連載小説 神霊術少女チェルニ〈連載版〉 4-28
その朝は、どこまでも高く澄み切った秋晴れだった。純白の柔らかな羽毛と、真紅の艶やかな羽毛に、左右の肩口を暖められ、夢も見ずに安眠していたわたしは、誰に起こされるでもなく、すっきりと目を覚ました。
今日こそは、わたしが、強い予感を感じていた日。わたしにとっても、カペラ家にとっても、たくさんの貴族たちにとっても、王太子殿下にとっても、ルーラ王国にとっても……何だったら、世界中の国にとって、大きな分水嶺になるはずの日。神霊庁で行われる、重大な神前裁判の当日なんだ。
極上の羽毛布団を思わせる暖かさに、ちょっとだけ、起き上がるのが嫌になるけど、えいやっと気合を入れて、目を開いた。最初に視界に入ってきたのは、薄っすらと透けて輝く、神々しい紅白の光の天幕。スイシャク様とアマツ様は、わたしが安眠できるように、守ってくれていたんだろう。
ふっすすふっすすって、可愛い鼻息を漏らしながら、左肩のあたりで丸まっていたスイシャク様が、わたしの首筋に顔をすり寄せる。レフ様の手紙によると、神世でのスイシャク様は、変幻自在にお姿を変えられるそうで、巨大な〈蓮の台〉に座わる人形の神様だったり、龍の頭に乗った人形の女神様だったりするそうだけど……こうして側にいると、やっぱり、ふっくふくでまん丸な、巨大雀にしか見えないよ。
わたしの右肩のあたりで寝そべっていたアマツ様は、真紅の宝石みたいな頭で、わたしの頬に優しく頭突きを繰り返す。可愛いスイシャク様に比べると、芸術品みたいに整った、麗しい神鳥の姿は、レフ様のところに行くときでも、変わらないんだろうか? 今度、レフ様と話す機会があったら、教えてもらおう。
わたしが、起き上がるために身動きすると、スイシャク様とアマツ様が、ふわりと飛び上がった。万事に気がきくというか、配慮が行き届いているというか、妙に現世の事情に通じている二柱は、わたしが、お手洗いに行ったり、顔を洗ったり、着替えたりする間は、どこへともなく姿を隠してくれるんだよ。
すっかり冷たくなった水で顔を洗って、鏡をのぞき込む。二柱の温もりのおかげで、昨夜もぐっすり眠れたから、今朝のわたしは、ものすごく顔色が良いと思う。これなら大丈夫。お父さんやお母さん、アリアナお姉ちゃんに心配をかけずに、今日の神前裁判に臨めるだろう。きっと、絶対に!
簡単な部屋着に着替えたところで、わたしの部屋の扉を、控え目に叩く音がした。これは、あれだ。アリアナお姉ちゃんに決まっている。わたしよりも、ずっと早起きのアリアナお姉ちゃんは、昔からずっと、そうしてくれていたんだから。
夜中に本を読んじゃって、なかなか起きられなかったとき、夏は冷たいタオル、冬は温かいタオルを持って、お姉ちゃんは、わたしの部屋にやってくる。わたしの目元に、そっとタオルを当ててくれて、〈お早う、チェルニ。気持ちの良い朝よ〉って。お姉ちゃんがお嫁に行っちゃったら、そんな朝もなくなるのかと思うと、泣きそうになっちゃうくらい、ものすごく寂しいよ。お姉ちゃん、大好き。
わたしの返事を聞いて、部屋に入ってきたアリアナお姉ちゃんは、咲き初めた薔薇の花よりも可憐に微笑んで、わたしにいった。
「お早う、チェルニ。起きているのね。よく眠れた?」
「お早う、お姉ちゃん。起こしに来てくれて、ありがとう。よく寝られたし、気持ち良く起きられたよ。きっと、幸先が良いんじゃないかな」
「良かった。じゃあ、朝ご飯にしましょうか。もう、お父さんたちが、用意してくれているの。お昼のお弁当もよ」
「あのさ、お姉ちゃんは大丈夫? わたしは、神霊さんに全部任せて、自分は座っているだけらしいけど、お姉ちゃんとフェルトさんは、いろいろと証言するんでしょう? 偉い人とか、たくさん傍聴する中で、緊張したりしない?」
「心配してくれるのね。ありがとう、チェルニ。多分、大丈夫よ。フェルトさんと一緒に、答えるべきことをお答えするだけだもの。わたしたちには、やましいことなんて一つもないんだから、ご神霊の前で、真実をお話しするわ」
「うん。お姉ちゃんなら、きっと大丈夫だね」
「ただ、不思議な気持ちはしているの。今朝、起きたときから、ずっと〈遠くに来た〉って、そう思えて仕方がないのよ。ほんの半年前まで、わたしは、フェルトさんに片思いをしている、平凡な娘だったの。素晴らしい両親と妹に恵まれただけの、平民の娘。それなのに、フェルトさんに求婚していただいたと思ったら、いつの間にか、その相手が大公家の後継に決まって、わたしの最愛の妹は、畏れ多くも〈神託の巫〉の宣旨を賜り、〈神威の覡〉であられる王国騎士団長閣下から、求婚されているんですもの。本当に、何て遠くまで来てしまったのかしら……」
