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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 3-15

03 リトゥス 儀式は止められず|15 鍵

 王都であるヴァジムの中心地、王城にも近い一等地に建つ屋敷の居間で、ゲーナはアントーシャの帰りを待っていた。貴族の邸宅にはめずらしく、鬱蒼うっそうと茂った木々に囲まれた屋敷は、容易に人を寄せ付けない雰囲気を漂わせていながらも、どこか清々しく落ち着いたたたずまいで、ゲーナに安らぎを与える場所だった。

 長椅子に寝そべり、分厚い書物を読んでいたゲーナは、何処どこからともなく聞こえてきた涼やかな鈴の音に、穏やかな微笑みを浮かべた。書物を置いたゲーナが、ゆっくりと身を起こす間もなく、部屋の一角で魔力が小さな渦を巻く。そして、ゲーナには馴染み深い金色の光が、鮮やかに瞬いたかと見えた瞬間、そこにアントーシャの姿が在った。
 ゲーナの屋敷そのものが、常に数人の魔術師によって遠目から監視され、魔術陣の出現を探知されているにもかかわらず、アントーシャは、魔術を行使した気配さえ掴ませない。術式を描く魔術陣も、触媒しょくばいとなる輝石きせき類も必要としない転移は、世の常の魔術師が行う魔術とは、余りにも異質な術だった。感嘆の溜息を吐きながら、ゲーナはアントーシャに言った。

「御帰り、アントン。待っていたよ。予定より遅かったのだな」

 ロジオン王国の中心たる王都から、最北端に位置するオローネツ辺境伯爵領まで、魔術師の常識では絶対に不可能な超長距離の転移を成し遂げたアントーシャは、疲れの影さえも見せず、ゲーナの指し示す椅子に腰掛けた。

「只今帰りました、大叔父上。オローネツ辺境伯爵閣下の所で、またしても方面騎士団との小競り合いが有ったので、少し時間を食ってしまいました。閣下やオローネツの騎士達には、これといった被害は有りませんでしたので、御心配には及びませんよ。原因となった村の方は、相変わらず悲惨な被害状況だったらしいのですけれど」

 アントーシャの告げた言葉の不快さに、眉をひそめたゲーナは、それ以上は何も言わなかった。ゲーナにしても、アントーシャにしても、方面騎士団の略奪行為に対する怒りは臨界点に達しており、一々口に出して罵るような段階は、既に遠く過ぎ去っていたのである。

「赦されざる罪を犯した者と、赦されざる罪を容認してきた者は、必ず相応ふさわしい報いを受けるだろう。さあ、それで、この度のコルニー伯爵の動きに就いて、エウレカ殿は何と言われていたのかね、アントン」
「大叔父上の仰っていた通り、閣下は前向きに御考えになるそうです。コルニー伯爵はともかく、アリスタリス王子や王家には信は置けない。それは分かっているけれども、万が一の可能性を取る、と」
「そうであろうな。私がエウレカ殿の立場でも、きっとそうするだろうよ。どれ程見込みが薄くとも、ロジオン王国百余年の歴史の中で、初めて巡ってきた千載一遇の機会であることは、間違いがないのだから」
「王都の動きは如何いかがですか。大叔父上の〈目〉が、そろそろ地方領主達の動向を伝えてくる頃ではないのですか」

 不安そうなアントーシャの問い掛けに、ゲーナは皮肉な笑みに唇を歪めた。齢百四十を超え、その人生の大半を魔術師団長として生き、長く権力の中枢に身を置いてきたゲーナだからこそ出来る、冷たくも凄みのある笑みだった。

「伝えてきたとも、アントン。元第四側妃の不貞ふていの責任を取って、自ら謹慎したコルニー伯爵は、極秘に王都に暮らす地方領主の屋敷を訪れている。そして、訪問すればする程、暗い顔になっていくそうだよ。コルニー伯爵の目論見もくろみ通り、続々とアリスタリス殿下の支持者が集まっているにもかかわわらず、な」
「これもまた、大叔父上の予想された通りですね。ぼくなどが言うのは失礼ながら、コルニー伯爵は、随分と心の美しい方らしい。必ずしも皮肉ではなく」
「コルニー伯爵の妻女は地方領の出身で、コルニー伯爵自身、何度も領地を訪れているそうだからな。方面騎士団の暴虐ぼうぎゃくも、多少は聞き知っていたのだろう。あの高潔な男には、領民の苦痛よりも自らの財貨を気にする貴族が多いなどとは、予想も出来なかったのだろうさ。苦労知らずなことだ。あれが本物の男になるか、優しいだけの張りぼてで終わるのか、これからの覚悟次第であろう」

