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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 3-2

03 リトゥス 儀式は止められず|2 紅蓮の星

 遥かに続く闇の中、今にも消えそうな程に小さな星が一つ、ほのかに瞬いていた。あえかな光では手元を照らすにも足らず、一層暗く沈み込むような情景の中で、アントーシャはただ一人、じっと座り込んでいた。地面でもなく椅子でもなく、空間そのものにしどけなく身を預け、頬杖を突いた姿からは、深い悲しみと諦観ていかんの気配が立ち昇っていた。
 温かな琥珀色に輝いているはずの瞳は、今は生気を失って色を消し、然ながら硝子玉にも見える。召喚魔術を破壊する為に、自ら命を捨てる覚悟を決めたゲーナを、どうしても翻意ほんいさせられず、絶望に苛まれるばかりのアントーシャは、何人なんぴとたりとも立ち入れない暗闇に閉じこもることによって、辛うじて精神の均衡を保っていたのである。

 広いといえば果てしなく広く、上も下も右も左もなく、現実であって現実ではない。アントーシャが座っているのは、選ばれた魔術師だけが到達出来る魔術の頂点の一つ、当代の叡智えいちの塔では、ゲーナだけが可能にすると言われている〈真実の間〉である。ロジオン王家に認められ、契約の魔術紋で縛られる未来を防ぐ為、幼少の頃から凡庸ぼんような振りを続けているアントーシャは、物心が付いた頃から、自在に真実の間を造り出していたのだった。
 真実の間は、魔術師の魔力量によって空間の広さが決まり、魔術師の精神世界を反映した情景を映し出すと言われている。ゲーナをも凌駕りょうがする才能を持ったアントーシャは、真実の間を簡単に作り替えることが出来たが、深い闇に閉ざされたこの日の有り様は、内心の懊悩おうのうを表したものに他ならなかった。

 やがて、虚な瞳を凝らして、アントーシャが暗闇を見詰めると、辺りは微かに明るくなった。小さく光る星が一つ、二つ、三つと生まれ、月のない暗夜が広がったのである。深い息を吐き、固く歯を食い縛りながら、アントーシャは、真実の間でゲーナと語り合った夜を思い出していた。アントーシャが幼い頃の、それは美しくも幻想的な思い出だった。

「見て御覧、アントン。我らが生きる世界の果て、界を隔てし先の先、時空を越えた永遠の彼方に、違う世界が広がっているだろう」

 そう言って、ゲーナは夜空を指差した。アントーシャが十歳になった、誕生日の出来事である。滑らかな丸い頬をした少年のアントーシャは、敬愛する大叔父に寄り添い、星々よりも明るく輝く瞳で、じっとゲーナの指差した先を見詰めた。
 アントーシャの真実の間は、少年の喜びに満ちた心に呼応するかのように、満天の星々を華やかに瞬かせ、鏡のごと煌々こうこうと冴え渡る月が、明るく夜空を照らしていた。アントーシャは、どこまでも神秘的で美しい光景に目を細めながら、小さな手で大叔父のしわ深い手を握り締め、傍のゲーナに問い掛けた。

「ねえ、大叔父上。ぼく達が見ている光景は、現実のものなのですか。この世界の他に、別の次元、別の界、別の時空が在るのだろうと、何冊もの魔術書に書いてありました。逆に言うと、違う世界の存在を実証出来た人は、誰もいないようなのです。ぼくの目には、向こうの世界で生きている人々の姿まで、はっきりと見えているのに」

 ゲーナは、如何いかにも嬉しそうな笑みを浮かべて、アントーシャの頭を撫でた。細く柔らかな子供の髪の手触りが、百年近くも人を拒み続けてきたゲーナの心に、うずくような愛しさを感じさせているのだと気付かないまま、アントーシャは言葉を続けた。

「ほら、一等明るい星の下に広がる世界では、不思議な物体が空を飛んでいますよ。あれは一体何なのでしょう。大きな金属の塊にも見えますけれど、そんなに重い物が飛べるはずがありませんよね。ああ、ぼくの足の下に見える世界は、真っ白な氷に覆われていますね。見ているだけで震えるくらい、とてつもなく寒そうだ。オローネツの小父様の領地と、遠く国境を接しているスノーラ王国は、こんな氷の国なのでしょうか。それとも、ぼくが見ている光景は、やはり実在しない幻に過ぎないのでしょうか。ああ、不思議だな」

