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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 3-13

03 リトゥス 儀式は止められず|13 細き道

 捕虜とした第七方面騎士団の騎士達を、手当すらしないまま乱雑に荷馬車に積み込み、ルーガ達一行はオローネツ城へと帰還した。無事の知らせを聞いたオローネツ辺境伯は、裏門に続く練兵場まで自ら足を運び、笑顔でルーガ達を出迎えた。

「ルーガも皆も、く戻ってきてくれた。そなた達の無事な顔を見られて、本当に安心したよ。御苦労だったな」

 ルーガ達は一斉に騎士の礼を取り、敬愛する主君に笑い掛けた。オローネツ辺境伯爵領だからこそ許される遠慮のない口調で、ルーガが言う。

「閣下、御心配を御掛けしました。今回ばかりは危ない所でしたが、閣下が我らの同胞とアントーシャ様を援軍に出して下さった御陰で、無事に帰還出来ました。いや、本当に危機一髪で、今度こそは助からないと覚悟を決めました。援軍が到着してからは、まるで物語を見るかのような成り行きでしたよ」

 そう言って、ルーガは一際大らかに笑った。代官屋敷の者達の身を案じ、自らが駆け付けたい気持ちを必死に押さえ付けながら、じっと救出の知らせを待っていたオローネツ辺境伯は、ルーガの明るく男臭い笑顔を前に、ようや愁眉しゅうびを開いたのだった。

「それは重畳ちょうじょう。皆、さぞ疲れたであろう。鎧を解いて緩りと休むが良い。部屋も風呂も食事も、城の者達が心を込めて整えておるからな」
「有難うございます、閣下。昨夜は野宿でしたし、今日は第七の奴らの所為で泥だらけですから、御言葉に甘えさせて頂きます。そう言えば、荷馬車に積んできた蛆虫共はどう致しますか。積み切れなかった奴らは、襲撃を受けた林の木に縛り付けてきました。援軍に来てくれた者達の何人かが、現場に残って見張りをしてくれています」

 午後の日差しを受けて美しく金鎧だけを輝かせた、第七方面騎士団の騎士達の姿を見て、オローネツ辺境伯は冷酷に笑った。アントーシャを見るときの慈愛の瞳や、ルーガに向けていた信頼の眼差まなざしとは真逆の、凍える程に冷えた眼光だった。

「あれ以外にもいるとは、随分と大漁だったのだな。食べられもせぬ腐った魚は、一体どれ程いたのかね、ルーガ」
「村を襲った二十騎の内、尋問の為に連行して来た者が三名。途中で我らの口封じを目的に襲撃して来た者が二十名。この内死体になった奴らが八人程おります。荷馬車には五人しか積めませんでしたので、最初に捕虜にした三名と、襲撃部隊の隊長、副隊長の二名を連行致しました。勿論もちろん、村を襲った奴らの残りは、死体を吊るして獣の餌にしてきました」
「良し。ならば、先程援軍に出した三十騎で、残りの捕虜や死体も引き摺って来られよう。そこに積まれた蛆虫共は、取り敢えず鎧のまま地下牢に放り込んでおけば良い。オローネツ城の者達が、念入りに尋問してくれようからな。我らの要請もないまま出動し、恩をほどこしたとうそぶいて村を襲撃し、更にはそなた達まで襲撃したのだ。如何いかに方面騎士団とは言え、これだけの違法行為を揉み消すのは、並大抵ではなかろうよ」

 オローネツ辺境伯爵家の威信にけて、揉み消しなど許さない覚悟であると、オローネツ辺境伯は口にしなかった。ただ、第七の騎士達に冷笑を浴びせてから、オローネツ辺境伯はアントーシャに目を向けた。先程までの凍り付いた表情を溶かし、深く優しい声でオローネツ辺境伯は言った。