 予言めいたゲーナの口振りに、アントーシャは思わず眉をひそめた。ゲーナの透徹とうてつした視線には、既にコルニー伯爵の策の成否が映し出されているようであり、オローネツ辺境伯の決断を目にしたばかりのアントーシャにとって、それは到底望み通りの結末とは思えなかったのである。

「大叔父上は、多くを見通しておられるのでしょう。コルニー伯爵は報恩特例法ほうおんとくれいほう撤廃てっぱいを望み、多くの地方領主は財貨を望んでいます。だとすれば、肝心のアリスタリス殿下は、一体どうなさると思われますか」
勿論もちろん、地方領主を裏切るとも。余程のことがない限り、その展開は変わらぬよ、アントン。あの王妃が、報恩特例法の撤廃など認めるはずがなく、御綺麗なだけの王子殿下が、己が母親を切り捨てられるとも思えぬ。結果は見えておるさ。火を見るよりも明らかに」

 一瞬の迷いも見せない、ゲーナの即答だった。アントーシャは目を伏せ、しばら逡巡しゅんじゅんしてから、そっとゲーナに問い掛けた。

「もしも、召喚魔術が何らかの成果を残したら、クレメンテ公爵の発言権は強くなり、アリスタリス殿下は劣勢に立たされるかも知れず、簡単には地方領主を切れなくなります。そう考えれば、召喚魔術を成功させた方が得策ではありませんか」
「今更何を言うのだ、アントン。召喚魔術など、決して成功しては成らぬ禁忌の術ではないか。人を攫うからというだけではなく、そもそも魔術のことわりに反するものなのだから。私よりも、魔術の申し子たるおまえの方が、一層それを感じているだろうに」
「ぼくなら、術の発動後に魔術陣に干渉して、召喚の対象を人から物へと、力尽くで替えてしまえると思います。あるいは、召喚魔術の成功と見せ掛けて、別の魔術にすり替えてしまうことも、不可能ではないでしょう。最後にもう一度だけ御願いします、大叔父上。ぼくの為に、計画の内容を考え直しては頂けませんか」

 アントーシャは必死に言い募った。何度も説得し、何度も拒まれ、遂には覚悟を決めた後でさえ、アントーシャはゲーナを説得せずにはいられなかったのである。淡い微笑みを浮かべたゲーナは、深い愛情のこもった眼差まなざしで、じっとアントーシャを見詰めたものの、首を縦には振らなかった。

「有難う、アントン。こんな老いぼれの命をそこまで惜しんでくれるのは、この世でアントーシャ・リヒテル唯一人だよ。有難う」

 アントーシャは、止めていた息を大きく吐き出し、椅子に身体を投げ出した。ゲーナの答は、アントーシャにもゲーナ自身にも分かり切ったものであり、その固い決意の前に、アントーシャは言うべき言葉を失ったのである。

「やはり、説得は出来ませんか」
報恩特例法ほうおんとくれいほうは、この王国をむしば業病ごうびょうよ。毒を以て毒を制する場合もあろうが、の悪法を撤廃てっぱいさせるには、国を二分する程の力が要る。誰が王太子になろうが、小手先の策略ではどうにもなるまい。第一、お前の美しい魔術を、けがれた召喚魔術の成功の為に使うなど、私は認めないよ。むべき報恩特例法も、ロジオン王国の偽りの栄華も、私の呪われた忠誠心も、召喚魔術と共に終わらせたいのだ。どうか分かっておくれ、アントン」

 既に死者の列に繋がっているかのごとく、静かな決意をたたえているゲーナに、アントーシャは哀し気に微笑んだ。ゲーナに計画を打ち明けられてから一月近く、遂に己の感情に蓋をする決断を下したアントーシャは、努めて明るく言った。

