フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 3-10
03 リトゥス 儀式は止められず|10 訪れし者
ルーガ達が襲撃を予感していた丁度その頃、エウレカ・オローネツ辺境伯爵は、己が居城であるオローネツ城の執務室で、静かに書類に目を通していた。すると、不意に澄んだ鈴の音が鳴り、何処からともなく青い燐光を纏った封筒が現れた。オローネツ辺境伯や文官達は驚いた顔も見せず、護衛騎士達も嬉し気に頷いて、封筒が緩りと室内を漂う様子に目を細める。微笑みを浮かべたオローネツ辺境伯が、そっと右手を差し出すと、封筒は過たずその掌に着地した。
「いつもながら、優雅な御手紙でございますね。美しく優しく、見る者の心を温める。魔術は為人を表すのだと、今更ながらに思いますな」
オローネツ辺境伯爵家の家令を務めるイヴァーノ・サハロフ男爵は、穏やかに目元を緩ませながら、真鍮の紙切り鋏を差し出した。ロジオン王国でも屈指の大領であるオローネツ辺境伯爵領の領主執務室に、前触れもなく現れた不思議な封筒は、オローネツ城の者達にとって、見慣れたものだったのである。
「全くだな、イヴァーノ。これ程に美しい魔術を目の当たりにすると、魔術の才に恵まれない我が身が、少しばかり残念になるよ」
鋏を受け取ったオローネツ辺境伯は、そう言って大らかに笑った。堂々たる威厳に満ち、透徹した瞳を輝かせた壮年の男は、王都に暮らす大貴族達とは違い、武人らしい力強さに満ちている。その鋭い眼差しに見詰められた者は、オローネツ辺境伯が決して御し易い人物ではないと悟るだろう。
自ら封を切ったオローネツ辺境伯は、封筒の中身に目を通してから、便箋をイヴァーノに手渡し、残った封筒を縦横に割いた。四つに割かれた封筒は、其々が薄青い蝶に変わったかと思うと、ふわふわと優雅に室内を飛び遊び、幻の如く消えていった。
「今からアントンが訪ねて来てくれるそうだよ、イヴァーノ。何かあの子の好きそうな食べ物を見繕って、持ってきてやっておくれ。きっとまた面倒だと言って、真面に食事をしていないに違いないのだから」
「畏まりました、閣下。アントーシャ様も、そろそろ面倒を見て下さる奥様を御迎えになられても、然程可笑しくはない御歳頃になられますのに。当家に御歳の釣り合う姫君がおられませんのが、返す返すも残念でございますな」
そう言ったイヴァーノの声には、深い諦観の響きが籠もっていた。オローネツ辺境伯は、目に見えない何かを見据えながら、唇の端を吊り上げた。それは、今までの温か味を跡形もなく拭い去った、冷徹な嗤いだった。
「そうであれば、万事が簡単に解決したであろうよ。アントンの妻に相応しい娘所か、嫡男でさえあの通りの下衆なのだから、我がオローネツ辺境伯爵家は熟子に恵まれぬ。アントンを女婿に迎えるなど、見果てぬ夢であったな」
「継嗣に恵まれないのは、私くしも同様でございますよ、閣下。私くしの継嗣と目される者は、御存知の通りの屑でございますから、長年に渡ってオローネツ辺境伯爵家の家令を拝命して参りました我が家にも、先などございますまい。アントーシャ様の御身内で在られるゲーナ様が、羨ましゅうございますな」
オローネツ辺境伯とイヴァーノは、目を見交わして苦く笑った。高位貴族家の当主と家令が、臣下の目の有る執務室で語るには、余りにも異様な述懐だったが、周りに居る文官も護衛騎士達も、眉一つ動かそうとはしない。オローネツ城の領主執務室に於いて、こうした話が出るのは初めてではなく、最後にもならないことを、誰もが知っていたのである。
重苦しい空気に支配された室内で、オローネツ辺境伯が小さな溜息を吐いたとき、光が射すかの如き清らかさで、再び鈴の音が鳴った。次の瞬間、執務室の一角に輝かしい金色の光が射し込んだかと思うや否や、金色の光は二度三度と点滅し、不意に掻き消えた。
