フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 3-4
03 リトゥス 儀式は止められず|4 慟哭
清々しい晩春の空の下、オローネツ辺境伯爵領の代官の一人、ルーガ・ニカロフが率いる一団が、懸命に馬を走らせていた。ルーガの代官屋敷に急報が齎されたのは、数ミル前のことである。ロジオン王国が定めた報恩特例法による出動だとしても、方面騎士団に蹂躙されているルフト村から、救いを求める知らせを受けたルーガ達は、頬を擽る風を感じる余裕さえなく、一心に前だけを見て馬を駆り立てているのだった。
「見えた。村が見えてきた。奴ら、まだ村にいやがるぞ」
ルーガより僅かに先行していた門番姿の騎士が、後ろを振り返って鋭く叫んだ。馬上で目を凝らせば、ルフト村の表門と思しき辺りに、かなりの数の馬が繋がれている様子が、微かに判別出来た。ルーガは素早く合図を出し、後に続く馬列を止めた。
「よし、何とか村の者が連れ去られるには間に合ったか。ならば、この場で待機して味方が追い付くのを待つとしよう。但し、第七方面騎士団の奴らが村を離れようとしたら、我らだけでも突っ込むぞ。誰か一人、物見に立ってくれ」
「俺が行きますよ」
先程先行していた男は、ルーガが頷くのを確かめてから、馬の轡を引いて静かに村に近寄っていった。残されたルーガ達は、馬から降りて各々に緊張を解き、後続が追いついて来るのを待った。第七方面騎士団が村を襲ってから、既に一昼夜が経つ以上、村人達が無傷である筈はない。それでも、奴隷として連れ去られることだけは阻止しようと、彼らは水を飲む間も惜しんで馬を飛ばしてきたのである。
待つ程の間もなく、次々に後続の者達が追い付いてくる。第一陣、第二陣の人数が揃った所で、ルーガ達は身を潜めてルフト村へと近付いていった。第七方面騎士団の者達が村に残っている以上、話し合いで物事が解決するなどとは、誰も欠片も思っていなかったし、それは明白な事実でもあった。
山間の農村を襲撃することなど、簡単な仕事だとでも考えたのか、ルーガ達が目的地である村に到着したとき、第七方面騎士団は見張りすら立てていなかった。ルーガ達が目にしたのは、表門に力無く寄り掛かり、呆然と空を見上げている老人の姿だった。老人は、ルーガ達に気付いた途端、青褪めて憔悴した顔を歪めた。
「ああ、代官様。来て下さったんですね。御待ちしておりました」
「御主は村長だな。待たせて済まなかった。村の皆はどうしている。第七の奴らは、まだ村に留まっているのだな」
努めて平静な声で発せられたルーガの問い掛けに、涙さえ乾き果てたかに見える村長の瞳が、暗い激情に揺れた。
「はい。畜生共は、未だ飽きずに村の女達を貪っておりますよ。若い男達の何人かは嬲り殺され、残りは一纏めにして縛られております。生きた者で放り出されているのは、我ら力なき年寄りだけでございます」
「奴らは一箇所に固まっているのか。人数はどのくらい居るのだ。奴らは、第七方面騎士団と名乗ったのか。いくつも質問して済まんが、答えてくれるか、村長」
「勿論でございます、代官様。私くしの家が村では一番大きいので、奴らの多くは当家に集まっています。人数は三十人程でございましょうか。夜の内は見張りを立てておりましたものの、夜が明けてからは、一晩中女達を犯していた奴らは眠り込み、今は見張りだった者が女を弄んでおります。あの畜生共は、第七方面騎士団に間違いありません。第七の騎士服を着て、自ら名乗っておりました」
ルーガは、歯を剥き出しにして獰猛に笑うと、大きく逞しい身体から陽炎のように憤怒の気配を立ち上らせながら、部下の数人を指差した。