アリアナお姉ちゃんは、戸惑ったようにいって、少しだけ不安そうな表情になった。お姉ちゃんの気持ちは、わたしにも、よく理解できる。いつもは何となく流されていて、あんまり疑問に思ったりはしないのに、ふとした瞬間に、信じられない気がするんだよ。わたしとアリアナお姉ちゃんの運命は、それくらい大きく変わってしまったからね。
わたしは、心に浮かんだ感傷っていうものにふたをして、アリアナお姉ちゃんの華奢な手をぎゅっと握り、元気いっぱいに笑いかけた。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。わたしとお姉ちゃんは、これからも一緒なんだから。お姉ちゃんがお嫁に行って、わたしが、レフ様と、けっ、結婚しても、それは変わらないよ。遠くまで来ちゃったかもしれないし、もっと遠くまでいくことになるかもしれないけど、わたしたち姉妹の心は、ずっと一緒だと思うんだ」
「ふふ。そうね。わたしには、チェルニがいてくれるんだものね。もちろん、お父さんやお母さんも。ありがとう、チェルニ」
「まずは、一緒に朝ご飯を食べに行こうよ。大事な日には、おいしいご飯を食べないといけないんだって、いつもいってるもんね、お父さん」
アリアナお姉ちゃんと手をつなぎ、両肩にスイシャク様とアマツ様を乗せたまま、わたしは、食堂に降りていった。少しだけ暖炉に火を入れた、暖かい部屋の中では、お父さんとお母さんが、待っていてくれた。今朝は、誰もお客さんが来ていないから、お父さんも一緒に食べるんだろう。
姉妹そろって、お父さんとお母さんに朝の挨拶をして、お父さんとお母さんは、スイシャク様とアマツ様に深々と礼をして、全員が席についたところで、ルルナお姉さんが、朝ご飯を運んできてくれた。
今朝のメニューは、いつも食べ慣れているものばかりだった。刻んだ野菜がたくさん入った、酸味のあるトマト味のスープ。季節の生野菜を何種類も使った、新鮮な野菜サラダ。少しの焦げ目もなく、柔らかな金色に輝くオムレツ。〈野ばら亭〉自慢の自家製ベーコンとソーセージは、こんがりと焼き上げて。毎日食べても飽きない素朴な田舎パンと、バターたっぷりのクロワッサンと、ハーブを練り込んだ固いパン。濃い目の紅茶は湯気を立てていて、作り立てのバターは冷たさを保っていて、本当においしそうなんだ。
こういう簡素な料理ほど、作る人の技術と、材料の良し悪しが出るものなんだよね。〈野ばら亭〉の娘に生まれてから、何百回も食べているはずの料理なのに、やっぱり感動するくらいおいしい。お客さん用のご馳走もおいしいけど、毎日食べるような、ごく普通のメニューだって、お父さんが作ってくれたら、特別になると思うんだ。
スイシャク様とアマツ様は、ふすふす、きゅるきゅる、上機嫌でご飯を食べてくれる。つい最近まで、神霊さんに捧げる神饌では、四本足の動物のお肉や、香りの強い野菜なんかは、使っちゃいけないっていう決まりがあったんだけど、今は制限がなくなったらしい。何しろ、当の神霊さんたちが、神職さんたちの目の前で、ぱかぱか口を開けて食べてくれているんだから。
神霊庁の神使でもあるヴェル様が、〈儀礼に囚われていた我らこそ、蒙昧無知でございました。簡単に申しますと、頭が固かったんですよ、チェルニちゃん〉って、楽しそうに笑っていたくらいだから、問題はないんだろう、多分。
朝ご飯を食べ終わって、デザートの柿のプリンを食べているとき、厨房にいたルクスさんとルルナお姉さんが、白木の箱を持ってきてくれた。中に入っていたのは、色鮮やかなサンドイッチ。きゅうり、チーズ、ハム、卵焼き、ベーコン、サーモン、何種類かのジャム……。どれも一種類だけの具で、一口で食べられるくらい小さくて、宝石箱をのぞいたみたいに綺麗だった。
神霊庁の神前裁判は、どれぐらいの時間がかかるのか、誰にも分からないから、傍聴する人たちは、簡単な軽食を用意しておくものなんだって。こんなに小さくて可愛いサンドイッチなら、こっそりと口に入れやすいよね。
おいしい朝ご飯を食べ終わって、ゆっくりと紅茶を飲んで、いよいよ準備に取りかかる時間になった。お父さんたちは、それぞれに着替えをし、アリアナお姉ちゃんは、フェルトさんの迎えを待つ。わたしは、神霊庁から来てくれる神職さんの手で、用意された衣装に着替えさせてもらうんだ。
もう一度、丁寧に歯を磨いているところで、知らせがきた。神霊庁から回されてきた、純白の馬車が、到着したんだって……。
◆
神霊庁の馬車は、他のどの馬車とも違う形をしている。すごく大きくて細い車輪が付いていて、車輪に比べると小さめの車体は、蓮の花みたいな優美な形をしているんだ。花形の車体の上には、ご神鳥を模した大きな彫刻が取り付けられていて、陽の光を金色に弾いているんだけど、あの品のある輝きって、本物の純金だったりしないよね?