 薄っすらと頬を染め、楽しそうに話すアントーシャに、ゲーナは優しく微笑み掛け、十歳の少年には難解過ぎる筈の話を聞かせた。

「私の可愛い一人息子は、随分と難しいことを言うのだな。この世の魔術師のほとんどが、一生掛かっても到達出来ないであろう魔術の深淵しんえんに、幼いおまえが既に辿り着こうとしているのだと、分かっているのかな。確かに在って何処どこにもなく、幻であって幻でない、異なる界を鮮明に視ることの出来る者は、私とおまえの二人しかいないのだよ、アントン。今、この瞬間にそうであり、有史以来そうであり、恐らくは遠い未来にいてもそうだろう」
「何故ですか、大叔父上。見え方が違うというのなら分かります。でも、そこに在るものが見えないのは、何故なのでしょう。見ようとしないからなのでしょうか」
「殆どの魔術師は、おまえが見ているものを垣間見かいまみる為になら、喜んで命を差し出すだろうさ。そこに在るものが見えないのは、人が内包する魔力の問題なのだよ、アントン。全ての者が魔力を持つ世界に在って、人の視力には二種類ある。物質を見る視力と、物質に非るものを視る視力だよ。物質を見る視力が、眼球の働きや疲労、老化や遺伝によって違いを生むように、物質に非るものを視る視力は、内包する魔力の量や質によって変わってくる。鮮明に界の実相を見るに足る程の膨大な魔力を持つ者は、この世界にたった二人、おまえと私だけなのだ」
「こんなにもはっきりと、こんなにも美しく、ぼくたちの目の前に広がっている光景が、誰の目にも触れないなんて、とても残念ですね、大叔父上。星々の海の中で、複雑に折り重なった界の不思議さを目にしたら、お金も権力も意味のないものに思えるのに」
「我が息子は、十歳にして既に哲学者なのだな。おまえの可愛らしい頭の中には、どれ程の叡智えいちが眠り、おまえの澄んだ瞳には、何処まで遠くが見えるのだろう。私がほどこした封印は、いまだに固く守られているというのに」

 途中から呟くがごとく消えていったゲーナの言葉は、アントーシャの耳には入らなかった。ゲーナの二の腕に、甘えて頬を擦り寄せながら、十歳になったばかりの少年は、じっと真実の間の彼方を見詰めていたのである。

 降るが如くに星の輝く空に目を凝らせば、界と界、次元と次元を隔てる階層が、明確に浮かび上がった。アントーシャの目に映るのは、薄硝子にも見える巨大な丸屋根の如きものであり、透明からほのかな水色、発光する薄黄色、血のしたたりにも似た真紅と、何色もの色を持った屋根の連なりだった。その一つ一つが、アントーシャとゲーナの生きる世界とは別の見知らぬ世界、異なる次元、過去と未来の交錯した時間軸なのだと、アントーシャは自然に理解していた。
 感嘆と憧憬どうけいの吐息を漏らしながら、アントーシャは益々ゲーナに身を寄せた。幼い少年の涼やかに高い声で、百歳を超えた世紀の天才にすら、完全には理解出来ないだろう真理を、アントーシャはうっとりと口にする。

「物質に非るものを視る視力というのは、世界の成り立ちを読み解く力であり、目に見えないはずのものを具現化する力なのでしょうね。ああ、でも、本当に美しい光景の前では、理屈は必要ありませんね。この光景を目に出来るのが、魔力の御蔭なのだとしたら、ぼくはとても幸せですよ、大叔父上。いつの日か別の界、異なる次元、時間を超えた時空へと、旅することが出来るようになるのでしょうか」
「おまえになら、きっと可能だろうさ。私の最愛の息子であり、魔術の申し子たるアントーシャよ。近い将来、おまえの封印を解く日が来れば、この世の誰も見たことのない世界が、おまえの前に開けるだろう。千年に一人の天才と呼ばれる私が予言するよ、アントン。魔術の深淵しんえんに到達し、世界の真理を我がものとし、理の体現者となるのは、アントーシャ・リヒテルであると。時至れば、何処まででも行くが良い、我が息子よ」
「一人では嫌ですよ、大叔父上。御一緒に旅をしましょうよ。世界の果てを超えて、界を渡って、次元を跳んで。考えるだけで楽しいな。ぼくが大人になる頃には、大叔父上の魔術紋だって、きっと跡形もなく消して見せますからね。ロジオン王国から自由になって、二人で行きましょう、何処どこまでも」