「おまえ達は、先に縛られている者を解放しろ。おまえとおまえは、奴らの馬を奪って裏の森に隠してこい。おまえ達三人は裏門に回って、身を隠して逃げようとする奴が居れば捕まえろ。残りは俺と一緒に来い。あの第七の蛆虫共に、報いを受けさせてやるぞ」
部下達は皆、ルーガと同じ顔で笑った。門番や農民に偽装してまで、村人達を守る為に戦ってきた男達である。男達にとっても、罪なき人々を蹂躙する方面騎士団は、憎んでも余りある不倶戴天の敵なのである。
力を振り絞って立ち上がった村長に導かれ、ルーガ達は彼の家に向かった。肥沃な土地に恵まれたオローネツ辺境伯爵領の村は、山間の農村としては豊かであり、村の集会所を兼ねる村長の家も、他領では滅多に見ない程広く立派な建物だった。
鋭い視線で辺りを窺いながら、ルーガ達は素早く持ち場を固めた。村の老人達も、徐々にルーガ達の姿に目を留め始めたが、村長の合図に従って声を潜め、じっと不安気に見詰めている。そして、村長の家の裏口に向かった者達が合図の笛を鳴らした瞬間、ルーガは軍靴で表戸を蹴破り、腹に響く声で叫んだ。
「第七方面騎士団の諸君に告ぐ。全員、直ちに出て来い。私は、オローネツ辺境伯爵閣下より、当地の代官に任ぜられている騎士爵、ルーガ・ニカロフである。諸君らの所業に異議がある故、直ぐに表に出てもらおう」
ルーガの誰何から暫くして、だらしなく方面騎士団の団服を着崩した男達が、抜き身の剣を片手に歩み出てきた。その面は不快そうに歪み、楽しみを中断させられた苛立ちに満ちている。その中の一人、小隊の隊長と目される男が、ルーガを睨み据えて言った。
「地方領主の騎士爵風情が、一体何の用だ。我らは報恩特例法に基づいて、この村に滞在している。ロジオン王国の栄えある第七方面騎士団が、貴様ら地方領の領民共の為に力を貸してやったのだ。法の定めの通り、恩を返させて何が悪い。我らは取り込み中だ。早々に立ち去らねば、おまえが罪に問われるぞ」
「報恩特例法に基づいて、第七方面騎士団が出動したと言うのだな。良いだろう。諸君らは、この村の者達に何をしてやったというのだ」
表面は冷静を装いながら、ルーガは鋭く問い質した。ロジオン王国の宿痾とも言うべき報恩特例法は、地方領の領民から〈恩を返させる〉為に、一度限りの略奪行為を許している。方面騎士団の蛮行は、ロジオン王国の地方領に於いてのみ、合法と成り得るのである。隊長らしき男は、嗤いながら言った。
「この村が盗賊に襲われるという情報が入ったので、我らが護ってやったのだ。農民共では、手練れの盗賊には手も足も出ないからな。我らが出動していなかったら、全員が皆殺しにでもなっていたのではないか。精々感謝するが良い」
「ほう。では、その盗賊は何処にいる」
「我らが出張ってやったのだから、恐れをなして逃げたのだろうさ。襲撃を未然に防げたのは、我ら第七方面騎士団の御陰よ。直接の戦闘はなくとも、十分に報恩特例法の対象となることくらい、いくら田舎者の代官でも知っているだろう」
隊長と思しき男の言い分に、ルーガは唇を吊り上げた。他の地方領では通用したかも知れない誤魔化しは、オローネツ辺境伯爵領では一顧だにされない。確かに笑っている筈の顔に壮絶な怒りを浮かべて、ルーガは隊長の虚言を踏み砕いた。
「良いだろう。法というなら、こちらも法で応えてやろう。報恩特例法は地方領主や代官、或いは村長が、方面騎士団に出動を要請した場合にのみ適用される筈だ。国王陛下からの勅命の場合は勿論対象となるが、よもやロジオン王国の国主が、このルフト村のことなど御下知なさるまい。諸君らは、誰の求めで恩とやらを施したというのか」