「はい。もう何も申しません。何度も同じ繰り言を御聞かせして、本当に申し訳ありませんでした。大叔父上の御意志の通り、ぼくも用意を始めましょう。早速ですけれど、大叔父上が、ぼくの力を封印しておく為に掛けて下さった、あの魔術を解く〈鍵〉を渡して頂けますか」

 アントーシャの笑顔の痛々しさに、ゲーナは思わず目を伏せたが、慰めの言葉を口にしなりはしなかった。視線だけでアントーシャに詫びてから、ゲーナは言った。

「よろしい。既に用意は整えてある。誰にも邪魔などされぬように、私の〈真実の間〉に行くとしよう。そなたの方は、準備は良いのかね、アントン」
「今から観客を招きたいと思います。御出で」

 アントーシャが、優しく一言呟くと、ふわりと金の光が巻き上がった。すると、瞬きの間を置いて、アントーシャの腕の中に三匹の猫達が抱かれていた。揃って美しい顔をした、三種の毛色の猫達は、ローザ宮からアントーシャが引き取ってきた母子である。

「おお、この子達がアントンの新しい眷属けんぞくなのか。愛らしいな」

 猫好きのゲーナは目を細め、そっと右指を差し出した。三匹の猫達は、警戒する素振そぶりも見せず、しばらくゲーナの匂いを嗅いでから親し気に喉を鳴らした。アントーシャは、ようやく屈託のない表情になり、猫のように喉の奥で笑った。

「どうやらこの子達に気に入られたようですよ、大叔父上。純白の母猫がベルーハ〈白〉、茶色の混じった子がコーフィ〈茶〉、灰色の模様のある子がシェール〈灰〉です。暫く真実の間に居てもらって、ぼくの魔力にも馴染んだので、今日からはこの邸に置いて下さい。どの子も賢くて、とても可愛いのです」
「猫達と同居するのは大歓迎だよ、アントン。もう少しひねった名前を付けても良かったとは思うがな。まあ良い。この子達を連れて出掛けよう」

 そう言うと、ゲーナは椅子から立ち上がり、壁の一角に掛けられた絵画の前へと足を進めた。アントーシャと過ごす時間の多い居間に、さり気なく飾られているのは、森の木々が黄金の色に染まる、ロジオン王国の北の大地の情景である。王都で邸宅が買える程の価値のある絵を、ゲーナは迷いのない手付きで横へずらし、後ろに隠されていた小さな聖紫石の石板に、そっと右手を当てた。

「ゲーナ・テルミンが作りし神秘の空間、何人たりとも立ち入る術を持たぬこの世の絶域。我が真実の間へと移動。座標確認。同行者はアントーシャ・リヒテルとその眷属ベルーハ、コーフィ、シェール。閾値いきち設定。発動準備」 

 聖紫石の石板に魔力を流し、ゲーナが術式を展開するや否や、今の床一面に銀色の魔術陣が現れ、まばゆい光を放ち始めた。そして、アントーシャと三匹の猫達が、魔術陣の中央に乗ったとき、ゲーナは言った。

「発動」

 銀色に輝く魔術陣が、激しく点滅した次の瞬間、ゲーナとアントーシャは、何処どことも知れない空間の中に居た。四方の壁はほのかな燐光りんこうを放つ白色で、端から端までどれ程の距離が有るのか、はっきりとは認識出来ない。足下には床と呼べるものさえなく、星の瞬く夜空そのままの紺碧が広がるだけであるのに、彼らは何故かしっかりと自分の足で立っていたのである。

「我が真実の間にようこそ、アントーシャとその眷属けんぞく達」

 微笑みを浮かべたゲーナは、そう言って両腕を広げ、歓迎の意を示した。母猫のベルーハと灰色猫のシェールは、盛んに耳を動かしながら周りを見回しただけで、ぐに大人しく座り直す。一方、悪戯いたずらな茶色猫のコーフィは、緑金の瞳を爛々らんらんと輝かせて尻尾を降り、足下で輝く星を取ろうとして、大喜びで爪を掻いた。