「有難う、アントン。またしても、そなたに助けられたのだな。そなたが力を貸してくれなければ、ルーガ達の救出は間に合わなかっただろう。私にとって得難えがたい臣下であり、オローネツの誇りでもある者達だ。心から感謝しているよ。ゲーナ様への御恩も何一つ返せておらぬのに、そなたにも助けられる一方だな、私達は」

 アントーシャは、オローネツ辺境伯の真摯な眼差まなざしから目線を逸らすと、白く滑らかな頬を微かに染め、誰の目にも分かり易く不機嫌を装った。

「ぼくに他人行儀にするなと仰ったのは、閣下ではありませんか。ぼくにとって、貴方はもう一人の父親のようなものなのですから、市井しせいの人達の言う〈頑固親父〉らしく、もっと横柄に命じて下さったら良いのですよ。さっさと行って助けて来い、と」

 オローネツ辺境伯は、愛し気にアントーシャを見詰め、ルーガも無言のまま笑み崩れた。オローネツ辺境伯に付き従っていたイヴァーノは、怜悧れいりな面にはっきりとした微笑みを浮かべ、ルーガ達を追い立てた。

「さあ、先程閣下が仰ったように、皆はぐに休みなさい。給仕も料理人も張り切って用意を整えているのだから、先ずは風呂に入って汗を流し、思う存分食事をするのです。言いたくないけれど、途轍とてつもなく臭いますからね、そなた達は」

 イヴァーノの本気とも冗談ともつかない物言いに、オローネツ辺境伯は笑って騎士達に解散を告げると、ルーガ一人を呼び止めた。

「ルーガよ、そなたも疲れていようが、先に少し話したい。良いか」
勿論もちろんです、閣下。アントーシャ様が、惜し気もなく癒やしの魔術を使って下さったので、これから百の敵と戦えと言われても余裕ですよ」
「それならば、良かった。アントン、ルーガは代官を任せている我が腹心故、先程の話の続きはルーガにも聞かせたい。構わないかね」
「閣下がそう仰るのでしたら、ぼくは全く構いませんよ」
「有難う、アントン。では、早速執務室に移動するとしよう。ルーガは着替えだけしたら、直ぐに来ておくれ」

 ルーガは急いで身を清めに行き、オローネツ辺境伯とアントーシャは、そのまま執務室まで戻っていった。執務室に続く居間では、万事に抜かりのないイヴァーノの手配によって、既に茶菓子が並べられ、紅茶の器が温まっていた。

「イヴァーノさんの手際たるや、それこそ魔術のごとしですね。どうして時間ぴったりの淹れ加減で、美味しい紅茶が用意出来るのか、不思議で仕方ありませんよ。イヴァーノさんが御自分で淹れて下さるのなら未だしも、ぼく達と一緒に歩いておられたのに。一体、どうやって指示を出しておられるのか、ぼくには見当も付きません」

 そう言って、アントーシャは少し前まで座っていた椅子に腰掛け、目前に並べられた菓子を遠慮なく口に入れた。

「そなたは酒よりも菓子だからな、アントン。いつそなたが訪ねてくれても良いように、イヴァーノは常に菓子を何種類も用意しているのだ。未だそれ程の歳ではないのに、孫に菓子を与えたがる祖父にも見えて、私やオネギンはこっそりと笑いをこらえているよ」

 オローネツ辺境伯の言葉に、アントーシャは嬉し気に微笑み、イヴァーノは平然とした顔で視線だけを泳がせた。オローネツ辺境伯爵家の領政の要、冷たく見える程怜悧れいりな才人であるイヴァーノが、情に厚く優しい男であることを、領主執務室に居る誰もが知っていたのだった。オローネツ辺境伯が言う。

