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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 2-8

02 カルカンド 状況は加速する|8 恥辱の朝


 側妃の不貞ふていを手助けした使用人達が、王国騎士団の騎士に連行される直前、ただならぬ出来事に揺れていたのは、王城を守る近衛このえ騎士団である。純白の生地に黄金の獅子を描いた団旗がひるがえる近衛騎士団の本部は、異常な緊張と動揺に包まれていた。
 夜通し王城の警護に当たっていた近衛騎士によれば、早朝、王国騎士団が突如として第四側妃の住むローザ宮に踏み込み、多くの女官や従僕じゅうぼくを捕縛したという。王城内、それも王族に関わる事態であれば、王家直属の組織である近衛騎士団が動がなくてはならない所を、近衛には何一つ知らされないまま、宰相スヴォーロフ侯爵によって、一切の手出しを禁じられたのである。王家の為だけに存在する近衛騎士団よりも、王国騎士団を重用するかのごとき状況は、過去にも類を見ない程の異常事態だった。

 近衛騎士団本部の団長執務室では、イリヤを含めた連隊長達が、無言で部屋の主人の帰りを待っていた。近衛騎士団長であるミラン・コルニー伯爵は、取るものも取り敢えずスヴォーロフ侯爵の元へ赴き、情報の収集に奔走しているのである。
 口を開くことさえはばかられる緊張の中、連隊長達の苛立ちが限界に達した頃に、ようやくコルニー伯爵が戻ってきた。四十代を迎えて若々しく、颯爽たる気風に満ちたコルニー伯爵の表情は、連隊長達が見た覚えがない程に暗く沈み、わずか数時間の間に幾つも歳を取ったかのようだった。団長の憔悴しょうすいぶりに驚きながらも、連隊長達は一斉にコルニー伯爵を取り囲み、口々に訴えた。

「閣下、御戻りを御待ちしておりました。一体何が起こっているのです」
「何故、我ら近衛ではなく、王国騎士団が動いたのですか。王城でのことにございますのに。王城は、我ら近衛騎士団の聖域にございます。王国騎士団の如き者共に、好き勝手に動かれるなど、到底納得致し兼ねます」
「陛下は、陛下は御承知なのですか。我ら近衛騎士団を置いて、陛下が王国騎士団に御下命ごかめい遊ばすなど、有ろうはずがございません」

 半ば呆然と立ち尽くしていたコルニー伯爵は、連隊長らの問い掛けに答えないまま、大きな音を立てて椅子に身を投げ出した。王城では無作法とされる立ち居振る舞いであり、末端の騎士ならともかく、高位貴族であるコルニー伯爵には似合わない姿だったが、今は威儀を保つだけの気力もなかったのだろう。コルニー伯爵は、大きな溜息と共に苦々しく言葉を吐き出した。

「落ち着きなさい、皆。およその事情は分かった。分かりたくはなかったがな。この度の王国騎士団の動きは、大罪を犯した者達を捕縛する為のものだ。陛下の第四側妃だった女が、半年前から不貞を働いていたらしい。よりにもよって、我らが守るロジオン王国の王城で、国王陛下の正式な妃だった女が、ローザ宮のねやに間男を引き入れたのだ。今回、王国騎士団に捕捕らえられたのは、間男の協力者と看做みなされた者共だ」

 吐き捨てる口調で語られた言葉に、近衛このえ騎士団の団長執務室は異様な沈黙に包まれた。王の正当な血筋である王統を、何よりも重視するロジオン王国では、妃の不貞ふていは絶対に許されない。しかも、国王が通うであろうローザ宮の寝室に間男を招き、国王が身を横たえる寝台で男と情を交わす行為は、エリク王とロジオン王国を愚弄するに等しかった。
 余りの罪の重さに慄き、忠誠を捧げる王を侮辱された事実に激怒し、身を震わせる連隊長達は、同時に大きな疑問に直面した。有り得べからざる事態だからこそ、近衛騎士団こそが剣を振るい、大逆の罪人共を捕縛するはずではないのかと、誰もが思ったのである。アリスタリスの剣の師として、王家への忠誠心の篤いイリヤが、戸惑いがちに言った。

「団長閣下の御話によって、王城が騒然としている理由は分かりました。しかし、それ程の大事であれば、我ら近衛の出番なのではありませんか。何故、我らに御下命頂けないのでしょうか。王国騎士団など、王城の外をい回る野良犬のようなものでございます。王城を守護するのは、我ら近衛騎士団でございますのに、何故」
「側妃だった女の愛人が、近衛の騎士だったからだよ、イリヤ」

 近衛騎士として当然の怒りに駆られ、必死に言い募るイリヤに向かって、被せるように投げ出された言葉の衝撃に、団長執務室が音もなく揺れた。また一つ溜息を吐き、片手で瞼を覆ったコルニー伯爵が、暗い声で続けた。

