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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 1-6

01 ロンド 人々は踊り始める|6 祈り

 
 ロジオン王国の北西部に位置するオローネツ辺境伯爵領は、王国でも屈指の面積を誇る大領である。北西の方角からさらに北へ、細く長く伸びる領地は、スノーラ王国との国境線や、人類未到の地であるアファヌナーシ大森林に接する。ロジオン王国にとって、正しく北の防衛線ともなるべき辺境地なのである。

 ロジオン王国の爵位は、上から公爵、侯爵、辺境伯爵を含む伯爵、子爵、男爵、騎士爵の順となる。最上位の公爵家は、初代が王族、若しくは王家より降嫁した王女の夫である貴族家で、当代は四家が名を連ねる。次いで、王族を始祖としない貴族家の頂点となる侯爵家、上位貴族の内に数えられる伯爵家と続く。王国の四方に四家のみ存在する辺境伯爵家は、爵位こそ伯爵位であるものの、いずれも国境線を守る大家であり、非常時の軍事統帥権を始め、幾つかの特権的な権利を有する名家として知られていた。 
 オローネツ辺境伯爵家の現当主として、豊かな北の大地に君臨するのは、エウレカ・オローネツである。五十代の半ばに差し掛かろうかというオローネツ辺境伯は、砂色の短髪を緩く撫で付け、鍛え上げた屈強な身体に堂々たる覇気をまとった男であり、高位貴族というよりは、歴戦の大元帥にも見える風格がある。事実、為政者いせいしゃとしても武人としても優れたオローネツ辺境伯は、地方領の英雄とも呼ばれる存在なのである。

 晴れやかな春の日、そんなオローネツ辺境伯の居城である、オローネツ城の領主執務室に、足早に訪れた者がいた。鋭く扉を叩く音が響いたと思うや否や、執務室の入り口を護っていた護衛騎士の一人が、緊迫した声を掛けた。
「閣下、只今、急ぎの知らせが参りました。物見の塔から、緊急連絡用の狼煙のろしが見えたそうでございます」

 執務室に居た者達、オローネツ辺境伯や家令かれいのイヴァーノ・サハロフ男爵、数人の文官、室内を護る二人の護衛騎士が、一斉に身体を強張こわばらせた。
「入室させよ、オネギン」
「御意にございます、閣下」
 オローネツ辺境伯に声を掛けられた護衛騎士は、素早く扉の外を改めると、そのまま知らせに訪れた騎士を招き入れた。オローネツ辺境伯は、礼を取ろうとする騎士を押し留め、簡潔に問い掛けた。
「御苦労。早々に報告を」
「御意にございます。先程、緊急連絡用の狼煙が上がりましたのを、わたくしを含め、四名の当番が確認いたしました。方角は北西、色は青。最初の狼煙に続き、黒の狼煙が三度上がりましてございます」

 オローネツ辺境伯は、一瞬、苦し気に顔を歪めた。吐き出す息は微かに震え、机の下で握り締めた両手には、血を滲ませる程の力が込められる。オローネツ辺境伯は、歯を食い縛ることで懸命に激情を抑え込み、知らせに訪れた騎士に尋ねた。
「北西の青。ルーガからの知らせか。そして、黒が三発と言ったな」
「はい、閣下。狼煙の色、間合い、数のいずれにつきましても、四人で確認を致しておりますので、間違いはなきものと思われます」
「そなたらが、忌むべき狼煙を見間違えることなど、万に一つも有るまいよ。それが分かっておればこそ、何ともり切れぬ。黒は二年振りだったか、イヴァーノ」

 オローネツ辺境伯に呼ばれた男は、怜悧れいりな表情の下にしたたるばかりの憎しみを込めて、刃物のような声で答えた。
「左様でございますよ、閣下。行き摺りの盗賊に見せ掛けて、領民を襲う屑共はいくらでも居りましたが、第七方面騎士団の団服のまま、村そのものが襲撃されたのは、二年振りでございます。罪もなき村人達に、一体どれ程の被害が出るのか、考えただけで臓腑が捻じ切れる思いが致しますな。援軍の用意を致させますか、閣下」

