フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 5-7
05 ハイムリヒ 運命は囁く|7 旅立ち
ゲーナの遺品の整理を終えたアントーシャは、腰を落ち着ける時間さえ持とうとはせず、早々に王都ヴァジムを後にした。ゲーナと暮らしていた邸宅には、アントーシャの許しを得た者だけが立ち入れるように魔術を掛け、着の身着のままの出立である。魔術触媒も魔術陣も必要とせず、超長距離を転移することの出来るアントーシャは、敢えて領地までの長い旅を選んだのだった。
アントーシャが継承したテルミン子爵領は、ゲーナが魔術師団長として王都に縛り付けられていた長い年月、領地の代官によって統治されてきた。ロジオン王国の地方貴族にはめずらしい選択ではなく、アントーシャが王都で貴族らしい華やかな暮らしを送ろうと思えば、簡単に叶えられただろう。しかし、アントーシャは一切の躊躇なく、王都での未来を捨て去ったのである。
二度と王都で暮らす心算のないアントーシャは、邸宅の数少ない使用人を集め、念入りに感謝と謝罪を繰り返した。王都に残る者達には、破格の礼金を渡して別れを告げ、テルミン子爵領にまで付いてくると言い張る者達には、代官への手紙と潤沢な旅費を手渡した。気難しいゲーナを支え、長年にわたって支えてくれた使用人達に対して、アントーシャは手厚く報いたのだった。
叡智の塔を訪れた翌日には、アントーシャは馬上の人となった。ロジオン王国の子爵、増して領地を持つ子爵家の当主ともなれば、遠出の際には数台の馬車を仕立て、護衛騎士や使用人を多く伴って旅をするのが普通だが、アントーシャの旅装は極めて簡だった。大人しく賢い青毛の牝馬を買い入れ、その鞍に猫達の籠を一つだけ積んだだけのアントーシャは、遠駆けの貴族にすら見えなかっただろう。
王都の人混みを抜けてからは、ベルーハとシェールがアントーシャの鞍の前に座り、コーフィは肩に乗って、興味津々に周囲を見回した。愛くるしい瞳をした牝馬はネーロ〈黒〉と名付けられ、機嫌良く尾を振っている。アントーシャと三匹の猫、青毛の愛馬との旅は、それから二週間以上も続いていった。
「ぼくは、移動というと転移魔術ばかりだったから、こうして馬でのんびりと動くのは初めてだよ。おまえ達も王城の猫だったのだから、郊外に出た経験はないだろう。御覧、この景色を。小さな花が辺り一面に咲き誇って、まるで何処までも黄色の絨毯が広がっているようだ。美しい所だね、ロジオン王国は。王城の煌びやかな黄白よりも、この慎ましい黄色の花の方が遥かに美しいよ」
ロジオン王国の郊外では、初夏になると至る所でポーチュラカの花が咲く。その可憐な黄色の花を眺めながら、アントーシャは自分の連れに話し掛ける。ベルーハとシェールは同意するかのように甘く鳴き、コーフィはひらひらと飛ぶ蝶を追って目を動かす。ネーロは黒い被毛を光らせて、小さく嘶いた。何事にも効率を尊ぶダニエなどが目にしたら、怒って叫び出しそうな程に長閑な道行だった。
幾つもの地方領を抜け、青々と葉を茂らせた山道を進み、やがてアントーシャ達は大きな通用門に差し掛かった。どの地方領の門と比べても巨大であり、領地の規模と歴史を窺わせるだけの風格を漂わせている門は、オローネツ領の領都オローニカに入る為の関所であり、アントーシャの当面の目的地だった。アントーシャは、ここからオローネツ城に赴き、己が領地に立ち寄るよりも先に、オローネツ辺境伯に面会する心算なのである。
アントーシャは、貴族専用の大門には行こうとせず、一般用の通用門の列に行儀良く並んだ。籠にも入れずに三匹の猫を連れた青年の姿は、否応なく周囲の注目を集めていたが、アントーシャは少しも気にしていなかった。
