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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 4-3

04 アマーロ 悲しみは訪れる|3 月影

 その夜半、アリスタリスの住まうリーリヤ宮を、密かに訪れた者達がいた。王妃の宮殿であるリーリヤ宮には、蟻のい入る隙間もない厳重さで、昼夜を問わず近衛このえ騎士団が警護に当たっていたが、忠実なはずの近衛騎士達は、誰も訪問者をとがめようとはしない。深く被ったローブを一礼して覗き込み、訪問者の顔を確認するだけで、何も聞かないまま次々に行く道を開けていった。

 リーリヤ宮の使用人が出入りする通用口から、静かに宮殿内に滑り込んだところで、訪問者達はローブを脱いだ。無言のまま顔をあらわにしたのは、近衛騎士団の団長であるコルニー伯爵と、近衛の連隊長であるイリヤだった。元第四側妃カテリーナの不義を見逃したばかりか、不義の相手と協力者までが近衛騎士だったという重大な不始末の責任を取って、王家から謹慎処分を受けている二人は、アリスタリスの許しを得て、内々にリーリヤ宮を訪れたのである。
 不寝番ふしんばんを務める近衛騎士達に小さく頷き掛けながら、コルニー伯爵とイリヤは、リーリヤ宮の奥へ奥へと進んでいく。中央の最奥が王妃エリザベタの住む区画であり、右翼が未婚の王女達の暮らしていた区画、そして左翼の最奥がアリスタリス一人の為に整えられた区画である。アリスタリスの居間に到達した二人は、先触さきぶれに立った侍従じじゅうに先導され、粛々と扉を潜った。

 黄白おうはくの輝きに満ちた豪奢ごうしゃな部屋の中、寛いだ様子のアリスタリスは、猫足の長椅子にゆったりと背を預けていた。この夜のアリスタリスは、淡い緑色のブラウスの上に、濃紺のジュストコールを羽織っている。ジュストコールには極小の金剛石が散りばめられており、さながら夜空の星のように輝いていた。

く来てくれた、二人とも。首を長くして待っていたよ。今宵は叡智えいちの塔で召喚魔術が行使されるので、私も行かなくてはならないのだ。そなたの策が実を結んでいるのかどうか、早々に首尾を教えてもらえるかな、コルニー伯爵」

 アリスタリスの問い掛けに、無言のまま深く一揖いちゆうしたコルニー伯爵は、胸元から一枚の書類を取り出すと、背後に控えていた近習きんじゅへと差し出した。アリスタリスから微妙に視線を外したまま、コルニー伯爵は言った。

「その書類にまとめましたものが、今日現在までにアリスタリス殿下への支持を確約した、王都在住の地方領主の名簿にございます。全体の三分の二程度の地方領主と連絡を取ることが叶い、その内の過半数から賛同を得ました。残る三分の一につきましても、近日中に大半の面談を終える手筈てはずでございます。地方の領地に住んでいる領主に就きましては、信頼の置ける者を使いに立て、手紙を届けさせておりますが、此方が出揃うには今しばらく時間が掛かるものと思われます。何分、ロジオン王国は広大であり、此度は叡智えいちの塔に転移魔術の行使を依頼するわけにもいきませんので」

 自らの領地に留まり、王都に住もうとしない地方領主にとって、王太子位を巡る争いなど他人事に過ぎないから、とはコルニー伯爵は言わなかった。書類を受け取ったアリスタリスは、素早く視線を走らせるや、機嫌良く空色の瞳を輝かせた。

「私が思っていたよりも随分と数が多く、有力な者も含まれている。予想以上の成果だよ、コルニー伯爵、イリヤ卿。コルニー伯爵の有能さを信じてはいたものの、ここまで結果が出るとは思わなかった。嬉しい誤算だな。くやってくれた、二人とも」

 アリスタリスに労われ、イリヤは喜びに頬を緩ませた。元第四側妃の騒動の際にアリスタリスを激怒させ、冷たい叱責しっせきを浴びていただけに、イリヤの安堵は深かった。計画の発案者であるコルニー伯爵が、硬い表情を浮かべたまま身を強張こわばらせている様子を気に留めず、アリスタリスは名簿を見詰めながらたずねた。

