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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 5-6

05 ハイムリヒ 運命は囁く|6 痛み

 召喚魔術の失敗によって、叡智えいちの塔を揺るがす大惨事を引き起こして以来、ダニエはパーヴェル伯爵邸に引きこもっていた。聖紫石諸共に捥ぎ取られた右腕は、ぐに止血と治療をほどこされたものの、傷口を平らにする為に再度切断しなくてはならず、ダニエの苦痛は大きかった。四散して命を落としたゲーナを思えば、腕一本の犠牲で助かった幸運を喜ぶべきだったとしても、何日も激痛と発熱にさいなまれたダニエには、そう考えるだけの余裕など有りはしなかった。部下の魔術師達に、繰り返し鎮痛と快癒かいゆの魔術を掛けられながら、ダニエはうめき続けた。

 身体の痛み以上にダニエを苦しめたのは、ゲーナに救われたという事実である。最後の瞬間、全力でゲーナの魔術に同調していたダニエは、自らの死を覚悟した。あれ程の質量によって術が破られた以上、全ての術者に反動が襲い掛かるのは必然であり、それを察知したゲーナは、ダニエを助ける為に腕ごと聖紫石の同調を断ち切ったのである。

 十二芒星の魔術師達を魔術陣から離脱させ、ダニエをも強引に弾き飛ばし、ゲーナはただ一人で召喚魔術の破壊による反動を受け止めた。命を失うだけでなく、身体が四散するという凄絶せいぜつな最期を迎えたのは、当然の結果だっただろう。

 一人の魔術師として、天才ゲーナ・テルミンの足下にも及ばなかったダニエは、召喚魔術によってゲーナを超えようとし、逆に命を捨てて救われたことによって、完膚なきまでに敗北した。ダニエの絶望と屈辱は、失った右腕の存在を感じる度に膨れ上がり、ダニエ自身にも制御出来ない激しさで荒れ狂っていたのだった。

 艶のある栗色だった髪は、十日足らずの間に白髪混じりに変わり、ダニエを十歳以上も年上に見せた。召喚魔術の準備を進める間に目立ち始めた目の下の隈は、更に色濃く浮かび上がり、すっかり痩せてしまった身体には、薄っすらと肋骨が浮かび上がっている。元々の端正な姿を知る者にとって、ダニエの憔悴しょうすい振りは余りにも痛々しく、思わず目を背けずにはいられなかった。

 アントーシャが叡智えいちの塔に別れを告げた日の夕刻、少しずつ楽になる身体と少しも癒されない心の狭間で、深く呻吟しんぎんするダニエの部屋を訪れたのは、父親であるパーヴェル伯爵だった。爵位に相応ふさわしい威厳を漂わせた相貌そうぼうに、疲労と心労の陰をかせて、パーヴェル伯爵はダニエに向き合った。

「今日は具合はどうだね、ダーニャ。少しは食事をしてくれたのか。傷が痛むようなら、ぐに叡智の塔の魔術師を呼びにいかせよう」

 敬愛する父の訪れに、寝台から起き上がろうとしたダニエは、小さなうめき声を上げて身体をふらつかせた。パーヴェル伯爵は、慌てて手を伸ばして息子を支えると、ダニエの背中に自らの手で背もたれを当てがい、楽な姿勢を取らせた。

「急に動いてはいけないよ、ダーニャ。傷は回復しても、失われた体力が戻るには時間が掛かると、医者も言っていただろう。大事にしなくては」
「申し訳ございません、父上。私は、自分が情けなくてなりません。召喚魔術の実現に漕ぎ着けるまでには、父上やクレメンテ公爵閣下に、何年も御尽力を頂いたのに、肝心の所で無様に失敗したのですから。父上は何も仰いませんが、きっと父上の御立場を悪くしてしまったのでしょう。その上、私の身体のことでまで御心配を御掛けしてしまうとは」

 背もたれに身体を預けたまま、ダニエは精一杯に頭を下げた。悲し気にダニエを見詰めたパーヴェル伯爵は、息子以外には聞かせないだろう優しい声で言った。

「水臭いことを言うものではないよ、ダーニャ。魔術の才のない私には分からないが、あの召喚魔術の失敗は、必ずしもおまえの所為ではないのだろう。召喚魔術の術式そのものは正しかったのだ。その事実は変わらないのだと、宰相閣下もおおせだった。私は、我が息子を誇りに思うよ。後は一日も早く元気になって、私を安心させてほしい」

「体力が回復した所で、この腕は戻りません。身体の不自由な者が嫡男ちゃくなんでは、パーヴェル伯爵家の体面にも関わるのではありませんか。どうか私を廃嫡になさって下さい、父上。片腕でも魔術は使えますので、私一人でも何とかやっていけるでしょう」

