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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 5-2

05 ハイムリヒ 運命は囁く|2 変転

 その日、クレメンテ公爵とスヴォーロフ侯爵は、エリク王の名で内々の呼び出しを受けていた。面会の場として指定されたのは、王の私室の有るボーフ宮ではなく、ロジオン王国の本宮殿たるヴィリア大宮殿である。ロジオン王国の王が、高位貴族や外国の使者を正式に引見いんけんするときに使われる〈聖王の間〉で、彼らは王を待っていた。
 聖王の間には、王の玉座として黄白おうはく豪奢ごうしゃな椅子がしつらえられており、それ以外には椅子も家具も置かれていない。扉から玉座まで、王が進む道筋には真紅の絨毯が敷かれ、玉座の後正面に掲げられた国旗には、ロジオン王国の国章たる不死鳥が羽を広げている。規模こそ小さいものの、聖王の間は正式な引見いんけん場の一つなのである。

 共にエリク王の縁戚えんせきに当たる、クレメンテ公爵とスヴォーロフ侯爵を呼び出すにしては、いささか形式張った場所である。常にはない呼び出しに、クレメンテ公爵は不審を抑え切れず、小声でスヴォーロフ侯爵に問い掛けた。

「聖王の間に御呼びとは、如何いかなる御話であろうか。内々の話題なら、陛下は別の賢王の間か花王の間を選ばれよう。やはり、先日の召喚魔術の失敗に就いて、御不快に御思いなのではあるまいか。そなたは何か御存知か、スヴォーロフ侯」

 スヴォーロフ侯爵は、壮年になって尚秀麗なおもてに、何処どこか作り物めいた微笑みを浮かべながら、緩りと首を横に振った。

「此度は事前に何の御話もございませんでしたので、予想が付きませぬな。ただ、召喚魔術の失敗に就いて、何らかの御叱りを受けると致しましても、それだけで聖王の間を御使いにはなられませんでしょう。アイラト殿下やアリスタリス殿下が、この場に御同席になっておられないのも、別の御話である根拠になろうかと存じます。さて、これは如何なる成り行きであるのか。確かに異例ではございますな」

 漠然とした予想ではなく、明確に呼び出された理由を推測しているのだと、スヴォーロフ侯爵は言わなかった。ゲーナ・テルミンが千年に一人の魔術の天才なら、ロジオン王国の宰相たるエメリヤン・スヴォーロフは、〈智のスヴォーロフ〉と呼ばれる名門貴族の血が結実した、謂わば内政の天才である。滅多めったに内心を覗かせないエリク王が相手であっても、呼び出しの理由を読み解くことは容易かった。

 スヴォーロフ侯爵の言葉に、不安を煽られたらしいクレメンテ公爵が、再び口を開こうとしたときである。聖王の間の壮麗そうれいな扉を、静かに叩く音が響いた。七度に渡って叩かれるのは、王の訪れを知らせる合図と決まっている。七度目の音が消えると同時に、侍従じじゅうが二人掛かりで厚い扉が押し開いた。漆黒の御仕着おしきせに銀糸ぎんしの刺繍をきらめかせた侍従が、重々しく宣言した。

「御準備を為されませ。陛下の御成りでございます」

 クレメンテ公爵とスヴォーロフ侯爵は、片膝を突いて深く頭を下げ、大ロジオンの王を迎えるに相応ふさわしい姿勢を取る。エリク王は、家令かれいであるタラスや侍従、護衛の為の近衛このえ騎士達を従えて入室すると、典雅な足取りで真紅の絨毯の上を進んでいった。ロジオン王国では、真紅の絨毯を歩けるのは王族だけと決まっており、供の者達は慎重に絨毯を避けて歩くのである。
 何段かの階段を登り、豪奢ごうしゃな玉座にゆったりと腰掛けたエリク王は、階下に控えたタラスに頷き掛けた。エリク王の合図を受けたタラスは、おもむろに口を開いた。

「陛下の御許しがございましたので、宰相閣下は御起立下さい。どうぞ、わたくしの横へ。クレメンテ公爵閣下は、そのままで陛下の御下知げちを聞かれませ」

 タラスの言葉に驚いたクレメンテ公爵は、思わず顔を上げそうになったものの、危うい所で踏み止まった。王に〈そのまま〉と命じられた者が、許しもなく顔を上げ、声を発することは、それだけで罪に問われ兼ねない不敬ふけいだった。