「ねえ、御兄さん。急に話し掛けたりして御免なさいね。さっきから気になってしょうがなくてさ。あんたの連れている猫達は、随分と大人しいんだね。籠に入れなくても、逃げて行ったりしないのかい。馬を怖がらない猫っていうのも、めずらしいと思うけどね」
アントーシャの直ぐ前に並んでいた中年の女が、何度も様子を伺った後、好奇心を抑え兼ねた顔で聞いた。見るからに穏やかな表情を見せるアントーシャに、遠慮する気持ちも薄らいだのだろう。アントーシャもまた、柔らかく微笑みながら答えた。
「ええ、大丈夫です。籠は一応用意してみただけで、一度も使ったことはありません。この猫達はとても賢いので、迷子にもならず、ちゃんとぼくの側にいてくれるのです。馬とも仲良しなので、怖がったりもしませんよ」
「おやまあ、凄い猫達だね。こんなに器量良しなだけじゃなく、頭まで良いなんて、まるで王様や御妃様が御飼いになる猫みたいだよ。馬の方も大人しくて、本当に可愛いね。良い御仲間が居て良かったね、御兄さん」
「はい。有難うございます。この子達とこの馬の御陰で、ぼくも楽しく旅が出来ました。とても良い経験でしたよ」
如何にもほのぼのとした二人の会話に、アントーシャの直ぐ後ろに並んでいた商人らしい男が、小さく吹き出した。未だ若さの残る利口そうな男は、アントーシャ達に目を奪われていた一人であり、すかさず話に入ってきた。
「兄さんは、御育ちが良いのかして、何とも穏やかで邪気のない御人だね。だから猫達にも好かれるんだろうな」
「有難うございます。ぼくは、この猫達が大好きなので、猫達に好かれているのだと言って頂けると、とても嬉しく思います」
「好きに決まっているさ。猫ってものは、嫌いな人間に飼われるくらいなら、さっさと逃げ出しちまう奴らだからな。それにしても、兄さんは随分と軽装のようだが、それで旅をしてきたのかい。何処から来たんだ」
「王都から来ました」
気負った様子もなく、平然と答えたアントーシャに、中年女や商人だけでなく、周りで楽しそうに話を聞いていた者達までが、一斉にアントーシャを二度見した。白シャツと黒いトラウザーズの上に、旅行用の軽い上着を羽織っただけで、何の荷物も持たないアントーシャが、遠い王都から来たという言葉が、俄には信じられなかったのである。商人らしき男は、驚きに目を見開いて言った。
「王都。このオローニカから王都まで、急ぎの馬車でも十日は掛かるだろう。それだけの距離を手ぶらで、猫を三匹も連れて旅をして来たというのかい。何とまあ、変わった兄さんだな。その話をすんなり受け入れてしまえるのも、実に不思議だがね」
男は楽しそうに笑い出し、アントーシャの肩を気安く叩いた。アントーシャは嫌な顔一つせず、男と一緒になって笑う。反対側の肩に乗っていたコーフィは、揺すられたことに抗議するように鳴き、それがまた周囲の笑いを誘ったのだった。
爽やかな初夏の風に吹かれ、オローニカの通用門に並ぶ人々が楽し気に言葉を交わす中、不意にアントーシャの名を呼ぶ声がした。呆れと戸惑いに揺れながら、何処か切実な響きを纏った声である。アントーシャが振り向くと、通用門の人混みを掻い潜り、簡素な騎士服に佩刀した青年が、慌てて駆け寄って来る所だった。
「アントーシャ様。ああ、漸く御目に掛かれました。良かった。御待ち申し上げておりました。皆、本当に、一日千秋の思いで御待ち申し上げていたのです。貴方様は、そんな所で一体何をしておられるのですか」
アントーシャに呼び掛けた青年は、オローネツ辺境伯爵領の代官、ルーガ・ニカロフの部下であり、ルーガの護衛騎士を務めるルペラだった。ルペラの前後には数人の騎士がおり、全員が素早くアントーシャを取り囲む。ルペラの同僚らしい騎士の一人は、その様子を確認するや、急いで大門の中へと駆け戻っていった。アントーシャは、微笑みながら答えた。