「ここに書かれた地方領主達の名の前に、二種類の印があるのはどういう意味なのだろう。丸と三角。その意味を教えてくれるかな、コルニー伯爵」
「御意にございます、殿下。名簿に書かれた二種類の印は、其々の地方領主からの望みを内容によって分類したものでございます。殿下への支持を約すに当たり、ことが成った場合の褒章ほうしょうとして、丸印は報恩特例法ほうおんとくれいほう撤廃てっぱいを求めた地方領主、三角印は方面騎士団に拠出する維持費の減額を求めた地方領主でございます」
「成程。丸印は六家、三角は七十五家。圧倒的に多いのは、方面騎士団に対する維持費の減額ということか。以前の話では、報恩特例法の撤廃こそが地方領主の悲願だと聞いた気がするが、私の間違いだったのか、コルニー伯爵」

 アリスタリスの無邪気にも聞こえる問い掛けに、コルニー伯爵は素早く片膝を突き、深く頭を下げた。苦渋に満ちた声音で、コルニー伯爵が言う。

「誠に申し訳ございません、殿下。わたくしの不見識でございます。報恩特例法による領民の艱難辛苦かんなんしんくよりも、己の家の財貨だけを求める者がこれ程までに多いとは、全く私くしの思い及ばぬ事態でございました。御恥ずかしゅうございます」

 コルニー伯爵の発言は、王家への批判とも取られかねない危うさを孕んでいた。ロジオン王国の中興の祖とも言えるラーザリ二世、世に名高い征服王が定めた報恩特例法の存在が、地方領の領民達をしいたげているのだと、はっきりと口にしたも同然だったからである。この場に王妃エリザベタがいたら、コルニー伯爵は厳しく罪に問われていたかも知れないが、エリザベタの最愛の息子であるアリスタリスは、特に気に留める素振そぶりを見せなかった。

「それは構わない、コルニー伯爵。貴族として最も大切にするべきは、己が家の存続と繁栄はんえいだろう。その為には財貨も欠かせないのだから、当然の要求とも言える。結果として支持が集まった以上、伯の目論見もくろみは的中したと考えて良いだろう。大儀であった」

 和やかな笑顔と共にもたらされたアリスタリスの労いに、無表情を保ったままのコルニー伯爵は硬い声で答えた。

「御言葉、忝のうございます、殿下。共に地方領主の王都屋敷を訪ね、手紙の送付にも力を貸してくれた、イリヤ・アシモフ連隊長の献身の故でございます」
「分かっているよ、コルニー伯爵。伯やイリヤ卿と前祝いの杯を重ねたい所だけれど、今夜は叡智えいちの塔で召喚魔術が行われるので、私もそろそろ用意をしなくてはならない。目の前の事が終わり、伯らの謹慎が解けたら、ゆっくりと語り合うとしよう」

 コルニー伯爵は無言のまま礼を返し、イリヤは如何いかにも残念そうに口を開いた。イリヤにとって、アリスタリスの言葉は無念を煽るものだった。

「謹慎になどなりませんでしたら、わたくし自身が護衛騎士となり、召喚魔術が行使される間も殿下を御護りできましたのに。何が起こるか分からない未知の出来事に挑まれる殿下を、黙って御見送りするだけとは、誠に口惜しゅうございます」
「有難う、イリヤ卿。最初に召喚魔術に関する会議の場に呼ばれたときも、共をしてくれたのはイリヤ卿だったのだから、私も残念だ。次からは、必ず卿に守護してもらおう。此度は苦労を掛けた。そなたらの忠義は忘れないよ」

 そう言うと、アリスタリスは近習きんじゅに目配せをした。近習はうやうやしく扉を開け、退出するアリスタリスに付き従う。コルニー伯爵とイリヤは、騎士の礼を取ってアリスタリスを見送った後、訪れたときと同様に音もなく宮殿を忍び出た。警護の近衛このえ騎士達は、密やかに黙礼するだけで、二人に話し掛けようとはしない。やがて、リーリヤ宮から三百セルラ程離れ、人目を避ける必要がなくなってから、イリヤが安堵して口を開いた。