 オローネツ辺境伯は、僅かに迷う素振りを見せた。しかし、直ぐに首を横に振ると、苦渋のにじむ口調で言った。
「無駄であろう。オローネツ城からルーガの代官屋敷まで、早馬を走らせたとしても、一日では着かぬ。救出に向かったルーガでさえ、被害に遭った村に着くのは翌日になろうに、我らが到着する頃には、全てが終わっておろう。我がオローネツは広い。助けに駆け付けるには、絶望的なまでに広いのだよ。今は、続報を待つしかあるまい」
「今に始まったわけではないにしろ、全く以て信じられない愚かさでございますな。王城にいては、日常的に転移魔術が使われ、王都と近郊の領地では、遠隔通信を可能にする魔術機器が配備されているというのに、我ら地方領の者達は、未だに馬を走らせて移動し、狼煙のろしを上げて急を知らせるのですから。余りの矛盾、余りの格差への怒りと妬みは、この歳になっても消えてはくれませんな」

 報恩特例法ほうおんとくれいほうの名の下に、守るべき領民達を虐殺され、凌辱りょうじょくされ、強奪され、奴隷どれいへと売り払われてきたオローネツ辺境伯は、イヴァーノに掛ける言葉を持たなかった。エウレカ・オローネツが辺境伯爵となり、イヴァーノ・サハロフが家令となって三十年余り、何十回、何百回と繰り返すしかなかった恨み言は、ロジオン王国の歪みを象徴するものでもあった。
 報恩特例法の名の下に、強力な中央集権国家となったロジオン王国は、魔術と魔術機器、通信と情報を王都に集中させ、王家の監視下に置いて厳しく統制している。王都に暮らす貴族と市民が、高度に洗練された技術を専有する反面、王都から遠く離れた地方領は、数百年前の時代さながらの生活を余儀なくされているのである。

 遠隔通信の魔術機器が一つでも有れば、転移魔術で領内を移動する技術が確立されていれば、今、くらい表情で椅子に沈み込んでいるオローネツ辺境伯は、領民を救う為に剣を取り、既に駆け出していただろう。
「それでも、我らが手をこまねいているわけにはいくまい。出来るだけ早く、救助の手筈てはずを整えるとしよう。物資と医薬の手配をしておくれ、イヴァーノ。襲撃された村の規模がわからぬ故、先ずは多目にな。オネギンは、城にいる者達を編成して、救助部隊を出立させる準備をせよ」
「御意にございます、閣下。領内最大規模の村が襲われたと仮定し、一ミルの内に第一陣の手配を整えましょう。ルーガからの報告が入り次第、順次追加を致します」
「それで良い。頼むぞ、イヴァーノ」
「救出部隊の人数は如何(いかが)致しますか、閣下」
「物資を運ぶ人数は、イヴァーノの指示を受けよ。物見も兼ねて先行させる騎士は二十。三十ミラ後の出発は可能かね、オネギン」
勿論もちろんでございます、閣下。では、御前を失礼致します」
 
 それだけを言うと、オネギンと呼ばれた護衛騎士は、握った右手で一度、己が左胸を叩いてから執務室を後にした。イヴァーノも、側に控える文官達に指示を出し、早々に動き始めた。襲撃の只中に助けに入ることはできなくとも、被害に遭った村人を救う為の手立ては、完全に失われたわけではなかったのである。

 執務室に残されたオローネツ辺境伯は、無意識の内に両手を固く組み合わせ、馬を駆るルーガと同じ心で祈った。一人でも多くの村人が無事であるように、ルーガの救助が、オローネツ城の救援が間に合うようにと、只ひたすらに祈り続けた。信じるべき神を持たず、神よりも己の臣下を信じてきたオローネツ辺境伯の、それは血を吐くがごとき祈りだった。

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