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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 4-7

04 アマーロ 悲しみは訪れる|7 絆

 魔術触媒しょくばいも用いず、術式も刻まない転移魔術によって、遥かに遠いオローネツ城を訪れていたゲーナとアントーシャは、わずか一ミル程の間に訪問を終えると、誰にも気付かれない内に、叡智えいちの塔の十三階に戻ってきた。超長距離の転移を終えたばかりとは思えない、晴れやかな表情をほころばせて、ゲーナは言った。

「有難う、アントン。おまえの御陰で、もう何一つ心残りはなくなった。さあ、後は二人だけで最後の乾杯をするとしよう。別れの杯などと陰気なことは言わずにな」
 柔らかな微笑みを浮かべたゲーナは、魔術師団長の専用執務室に置かれた戸棚から、杯と葡萄酒ぶどうしゅの入った硝子瓶を取り出し、長椅子の前の机に置いた。
「そこへ御座り、アントン。召喚魔術の行使前とは言え、少しくらいは構わないだろう。この葡萄酒は、お前が生まれた年に造られた物なのだよ。本当は、おまえが結婚するときの前祝いに、二人で飲み明かす心算つもりで、早くから用意しておいたのだが、いつになってもその気配さえないまま、今日になってしまったよ」

 冗談めかして笑うゲーナに、アントーシャもまた、肩をすくめて話に乗った。最後の語らいの為に残された僅かな時間、一心に敬愛する大叔父の心残りになるような顔だけは見せまいと、アントーシャは固く決心していたのである。

「魔術師は寿命が長いのですから、急ぐ必要もないでしょう。第一、そういう大叔父上も、一度も結婚しておられないではありませんか。ぼくが、女性に好かれないわけではありません。魔術師は結婚出来ない確率が高いのですよ、色々と」
「私は確かに生涯独身だったし、結婚など考えもしなかった。魔術の深淵しんえんを超える魅力を持った女性など、流石さすがにこの世の何処どこにも居なかったのでな。しかし、私には、おまえという立派な息子が出来たのだから、それで良いのだよ、アントン」

 そう言って、自分を見詰める瞳に込められた、ゲーナの余りの愛の深さに、泣くまいとするアントーシャの決意は脆くも崩れ去った。アントーシャの瞳からは、杯の水を傾けたかのごとき勢いで涙が吹き零れたのである。長椅子から立ち上がったゲーナは、そっと向かいに座るアントーシャの傍に寄り添うと、顔を覆って俯いたままの頭を愛し気に撫でたのだった。

やがて、アントーシャの嗚咽おえつが鎮まった頃、ゲーナは執務机の引き出しの鍵を開けに行くと、中から黒い書類鞄を取り出し、アントーシャの前に置いた。

「アントン、この書類鞄の中身を確認しておくれ」

 アントーシャは乱暴にローブの袖で涙をぬぐい、机の上に置かれた鞄を見た。ゲーナはそこから何通かの書類を出し、順に並べていった。

「これは、今住んでいる王都の邸宅と土地の権利証。こちらは動産の目録。右端に置いたものが、管理機関に預けてある預貯金の一覧。そして、黒表紙に王国印の押してあるものが、私が持つ子爵位と領地を、おまえに譲渡することを認めた認可証だよ。今日付けで、継承は終えている。また、爵位以外も全ておまえの名義に変えてある。相続税は先に財務府の役人共に叩きつけてやったので、ここに出したのは全ておまえが自由に処分しても良い財産だけだよ」

 何度もゲーナを説得しようとして挫折し、力付くで隷属れいぞくの魔術紋を解除しようとして果たせず、絶望の末にゲーナの意思を受け入れるしかなかったアントーシャである。唯一の家族であるゲーナを失う未来におののいているだけで、ゲーナの膨大な財産の行方など気にも止めていなかったアントーシャは、赤く充血した目を驚きに見開いた。

「大叔父上、一体何を仰っているのですか」
「私には、身内らしい身内はおまえしかいないのだから、おまえに全てを残すのは当たり前だろう。百何十年も国家に奉職し、その内の約百年は魔術師団長だったのだ。それなりの額にはなっているので、アントンの好きに御使い。但し、自暴自棄になって、全額を何処どこかに寄付したりするのは止めておくれ。おまえは金銭に価値を見出してはいないだろうが、金銭が有るからこそ、保障される自由も存在するのだよ」
「あの豪邸を含めた財産は未だしも、ぼくは養子にもなっていないのに、大叔父上の子爵位と領地を継承することなど可能なのですか」

 アントーシャの当然の疑問を前に、ゲーナは笑った。悪戯いたずらを成功させた子供を思わせる、明るく無邪気な笑顔だった。

「この召喚魔術は命懸けになるので、先にアントンに諸々継がせておきたいと頼んだら、クレメンテ公爵とパーヴェル伯爵が協力してくれたのさ。領地と言っても、羊くらいしかいない田舎だからな。彼奴あやつらにとっては、問題にもならないのだろう。私を懐柔かいじゅうする為に、二つ返事で宰相府に口添えしてくれたよ。継承の要件を満たす方策として、勝手におまえを猶子ゆうしにさせて貰ったよ、アントン。おまえをテルミンという忌々いまいましい名に縛り付けたくはなかったので、敢えて養子縁組はしなかった。これも縁と諦めて、リヒテルの姓のまま私の本当の息子になっておくれ」

 アントーシャは、沈黙したまま必死に歯を食い縛った。一言でも口を開けば、今度こそ嗚咽おえつが止まらなくなってしまうと、アントーシャにもゲーナにも分かっていたのである。深い愛情をたたえた眼差まなざしを向けて、ゲーナは言った。