光の残像が微かな鱗粉となって煌めく中、静かに立っていたのはアントーシャだった。白シャツと黒いトラウザーズの上に、膝丈の上着を羽織っただけの軽装で、魔術師にも貴族にも見えないアントーシャは、魔術師のローブを着ているときよりも随分と軽やかで、伸びやかな若木の清々しさを纏っていた。
親し気な笑顔を浮かべるアントーシャを、オローネツ辺境伯やイヴァーノ、そして執務室に詰める護衛騎士や文官までが、満面の笑みで迎えた。
「能く来てくれたね、アントン。待っていたよ。久し振りにそなたの元気な顔を見られて、とても嬉しいよ。さあ、こちらに御出で」
「突然御邪魔して申し訳ありません。御迷惑ではありませんでしたか、閣下」
「私達の間で、そのように他人行儀な挨拶は無用だよ、アントン。そなたに会えるのは、いつでも大歓迎だとも。しかし、今日は遊びに来てくれたわけではないのだろう。簡単な食事の用意をさせているから、食べながら話しておくれ」
オローネツ辺境伯の温かい言葉に、アントーシャは何とも言えない微妙な顔をして、自分の髪の毛を掻き回した。
「閣下にとって、ぼくはいつまでも御腹を空かした子供のままなのでしょうかね。まあ、有難く頂きますけれど」
オローネツ辺境伯の勧めに従って、執務室に続く客間に移動すると、直ぐに給仕が台車を押してやって来た。オローネツ辺境伯には香り高い紅茶、アントーシャの前には軽食が置かれる。野菜を裏ごしした温かいスープと、濃厚なチーズのキッシュ。薄切りの黒パンは軽く焼かれ、上に鮭の燻製やバターで炒めた卵、薄切りハムなどが乗せられている。王城の豪華な料理よりも、素朴で心の籠ったオローネツ城の食事こそが、アントーシャにとって何よりの御馳走だった。
「オローネツ城の料理長は、相変わらず美味しいものを出してくれますね。このキッシュなんて、王都の料理屋でも食べられませんよ。閣下、今日は料理長に御会いする時間はないと思いますので、感謝の言葉を伝えて頂けるように、どなたかに御願いして下さいませんか」
まるで親が幼子に対するように、柔和な笑顔でアントーシャの食事を見守っていたオローネツ辺境伯は、上機嫌に頷いた。
「良いとも。伝えておこう。それは良いが、気に入ったのならもっと頻繁に食べに御出で。最近は、中々そなたが来てくれないと、オローネツ城の皆が寂しがっているよ。我々には未だに信じ難いことながら、王都からこの辺境までの距離でさえ、そなたなら一瞬の内に転移してしまえるのだろう。そなたが沢山食べてくれたら、料理長も喜ぼう」
アントーシャは、オローネツ辺境伯に親しく誘いを受けた喜びと、それに応じられない寂しさを滲ませて、ゆっくりと首を横に振った。幼い頃はゲーナに連れられ、少年になってからは一人で、繰り返し訪れては遊び場にしていたオローネツ城も、今のアントーシャにとっては、遠い場所になっていたのだった。アントーシャは、溜息混じりに言った。
「ぼくも、心からそうしたいのですよ、閣下。只、暫くは慎重に行動しないと、何処で何に足を掬われるか分かりませんからね。ぼくの転移軌道を追える魔術師は居ないにしても、王都に姿のない時間があると気付かれるのは、余り得策ではないのです」
「王都の鼠共は、相変わらず辺りを嗅ぎ回っているようだな。ゲーナ様ばかりか、そなたにまで見張りが付いているのかね」
「ぼくたちの所在確認の為に、常に何人か張り付いていますし、数年前からは自邸も盗聴されています。見張りの目を眩ませるのは簡単なのですけれど、今は大人しく監視されていた方が得策だろうと、大叔父上と話し合いました。尾行や盗聴に気付かない振りをするのは、中々に面倒ですね。召喚魔術などという愚策を実行に移すと決めてから、魔術の頂を目指すべき叡智の塔は、益々愚劣で窮屈な場所になってしまいました」
めずらしくも暗い声で告げられたアントーシャの言葉に、オローネツ辺境伯も眉を顰め、深い溜息を吐き出した。ロジオン王国の辺境を護る大貴族として、多くの理不尽に耐えてきた男が、思わず零した溜息だった。