 パーヴェル伯爵は、無言のままダニエの背中を撫でた。その手は深い思いりに満ちており、衝撃的な召喚魔術の失敗にも、不自由になった息子の身体にも、パーヴェル伯爵の情愛は微塵みじんも薄れなかったのだと、傷付いたダニエにさえ分かった。

「悲しいことを言うのは止めておくれ、ダーニャ。何があっても、おまえは私の大切な息子だよ。家の体面など、おまえと比べれば塵程の価値もない。それに、身体が治り次第、おまえは魔術師団長に任じられる。今日、宰相閣下からそう教えて頂いたのだ」

 思いもよらない言葉に、ダニエは落ちくぼんだ目を見開いた。他国の追随ついずいを許さない魔術大国である大ロジオンにいて、魔術師団長の地位に就く者は、世界最高の魔術師という栄誉を与えられたに等しい。ダニエにとっては、命に代えてでも得たいと望んできた称号だったが、今は喜びよりも戸惑いが大きかったのである。

「御待ち下さい、父上。私は召喚魔術の行使に失敗し、陛下の御身まで危険に晒してしまったのです。術者となったゲーナ・テルミンは命を落とし、儀式の間が破壊されたことによる金銭的な被害も、ぐには算定も難しい巨額でしょう。叡智えいちの塔の名を貶めた私に、何をもって、魔術師団長の地位を授けられる道理がございましょう」
「召喚魔術の行使に失敗したのは、術を行ったゲーナではないか。そこは間違えてはならないよ、ダーニャ。おまえが主導したのは事実でも、失敗の責任は魔術師団長だったゲーナが負わなくてはならない。それが組織というものだ。第一、ゲーナ亡き後、叡智の塔を統率出来る力を持つ魔術師など、おまえしか居ないではないか。実の所は、おまえにも責なしとは言えないだろう。しかし、ロジオン王国の未来を考えれば、今ここでダニエ・パーヴェルを処罰するのは得策ではない。陛下や宰相閣下は、そう御考え下さったのだよ」

 父の説明に耳を傾けていたダニエは、しばらくの沈黙の後、ゆっくりと頷いた。スエラ帝国に対する牽制という意味でも、魔術師団長の地位を空席にするわけにはいかない。そして、召喚魔術の失敗を加味したとしても、ゲーナ亡き後の叡智の塔で、魔術師団長の地位に相応ふさわしい力量を持っているのは、ダニエしか居なかったのである。ダニエは、パーヴェル伯爵の表情を伺うようにしてたずねた。

「父上の仰る通りかも知れません。実際がどうであれ、召喚魔術の失敗を以て私を処分するよりも、魔術師団長の地位に就けた方が、今は得策なのでしょう。陛下や宰相閣下であれば、そう御考えになるだろうと思います。私にとっては、複雑な御話ではありますが」
「複雑に思う必要などないよ、ダーニャ。ゲーナ・テルミンは、確かに魔術の天才だったのだろうが、死んだ者はもう何も出来ない。魔術師団長の重責を担い、ロジオン王国の為に力を尽くせるのは、おまえだけなのだ。魔術の才能を持たない私が、おまえのように素晴らしい魔術師を息子に持ち、我が祖父ヤキム・パーヴェルの跡を継いでくれることを、心から誇りに思うよ」
「それでは何故、浮かない御顔を為さっておられるのですか、父上。今日、部屋に入って来られたときから、気になっていたのです。父上が私を案じて下さるように、私も父上の御心が気に掛かります。何が有ったのか、教えては頂けませんか」

 ダニエに上目遣いに指摘され、パーヴェル伯爵は困った顔で微笑んだ。ダニエとパーヴェル伯爵は、高位貴族としてはめずらしい程に仲の良い親子である。巧みに隠されたパーヴェル伯爵の鬱屈うっくつを、ダニエは正確に感じ取っていたのだった。パーヴェル伯爵は、小さな溜息を吐いて言った。

「やはり、おまえには気付かれるか。心配を掛けたくはなかったのだがな。おまえになら話しても構わないが、傷は痛まないのかね。休息の為に時間を空けた方が良ければ、私は一度部屋に戻り、夜にでも出直してくるよ」
「大丈夫ですよ、父上。何も分からないまま、一人で心配する方が身体に障りますので、どうか御話しになって下さい」
「分かった。ならば言うとしよう。実は、マリベル妃殿下が、陛下の御不興を買って幽閉ゆうへいされたのだ。元第四側妃カテリーナの不貞ふていは、マリベル妃殿下の策略によるものだったと、発覚してしまったらしい。御父君で在られるクレメンテ公爵閣下にも、御夫君のアイラト王子殿下にも、共に陛下より謹慎きんしんの御沙汰さたが有った。謹慎後の処分は分からないが、王城の勢力地図が大きく書き換えられるのは間違いないだろう」