「昨夜、女とねやにいた近衛騎士が、王家の夜によって現場を押さえられ、側妃と共に捕縛された。何しろ情交の最中だったのだから、言い訳のしようもない。これまで不貞に加担していた者達も残らず調べ上げられ、既に王国騎士団に連行された。愛人の男は、元第四側妃の護衛騎士だ。不寝番ふしんばんに当たる度に、もう一人の護衛騎士と口裏を合わせて時間を作り、閨に侍っていたそうだよ」

 近衛騎士団の誇る優秀な連隊長達は、コルニー伯爵が何を言っているのか、ぐには分からなかった。やがて、コルニー伯爵の話が、嘘偽りのない事実なのだと理解するにつれ、連隊長達は、塩で出来た彫像であるかのごとく顔色を失って立ち竦んだ。王の妃と近衛騎士の不貞というだけでも、ロジオン王国の歴史に泥を塗る醜聞であるのに、手引きをした大罪人さえもが近衛騎士だというのである。到底信じられず、信じたくもない最悪の事態に、声を上げる者さえ居はしなかった。
 重い沈黙が執務室を支配して暫く、連隊長の一人が喘ぐように口を開いた。男の顔は蒼白であり、激しい衝撃に襲われていることは誰の目にも明らかだった。

「誠に申し訳ございません、団長閣下。第四側妃の護衛騎士であれば、我が連隊でありましょう。しかも協力者がいるなどとは、御詫びの仕様もございません。我が連隊の所為で、近衛このえ騎士団の名に泥を塗るとは、わたくしの命如きで償える罪ではございませんでしょう」

 立っている力さえも失い、床に崩れ落ちた連隊長の横で、憤怒の余り顔面を紅潮させたイリヤが、今にも駆け出しそうな勢いでたずねた。

「閣下、そのれ者共の名を御教え下さい。今から八つ裂きにして参ります。尊い陛下を侮辱し、我らが近衛騎士団の名誉に唾を吐いたのです。一刻の間も惜しまれます。せめて我らの手で大罪人を処刑し、陛下への御詫びとさせて下さい」
「だめだ、イリヤ。奴らにに手出しをしてはならぬ」
「何故ですか。全ての近衛騎士にとって、最悪の裏切り者達ではありませんか。百度殺しても飽き足りません。行かせて下さい、団長閣下」

 イリヤの懇願こんがんによって、沈黙の呪縛から解き放たれた連隊長達は、揃ってコルニー伯爵に詰め寄った。騎士と名の付く者であれば、第四側妃のねやはべった間男と、それを助けた痴れ者を殺すことでしか、近衛騎士団の恥をそそげないのだと分かっていたのである。しかし、拳を握り締めたコルニー伯爵は、首を縦には振らなかった。

「落ち着け、イリヤ連隊長。皆も聞くが良い。陛下の御下知おげちで、元第四側妃は愛人に下げ渡されると決まった。王子王女も王籍を剥奪はくだつされ、愛人の貴族籍に入る。不貞ふていではなく、陛下の御不興を買った側妃を、罰として下げ渡すという建前を取る。王子王女の命を奪わずに済むようにと、陛下が直々にそう御決めになられたのだ。陛下こそ、耐えがたきを耐えておられる。不貞の徒を見逃していた我々が、陛下の御決定に逆らえるものか」

 イリヤは、手負いの獣を思わせる声で唸った。他の隊長達も、それぞれが固く歯を食い縛って耐えた。コルニー伯爵の言う通り、エリク王が処分を決めた以上、異論を唱えられる者は、ロジオン王国にはいなかったのである。益々重苦しい気配が漂う中、連隊長の一人がぽつりと呟いた。

「陛下はさぞ、近衛このえに失望されたことでございましょうね。王城内であるにもかかわらず、管轄かんかつ違いの王国騎士団が用いられたのは、だからなのですか、閣下」
「宰相閣下によれば、陛下の家令たるトリフォン伯爵が、この度は近衛を使わぬ、王国騎士団に任せよと言われたそうだ。トリフォン伯爵の御言葉は、即ち陛下の思し召しだろう。我ら近衛騎士団は、エリク国王陛下から、信じるに足りずと断を下されたも同然なのだ。この度の失態を考えれば、当然の結果だろうさ」
「近衛の誇りを踏みにじった下衆共は、この先も生かされるのですか。我らは、このままずっと恥を背負って行かねばならないのですか」