 起立を命じられたスヴォーロフ侯爵は、微かに身体を震わせるクレメンテ公爵を置き去りにし、ほのかな微笑をたたえたままタラスの指示に従った。スヴォーロフ侯爵が、タラスの横に立つと、エリク王の正面にはクレメンテ公爵だけが残った。エリク王は、聞く者を平伏させるだけの力を持った声で、クレメンテ公爵に言った。

「本日、そなたを呼んだのは、先に王城を騒がせた愚かなる騒動の元凶、余の第四側妃であったカテリーナという女に就いて、言わねばならぬ事柄が有るからである。元第四側妃は、近衛このえ騎士を愛人としてローザ宮に引き込むという大罪を犯した故、関係者の処分を行ったのだが、後になって新しい事実が判明したのでな。余は、今からそれを言い渡さねばならぬ。キリル・クレメンテ、そなたの娘、アイラトの正妃たるマリベルは、元第四側妃カテリーナの不貞ふていそそのかしたであろう」

 瞬間、クレメンテ公爵は言葉を失った。思い当たる事実がなかったわけではない。むしろ、マリベルが元第四側妃カテリーナを陥れ、不貞に誘い込んだ顛末てんまつは把握している。謀略を主導したのはマリベルだが、クレメンテ公爵は敢えて止めようともしなかった。洗練を極めた大ロジオンの王城は、優雅にはかりごとを巡らす戦場でもあったからである。

 しかし、高位貴族としては当然とも言える謀略が、許されるものなのかとたずねられたら、貴族達は揃って否と答えるだろう。人目を忍び、巧みに隠されるからこその謀略であり、それを白日の下に晒される愚を犯せば、罪を問われるのは明白だった。一瞬にして顔面を蒼白にしたクレメンテ公爵は、たまらずに言い募った。

「何卒、何卒御待ち下さいませ、陛下。申し開きをさせて頂きとうございます。どうか発言を御許可下さいませ」

 冷ややかな眼差まなざしでクレメンテ公爵を見詰めたまま、エリク王は、タラスに小さく頷き掛けた。タラスはうやうやしく一礼した後、クレメンテ公爵に言った。

「クレメンテ公爵閣下で在られましょうとも、正式な場で陛下の許可もなく口を御開きになられるとは、不敬ふけいが過ぎましょう。本来であれば、厳しく罰せられるべき所ではございますが、格別の御慈悲じひでございます。陛下の御許しが出ましたので、御話し下さい」

 瞳に不穏な色を浮かべたタラスは、クレメンテ公爵が滅多めったに見ない顔を見せていた。エリク王の有能な家令かれいではなく、〈王家の夜〉の統率者として、崇拝すうはいする主の敵を前にしたときの表情である。エリク王に懇願こんがんの視線を向けるクレメンテ公爵は、タラスの変化に気付かないまま、己でも苦しいと分かる弁明を試みたのだった。

「誤解でございます、陛下。我が娘とはいえ、マリベル妃殿下はアイラト王子殿下の正妃と為られた御方。アイラト王子殿下の御役に立つべく、日々に身を慎んでおられる妃殿下が、元第四側妃の不貞ふていそそのかしたなどとは、得可うべからざる話でございます。それ程までに悪意の有る讒言ざんげんを、誰が陛下の御耳に入れたのでございましょうか。マリベル妃殿下が、王族の御名をけがすような謀略に手を染めるはずがございません。妃殿下とわたくしが疑いを掛けられているという事態を、アイラト王子殿下は御存知なのでございますか。アイラト王子殿下にも御出まし頂いた上で、正しい審議を御願い申し上げます」

 クレメンテ公爵は、そう言って立てた片膝に額を擦り付ける程に頭を下げた。誰よりも気位の高い男の弁明に応えたのは、無感動にクレメンテ公爵を見詰めるエリク王ではなく、瞳を暗く光らせたタラスである。欠片も心を動かされた様子を見せないまま、胸元の隠しから一枚の書類を取り出すと、淡々と内容を読み上げていった。

