は月の光さえ射さない闇夜だった。手元のランタンに灯った薄明かりを頼りに、ニコラたちは裏庭に馬を引き出した。
千年もの間、一度として戦火に焼かれたことのないルーラ王国では、街々を繋ぐ道筋でさえ、美しく整備されている。まして、貴族の別邸の多い王都郊外ともなれば、石積みの街道が遠くまで伸びていた。
夜闇の中、その街道を馬で走る。夜が開けたら、暁の光を頼りに森に分け入り、国境線を目指すというのが、ニコラたちの計画だった。
「これだけの闇夜だと、人目にもつきにくいだろう。皆んな、不自由だろうが、屋敷の敷地を出たらランタンを消し、夜目を凝らして進んでくれ」
「大丈夫ですよ、バクーニ隊長。この忌々しい国は、街道の整備にかけては万全ですからね。夜目が効くように、魔術さえかけてもらえば、闇夜でも十分に走れますよ」
「これから夜通し、八人に夜目を強化する魔術をかけ、明日には長距離の転移魔術だ。魔力は持ちそうか、ウリスラ一等魔術師」
「上質の魔術触媒を御預かりしているので、何とかなると思いますよ、隊長。このミゲル・ウリスラは、我が王国騎士団の中でも、有数の魔術師だと自負しておりますので」
「そうは言うが、ミゲル。お前の魔術も、バクーニ隊長には及ばないじゃないか」
「攻撃魔術は、確かに。バクーニ隊長は、規格外ですからな」
「わたしは攻撃魔術以外、不得意なのだがな。まあ、いい。万が一、途中で守備隊に追われたら、今度こそ我が魔術を御見舞いしてやろう。さあ、皆んな騎乗しろ。祖国に向けて、出発するぞ」
「残念ながら、そなたたちが祖国の土を踏む未来など、来はしないよ」
屋敷の裏庭に、不意に聞き慣れない声が響いた。怒鳴るのでもなく、叫ぶのでもなく、静かに発せられた声に、ニコラたちは、雷に打たれたかのように慄いた。
「誰だ。誰かいるのか。何の気配もしなかったのに」
「名を名乗れ。ここは私有地の中だぞ」
「構わないから、侵入者を取り押さえろ」
「灯りだ。皆、ランタンを侵入者に向けろ。くそ、方向はどっちだ」
「魔術だ。ウリスラ、照らせ」
部下たちが恐慌に陥る中、ニコラは、素早く魔術師に命じた。心得た魔術師が術式を展開すると、裏庭全体を淡い光が照らし出し、侵入者の姿を映し出した。
そこにいたのは、十人程の男たちだった。隙のない立ち姿と鍛えられた体格、何よりも漆黒に銀糸をあしらった団服が、彼らの素性を物語っていた。ルーラ王国の守護神にして、他国からは恐怖と不条理の象徴として恐れられる、王国騎士団の騎士である。
その騎士たちを従えて、気負いもなく佇んでいたのは、紅玉を溶かし込んだような、見事な赤毛の青年だった。秀麗な面にあって、冷たい光を放つ瞳は、世にもめずらしい灰色の金剛石にも見えた。
青年の団服の襟元に、煌く銀糸で刺繍されているのは、五つの星の意匠である。一つ一つの星が、ルーラ王国の持つ五つの戦力を意味することは、他国でも広く知られている。近衛騎士団と王国騎士団、各地の守備隊、地方領主の領軍、さらに必要に応じて召集される可能性のある国民兵という、五軍全ての統帥権を持つ者は、ルーラ王国の歴史上、只一人しか存在しない。世界最強の騎士とも呼ばれる、ルーラ王国の王国騎士団長、レフ・ティルグ・ネイラその人である。
信じられない侵入者に、部下たちが言葉を失って立ち尽くす中、いち早く正気を取り戻したニコラは、魔術師に向かって叫んだ。
「光を消せ、ウリスラ」
そう言いながら、ニコラは、魔術を発動するための術式を展開していった。夜闇に乗じて時間を稼ぎ、自身の強力な魔術によって場を押さえる。世界最強の騎士などと持て囃れていても、不意打ちでニコラの魔術を浴びせられては、ひとたまりもないだろう。ニコラも、ニコラの部下たちも、そう信じて疑わなかった。
アイギス王国騎士団でも、指折りの攻撃魔術の使い手であるニコラは、暗闇の中で瞬く間に術式を組み上げ、術の発動に成功した。その途端、侵入者のいた方向に向かって、広範囲に魔術を放つ。何十人もの敵を倒したことさえある、希少にして強力な攻撃は、全ての対象を押し潰そうとする重力魔術だった。
人が地面に叩きつけられたらしい物音と、苦しげな呻き声を耳にしたニコラは、勝利を確信した。流石に動揺しているからなのか、相手を圧殺したという手応えはなかったが、動きさえ阻害してしまえば、後はどうとでも対処できるだろう。
世界最強のルーラ王国騎士団長を、ニコラ・ド・バクーニが討ち取った。その巨大な功績があれば、アイギス王国の王国騎士団長の座など、すぐにでも手に入るだろう。この場でとどめを刺さず、レフ・ティルグ・ネイラを、生け捕りにして本国に連行するのは、やはり危険だろうか。そんなことを考えながら、ニコラは魔術師に声をかけた。
「もういいぞ、ウリスラ。灯りをつけろ」
しかし、魔術師は応えない。部下たちも何も言わず、悲痛な呻き声だけが細く響く。不審を感じたニコラが、ランタンに火を入れようとしたところで、冷ややかな声が聞こえた。
「灯りが必要なら、わたしが引き受けよう。〈神照〉」
次の瞬間、劇的な変化が訪れた。真昼かと思うばかりの光が差し込み、裏庭を煌々と照らし出したのである。息を飲んだニコラが、その目に映したのは、光を放ちながら浮かぶ一枚の鏡と、血を吐いて倒れ伏す部下たち、そして何一つ変わりなく佇むルーラ王国の騎士たちだった。
ニコラは、今にも崩れそうになる足に力を入れ、必死で言った。
「なぜだ。なぜ、わたしの部下が倒れ、おまえたちが立っているんだ。確かに、おまえたちに向けて魔術を放ったのに」
「わたしの鏡が、おまえの魔術を反射しただけのことだ。術を弱めておいたので、おまえの部下たちは、一人残らず生きているよ」
「魔術の反転だと。そんな馬鹿な。おまえが魔術そのものを切れるという噂は、事実だったのか」
「切ったのではなく、〈神照〉で反転させただけだというのに。切るというのは、こういうことだ」
そう言うと、レフは、無造作に佩刀を引き抜いた。ニコラの目には、頼りない程に細く見える刀である。そして、何の前触れもなく、舞うかの如く優雅に、レフは、一度だけ刀を握った手を頭上で旋回させた。
たったそれだけの動作で、ニコラは膝から崩れ落ちた。ニコラが展開していた魔術は、術式ごと跡形もなく消え去り、溢れるばかりに満ちていた魔力も、完全に枯渇してしまった。そして、なぜか霞み始めた瞳で、必死に敵を見据えようとするニコラに、静かに宣告が下された。
「おまえの魔術と、魔力そのものを、完全に断ち切った。おまえの部下たちも同じこと。おまえたちは、この先二度と魔術を使えない。おまえの魔術は、中々に強力だったので、先手を打たせてもらったよ」
裏庭の土の上で、ニコラは、必死にレフ・ティルグ・ネイラの顔を見た。澄んだ灰色だったはずの瞳が、鏡のような銀色に輝くのを、確かに見たと思った瞬間、ニコラの意識は深い闇に飲まれたのだった。