「実際に出動の要請を受けたのは、第七方面騎士団の本部だから、能く覚えていないな。この村の村長だったのではないか」
「嘘を吐くな。儂が村長だ。儂は、そんなことは頼んでおらんぞ。オローネツ辺境伯爵閣下が御治めになられている領地に、手練れの盗賊など居るものか。盗賊はおまえ達だ。盗賊の人殺し共が、恥知らずな嘘を吐くな」
ルーガ達の背後にいた村長は、堪らずに叫びを上げて飛び出すと、必死の気力を振り絞って第七の騎士達を睨み据えた。隊長らしき男は、村長の言葉に動じた素振りも見せず、鼻を鳴らして唾を吐いただけだった。ルーガは、構わずに追求を続ける。
「さあ、当の村長はこう言っているぞ。先程も宣言したように、代官はこの俺だ。俺も諸君らに要請など出していない。過去に於いて一度もなく、未来に於いても決してしない。代官本人が断言するのだから、確かだろう」
「では、おまえ達の領主が、我ら第七方面騎士団を頼ったのだろうさ。嘘だと思うなら、今から代官館に戻って、正式に領主に問い合わせてみるが良い。それまでは、我らの行為は合法だ。罪に問われたくなければ、疾く代官屋敷に逃げ戻るのだな」
そう言って、隊長格の男は薄ら笑いを深くした。正式にということは、公文書の行き来を意味する。辺境であり広大な領地を有するオローネツ辺境伯爵領で、領主の居城まで往復するとなると、早馬を飛ばしても一両日は掛かるだろう。王都の貴族達であれば、転移魔術で瞬時に行き来し、通信用の魔術機器を使いて情報を伝達する所を、泥に塗れて走らなければならないのである。隊長は、そうした地方領主達の不自由さを知った上で、ルーガを嘲ったに違いなかった。
一方、男の嘲笑を冷静に受け流したルーガは、胸元から一通の書状を取り出すと、恭しく押し戴いてから、第七の騎士達の眼前へと掲げた。
「おまえは嘘を吐いているな。この書状は、俺が代官に就任する際に、オローネツ辺境伯爵閣下から賜ったものだ。方面騎士団に出動を要請した際は、その大小に関わらず、合図の狼煙によって必ず三ミルの間に伝達する。伝達なき場合は、出動要請はないものとして動け、とな。お前は、オローネツ辺境伯爵閣下の御指示を疑えというのか。この期に及んで、時間稼ぎなど出来ると思うな」
ルーガが手に持った書状に浮かび上がるのは、雄々しい巨竜の紋章であり第七方面騎士団の誰もが知るオローネツ辺境伯爵家のものだった。隊長らしき男は、今度こそ言葉に詰まった。ルーガは大切に書状を仕舞うと、軍刀の柄に手を掛けて、無言の気合と共に一気に抜き放った。ルーガの後ろに控えていた数人の護衛騎士も、ルーガに続いて次々に軍刀を抜き、残りの部下達は槍や刺股を構える。隊長は慌てて言った。
「待て、待て。その者達は何だ。我がロジオン王国では、地方領に戦力を置くことなど認められておらんぞ。お前達こそ法を破っているではないか。我らも黙っていてやるから、ここは双方とも痛み分けといこうではないか」
「お前の目は節穴か。此奴らは俺の護衛騎士と門番、それに近隣の農民達だ」
「巫山戯るな。武装した上に、方面騎士団に立ち向かって来る農民など何処にいる。第一、其奴らはどう見ても、兵士として訓練されておるではないか」
今までの余裕をかなぐり捨て、怒鳴り付けてきた男を前に、ルーガは己が部下達を振り返って、不思議そうに聞いた。
「可笑しいな。おまえ達、門番や農民ではないのか」
門番の御仕着せや農民姿の部下達は、ルーガの問い掛けに、構えを解かないまま大きく首を傾げ、冷笑を浮かべながら口々に答えた。
