フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 5-9
05 ハイムリヒ 運命は囁く|9 約束
召喚魔術の術式を破壊した直後、真実の間に立ち竦み、星灯さえない虚無の夜空を見詰めていたアントーシャは、ゲーナの死と同時に出現した光球の軌跡を、絶望の眼差しで追っていた。微かに瞬く淡い黄色の光球は、人の身体を司る〈魄〉である。壮絶に四散したことによって、司るべき身体を失ったゲーナの魄は、瞬く間に微かな光さえも消し去り、何処とも知れない空に融けていった。人ならぬアントーシャの霊眼には、ゲーナの魄が身体としても記憶を失い、新しい熱量体として世界に還元された瞬間がはっきりと視えていた。
次いで、冴え冴えとした水色に輝く光球と、輝かしい銀色に煌めく光球が、暗い夜空に浮かび上がった。ゲーナの精神を司る〈魂〉と、魔力を司る〈霊〉である。血が出る程に唇を噛み締めて嗚咽を堪え、アントーシャが二色の光球を見送ろうとしたとき、白猫のベルーハが鋭く鳴いた。
ベルーハの鳴き声は、一つの天啓としてアントーシャを貫いた。この瞬間、アントーシャは、一つの可能性に気付いたのである。肉体を依り代として、精神体や魔力が人の存在を形成するのであれば、極めて高純度の魔力結晶体である鍵を使って、一時的にゲーナの存在を留められるのではないか、と。
アントーシャの霊眼は、遥かな時空を超え、今にも消えようとするゲーナの魂と霊とを探し当てた。それを自身の膨大な魔力によって包み込み、大切に抱きかかえるようにして引き寄せ、掌に乗せた鍵にそっと重ね合わせる。すると、最初に魔力を司る霊、次に精神を司る魂が、ゆっくりと銀色の鍵に吸い込まれていったのである。
アントーシャが手を離すと、鍵はそのまま空中に浮かび上がり、一際強く発光した。眩い光の残像が霧となって霧散したとき、そこには居る筈のない人が居た。全身を仄かな銀色に輝かせ、この世のものではない神秘性を纏って、ゲーナが静かに佇んでいたのである。アントーシャが嗚咽混じりに父を呼ぶと、ゲーナは困った顔で微笑んだ。
「そなたとの今生の別れは、もう済んだと思っていたのだがな、アントン。私の最愛の息子は、本当に仕方のない悪戯坊主だ。その美しい奇跡の瞳を、この世の理を曲げることに使ってはいけないではないか」
優しく叱りながら、ゲーナは大きく両腕を広げた。アントーシャは躊躇なくその腕に飛び込み、万感の思いで父の背を抱いた。実体を失った筈のゲーナは、この真実の間でだけは、仮初めの抱擁を可能にしていたのである。アントーシャは、泣きながら言った。
「父上、さぞ苦しまれたでしょう。儀式の間での御様子は、ぼくにも朧げに感じ取れていました。いっそのこと、最初から最大の重量で術式を破壊した方が、御苦しみが少なかったかも知れません。申し訳ありませんでした。どうしても一言だけ、それを父上に謝りたかったのです。単なる自己満足だと分かってはいるのですが」
「何を言うのだ、アントン。苦しかったのは私ではない。私の我儘に付き合わされて、己が手で父と呼ぶ者を傷つけなくてはならなかった、おまえの方だろうに。優しいおまえに酷な真似をさせ、こんなにも苦しめてしまった。泣かないでおくれ。そして、どうか、罪深い私を許しておくれ。本当に済まなかった」
ゲーナの優しい謝罪に、アントーシャは何度も首を横に振るだけで答えず、只、父の背を抱き締める腕に力を籠めた。ゲーナは、情愛の滲む声で言った。
「死した我が身には、様々な真理が分かるよ、アントン。おまえを深く悲しませてしまったが、私達の決断は正しかった。召喚魔術は、絶対に阻止しなくてはならなかった。ヤキム・パーヴェルとダニエが組み上げた召喚魔術の術式は、この世の理を曲げてしまう。理を守る為の捨て石に為れたのだから、私は死に甲斐があったのだよ。おまえの瞳には、この世の真理が映っているのだろう、我が最愛の息子よ」
「はい、父上。分かっています。ぼく達魔術師は、この世の理を守らなくてはならない。そうでなければ、世界を簡単に破壊してしまうでしょう。ぼくの瞳には、理の果てが見えますよ、父上。それが理解出来る年齢になるまで、ぼくの瞳を封印して下さったこと、深く感謝しています。有難うございました」
満足の笑みを浮かべたゲーナは、そっとアントーシャを抱き締めていた腕を解き、万感の思いを籠めて愛する息子の顔を見詰めた。既に実体を失ったゲーナであっても、慈愛に満ちた眼差しは少しも変わらなかった。
「もう一度おまえに会えて、とても嬉しかったよ、アントン。最初に赤子だったおまえに出会えた日から、私はずっと幸福だった。心からおまえを愛しているよ。私達には、何一つ悲しむ理由など有りはしない。おまえが偉大なる奇跡の瞳で、少しだけ理を曲げてしまったことを、どうやらこの世界は許してくれたらしい。分かるかい」
「分かりますとも、父上。貴方が下さった鍵を通して、ぼく達の魂と霊が結び付きました。いつか何処かで、また共に過ごせますね。嬉しいですよ、とても」
「おまえが現世の身体を失ったときには、私が必ず迎えに来よう。約束するよ、アントン。人の生は瞬きの間に過ぎない。その間、ずっとおまえを見守っているよ。おまえの悪戯の御陰で、私にはそれが許されたのだから」
「はい。御待ちしています、父上。きっとまた御目に掛かりましょう」
「ゲーナ・テルミンの最愛の息子にして、この世の理を体現するアントーシャ・リヒテルよ。真にして霊、霊にして法なる全眼の主よ。今このときから、おまえは魔導師と名乗るが良い。おまえの真眼は、遍く天地を看破する。おまえの霊眼は、全ての神秘を我がものとする。そして、おまえの法眼は、術式も触媒も用いずに、神の奇跡を起こすだろう。この世で唯一人だけが使える魔術によって、人々を導いておくれ、私のヴァシーリ」
そう言うと、ゲーナの霊体は柔らかな光を放って揺らめき、いつの間にか満点の星が瞬き始めた夜空に溶けていった。今度こそ本当にゲーナを見送ったアントーシャは、そのまま長い時間、真実の間に立ち続けていた。己が手でゲーナを死に至らしめたことで、鮮血を噴き出しながら痛み続けていた心の傷は、ゲーナの衷心からの感謝と祝福によって塞がれ、手の中に戻った鍵から伝わる微かな熱が、優しくアントーシャを温めたのだった。