「それでな、アントン。これも勝手ながら、おまえは明日で叡智えいちの塔を辞める予定になっている。私の一存で、そう手続きしてしまったのだ。もうこれで、おまえを縛るものはないのだから、自由にしなさい。おまえが良ければ、一度両親に会いに帰っても良いのではないかな。猶子にする許可を得る為に、久々におまえの両親に会いに行ったら、アントンの様子を気にしていたよ」
「ぼくはゲーナ・テルミンの息子であり、他に親などいませんよ」

 ようやく涙を飲み下したアントーシャは、間髪を入れずに言った。優し気な白皙はくせきわずかばかり強張こわばらせただけで、一切の迷いを見せないアントーシャに、ゲーナは困った顔で眉を下げた。禁忌とは言えないまでも、二人がアントーシャの生家を話題にする機会はほとんどなく、アントーシャがゲーナと暮らすようになった経緯も、詳しくは語られてこなかった。

「両親を恨んでいるのかい、アントン。私の説明が足らなかったのだな。彼らは、決して悪い人達ではないし、おまえに愛情を感じていないわけでもない。ただ、我々魔術師とは、別の世界に生きているだけなのだよ。私の親がそうであったように、おまえの両親には息子の力が理解出来なかったのだ」
「分かっていますとも、大叔父上。ぼくの両親は、何も悪くはない。生まれたばかりの赤子から、両目を抉り出そうとした人達でも、ぼくは恨んでなどいませんよ。彼らは、未知の存在に怯えていただけなのでしょう」

 口を濁して語らなかった事実を、平然と口にしたアントーシャに驚いて、ゲーナは思わずその顔を凝視した。

「誰に聞いたのだ、アントン。当時の事情を知っているのは、私とおまえの両親だけのはずなのだが。息子を害そうとするまでに思い詰めていた彼らが、他の者に話しはしないだろう。両親からおまえに、何らかの連絡が有ったのか」
「ぼくが十歳になった年の誕生日に、両親から手紙が届きました。ぼくの両親は、ぼくの目が開いた瞬間に恐れおののき、悩み苦しんだ末に、赤子の両目を抉り出そうとしたそうですね。愚かな真似をして済まない。その所為でゲーナ様に息子を奪われて、とても後悔している。今までは罪悪感から連絡出来なかったけれども、一日たりともおまえを忘れた日などなかった。兄弟姉妹もいるので戻って御出で、と書いてありました。手紙を読んだ途端に、何故か笑いが止まらなくなったのを覚えています」
「それで、おまえはどうしたのだ、アントン」
「ぼくなりに気持ちの整理を付けたかったので、ぐに会いに行きました。前触れもなく、彼らの目の前に転移したら、化け物を見るような目で見られましたよ。だから、ぼくは丁寧に言ったのです。貴方達も、勿論もちろんぼくも悪くない。御互い住む世界が違うだけだから、良き隣人になりましょう、と。今になって考えると、相当に酷い言い草ですね。けれども、当時は十歳の子供だったのですから、仕方がなかったのだと思います。いくらぼくでも、傷付いていたのでしょう。実の親に害されそうになったぼくを救って下さったのは、貴方です。そのときから、いえ、赤子だったぼくを最初に抱き上げて下さった瞬間から、ぼくが親と呼べるのは貴方だけなのです」

 そう言って静かに微笑むアントーシャに、掛けるべき言葉を失ったゲーナは、途方に暮れて天を見上げた。そして、しばらくの沈黙の後、二人は同時に大きな声を出して笑い出したのである。

「ああ、そうだな、アントン。私としたことが、柄にもない。血の繋がりなど、魂の絆に比べたら意味を持たないのにな」
「そうですとも、大叔父上。いや、もう父上と呼ばせて下さい。ぼくの為に、これ程までに御心を砕いて頂いて、有難うございます。貴方に育てて頂いて、ぼくは本当に幸せでした。心から感謝しております、父上」

アントーシャから、初めて父と呼ばれたゲーナは、しわ深い顔を薄く薔薇色に染め上げて、幸せそうに微笑んだ。

「お前に父と呼んで貰えるのは、こんなにも嬉しいものなのだな、アントン。幸せにおなり、最愛の息子よ。私の望みはそれだけだよ」
「父上がそう願って下さることは、く分かっています。ですから、ぼくは自分が成すべきだと信じる事を成す為に、全力を尽くしたいと思います。それこそが、ぼくが幸せになれるであろう唯一の道なのですから」
「お前が何を成すのか、聞いても良いかい、アントン」

 アントーシャは、深く澄んだ湖を思わせる瞳で、じっとゲーナを見詰めたまま、ゆっくりと笑みを浮かべた。

勿論もちろん、このロジオン王国を打倒し、地方領の領民達が苦しまないで済む国を興すのです。父上は復讐など望まないでしょうし、ぼくもそこにこだわ心算つもりはありません。しかし、貴方が死をもって止めなくてはならない程の悪行を為す国を、このままにしておくものですか。それはもう、魔術の深淵しんえんにも勝ることわりなのですよ」

 少しの気負いもなく、当たり前の事実として紡がれたアントーシャの言葉に、ゲーナは染み入るような眼差まなざしを投げ掛け、軽く頷いただけだった。もうそれ以上の言葉は必要ではなく、召喚魔術の行使までの残り数刻、アントーシャとゲーナは、ただ、静かに微笑み合いながら杯を掲げたのだった。


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