「魔術とは、魔力だけでなく頭脳も酷使するものだと、ゲーナ様がく仰っていたよ。魔力だけで魔術が行使出来ると考えるのは、愚か者だと笑っておられたな。今日は私達の為に、沢山の魔術を使ってくれたのだから、せめて甘い物をたんとおあがり」
「有難うございます、閣下。それにしても、方面騎士団とあそこまで真正面から敵対してしまって、後は大丈夫なのですか。必要でしたら、あの者達をスエラ帝国くらいまで転移させて、状況を分からなくさせてしまいましょうか。肝心の襲撃者が消えて、何の証拠もないのですから、第七もオローネツ辺境伯爵領に手出しは出来ないのではありませんか」

 アントーシャの余りにも突飛な提案に、オローネツ辺境伯やイヴァーノはもちろん、執務室に居た文官や護衛騎士までもが、揃って吹き出した。

「何ということを考えるのだね、アントン。相変わらず愉快な子だな、そなたは」
「アントーシャ様と御話をしておりますと、あの蛆虫共の話題ですら、普段よりも穏やかな気持ちで聞けますな、閣下」
「全くだよ、イヴァーノ」

 ひとしきり楽しげに笑った後、オローネツ辺境伯は笑みを納め、アントーシャに真剣な顔を向けて言った。

「有難う、アントン。今回の第七方面騎士団の件に就いては、心配は要らないよ。ルーガからの事前の報告で、彼奴あやつらは誰からの要請もなく出動したと確認されている。そなたも知っての通り、地方領主の苦境をあわれまれたゲーナ様が、先代のオパーリン公爵閣下と当時の宰相を動かして、正式な要請のない出動は報恩特例法ほうおんとくれいほうの対象外にすると、王家の裁可を得て下さったのでな。二十年前から、今回のような場合には、我ら地方領主も方面騎士団の責を問い、領民に被害が出た場合は、相手を討伐出来るのだ」

 ゲーナが主導して勝ち取った裁可は、一方的に方面騎士団に蹂躙じゅうりんされるだけだった地方領主達にとって、初めて手にした自衛権とも言えるものだった。今回のルフト村への出動は、領主であるオローネツ辺境伯からも、代官であるルーガからも、ルフト村の村長からも、正式な要請が出されていないと確認されている。代官であるルーガが、領民を襲撃した者達を討伐した所で、王家にも方面騎士団にも罰する術はないのである。

「当時の経緯は、大叔父上から聞いています。そのことで、閣下は未だに大叔父上に恩を感じておられるのでしょう。けれども、当の大叔父上は、報恩特例法の成立そのものを止められなかったと、ずっと悔いておられますよ」
「まさか。ゲーナ様に責任など有るものか。ゲーナ様が、報恩特例法に強く反対して下さったと、私は祖父から聞いている。如何いか叡智えいちの塔を統べる大魔術師とはいえ、そう簡単に王家の意向には逆らえまい。そもそも、当時のゲーナ様は魔術師団長になられたばかりで、今程の権威を御持ちではなかっただろうに」

 オローネツ辺境伯の言葉に頷きながら、アントーシャは心の中で呟いた。ゲーナが最終的に王家の意向に逆らえなかったのは、ロジオン王国の威光に屈したからではない。その胸に刻まれた忌々いまいましい隷属れいぞくの魔術紋と、高潔な魂をむしばむ呪いのごとき忠誠が、ゲーナを固く縛り付けていたのだ、と。決して口に出来ない秘密に瞳を揺らしながら、アントーシャはそっと目を伏せた。

 やがて、身綺麗になったルーガが入室すると、執務室は一気に賑やかさを増した。予めオローネツ辺境伯に軽装を許されたルーガは、野良着と見紛みまごうばかりの白い綿シャツと焦茶色の綿のトラウザーズという身軽さである。手配の行き届いたイヴァーノの指示で、堅焼きパンに様々な具材を挟み込んだ食べ応えのある軽食が、素早くルーガの目前に置かれた。