ヴェル様に聞いたところによると、神霊庁の馬車は、引いている馬も特別で、一点の混じり気もない純白の馬に限られる。目立たないように使われる、普通の箱馬車の場合は、栗毛や芦毛の馬でも良いらしいけど、神使以上の位の神職さんが乗る、純白の〈お召し馬車〉になると、純白の馬でないと許されないらしい。
さらにいうと、蓮の花の形をした馬車にも位があって、大きさや窓の形、装飾や上に飾られた彫刻の種類によって、ある程度は乗っている人の身分がわかるようになっている。このあたりは、貴族の人たちが使う馬車も同じで、爵位によって許される色や形が決まっているんだって。
二階の部屋の窓から、王都の家の玄関に停まった馬車を見ると、こじんまりした大きさのわりに、きらきらと輝いている気がする。車体を覆っている布そのものが、ものすごく高価なんじゃないかな?
わりと小さくて可愛らしい馬車なのに、馬は四頭もつながれていて、陽の光を弾くほどの輝かしい純白の馬ばっかり。ヴェル様からは、馬車の上の彫刻は、神霊さんや神器を象ったものが多くて、純金のご神鳥を載せた馬車は、大神使以上じゃないと乗ることができないって、教えられた記憶があるんだけど……あの彫刻が純金のご神鳥に見えるのは、わたしの気のせい……だよね?
最初に神霊庁を訪問したときは、目立たないように、貸切馬車で出かけていった。わたしはもちろん、お父さんやお母さんは、今回もそうするつもりだったのに、ヴェル様たちに押し切られちゃったんだよ。
オディール様が女大公になり、フェルトさんが後継になることは、もう正式に発表された。当然、貴族社会は大揺れに揺れているそうで、もともと大公家のお姫様だったオディール様はまだしも、存在を知られていなかったフェルトさんや、その婚約者で、平民のアリアナお姉ちゃんは、良い意味でも悪い意味でも、注目の的らしい。
そして、わたしはといえば、国王陛下と同格の大神使、コンラッド猊下であるミル様から、〈神託の巫〉の宣旨を受けている。王立学院の受験のときなんて、神霊庁、王国騎士団、〈黒夜〉のそれぞれから偉い人が来て、わたしを守るって、恫喝まがいに宣言されている。こうなると、うちの家が〈目立たずに〉いるなんて、到底できない相談なんだろう。
無理に人目を避けているよりは、いっそのこと、堂々と守られている方が安全なんじゃないか……。ヴェル様は、そういって、お父さんとお母さんを納得させたらしい。お父さんはともかく、あの〈豪腕〉のお母さんを動かすなんて、何気なくすごいよね、ヴェル様って。
わたしが、出迎えに出る間もなく、蓮の花の馬車から、二人の女の人が降りてきた。十日くらい前に、ミル様やヴェル様と一緒に訪ねてきてくれた神職さんで、〈神侍〉の位を持つアンナさんとポーラさんだったと思う。
二人は、神職さんの正式な装束を着ていて、それぞれに白木の箱を捧げ持っている。この間、試着用に持ってきてくれた、わたし用の装束は、お手入れをするために持って帰っていたから、それをもう一度運んできてくれたんだろう。
わたしは、すぐに階下へ降りていった。〈神託の巫〉の装束は、着るときに場所を取るから、自分の部屋じゃなく、一番広い応接間で着つけをしてもらうんだ。試着するだけでも、それなりに時間がかかったし、大変なんだよね、装束って。
わたしは、元気良く応接間に入って、二人の神職さんに向かって、丁寧に挨拶した。こう見えて、礼儀正しい少女なのだ、わたしは。
「お早うございます、アンナさん、ポーラさん。お手数をおかけして、すみません。今日は、よろしくお願いします」
「お早うございます、お嬢様。本日のご出座、誠にありがたく存じ奉ります。畏れ多くも〈神託の巫〉で在られます、御方様の御介添、未熟な身に余りある大役と、驚懼しておりますけれど、精一杯に相勤めさせていただきまする」
「ご丁寧なご挨拶を賜り、誠に畏れ多いことでございます。わたくし共の身命を賭しまして、恙なく大事のお役目を果たせますよう、相勤めまする。至らぬことと思し召されましたならば、何卒ご叱責を賜りますよう、伏して希い奉りまする」