「我が祖国たるロジオン王国は、もう終わりかも知れぬな、アントン。異世界若しくは異次元から、自国の利益の為に人を攫おうなどとは、野盗共の所業と何も変わらぬ。夢物語というには質が悪く、余りにも人を踏み躙り過ぎている。仮に、今後もロジオン王国の繁栄が続いたとしても、国家としての誇りは既に地に堕ちたわ」
「大叔父上も、閣下と全く同じことを言っておられました。召喚魔術を行使せよと王命が下ったときに、ロジオン王国の黄昏の鐘が聞こえると」
「そうであろう。ゲーナ様が御聞きになられた鐘の音は、私の耳にも聞こえているよ、アントン。尤も、報恩特例法などという世紀の悪法を生み出し、自国の民を襲撃させるような王国に、元々誇りなど有る筈がないのかも知れぬが」
大きく頷いたアントーシャは、無言のままオローネツ辺境伯を見詰めた。その視線を受け止めたオローネツ辺境伯は、穏やかな微笑みを浮かべて先を促した。
「世間話に付き合ってくれて有難う、アントン。さあ、そろそろ要件を話しておくれ。手紙では伝え切れない出来事が起こればこそ、監視の目の有る中を、そなた自らオローネツ城まで来てくれたのだろう」
「はい、閣下。ぼくが伺ったのは、正に報恩特例法に就いての要件があったからなのです。王都の近衛騎士団の中に、報恩特例法を駆け引きの道具にして、地方領主を王太子位争いに巻き込もうとする動きがあるらしいと、大叔父上が懸念しておられます」
何の前置きもなく語られた言葉に、オローネツ辺境伯の眼光が鋭い輝きを発した。多くの地方領主にとって、報恩特例法の存在は悪夢に等しく、それを撤廃させることこそは、百年前から続く悲願なのである。興奮を押し殺した囁き声で、オローネツ辺境伯は言った。
「聞き捨てならないな。余事なら知らず、報恩特例法を盾にされては、地方領主は耳を傾けざるを得ないだろう。話を持ち掛けてくる者が、我らを利用しようとしているだけだとしてもな。詳しく教えておくれ、アントン」
しかし、アントーシャが口を開こうとした瞬間、慌ただしく入口の扉が叩かれた。続いて聞こえてきたのは、執務室の入り口を護る護衛騎士の話し声と、入室を乞う切迫した声である。オローネツ辺境伯が頷くのを見て、護衛騎士の一人が素早く扉を開けると、慌てた様子で飛び込んで来たのは、案内の文官と革鎧の護衛騎士ルペラだった。
「何が起こった。そなたは確か、ルーガの護衛騎士ではなかったか。まさか、ルーガの身に何か有ったのではなかろうな」
オローネツ辺境伯の即座の問い掛けに、ルペラは素早く片膝を突いて礼を取ると、必死に荒い息を飲み下しながら答えた。
「御報告申し上げます。オローネツ城から馬の並足で約三ミルの地点で、第七方面騎士団の捕虜三名を護送中の馬車が、敵の襲撃を察知致しました。敵影の確認は出来ておりませんでしたが、ルーガ様が不穏な気配を感じ、敵襲と判断なされたのです。ルーガ様は、オローネツ城に援軍を御願いしてくるようにと、私くし一人に先行を指示されました。どうか、どうか御助け下さいませ、閣下」
オローネツ辺境伯の反応は迅速だった。ルペラの報告を聞くや否や、素早く椅子から立ち上がると、強い声で下知を飛ばした。
「ルーガの勘は外れまい。オネギン、裏門まで走り、最速で出陣出来る者達を馬諸共に集めよ。イヴァーノ、第一陣に続く援軍の用意を。ルーガ達を死なせたくない。一ミラでも早く、援軍を向かわせなければ」
オローネツ辺境伯に名を呼ばれた護衛騎士のオネギンは、一声応えを返しただけで、即座に執務室から走り去った。俄に緊迫する空気の中、一言も口を差し挟まず、黙って話を聞いていたアントーシャは、最後の紅茶を飲み干すと、徐に言った。
「ぼくが一緒に行きますよ、閣下。並足で三ミルなら、馬に無理をさせたとしても、一ミル以上は掛かります。今は、一ミラでも時が惜しいのでしょう。ぼくが馬と騎手とに魔術を掛ければ、五ミラで行けますし、怪我人がいても対処出来ます」
「頼んでも良いのかい、アントン」
「勿論です。ぼくと閣下の仲ですからね。御遠慮には及びませんよ」
「有難う、アントン。助かるよ。では、早々に行こう」