「さあ、ルーガ。そなたは食べながら話を聞いておくれ。強行軍で捕虜を連行してくれた上に、あの第七方面騎士団の襲撃を退けたのだ。さぞかし空腹だろう。ここにいるのは皆、私の身内以上の者達なのだから、儀礼は無用だよ」
「有難うございます、閣下。閣下の御言葉に甘えて頂きますよ、アントーシャ様。正直な所、腹ぺこでしてね」
「重要な話になろうから、酒は後回しになる。済まぬな、ルーガ」
「良くない話ですか、閣下」
「良くないかどうか、私も未だ詳しくは聞いていないのだよ。ゲーナ様がわざわざアントンを御遣わしになるくらいなのだから、重要な話であるのは間違いないだろうな。何が有ったのか教えておくれ、アントン」

 先程までの穏やかな微笑みを消し、オローネツ辺境伯は、真剣な瞳でアントーシャを見詰めた。小さく溜息を吐いたアントーシャは、食べていた菓子の粉を丁寧に指から払い落として、椅子の上で威儀を正してから口を開いた。

ず、話の前提となる事件に就いて御説明致します。先日、ロジオン王国の王城では、元第四側妃と近衛このえ騎士の不貞ふていが発覚し、突如として大規模な粛清が行われました。妃の不貞は大逆罪に等しく、本来なら王子王女を含めて処刑される所なのですけれど、子の命を惜しんだと思しきエリク王は、元第四側妃と王子王女を、残らず王城から追放するに留めました。皆さん、この件は御存知でしたか」
「私とイヴァーノは知っている。辺境の地に居るからこそ、中央の情報を集めているのでな。ルーガにも、概略は伝えたのではなかったかな」
「御聞きしましたよ、閣下。地方領には、方面騎士団の屑共に貞節を汚されて、死ぬ程苦しんでいる女達が大勢居るというのに、手厚く護られた王城では、王の妃が暇潰しに近衛騎士と不貞に走ると聞いて、呆れ果てたものですよ」

 苦々しい表情を浮かべたルーガの脳裏には、第七方面騎士団の騎士達に凌辱りょうじょくされ、夫を虐殺されて慟哭どうこくしていた、若い娘の痛ましい絶望の顔が在った。何の罪もないのに、一夜にして地獄に突き落とされた女達に比べ、誰からもかしずかれ護られる立場の妃が、自ら進んで王たる夫を裏切った心根が、ルーガには憎かった。

「ぼくも全く同感ですよ、ルーガさん。そして、その不貞の結果、近衛騎士団は大きく面目を失いました。簡単に側妃の不貞を許しただけでなく、その相手や協力者までが近衛騎士だったのですから、王城の警備を担う近衛への風当たりが強くなるのも当然ですね。そして、更なる問題は、春先から近衛の差配をするようになっていた、アリスタリス殿下の立場まで悪化したということです」

 オローネツ辺境伯は、眉間にしわを寄せて、じっとアントーシャの話に耳を傾けた。地方領の英傑と呼ばれる一方、優れた政治家でもあるオローネツ辺境伯には、既にこの先の展開が見え始めていたのだった。オローネツ辺境伯は、冷たい口調で言った。

「アリスタリス殿下と異母兄のアイラト殿下は、王太子位を争っているのだったな。年長の王子としてもう一人、候補として挙がっていたアドリアン王子は、元第四側妃の不貞ふていによって完全に失脚した。残る二人の王子の内、アリスタリス殿下の支持者の核となるのは、近衛このえ騎士団だと聞いている。その近衛が立場をなくした以上、王太子位争いにも影響が出るということかね」
「御賢察恐れ入ります、閣下。そうなのです。アリスタリス王子は、思わぬ成り行きで経歴に傷を付けました。その失地しっち挽回ばんかいする為に、近衛騎士団の団長であるコルニー伯爵が動いたのです。王都に暮らす地方領主を極秘に訪ねては、こう囁いていると言います。アイラト殿下と王国騎士団は、更に力を強める為に召喚魔術を実行しようとしている。王国騎士団の威勢が強まれば、その影響下にある方面騎士団も勢いを増し、地方領主への圧力を強くする可能性が高いだろう。王国騎士団に対抗出来るのは、近衛騎士団を置いて他にない。地方領主がアリスタリス殿下を支持してくれるのなら、アリスタリス殿下が将来的に報恩特例法ほうおんとくれいほう撤廃てっぱいし、王国騎士団と方面騎士団の猛威から、地方領主を護ると約束しよう、と」