「元気の良いおまえは、コーフィだったか。コーフィや、その星は真実の星であって、現実の星ではないのだから、如何いかにおまえの爪でも届きはしないよ。遊び道具が欲しければ、後でアントンに強請ねだるが良い。月でも星でも、お前の為に取ってくれるだろう」
「この子は一際好奇心が強くて、いつも耳を立てているのです。好奇心は猫をも殺すと言うそうですけれど、コーフィなら気にも留めないでしょうね」

 アントーシャは、ベルーハとシェールの頬を撫で、コーフィの顎をくすぐってやりながら、そっと真実の間を見回した。幼い頃から数え切れない程の回数、ゲーナと共に訪れた場所で、アントーシャは静かに感嘆の吐息を吐いた。

「今日の星々は実に美しく輝いていますね、大叔父上。幾度も見ているはずなのに、今更ながらに心が震えます。本当に綺麗だ」
「お前の元に鍵が戻ることを、天空の星々も喜んでいるのさ、アントン。私もようやく肩の荷が降ろせるよ。さあ、中央に立ちなさい。何処どこが真実の間の中央なのか、答を知る者など居らず、おまえがそうだと思う位置が、中央という概念を与えられるのだがな」

 大らかに笑うゲーナに、優しく微笑み返したアントーシャは、迷いのない足取りで進み出ると、中央と思しき場所で足を止めた。それを見たゲーナも、ゆっくりと歩を進め、アントーシャから三セルラ程離れた位置に立ち止まる。真正面からアントーシャと向かい合い、両手を広げて魔力を練り上げながら、ゲーナは厳かに言った。

「おまえが誕生した直後、幼気な赤子であった者に、私は厳重な封印をほどこした。おまえの魔力を封じ、おまえの真実を封じたのは、千年に一度の天才と呼ばれる大魔術師、ゲーナ・テルミンの命を懸けた封印だった。今ここに時は至り、決して解けぬ封印を解く鍵を、おまえの手元に返そう。心の準備は良いかね、アントン」
「はい。ぼくの心は定まっています。これまで封印の力で守護して下さったこと、その為に莫大な魔力を使い続けて下さったこと、心から感謝しております。有難うございました、大叔父上。御返し頂いた鍵は、召喚魔術の術式を破るそのときにこそ、我が手で使わせて頂きます」
「果たすべき役割を終えられたのは、悔い多き我が生涯に於いて最大のほまれだ。お前なら、力の使い道を誤りはしないと信じているよ、アントン。我が最愛の息子よ」

 ゲーナは、立ち上がった魔力を慎重に操作し、燦然さんぜんと輝く銀色の光でアントーシャを包み込んだ。たちまちの内にゲーナの額ににじんだ汗が、千年に一人の天才たるゲーナにとっても、この魔術が極めて難しいものであることを物語っていた。ゲーナは、真実の間の星々を震わせるような声で言った。

「封印術式の解除準備。封印対象、アントーシャ・リヒテル。封印範囲、深淵しんえんにして甚大なる魔力の部分封印、魔術の理を刻みし全眼の完全封印。解除権利者の変更。ゲーナ・テルミンからアントーシャ・リヒテルへ。解除時期の任意設定。設定権利者、アントーシャ・リヒテル。封印解除範囲、全。解除後は再封印不可。解除用の鍵譲渡。鍵はヴァシーリ〈王〉。大魔術師ゲーナ・テルミンが、ここに予知する。全眼の体現者アントーシャ・リヒテルこそは、魔導の王とならん」

 ゲーナが詠唱を終えた瞬間、銀色の光となってほとばしったゲーナの魔力は、アントーシャを巻き込んだまま一際強く輝いてから収束し、やがて小さな鍵の形を取って、アントーシャの手の中に残った。アントーシャは、一度、美しく輝く銀色の鍵に唇を寄せてから、その掌で大切に握り締めた。

 次にアントーシャが手を開いたとき、鍵は跡形もなく消えていたが、真実の間にいる者達には分かっていた。ゲーナが渾身の力を傾けて守ってきた封印の鍵は、この瞬間、正しくアントーシャに継承されたのである。

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『フェオファーン聖譚曲』をお読みいただきありがとうございます。
今話にて、「03 リトゥス 儀式は止められず」は最終話となります。
次は「04 アマーロ 悲しみは訪れる」となりますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします!

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