「……えっと、今日はミル様たちもいないし、あんまり堅苦しいと疲れちゃうので、軽い感じでお願いできませんか? できたら、〈お早う、チェルニちゃん!〉みたいな雰囲気が良いんですけど」
「……何とか、努力をいたしまする」
「畏まり……承知いたしました、お嬢様」
アンナさんも、ポーラさんも、神職さんたちの使っている、むずかしい言葉の方が、ずっと身に馴染んでいるんだろう。わたしが〈軽い感じで〉ってお願いすると、ものすごく困った顔をしながら、何とか首を縦に振ってくれた。
わたしたちが挨拶をしているうちに、スイシャク様とアマツ様は、どこへともなく消えていった。家の中には、二柱の気配が濃密に漂ったままだから、少女の着替えをのぞかないようにって、応接間を出てくれたんだと思う。いつものことながら、細かな配慮の行き届いた神霊さんたちだよ、本当に。
アンナさんとポーラさんは、わたしに一礼してから、手際良く準備に取りかかった。ぴかぴかに磨かれた床に、純白の大きな布を何枚も敷いてから、恭しい手つきで、持ってきてくれた木箱を、一列に並べていく。木箱は、どれも平べったい形で、数は五つ。離れたところに立っていても、新しい木の香りがしてくるようだった。
アンナさんに呼ばれ、わたしは、純白の布の真ん中に立った。もちろん、スリッパも靴下もはかない、素足のまま。このあたりは、試着のときに教えてもらったから、戸惑ったりはしなかった。
ポーラさんは、木箱の一つを捧げ持って、わたしの足下に置いた。中に入っていたのは、純白の絹で作られた、下着類が一式。この場で全部脱いで、下着ごと着替えなくちゃいけないんだよ、わたし。
すかさず、ひと巻きの白い布を手にしたアンナさんが、その一端を、ポーラさんに渡す。アンナさんとポーラさんは、しゅるしゅると軽やかな衣擦れの音を立てて、二人がかりで布を広げると、わたしの姿がどこからも見えないように、すっぽりと覆い隠してくれたんだ。
こうなったら、恥ずかしがっていても仕方がないからね。わたしは、着ているものを全部、勢い良く脱いじゃって、用意された下着を身につけた。装束用の下着は、何となく頼りないっていうか、すうすうするような気がするけど、そこは慣れるしかないんだろう。
試着のときに、アンナさんたちが教えてくれたところによると、最上位の装束を着るような人たちは、下着の着替えでさえ、人の手を借りるらしい。歴代の王妃様ともなると、自分では腕さえ上げなくて、侍女さんたちが、王妃様の腕を持ち上げるんだって。わたしには、きっと永遠にわからない世界だよ。わかりたいとも思わないけどね。
下着を着た後は、一つ一つの木箱から出された装束を、順に着付けていく。下着の上にもう一枚、純白の下着を重ね、次は、糸の一本一本が光を放っているかのような、どこまでも純白な小袖を着る。今日は袴も純白で、小袖よりは少しだけ張りのある生地なんだけど、ものすごく高価なものだっていうことは、一目でわかる。生地そのものに、すごく品があるからね。
四つめの木箱から出てきたのは、千早って呼ばれる、上着のような装束だった。この千早は、薄っすらと透けていて、純白の生地の上に、銀糸でたくさんの刺繍がされている。柄は全部同じで、神霊庁を表す紋様だっていうことは、ルーラ王国の国民なら、小さな子どもでも知っていると思う。神霊庁の紋を背負う意味なんて、わたしは考えない。考えないったら、考えない。
着付けの最後は、五つ目の小さな木箱だった。中に入っているのは、扇を開いたみたいな形をした、白銀の髪飾り。透かし模様になっているのは、ルーラ王国の国花であるサクラだし、花芯のところで輝いているのは、小さな金剛石だろう。
〈前天冠〉っていうらしい、この髪飾りを、前髪の上のあたりに留めてもらって、ようやく、わたしの着付けは完成したんだ。
「お美しゅうございますわ、お嬢様。誠に、神々しいばかりのお姿でございます」
「何と、素晴らしい。眼福という言葉以外に、この誇らしさを語る術がございません」
なぜが涙を流している、アンナさんとポーラさんにお礼をいって、わたしは、えいやって気合を入れた。巨大な分水嶺になるだろう、神霊庁の神前裁判が、いよいよ目前に迫ってきたんだから……。