 然り気ない口振りで語られた話の重大さに、ダニエは思わず絶句した。マリベルが仕掛けた策略は、結果として王城の政変とも呼べる騒動に発展したのである。パーヴェル伯爵が、クレメンテ公爵派閥の中軸を成す存在であると熟知しているダニエは、痩せて肉の落ちた頬を微かに引きらせた。パーヴェル伯爵は、そんな息子に頷き掛け、詳しく事件の顛末てんまつを話して聞かせたのだった。

「マリベル妃殿下の策略に就いては、公爵閣下も不安を感じておられたと思う。しかし、溺愛できあいする姫君の御力を信じておられたが故に、御止めする機会を逃してしまわれた。私からも、何か御意見申し上げるべきだったと後悔しているよ。公爵閣下は、私の言葉には耳を傾けて下さっていたのだからな」
「陛下とタラス伯のことですから、マリベル妃殿下の策略であると、早くから御存知だったのではありませんか。御存知であっても知らない振りで、実行犯のみを秘密裏に処分してしまう。王城の混乱を最小限に抑えるには、その方が簡単だったように思います。何故、今になってマリベル妃の処分など為さったのでしょう」
「王妃陛下だよ、ダーニャ。カテリーナの騒動によって、近衛このえ騎士団を後ろ楯とするアリスタリス王子殿下に傷が付いたと、王妃陛下が激怒なされたのだ。王妃陛下はトリフォン伯を御呼び出しになり、マリベル妃殿下の断罪を迫ったのだと、宰相閣下が教えて下さった。全く、気性の強い御方だよ、王妃陛下は。王妃陛下に正面から罪を告発されれば、陛下も御動きになるしかなかったのだろう」

 充てがわれた背もたれに身体を預け、楽な姿勢を探しながら、ダニエは眉をひそめた。ほとんど接する機会のなかったマリベルは勿論もちろん、父の派閥の長であるクレメンテ公爵に対しても、ダニエは特別な感情を抱いてはいない。ただ、パーヴェル伯爵が王城で冷遇される可能性を考えれば、自ずと不安が募ったのである。

「私が心配をするのは、父上の御立場だけです。父上は、クレメンテ公爵閣下の腹心中の腹心で在られる。謹慎きんしん後、どの程度の処分が出るにしろ、御息女であるマリベル妃が陛下への不敬ふけいとがめられたとなれば、公爵閣下の政治力は大きく後退するでしょう。父上も、何らかの責を問われる可能性があるのではありませんか」

 ダニエの問い掛けに、パーヴェル伯爵は微笑みで応じた。肉体的な苦痛だけでなく、深い挫折感によって塞ぎ込んでいたダニエが、父親を案じるだけの気力を取り戻したことに、パーヴェル伯爵は安堵したのだった。パーヴェル伯爵は、力強い声で言った。

「大丈夫だ。案ずる必要はないよ、ダーニャ。私は、本当にマリベル妃の陰謀には関わりがないのだから、処分など有るはずがない。何らかの処罰を下されるのなら、公爵閣下と同時に謹慎になっていただろう。私がクレメンテ公爵閣下に従ったのは、元はといえばダーニャを魔術師団長に推したかったからだ。その目的が叶った以上、何一つ問題などないよ。公爵閣下に対する、私の敬愛の気持ちは別にしてだがな」

 パーヴェル伯爵の言葉は冷静であり、屈託を浮かべていた表情にも、既に張りが戻りつつあった。じっとパーヴェル伯爵の様子を見守っていたダニエは、考えを巡らせるかのごとく沈黙し、やがて納得した表情で頷いた。

「確かにそうかも知れません。私が魔術師団長に任じられるのは、父上の御立場が悪化していない証拠とも言えますね。承知致しました。私は一日も早く体力を回復し、叡智えいちの塔に復帰致します。大ロジオンの魔術師団長として、私が地位を盤石なものにすれば、少しは父上の御役にも立てるでしょう。御任せ下さい、父上」
「頼もしいな。それでこそ我が自慢の息子だ。有難う、ダーニャ。パーヴェル伯爵家は、優秀な魔術師を輩出してきた名門だ。おまえの御陰で、その名声も取り戻せるだろう」
 ダニエとパーヴェル伯爵は、目を見交わして微笑み合った。苦痛と屈辱に苛まれたダニエの休息は、間もなく終わろうとしているのだった。