「クレメンテ公爵家の元侍女、現在はドロフェイ宮でマリベル妃の専属侍女を務める、メアリなる女の弟が、近衛このえ騎士団に所属している。この弟はロマンと言い、元第四側妃の愛人、現在は正式な夫となったニコラと近しい関係にあった。メアリの依頼を受けたロマンは、ニコラに賭けを持ち掛けた。生来の女好きであり、元々女に好かれる事を誇っていたニコラに対し、元第四側妃の気を引ければ、現金で百ポルトを支払うと煽ったのだ。ニコラは巧みに誘導されて、この賭けに乗った」

 一切の前置きもないまま詳細な経過を聞かされ、クレメンテ公爵は絶句した。マリベルのたくらみを黙認していたとはいえ、具体的な手筈てはずまで知っていたわけではない。実父であるクレメンテ公爵でさえ、ほとんど聞かされていなかった全貌を、タラスはまるで見ていたかのごとく語るのである。

「ニコラの同僚の護衛騎士を協力者に仕立て上げたのも、このロマンの仕業であった。ニコラが元第四側妃と密会する夜には、協力者となった近衛このえ騎士とニコラとで、ねやの護衛役を務めていたのである。更に、マリベル妃の専属侍女であるメアリは、一年程前からローザ宮の女官や侍女達への接触を繰り返していた。ドロフェイ宮やリーリヤ宮でも不貞ふていは行われており、表沙汰にならぬ限り王家もこれを黙認していると、根も葉もない噂を広めたのだ。元第四側妃とローザ宮の女官共は、愚かにも噂を信じ込み、元第四側妃の不義を手助けすることに抵抗感を失っていった」

 呆然ぼうぜんとした表情で、半ばタラスの言葉に聞き入っていたクレメンテ公爵は、ここでようやく正気を取り戻すと、必死になって口を挟んだ。

「待ってくれ、トリフォン伯。それは事実なのか。仮に事実であったとしても、マリベルが指示したとは言い切れないではないか」
「メアリとロマンは既に捕らえ、真実のみを話す隷属れいぞくの魔術紋をほどこした上で、其々に自白させている。元第四側妃の不貞をそそのかしたのは、全てマリベル妃の直接の指示であり、成功した場合の見返りとして、メアリには良縁と幾つかの宝石類、ロマンには将来の出世と金銭が与えられる約束であった、と。マリベル妃の所持品として目録に載る宝飾品数点と、五千ポルトの金貨が、二人の自室から発見されている故、もう如何いかなる言い訳も通用するとは思わないことだ。用心深いロマンは、マリベル妃の花押かおうの押された契約書まで、実家の金庫に隠し持って居たのだからな」

 己が娘の余りの迂闊さに、クレメンテ公爵は歯を食い縛った。侍女の縁談を整える為に、マリベルが楽し気に釣書つりがきを眺めていた姿が、クレメンテ公爵の記憶の中から浮かび上がっては消えていった。玉座の上で頬杖を突いたエリク王は、クレメンテ公爵の青褪あおざめた顔に関心を持った様子もなく、あっさりと宣告した。

「リーリヤ宮のエリザベタが、タラスを呼び出して言ったのだ。マリベルの侍女の中に、微弱ながらも催眠や誘導の魔術を使える者が居る。如何に愚かで淫蕩いんとうな女であったとはいえ、流石さすがに大ロジオンの側妃が易々と不義に落ちるのも不自然である故、ドロフェイ宮を調べさせよとな。相変わらず面倒な要求をする女よ、エリザベタは」

 王妃エリザベタの名に、クレメンテ公爵は全てを悟った。元第四側妃カテリーナを陥れたマリベルは、結果としてアリスタリスの立場を悪化させたことで、王妃の敵となったのである。ゆっくりと書類を破りながら、タラスが言った。

「ローザ宮の騒乱にいて、アイラト王子殿下の正妃マリベルの罪状は明白なれど、陛下に在らせられては、正妃の処刑は忍びないとのおおせである。従って、マリベル妃は王族専用の収監所にて一幽閉ゆうへいと致す。夫たるアイラト王子殿下はドロフェイ宮で謹慎きんしん。父であるクレメンテ公爵にも、次の沙汰さたが有るまで謹慎を申し渡す」

