フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 4-4
04 アマーロ 悲しみは訪れる|4 受け継がれしもの
召喚魔術を行使する為の儀式まで、遂に残り数ミルにまで迫った深夜、儀式の主役であるゲーナは、叡智の塔の執務室で人を待っていた。世界一の魔術大国であるロジオン王国で、魔術師団長だけが使うことを許された専用執務室には、ゲーナ以外の人影は見当たらない。史上初めて行われる召喚魔術を前に、心を落ち着けたいというゲーナの願いによって、全ての者が執務室から遠ざけられていたのである。
ゲーナの全身から漂う静謐な気配が、深々と執務室を満たす中、不意に小さな鈴の音が響いた。緩りと顔を上げたゲーナが、満足気に微笑むと同時に、柔らかな金色の光が部屋の片隅に渦を巻く。金の光と共に現れたアントーシャは、素早く周囲を見回した。この日のアントーシャは、叡智の塔に配備された短距離移動用の転移魔術陣を使わず、自身の転移魔術によって密かにゲーナの元を訪れたのだった。
「大丈夫だよ、アントン。お前の転移軌道を追える魔術師などこの世に存在しないし、執務室に仕掛けられた盗聴用の魔術機器にも、目眩ましの細工をしておいた。重要な儀式の前に一人になりたいと言っておいたので、二ミル程は自由にしてくれるだろうさ」
「それは良かった。大切な時間を邪魔されるのは、流石に面倒ですからね。では、早速出掛けるとしましょうか。大叔父上。向こうでは、大歓迎で御待ちになっておられますよ」
柔らかな微笑を浮かべたアントーシャが、そっと手を差し延べると、ゲーナは上機嫌でその手を取った。白く張りの有る青年の手と、細かな皺に覆われた老人の手が、しっかりと握り合わされると、ゲーナは明るい声で言った。
「おまえの転移魔術で跳ぶのも、考えてみれば久し振りだな、アントン。万が一の危険を考えて、私は常に人目の有る場所か、直ぐに姿を現せる場所にばかり居たからな。召喚魔術が取り沙汰されて以来、王城も叡智の塔も一層窮屈な場所になってしまった。私の動向を探る為だけに、何人の魔術師と王家の夜を貼り付けていたのやら。真に以て御苦労なことだ」
アントーシャは、何も言わずにゲーナに微笑み掛け、優しく肩を抱いて引き寄せた。アントーシャの最初の記憶では、見上げる程に大きく逞しかった大叔父が、いつの間にか己が頬にも届かなくなっていたのだと、アントーシャは唐突に気付かされた。瞬間、胸に去来した名状し難い衝動を必死で押さえ付け、アントーシャは静かに魔術を発動させた。
魔術触媒となる輝石も使わず、魔術陣も描かず、謳うように短い詠唱を口にしただけで、輝かしい光が生み出され、叡智の塔の執務室を黄金に染め上げる。只それだけで、ゲーナの執務室から人の気配が消え去り、二人は王都から遥か離れた辺境の地へと至った。ゲーナにとっては年の離れた盟友であり、召喚魔術までに残された最後の時間に会わなければならない人物、オローネツ辺境伯の居城たるオローネツ城である。
「ようこそ御出で下さいました、ゲーナ様。御久し振りに御目に掛かれて、嬉しゅうございます。今日はゆっくりして頂けるのでしょうか」
予め知らせを受けていたオローネツ辺境伯は、満面の笑みでゲーナを迎え、力強い両手で皺深い手を握り締めた。傍らに立って出迎えたイヴァーノも、ゲーナに向かって深々と頭を下げ、全身から温かい歓迎の気配を立ち上らせた。
「久し振りだな、エウレカ殿。イヴァーノも変わりがないようで、良かった」
ゲーナは満足気に頷くと、丁寧に勧められるまま、居間の長椅子にゆったりと腰掛けた。魔術師団長であるだけではなく、テルミン子爵としての地位を持つゲーナは、オローネツ辺境伯爵領に隣接した位置に領地を有しており、オローネツ辺境伯爵家との絆は深い。親友とも言える間柄だった、オローネツ辺境伯の祖父の時代から、五人は座れそうな大きさの長椅子に、一人でだらしなく寝そべるのが、オローネツ城に於けるゲーナの定位置だった。
「この城に御邪魔すると安堵するよ、エウレカ殿。叡智の塔では腹の探り合いばかりだし、塔の執務室にも自邸にも、監視が付いておるのでな。全く、この老いぼれ一人に御苦労なことだ。馬鹿共の考えは、私には理解できぬよ」