 オローネツ辺境伯とイヴァーノ、ルーガの三人は、偶然にも全く同じ戸惑いの表情を浮かべた。百年余の年月、地方領の領民に塗炭の苦しみを強いてきた報恩特例法が、本当に撤廃されるというのであれば、地方領にとってこの上ない喜びである。しかし、地方領主を王太子位争いの駒とする為に交わされる約束が、本当に守られるものなのだろうか。それを無条件に信じられる者は、オローネツ辺境伯の執務室には居なかった。

 重苦しい沈黙の中、最初に口を開いたのは、やはりオローネツ辺境伯だった。是とも非とも言わないまま、オローネツ辺境伯はアントーシャにたずねた。

「コルニー伯爵の名は、以前から知っている。王都の貴族にはめずらしく、清廉潔白な男だとも聞いているが、だからと言って、今回の話が信じられるとは限らぬ。ゲーナ様はどう御考えになっておられるのかね、アントン」
「コルニー伯爵のことは、大叔父上も相当に評価していました。有能でありながら謀略を好まず、ロジオン王国の近衛には似合わない方だそうです。報恩特例法ほうおんとくれいほう撤廃てっぱいしたいという想いも、恐らくは本物だろうと、大叔父上は考えておられます。但し、肝心のアリスタリス殿下が約束を守るのかと問われたら、確とは御答えが出来ません」
「成程。問題は、コルニー伯爵ではなく王子の方か。ゲーナ様もそなたも、アリスタリス王子を信じ切れないのだね。アリスタリス王子のことは見知っているのかい、アントン」
「ぼくは、叡智えいちの塔の魔術師に過ぎませんからね。直接顔を合わせたり、御話したりした経験は有りません。遠くから顔を見て、噂を聞いた程度です」
「結構だとも。そなたであれば、一目で相手の本質を見抜くであろう。そなたから見て、アリスタリス殿下はどういう方だったのか、忌憚きたんのない所を我々に教えておくれ」

 オローネツ辺境伯の問い掛けに、アントーシャは束の間考え込んだ。そして、小首を傾げると、困った顔で笑った。

「とても見目麗しい王子殿下ですよ。日の光を受けて輝く金の髪に、爽やかな夏の空を思わせる青い瞳、すらりと伸びた肢体。見事に整った白皙はくせき美貌びぼう。学問も御出来になるそうですし、剣の腕もかなりのものだと聞き及びます」

 オローネツ辺境伯は、馬鹿にしたように唇を歪めた。アントーシャではなく、彼にそう評されたアリスタリスをわらったのである。

「何とまあ、詰まらない文言だな。妙齢の淑女しゅくじょであれば未だしも、男の容姿にさしたる意味は有るまい。そなたともあろう者が、飽きる程使い古された定型句を並べるとは、王子の中身は全く空虚だと考えて良いのだろうな」
「そこまでは申しませんよ、閣下。ただ、正直に言えば、ぼく自身はアリスタリス殿下に忠誠を捧げたいとは思いません。何というのか、殿下の真実とでもいうものが、ぼくには全く見えないのです。殿下はまだ、恵まれた幼子の微睡まどろみの中にいるのかも知れません。少年と言っても差し支えない御年齢ですし、何一つ現実を見ておられないので、当然といえば当然なのでしょうけれども」

 アントーシャの言葉に、オローネツ辺境伯は大きく頷いた。領民の苦悩を救おうと全身全霊で戦ってきたルーガや、オローネツ辺境伯とオローネツ辺境伯爵領の為なら、一瞬の躊躇ちゅうちょもなく命を捧げる覚悟を秘めたイヴァーノにも、アントーシャの言葉はく理解出来るものだった。畢境ひっきょう、彼らにとってアリスタリスは、命を分け合う同胞にはなり得ないのだろう。オローネツ辺境伯は、苦い微笑みと共に言った。