 タラスの宣言に、クレメンテ公爵は声もなく崩れ落ちた。王城に於ける暗黙の慣例を上回るの程の厳しい処分であり、名門中の名門たるクレメンテ公爵家であっても、そう易々と失地しっちを回復する機会は訪れないだろう。顔を伏せて黙り込んだクレメンテ公爵に、エリク王は最後通告とも言える言葉を突き付けた。

しばらく時を置いた後、アイラトとマリベルは離縁と致す。マリベルからは王族の称号と一切の権利を剥奪はくだつする故、クレメンテ公爵家で引き取るが良い。マリベルがロジオン王国の歴史と王統をけがした大罪は、父たるそなたの手で償わせよ。そなた自身の身の処し方も、謹慎の間に思案するのだな、キリル・クレメンテよ」

 クレメンテ公爵は、俯けたままの頭を微かに上下させただけで、エリク王の言葉に応えすら返せなかった。公爵家の当主としては有り得ない失態だったが、当のエリク王は何の関心も払わず、スヴォーロフ侯爵へと目を向けた。

「我がロジオン王国の頭脳たる宰相よ。此度のローザ宮の騒動の後始末は、タラスとそなたに任せよう。余は、稚拙な謀略を好まぬ。はかりごとは王城の華と言いながら、絢爛けんらんと咲き誇る程の陰謀を巡らせる力の有る者など、数える程しか居るまいよ。己が身の程を知るよう、他の貴族共にもく言い聞かせるが良い、エメリヤン」
「御意にございます、陛下。タラス伯と協議の上、必ず致します」

 エリク王の命に、スヴォーロフ侯爵は即座に片膝を突いて答えた。エリク王は鷹揚おうように頷くと、優雅な仕草で身を起こし、玉座から立ち上がった。再び真紅の絨毯を踏み締めて、扉へと向かうエリク王を止める権限を持つ者は、ロジオン王国には一人として存在しない。タラスや侍従じじゅう、護衛の近衛このえ騎士達も、粛々とエリク王に付き従った。クレメンテ公爵には、既に言葉を掛けるだけの手間も取らず、エリク王は聖王の間での断罪を終えたのである。

 エリク王一行が去り、陰鬱いんうつな気配を漂わせて静まり返った聖王の間で、スヴォーロフ侯爵はクレメンテ公爵の側に寄った。力なく跪いたままのクレメンテ公爵の背中に、そっと繊細な手を添えると、優し気な微笑みを浮かべて言った。

「さあ、公爵閣下。いつまでもそうして居られては、貴き御身分に触りましょう。どうか御立ち下さい。閣下さえよろしければ、一体何が起こったのか、わたくしにも詳しく御話を聞かせて下さいませんか。何か御力になれる道を探せるかも知れません」

 一連の成り行きに、高貴なる驕慢きょうまんを打ち砕かれたクレメンテ公爵は、為す術もなく動揺し、素直にスヴォーロフ侯爵の腕にすがった。

「済まぬ、スヴォーロフ侯。マリベルが、ここまで愚かな娘だとは思っていなかったのだ。手を汚した者達に、目録に載る宝石を差し出し、よりにもよって己が花押かおうを押した契約書を持たせるとは。呆れ果てて言葉も出ぬが、それでも可愛い娘なのだ。幽閉ゆうへいの上に離別とは、余りにも不憫ふびんに思う。しかも、アイラト殿下まで謹慎きんしんとは、殿下に取り返しの付かない傷を負わせてしまった。何とか事態を改善する方途はないのか、知恵を貸して欲しい」
勿論もちろんですとも。公爵家の姫君から王子妃と為られた御息女に、ニコラのごと破落戸ごろつきの相手は荷が重かったのでございましょう。アイラト殿下とクレメンテ公爵閣下の御力に為れるよう、私くしも知恵を絞りましょう。私くしに出来るのは、細き道を御示しすることだけだったとしても」

 そう言って、スヴォーロフ侯爵は再び微笑んだ。何処どこ艶然えんぜんとした微笑みは、妖精姫と呼ばれた亡姉、アイラトの生母たるオフェリヤにも似て、美しくも温度を欠いた燐光りんこうの揺めきのようだった。


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