「貴方は確か、ルペラさんでしたね。ルーガさんの護衛騎士をしておられる。こんにちは、ルペラさん。御久し振りです。御元気そうで何よりです。ぼくは御覧の通り、オローニカに入る許可を得る為に、通用門に並んでいる所です」
アントーシャの長閑な挨拶に、ルペラは何とも形容し難い表情で唸った。ゲーナ・テルミンを襲った惨劇は、遠くオローネツ辺境伯爵領まで聞こえており、ゲーナやアントーシャに所縁の有る人々は、ゲーナへの哀惜とロジオン王国への怒り、更にはアントーシャへの憂慮の余り、胃の痛くなる思いをしていたのである。
アントーシャを恩人として敬い、礼儀正しい言動を崩さない筈のルペラが、絶句して立ち竦んでいる様子に、漸く異常を感じ取ったのだろう。微笑みを消したアントーシャは、心配そうにルペラの顔を覗き込んだ。
「いつもと御様子が違いますね。ルペラさんは、今日は関所の警備に当たられているのですか。まさか、閣下やイヴァーノさんに、何か問題が起こったのではないでしょうね」
一気に表情を引き締め、オローネツ辺境伯爵領の心配を始めるアントーシャに、大きな溜息を吐いてから、ルペラは何とか言葉を返した。
「閣下もイヴァーノ様も御健勝で在られますので、その点は御安心下さいませ。我々は、オローネツ辺境伯爵閣下の御命令で、ずっとアントーシャ様を御待ち申し上げていたのです。三日前に貴方様からの御手紙が届いて、オローネツ城を御訪ね下さると分かり、閣下が即座に御迎えを命じられたのでございます」
「ぼくの迎えですか。どうしてまた、そんなことを。勝手知ったるオローネツ城なのですから、御迎えなどなくても大丈夫なのに」
アントーシャは、驚きに目を瞬かせた。魔術の深淵に至ったアントーシャに、身の危険など有る筈がなく、オローネツ城は故郷にも等しい場所である。態々迎えを出される理由を見つけ出せず、アントーシャは首を傾げた。
アントーシャの疑問に答えたのは、足早に近付いてきたルーガだった。知らせに走った騎士を始め、門番や農民姿の部下を引き連れ、周りの視線を一身に集めて登場したルーガは、アントーシャの言葉を聞き付け、呆れたように言った。
「何故か、馬でオローネツ城に御出でになるというアントーシャ様が、気が変わったと仰せになって、何処かに行ってしまわれないか心配で堪らない。是非とも御迎えに行って、貴方様を捕まえて来いと、閣下に厳命されたのですよ。閣下の御心配も御尤もですな。子爵家の御当主様が、何だって一人の供も連れず、一般用の通用門に並ばれているのですかね」
「ルーガさんも御久しぶりです。御目に掛かれて嬉しいですよ。子爵と言っても、小さな田舎町の領主になったばかりの成り上がりですから、わざわざ皆さんを御迎えに出して頂くなんて、大袈裟過ぎて困ってしまいますよ」
本当に困惑しているらしいアントーシャに、笑って良いのか呆れて良いのかめ分からず、ルーガは肩を竦めた。
「アントーシャ様の御生家は、王都の侯爵家と伺っておりますがね。まあ良いでしょう。閣下とイヴァーノ様が、心配の余り食事も満足に喉を通らない御様子ですので、早くオローネツ城に御越し頂けませんか。アントーシャ様の御顔を御覧になれば、御二人も安心なさるでしょう。我々からも御願い致します」
「差し出口とは存じますが、オネギンさんを始めとするオローネツ城の騎士達も、溜息ばかり吐いておられます。今のオローネツ城は、まるで秋の長雨に降られているかの如き有様なのです。アントーシャ様さえ御出で下されば、城の空気も明るくなると思います。どうか、早々に我々に御同行下さいませ」
口々に訴え掛けながら、ルーガとルペラの視線は、時折り猫達に吸い寄せられていた。二匹は鞍の上に座り、悪戯猫のコーフィは相変わらずアントーシャの肩の上である。緑金の瞳を煌めかせた、自分達の話に耳を傾けているかに見える猫達に就いて、問い質したい気持ちは山々だったが、二人とも今は無視する道を選んだ。オローネツ辺境伯とイヴァーノは、実際、身も細るばかりにアントーシャを待っているのである。