オローネツ辺境伯とアントーシャは、そのまま執務室を後にすると、足早にオローネツ城の裏門まで歩を進めた。城門前には、オネギンが呼び集めた騎士や門番達が、既に出陣出来るだけの身支度を整え、緊張した顔付きで整列していた。オローネツ辺境伯の居城では、こうした救援要請はめずらしいことではなく、主の詳細な指示がなくても、先ずは出陣態勢を整えるよう訓練されているのである。
集まった騎士達を前に、膝を突かせる時間さえ惜しんだオローネツ辺境伯は、真剣な表情で彼らを見回した。
「皆、御苦労。ルーガ達がオローネツ城に向かう途中、第七方面騎士団に襲撃されている可能性が高い故、今から救援を出す。直ぐに行ける者はこれだけか、オネギン」
「即座に出られるのはこの八騎でございます、閣下。十ミラ後にはもう三十騎、三十ミラ後には更に三十騎の用意が整います」
「事態は既に一刻を争う。先ずは八騎が先行。十ミラ後にはもう三十騎を出す。三十ミラ後の三十騎も準備を整えよ。八騎、全員騎馬せよ」
オローネツ辺境伯の掛け声に、八人は一斉に馬上の人となった。かつては武名を謳われたオローネツ辺境伯爵家の騎士とはいえ、武器や武具の調達さえ王城の許可を必要とする中、身に付けているのは古びて重い胸鎧であり、門番姿の者達に至っては、御仕着せに革鎧を当てているだけである。只、軽やかに馬に飛び乗る身のこなしと、出陣前に炯々と瞳を輝かせた物腰が、方面騎士団にも遅れを取らないだけの、覇気と実力を物語っていた。
「ルーガの護衛騎士には、現場まで案内してもらわねばならぬ。そなたしか案内役は務まらぬ故、疲れていようが頼む。行ってくれるか、ルペラよ」
「勿論でございます、閣下。御前失礼致します」
そう言うと、ルペラも馬に跳び乗った。一刻も早く仲間の元に駆け付けたいという必死の思いが、酷く疲労している筈のルペラの動きを支えていた。オローネツ辺境伯は、傍らに立つアントーシャを指し示し、己が騎士達に言った。
「見知っている者も多かろう。これなるは、叡智の塔の魔術師団長であり、我が恩人でもあるゲーナ・テルミン師の甥、一等魔術師のアントーシャ・リヒテル。私にとっても息子同様の者だ。アントーシャが、今から諸君らに魔術を掛けてくれるそうだ」
裏門前に集まった騎士達の殆どは、オローネツ辺境伯が敬愛するゲーナのことも、我が子より溺愛するアントーシャのことも、能く見知っている。騎士達は、一言の疑問も口に出さず、一斉にアントーシャに信頼の目を向けた。穏やかな表情を崩さないままのアントーシャは、ルペラと彼の騎馬に向けて右手を上げると、謳うように滑らかに詠唱した。
「勇敢なる騎士よ、忠実なる駿馬よ。そなたらの疲労は疾く癒やされ、風となって地を駆け抜けるだろう」
次の瞬間、アントーシャの右手から柔らかな金色の光が溢れ出ると、陽の光に輝きながらルペラと馬とを包み込んだ。思わず周りの騎士達が響めく中、光を浴びた馬は力強く嘶き、ルペラは驚きの声を上げた。
「凄い。一気に身体が軽くなってしまった。先程までの疲れが跡形も有りません。これならいくらでも駆けられます」
柔らかく微笑んだアントーシャは、ルペラに手を差し出すと、その後ろに跳び乗った。そして、既に騎乗していた騎士達に向かって両手を掲げ、再び詠唱した。
「義によりて立ち上がりたる清廉なる騎士達よ。そなたらもまた一陣の風となり、我らの後を追い来たれ」
今度は先程よりも大きな光が現れ、騎士と馬達とを金色に輝かせる。周囲の人々の驚愕を気にも留めず、アントーシャは言った。
「これで、普段の十倍くらいの速度で走れますよ。ルペラさんとぼくが先行します。その後を付いて来て貰う為に、追尾の術を掛けましたので、安心して手綱を握っていて下さい。さあ、御仲間を助けに行きましょうか」
勇躍した騎士達が、腹の底から呼応の叫びを上げる中、ルペラとアントーシャを乗せた騎馬は、オローネツ城を出立した。城門を出るや否や、騎馬は凄まじい速度で走り出す。通常の騎馬では有り得ない、まさに疾風の如き速さだった。