「そう御考えでございましたら、此度こそはどうか御緩りと御滞在下さいませ、ゲーナ様。魔術師団長たる御身には、長期の休暇は難しいとは存じますけれど、出来る限り御留まり頂ければ、嬉しゅうございます」
「左様でございますとも、ゲーナ様。閣下も私くし共も、いつも首を長くしてゲーナ様の御越しを御待ち申し上げております。ともあれ、色々と御疲れでございましょう。御腹が御空きではございませんか。直ぐに御食事を御運び致しますか」
オローネツ辺境伯は熱心にゲーナを誘い、イヴァーノは如何にも嬉し気な様子でゲーナを労った。言葉の裏側など想像する必要もない、温かく純粋な好意に頬を緩めたゲーナは、それでも緩く首を横に振った。
「二人の気持ちは本当に有難いが、余りゆっくりも出来ないのだよ。今日は、そなたらに今生の別れを告げに参った。エウレカ殿もイヴァーノも、座って私の話を聞いておくれ。そなたらには、ゲーナ・テルミンの最後の頼み事があるのだ」
想像さえ出来なかっただろう宣言に、激しい衝撃を受けたオローネツ辺境伯とイヴァーノは、思わず目を見開いて身体を震わせた。執務室に控えていた文官や護衛騎士達も、無言の内に震撼し、俄に張り詰めた緊張感は、執務室を押し潰しそうな程だった。
とは言え、そこは常に命の危機を見据え、方面騎士団の敵となることさえ厭わずに、長い年月を闘い抜いてきた男達である。オローネツ辺境伯とイヴァーノは、一言も無駄な問い掛けをしようとはせず、真剣な眼差しでゲーナに向き合った。ゲーナは、そんな二人の様子に深い満足の息を吐き、傍らのアントーシャに言った。
「アントン、私は二人と話をするので、一ミルばかり席を外していておくれ。終わったら合図をするので、よろしくな」
「分かりました、大叔父上。ゆっくりと御話し下さい。その間、ぼくは厨房にでも行って、料理長に何か食べさせてもらうとしましょう。王都の家では、間に合わせの物ばかり食べているのですから、オローネツ城に来させて頂いたときには、栄養を補給しておかないと」
冗談めかして微笑むと、アントーシャは静かに部屋を出て行った。オローネツ辺境伯も、護衛騎士や文官らを下がらせ、その場にはゲーナとオローネツ辺境伯、イヴァーノの三人だけが残った。オローネツ辺境伯とイヴァーノは、一言も聞き漏らすまいと、椅子から身を乗り出すようにしてゲーナを見詰める。オローネツ城に衝撃を齎したゲーナは、長椅子の上で姿勢を正しただけで、少しも気負った様子を見せず、穏やかに話し始めた。
「さて、先程も申した通り、今日は今生の別れに参った。我が命は、残り数ミルの内に消えると決まっているのだよ」
オローネツ辺境伯は、机の下で血が出る程に強く両手を握り締め、一瞬たりともゲーナから視線を逸らさないまま、激情を押し殺した口調で尋ねた。
「差し迫った折に我らの下を御訪ね下さり、誠に有難うございます。ですが、ゲーナ様。貴方様の御命が残り数ミルとは、一体何が起こるのでございますか。その運命を避ける為に、我らに出来ることはないのでしょうか。大恩あるゲーナ様の御役に立てるのでしたら、我ら二人、喜んで命を投げ出しましょう」
ロジオン王国でも有数の大領を治めるエウレカ・オローネツは、軽々しく命を捨てるなどとは口にしない。オローネツ辺境伯が言い、家令たるイヴァーノが止めないのであれば、それは命を懸けた誓いとなる。瞳に気迫を滾らせて、必死に問い掛けるオローネツ辺境伯に、ゲーナは温かく微笑み掛け、心からの感謝を示した。
「有難う、エウレカ殿。そなたの気持ちは本当に嬉しく思う。そなたやイヴァーノの知己を得たのは、私にとって大いなる幸いだよ。しかし、それでも、これは私自身が定めた運命であり、何者にも変えられはしないのだ。そなたらにも、召喚魔術の企みは知らせてあったろう。今夜、その術を行う予定になっているのだ」
「あの愚かな儀式は、今夜でございましたか。まさかとは思いますけれど、その術は、ゲーナ様が御自身で行われるのではございませんでしょうな」
オローネツ辺境伯の問い掛けに、ゲーナは皺深い右手を上げると、そっと自らの胸元を撫でた。百二十年前、当時の魔術師団長であったヤキム・パーヴェルによって、ゲーナの意志を縛る隷属の魔術紋が刻まれた場所である。