 そう言って、大らかに笑ったアントーシャを、ゲーナは片腕で引き寄せた。老人にしては大柄なゲーナからすれば、いまだ頼りない程に細く、胸までの背丈しかないアントーシャを、魔術師のローブでしっかりと包み込みながら、ゲーナも笑った。それは、魔術紋を刻み込まれてから百年以上、赤子のアントーシャを引き取るまでは一度として浮かばなかった、屈託のない笑みだった。

 やがて、十歳の少年の姿がき消え、星々の輝きが失われ、鏡のごとき月が姿を隠した闇の中、二十歳を超えた今のアントーシャが、ただ一人取り残された。十年以上前、同じ真実の間で確かに交わされた会話は、鮮明にアントーシャの記憶に残っていたが、その懐かしい記憶でさえ、己を苛む杭となった。あの日、ゲーナの魔術紋を消し去るのだと宣言したアントーシャは、大切な約束を遂に果たせないまま、ゲーナの強い意志に押し流されるしかなかったのである。

 ゆっくりと顔を上げたアントーシャは、空間に身を投げ出して座り込んだまま、瞳を凝らした。琥珀色の澄んだ瞳が輝き、黄金の色に染まったかに見えたとき、アントーシャの目に映ったのは、ゲーナと共に見た情景と同じ、暗い夜空を覆う巨大な硝子作りの丸屋根の如きものの連なりだった。
 その内の一つ、淡い青色の輝きの中には、轟々と燃え盛る紅蓮の星々が、凄まじい勢いで飛び交っている。アントーシャは、今にも青い輝きを砕きそうに衝突を繰り返す、一際大きな星に視線を据えたまま、小さな声で呟いた。

「我が心にも等しき焦燥と絶望の蹉跌さてつ、界を破壊せんと荒れ狂う灼熱の憤怒よ。く鎮まりて、己を律するが良い。我が真実の間の支配者、アントーシャ・リヒテルが命ずる」

 詠唱とも言えない詠唱が終わった瞬間、アントーシャの身体から金色の光が放たれた。光は、果てしない空間を黄金に染め上げる程に膨大であり、目を射るばかりに輝かしかった。アントーシャは、眉間に力を入れて歯を食い縛り、更に光を生み出し続ける。やがて、全ての闇を金色に染め上げた光は緩やかに収縮し、数多ある丸屋根の中の一つ、淡い青色の丸屋根へと吸い込まれていった。
 そこからは一瞬だった。青色の硝子を思わせる丸屋根に、今にも砕き破りそうな激しさで衝突していた紅蓮の星を、金色の光が包み込むや否や、激烈な閃光が迸った。そして、数度の点滅の後に閃光が消え去ったとき、丸屋根の中には静かに瞬く星々が浮かんでいたのである。

 アントーシャは、微かに震える唇で大きな息を吐き、益々深く空間に沈み込んだ。いつも穏やかに微笑んでいるアントーシャが、激しい疲労に襲われ、自分の身体さえ支えられなくなっていたのである。アントーシャは、微かな声で言った。

「封印されたままでのぼくでは、界を隔てた領域に干渉するのは簡単ではないな。真実の間という魔術的な空間で、極限まで最適化した術だったとしても。だが、しかし、失敗はしなかった。ぼくが体力を消耗し、魔力が枯渇こかつ寸前にまで減少したとはいえ、物理的な干渉は成った。星々の性質を改変することと比べれば、大叔父上の偉大な魔力が相手だとしても、召喚魔術の破壊は容易いだろう」

 のろのろと重い腕を持ち上げたアントーシャは、両手で顔を覆って、断末魔の獣を思わせる声でうめいた。

「いっそ、出来なければ良かったのに。そうすれば、ぼくは、この手で大叔父上を傷付けずに済んだのに。ぼくの力は、愛する家族を殺す為のものだとでもいうのか」

 アントーシャの悲痛な問いに答える者は、真実の間には誰一人としていなかった。やがて、たった一つ瞬いていた微かな星さえも消え去り、ただ、漆黒の闇だけが何処どこまでも広がっていったのだった。
 

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