「ゲーナ様が懸念けねんしておられるのは、アリスタリス殿下の不覚悟かね、アントン」
「はい、閣下。報恩特例法ほうおんとくれいほう撤廃てっぱいの為に王太子位争いに巻き込まれた挙句、アイラト殿下が次の王太子と決まった場合、地方領主が立場を失う可能性が有ります。また、アリスタリス殿下が勝利したとしても、約束を守る保証が何処どこに有るのか、と」

 実際には、ゲーナもアントーシャも、報恩特例法の撤廃が実現する可能性が有るとは、欠片も考えていなかった。同時に、そうした見通しに対して、アントーシャは一切口にしようとはしない。オローネツ辺境伯の判断に介入するのは不敬であると、アントーシャは思っていた。

「アリスタリス王子が勝つとは限らず、勝ったからといって、約束が守られるとも限らない。ゲーナ様の仰る通りであろうな。それでも」
「はい、閣下。それでも、閣下は協力する道を選ばれましょう」
「我らを案じ、そなたまで来させて下さったゲーナ様を、私は裏切ってしまうのだろうか。そなたのことも、失望させてしまうかい、アントン」
 憂いを含んだ眼差まなざしで、じっと自分を見詰めるオローネツ辺境伯に、アントーシャは優しく微笑み掛けた。
「どの様な御決断であろうとも、その結果によって簡単に損なわれる程、ぼくの閣下に対する愛情は、脆いものではありませんよ。それに、閣下の御心は、大叔父上にもぼくにもく分かっています。たとえ万に一つでも、あの愚劣ぐれつな報恩特例法をほうむり去る可能性が有るのなら、閣下は御決断なさるでしょう。閣下の御立場であれば、当然です。ぼく達は、いつでも閣下の御味方を致しますよ」
「有難う、アントン」

 一言、そう言っただけで二の句を継げず、言葉を詰まらせたオローネツ辺境伯に、イヴァーノは平然とした表情で断言した。

「百年目に巡ってきた機会なのですから、どれ程分が悪かろうと、試して御覧になったらよろしいではございませんか。そもそも、失敗してアイラト殿下に睨まれても、痛くも痒くもございません。元々オローネツ辺境伯爵家は、ロジオン王家に反抗的であることで有名な、札付きの地方領主なのですから」

 開き直りとも取れるイヴァーノの、いっそ清々しい程不遜ふそんな言葉に笑いながら、ルーガもまた、オローネツ辺境伯に言った。

「仮に、アリスタリス殿下に裏切られたとしても、それはそれで良いではないですか。オローネツ辺境伯爵領の者は、誰一人として王家など信じていない。俺達が信じているのは、オローネツ辺境伯爵閣下だけだ。信じていない相手に裏切られた所で、俺たちは誰も気にしません。万が一、約束が守られたら儲け物、くらいに考えていきましょうよ、閣下」
「有難うイヴァーノ、ルーガ。そうだな。ロジオン王家の約束など、破られて当たり前だと思えば、私も気が楽になるよ。そなたらの言葉に甘えて、コルニー伯爵の使者が来たら、前向きに考えてみるとしよう。勿論もちろん、軽率な判断は下さぬ故、そこは信じてくれるが良い」

 心の通じ合った主従の様子に、アントーシャは柔らかく微笑んだものの、オローネツ辺境伯に伝えるべき懸念けねんは、もう一つ存在した。全ての地方領主達が、オローネツ辺境伯のごとく高潔な人格の持ち主であるはずはなく、領民を大切に思っているわけでもない。ゲーナとアントーシャの最大の懸念は、コルニー伯爵の誘いを受けた地方領主達が示す、反応そのものだったのである。

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