「余りにも恥多き故に、そなたらには秘密にしてきたが、私のこの胸には、百年以上前から隷属の魔術紋が刻まれているのだよ。何が有っても王家の命に従い、王家の為に身命を賭して尽くす。その誓いを破ったときには、魔術紋が我が心臓を掴み潰すだろう、と。私を隷属させるべきだと説いたのも、実際に契約を取り行ったのも、先代の魔術師団長だったヤキム・パーヴェルでな。愚かな私は、父母や兄弟姉妹の懇願に負けて、それを拒否出来なかった。契約を拒むのは王家に対する謀反に等しく、建国以来の忠臣である我がテルミン家が、貴族として生きていけなくなると、皆で泣かれてしまってな」
「何という非道なことを」
一言そう言った切り、オローネツ辺境伯は呆然として言葉を失った。イヴァーノもまた、必死に痛みに耐えるかの如く、固く目を閉じた。或いは、ゲーナが己れの死を語った以上かも知れない衝撃が、二人に襲い掛かったのである。千年に一人の天才と呼ばれ、ロジオン王国の歴史にも二人といない大魔術師であるゲーナが、魔術紋による制約を課せられていたとは、オローネツ辺境伯にもイヴァーノにも、想像さえ出来ない事だった。何よりも、誇り高く自由なゲーナの魂を知るだけに、一層痛ましさが募ったのだった。
「この魔術紋の為に、私は王家の奴隷となった。王家が他国を侵略し、自国の領民を虐げ、遂には報恩特例法などという世紀の悪法を作ったにも拘わらず、私はそんな王家の命によってに魔術を使い続けた。そなたら地方領の皆々の苦悩も、幾許かは王家の人形に成り下がった私の所為なのであろうな」
「何を仰るのです、ゲーナ様。貴方様は如何なるときも、地方領の為、領民の為に御尽力下さったではありませんか。そのゲーナ様の御恩は、我ら片時たりとも忘れは致しません。そうであろう、イヴァーノ」
「左様でございますとも。ゲーナ様、貴方様がそのような魔術紋に縛られておられたのだと伺った今、有難さが一層身に沁みます。これまで色々と勝手を申し上げてきた我が身を、恥じ入るばかりでございます。さぞ御苦しみだったのでございましょう」
オローネツ辺境伯もイヴァーノも、ゲーナへの感謝とロジオン王家への怒りに耐え切れず、涙を浮かべて言い募った。
「最も王家と方面騎士団に苦しめられてきたのは、そなた達であろうに。私が地方領の為に動いたとて、それは欺瞞というものだ。王家の権力を強化し、地方領主達の力を削ぐ上で、私が果たした役割も有ろうからな。然しながら、二人にそう言ってもらえると、私の心も幾許かは休まるよ。本当に有難う」
ゲーナは、深く頭を下げて座礼を取り、二人に謝意を示した。数十年に及ぶ友誼の中で、否応なく隠し続けてきた秘密を打ち明け、一つの重荷を降ろしたゲーナの顔には、晴々とした明るさが灯っていた。柔らかく微笑んだまま、ゲーナは言った。
「そうした訳で、穢らわしい魔術紋を刻まれた我が身は、召喚魔術などという非道にも逆らうことは出来ないのだよ、エウレカ殿、イヴァーノ。同時に、もう我慢も限界を超えたのでな。召喚魔術の行使に失敗して、我が命を終わらせようと決めたのだよ」
オローネツ辺境伯とイヴァーノは、己が命を散らすのだと宣言したゲーナの言葉の意味を、ここに至って漸く理解したのだった。握り締めた掌に一層の力を籠めながら、オローネツ辺境伯はゲーナに懇願した。
「そうは申されましても、畏まりましたと引き下がるわけには参りません、ゲーナ様。その召喚魔術とやらは、必ず失敗すると決まっているのでございますか。何とか御身を護る術はないのでございましょうか」
「召喚魔術そのものは、やろうと思えば成功させられるだろう。伊達に千年に一人の天才と呼ばれてはおらぬのでな。先代の魔術師団長であるヤキム・パーヴェルが、私の魔力を当てにして考えついた術式故、見込み違いはあるまい。只、あれは決して成功してはならないもの、謂わば魔術師としての禁忌なのだよ、エウレカ殿。どれ程嫌だと思っても、この胸にある魔術紋の戒めによって、私は全身全霊で召喚魔術を行わなくてはならない。だからいっそ、外からの力によって魔術陣を打ち破り、その衝撃と反動で死のうと思うのだよ」
「大魔術師たるゲーナ様の全力の魔術を、外から破ることの出来る魔術師など、この世におりましょうか。魔術の才なき私くしには、実際の所は分かり兼ねますものの、その難しさは想像も出来る気が致します。一体、誰がそのような」
唐突に何かに思い至ったオローネツ辺境伯は、言葉の半ばで沈黙し、強張った顔を更に青褪めさせた。息を呑んで沈黙するオローネツ辺境伯に代わり、イヴァーノが震える唇で問い掛ける。