「ここまで来れば、話をしてよろしいでしょう。アリスタリス殿下に御喜び頂けて、本当によろしゅうございましたね、団長閣下。これだけで近衛の失態が帳消しになることはないでしょうが、幾許いくばくかの面目は保てたものと存じます。久し振りに、今夜はゆっくりと寝られる気が致します。地方領主を巻き込む献策といい、支持を約させる弁舌といい、流石さすがでございましたね、閣下」

 イリヤの賛辞には一言も答えず、コルニー伯爵はどこか沈痛な眼差まなざしで足下を見詰めたまま、こう問い掛けた。

「そなたはオローネツ辺境伯爵を知っているか、イリヤ連隊長。オローネツ辺境伯爵領の領主、エウレカ・オローネツ殿だ」
「オローネツというと、王国の北西に位置する辺境の大領でございますね。辺境伯爵との面識はございませんが、オローネツの領地は大ロジオンでも一、二を争う程に広大で、豊かな穀倉地帯でもあると聞き及んでおります。また、オローネツ辺境伯爵は滅多めったに王都を訪れようともせず、王家に何かと隔意があるという噂を聞いた覚えがございます」
「そのオローネツ辺境伯が、ロジオン王国に四家有る辺境伯爵家の中で唯一、私の親書に返事を下さったのだ。手紙を持たせた者の言葉によると、他の辺境伯爵が態度を保留する中、即答だったそうだよ。報恩特例法ほうおんとくれいほう撤廃てっぱいして領民を救ってくれるのなら、アリスタリス殿下だろうとアイラト殿下だろうと、一切構わない。必ず王太子として冊立されるように支持しよう、とな。返書にもはっきりとそうしたためられていた」

 コルニー伯爵の言葉に、イリヤは半ば反射的に眉をひそめた。唯一の正嫡せいちゃくの王子であり、剣の弟子でもあるアリスタリスを、何の迷いもなく信奉しているイリヤにとって、オローネツ辺境伯の返書は、王家と王子に対する不敬としか思えなかったのである。

「アリスタリス殿下だろうと、アイラト殿下だろうと構わないとは、随分と不遜ふそんな物言いでございますな。ロジオン王国の王太子位を何と考えているのか。そういう人物だから、隔意有りと噂されるのでしょう。御味方にしてもよろしいのですか、閣下」

 目の前の闇を見詰めたまま、コルニー伯爵は細く深い溜息を吐いた。イリヤの為人ひととなりを知るコルニー伯爵には、部下の回答は分かっていた。イリヤ以外の近衛このえ騎士に聞いたとしても、ほとんど全員が同じ答を返すだろう。コルニー伯爵は、そっと呟いた。

「そなたは、そう考えるのだな、イリヤ。報恩特例法ほうおんとくれいほう撤廃てっぱいの為なら、どの王子でも味方しようというオローネツ辺境伯は、王太子位の重味を知ろうとしない不敬の徒であり、我らが同志とするに問題が有るのではないか、と」
「左様でございます、団長閣下。何の王子で殿下であっても構わないなどとは、大ロジオンの王子殿下を、己が目的を叶える道具として扱うに等しい言説ではございませんか。わたくしは、そう考えますが、閣下には別の御考えが御有りなのでしょうか。私くしに気付かない所が有るのでしたら、どうか御教え下さい」
「そうだね。先程、そなた自身が話した通り、オローネツ辺境伯爵領は王国の食糧を支えている、ロジオン王国一の大穀倉地帯だから、オローネツ辺境伯の支持は、王都や王城でも大きな意味を持つだろう。私はそう思っただけのことだよ、イリヤ」

 コルニー伯爵の曖昧な説明に、イリヤはまだ不満気ではあったものの、言葉に出して反論をしようとはせず、コルニー伯爵もまた、それ以上は何も語らなかった。黄金の満月に照らされ、二人の影が重なり合うように寄り添っていても、その心はどうしようもなく遠かったのである。