「分かりました、ルーガさん。どうやら、ぼくがのんびりとし過ぎたようですね。御二人に申し訳ないので、先を急ぎましょうか」
生真面目な表情でルーガに頷き掛けたアントーシャは、一緒に通用門に並んでいた人々を振り返った。最初に話し掛けてきた中年の女は、薄っすらと顔を青くしてアントーシャを見詰め、他の者達も困惑の表情で身を固くしている。アントーシャは、困ったように微笑んでから、丁寧に頭を下げて言った。
「御騒がせしてしまいましたね、皆さん。思い掛けない御迎えが有りましたので、一足御先に失礼します。皆さんも並んでいらっしゃったのに、順番を飛ばしてしまう形になってしまって申し訳ありません。皆さん、どうか御元気で」
楽し気にアントーシャを取り巻いていた者達は、突然の成り行きに驚くばかりで挨拶すら返せず、何度も頭を下げるだけだった。只一人、アントーシャの肩を叩いていた商人らしき男が、口籠もりながら言った。
「兄さん、いや貴方様は貴族様だったのですか。知らなかったとはいえ、気安い口を利いてしまって、大変失礼致しました」
「とんでもない。一般向けの通用口に並んでいたのは、ぼくの勝手なのですから、御気になさる必要などありませんよ。皆さんに話し掛けて頂いて、ぼくも猫達も、とても楽しい時間を過ごせました。有難うございました。御縁が有りましたら、きっとまた何処かで御目に掛かりましょうね」
そう言って、アントーシャは商人らしき男に優しく微笑み掛けた。ルーガとルペラは、もうここで笑うことに決めた。彼らの命を救ってくれた奇跡の魔術師は、つまりはこういう男なのである。オローネツ辺境伯やイヴァーノが、あれ程までにアントーシャを案じ、心をかけるのは、オローネツ辺境伯爵領の恩人、ゲーナ・テルミンの身内だからでも、魔術の天才だからでもないのだろう。
ルーガに先導され、ルペラ達に周りを囲まれるようにして、アントーシャはオローニカの街に足を踏み入れた。アントーシャの愛馬となった青毛のネーロは、騎士達の一人に手綱を引かれ、猫達は大人しく鞍の上で座っている。一行の様子は、否応なく周囲の視線を集めていたが、アントーシャは少しも気にはしなかった。オローネツ辺境伯らの憔悴ぶりを聞かされ、段々と不安を感じ始めていたのである。
「皆さんに御心配を御掛けしてしまって、本当に申し訳ありません。手紙さえ御出しすれば良いと考えたのは、ぼくの未熟さです。これ以上、皆さんを御待たせしたくはないので、転移か速度上昇の魔術を使いたいと思います。構わないでしょうか、ルーガさん」
「勿論ですとも、アントーシャ様。一ミラでも早く、あの御二人に御顔を見せて頂きたいですからね。その為の魔術は大歓迎ですよ。所で、あの、出来ましたら、速度上昇の魔術というものを、私共々掛けて頂くわけにはいかないでしょうか。厚かましい御願いですし、アントーシャ様の御負担になるのなら諦めます。只、あのとき救援に来てくれた奴らが、如何に素晴らしい体験だったかを事有る毎に自慢するので、すっかり羨ましくなってしまいましてね」
ルーガは申し訳なさそうに頭を掻きながら、アントーシャを覗き見た。オローネツ辺境伯爵領でも随一の騎士、剣を取らせれば並ぶ者の居ない武人と名高い男の、少年の如き無邪気さに触れたアントーシャは、ルーガに明るく笑い掛けた。
「構いませんよ、ルーガさん。御安い御用です。もしよろしかったら、御仲間の皆さんも御一緒に、早駆けでオローネツ城まで戻ってみましょうか。清々しい夏空の中を走るのは、きっと気持ちが良いだろうと思うのです」
大らかな笑顔で告げられた提案に、ルーガは勢い良く拳を握り締め、アントーシャを囲んでいた騎士達は、揃って賑やかな歓声を上げた。オローネツ城までの道のりを、彼らは風になって駆けて行けるのである。