「まさか、ゲーナ様。貴方様は、アントーシャ様に、その御役目を課そうとしておられるのではございせんでしょうな」
「そう、そのまさかだよ。私の今生の願いとして、アントンに頼んでいる。あの子には誠に済まぬことながら、私の術を力尽くで破れる魔術師など、この世にアントンしかいないのだよ。二人には、以前から話してあったであろう。あの子の真の力を人目から隠す為に、私はあの子の力の一部を封印している。その鍵を開ければ、千年に一人の天才と呼ばれる大魔術師、このゲーナ・テルミンの命懸けの魔術であろうと、あの子はいとも簡単に破ってしまうだろう」
「ですが、それではアントンが、貴方様を死なせる引き金になってしまいます。あれ程に貴方様を慕っている子に、酷うございます、ゲーナ様」
「そうですとも。アントーシャ様は、決して御同意なされますまい。誰より御優しい方にその為されようは、余りにも、余りにも御可哀想ではございませんか」
落ち着いた大人の仮面を脱ぎ捨て、必死の形相となった二人に責め立てられながら、ゲーナは嬉し気に顔を綻ばせた。
「有難う、二人とも。そなた達が、そうやってあの子を案じてくれるから、私は安心なのだよ。随分とアントンを苦しめてしまったが、私が我儘を押し通した。私の寿命も後二十年程だろうから、最後に王家に煮え湯を飲ませてやりたくてな。そなた達には、私がいなくなった後、あの子を頼みたい。きっと寂しい思いをするだろうし、私を思い出して辛いだろうから、支えてやってほしいのだ。あの子は本当に優しくて、随分と泣き虫なのだよ」
そう語るゲーナの表情にも声音にも、アントーシャに対する深い愛情が滲んでいた。それでも、もう誰が何と説得しようと、ゲーナの気持ちは微塵も変わらないだろう。オローネツ辺境伯とイヴァーノは、否応なくゲーナの決意の重さを理解し、揃って口を噤むしかなかった。己が矜持を貫く為に人生を捧げてきた男として、ゲーナから大恩を受けた身として、今の二人に出来るのは、何があってもアントーシャを護り通そうと決意することだけだったのである。
奥歯を噛み締めたオローネツ辺境伯と、深い溜息を吐いたイヴァーノは、椅子の肘掛けを支えにして立ち上がり、思い足取りでゲーナの前に行くと、片膝を突いて跪いた。
「畏まりました、ゲーナ様。オローネツ辺境伯爵家当主、エウレカ・オローネツの名に懸けて、アントンの身柄を御引き受け致します。如何なる仕儀に立ち至ろうとも、私くしがアントンの盾となりましょう」
「イヴァーノ・サハロフも、己が名に懸けて御誓い申し上げます。アントーシャ様のことは、命に代えて御護り致します。この誓いが果たされないときは、我が命運は尽き、この身は塵となって消え失せましょう」
「有難う、エウレカ殿、イヴァーノ。もうこれで思い残すことはない。後は唯一、この先のロジオン王国の動乱を、我が目で見られないことだけが残念だよ」
ゲーナは悪戯を思い付いた子供のような顔で、二人を見遣った。オローネツ辺境伯とイヴァーノは、驚いて伏せていた頭を上げた。
「動乱と仰せですか、ゲーナ様」
「そうとも。当然、ロジオン王国は動乱の季節を迎えるとも。私に刻まれた魔術紋は、我が身を縛ると同時に、私を何よりも大切に思ってくれるあの子に対して、私を人質に取っていたも同然なのだよ。そうでなければ、あのアントーシャが、慈愛の光の如きあの子が、ロジオン王国の暴虐に手をこまねいている筈がないではないか」
オローネツ辺境伯とイヴァーノは、驚きに息を止めた。最もアントーシャを知るであろうゲーナは、ロジオン王国の辿るべき道の先に、二人には想像さえ出来なかった未来を思い描いているのである。己が想像の確かさを示すが如く、預言者の神秘を纏った声で、ゲーナは言った。
「今宵、我が死によって重き枷は外される。私の施した封印と、呪いの如き忠誠と隷属の首輪に蝕まれた私自身。この二つの軛から、あの子は生まれて初めて自由になるのだ。そうとなれば、我が最愛の息子であるアントーシャが、私を死に追い遣り、地方領の領民を塗炭の苦しみの中に沈めてきたロジオン王国を、このままにしておくものか」
声もなく硬直する二人に向かって、ゲーナは、堪え切れないように笑った。間もなく訪れる初夏の青空を思わせる、どこまでも明るく曇りない笑顔だった。