 イリヤの苦し気な問い掛けに、コルニー伯爵は初めて微笑んだ。したたる程の侮蔑を秘め、見る者の背筋を凍らせずにはおかない、ほの暗い微笑だった。

「まさか。そんなはずはないだろう、イリヤ連隊長。我ら近衛の誇りは、何よりも重い。決して、下衆共に踏み躙られたままになどしておくものか。王子王女の処遇の為に、彼奴あやつらは一度は見逃される。しかし、養子の手続きさえ済んでしまえば後は知らぬと、トリフォン伯爵が仰っていたそうだ。十分な余裕を見て、十日もしたら動くとしよう。私も責任を取って、近衛騎士団長の職を辞する心算つもりなのでね。餞別代わりに、彼奴らに本当の地獄を見せてやろうではないか」

 コルニー伯爵の言葉を最後に、連隊長達はそれぞれの隊に戻っていった。近衛騎士達の動揺を鎮めると共に、広く情報収集に当たる為である。王国騎士団が捕縛した大罪人の他に、近衛騎士団を恥辱の底に落とした裏切り者がいるのであれば、必ずコルニー伯爵の目の前に引き摺り出すのだと、決意は何処までも固かった。
 連隊長達が足早に去り、再び沈黙が支配する中で、一人イリヤだけは執務室を出ようとしなかった。先程までの激情を抑え、沈鬱な表情となったイリヤに、コルニー伯爵は落ち着いた口調で言った。

「どうした、イリヤ連隊長。ここに居るのは、私と君の二人だけだ。何か思う所が有るのなら、遠慮なく話せば良い」
「不躾な質問を御許し下さい、閣下。今回の近衛の大失態によって、アリスタリス殿下の御立場が悪くなる可能性はございませんか」

 正嫡せいちゃくの王子であるアリスタリスに、イリヤは固く忠誠を誓っている。幼い頃から手を取って剣を教えてきた愛弟子ともいえる王子は、正妃エリザベタの実家であるグリンカ公爵家の権勢と、近衛このえ騎士団の支持を後ろ盾としている。その近衛騎士団が、エリク王の不興を買ったとなれば、未だ先の読めない王太子位争いにさえ影響し兼ねなかった。
 不安に瞳を揺らめかせるイリヤに、望み通りの答えを返せないコルニー伯爵は、そっと目を伏せた。

「残念ながら、影響がないとは言えないだろう。今回の大逆で、第四側妃の王子達は完全に王太子位争いから離脱した。しかし、彼らは元々後塵こうじんはいしていたのだから、アリスタリス殿下にとって得点にはならない。正嫡はアリスタリス殿下とはいえ、アイラト殿下との十歳の差は大きく、アイラト殿下の支援者は強力だからね。アリスタリス殿下を推す近衛が、この局面で陛下の御信頼を裏切ってしまったのは、とても痛いよ」
「何とか巻き返す為の策はございませんか、団長閣下。このままでは、アリスタリス殿下に御会わせする顔がございません。それに、アイラト殿下が王太子となれば、アリスタリス殿下を推す近衛は、実質的に解体されてしまうでしょう。この度の不祥事は、その為の格好の口実になってしまいます」

 イリヤの必死の問い掛けに、コルニー伯爵は瞼を閉じて考え込んだ。イリヤの言葉は正しく、アイラトが王太子宮の主人となれば、自らを支持しようとしなかった近衛騎士団を、そのままにしておくとは思えなかった。誰よりも、アイラトの叔父である宰相スヴォーロフ侯爵が、近衛騎士団を宰相府の支配下に置こうとするに違いなかったのである。
 ずっと目を伏せていたコルニー伯爵が、真剣な眼差しでイリヤを見詰めたとき、既に気持ちは固まっていた。

「アリスタリス殿下の護衛騎士として、今回の召喚魔術の実施に立ち会うと言っていたのではなかったか、イリヤ連隊長」

 一瞬、何を言われたのか分からず、イリヤは目を瞬かせた。実直な騎士であるイリヤには、コルニー伯爵の思惑はうかがい知れなかった。

「そう承っております。それが何か」
「貴君に話を聞いたときから、ずっと考えていた。召喚魔術は、今までのロジオン王国にはなかった試みだ。もしかすると、新しい力になるかも知れない。少なくとも、その可能性を持っているだろう。成功しても失敗しても、だ。宰相達が何を思って召喚魔術を使おうとしているのかは分からないが、それが我々の逆転の糸口になるかも知れない」
「誠でございましょうか、閣下」
「王城の官吏団と王都の貴族達は、既に多くがアイラト殿下に押さえられている。ロジオン王国の政治の頂点に立つ宰相、天才の中の天才と称されるスヴォーロフ侯爵が、アイラト殿下の実のおいなのだから、その構図は動かし難いだろう。そして、我々はどうあっても、王国騎士団と組むわけにはいかない。だとすれば、残された勢力は地方貴族だけなのだ。私に考えが有るよ、イリヤ連隊長」

 コルニー伯爵は、そう言ってじっとイリヤを見詰めた。第四側妃の不貞と断罪は、ロジオン王国の王城を震撼させ、王太子位争いの激化を告げる契機ともなったのである。