「農民に決まってるでしょう、親父さん。手に持っているのは鍬ですよ、鍬。耕しやすいように、ちょっとばかり鋭く研いでいますがね」
「私達は門番ですよ、大将。うちの代官屋敷には門番が二十人ばかりいるから、当番のとき以外は身体を鍛えているだけですよ」
「俺なんて、農夫の格好の上に革鎧を付けただけですよ。これで農夫じゃないなら、何だというんですかね。こっちが教えてほしいですな」
ルーガは両手を広げ、大袈裟に肩を竦めた。その戯けた仕草に似合わず、ルーガの眼は依然として激しい怒りに底光りしていた。
「ほら、俺達は何の法にも触れていないとさ。まあ、下らない茶番はもう良いだろう。貴様らは只の盗賊であり、大切なオローネツ辺境伯爵領の領民を踏み躙った極悪人だ。たった今から、その報いを受けさせてやろう」
そう言うと、ルーガは刺股を構えた部下に目配せした。合図を受けた男は、無言のまま思い切り深く左足を踏み込むと、右腕の筋肉をしならせて刺股を投げた。有り得べからざる直線軌道で飛んだ刺股は、声を出す間も与えず、隊長格の男の腹に突き刺さる。誰が見ても一撃で致命傷を与えたと分かる、渾身の投擲だった。
微塵の躊躇もなく、絶対的な優位に立つ筈の存在を攻撃してきたルーガ達に、第七方面騎士団の者達は、激しく動揺した。隊長らしき男を庇いながら、それぞれに叫ぶ。
「隊長、しっかりして下さい」
「畜生、いきなり何て事をしやがる」
「俺達はロジオン王国の第七方面騎士団だぞ。貴様ら、王国に弓引く気か。反逆者め」
ルーガは、夥しい血を流して痙攣する隊長と、蒼白な顔で狼狽えている男達を、感情のない冷たい目で見遣ったまま、平然と佇んでいた。そして、第七の者達の怒りなど歯牙にも掛けず、腹の底から咆哮した。
「黙れ、下衆が。貴様らこそロジオン王国の恥晒しだ。貴様らに嬲り殺された領民の仇、取らせてもらうぞ。者共、行け」
代官屋敷の者達は、ルーガの叫びに応じて第七方面騎士団の騎士に殺到した。数名の男達は、素早く村長の家の中へと突入し、裏手から入った仲間と共に、嬲られていた女達の救助に向かう。或る者は、槍で騎士の喉を突き、或る者は刺股で騎士の眼球を抉り出す。いくつかの部屋に分かれて、だらしなく寝入っていた騎士達は、満足に剣さえ抜けないまま、次々に刺し貫かれ。完全に先手を取られた騎士達が態勢を立て直す間もなく、その場の勝敗は瞬く間に決したのだった。
「二人か三人は生かしておけ。オローネツ城まで引き摺って行って、厳しい詮議に掛ける。後の奴らは止めを刺せ。一人も逃すなよ」
入口に仁王立ちしたまま、活路を開こうと向かってきた騎士を右に左に切り裂いたルーガは、冷たい表情のまま軍刀の血振りをし、微かな音を鳴らして鞘に戻した。家の外からは、縛られた村人の見張りをしていた騎士や、目敏く逃げ出そうとしていた騎士を制圧したと、ルーガに報告する声が聞こえてくる。突入から五ミラと経たない内に、ルフト村を蹂躙した第七方面騎士団の者達は、完全に無力化されたのである。
「村長も村の皆も、もう済んだぞ。辛いだろうが、少し休んだら被害を確認してくれないか。怪我をした者が居たら、手当てをしてやらないといかんし、下衆共に殺された村人達も、綺麗に清めて弔いをしような」
村長の家を遠巻きに窺っていた年寄り達や、先に解放した者達に向かって、ルーガは言った。第七の者達を前にしていたときの猛々しさが幻だったかのように、その声は胸に染み入る程に優しく、深い悲しみに潤んで震えていた。
そのとき、ルーガの部下に支えられ、上着だけを着せ掛けられた姿で連れ出されてきた若い娘が、血に塗れた床に崩れ落ち、身も世もなく慟哭した。娘は散々に凌辱されたのだろうと、一目見ただけで誰にでも分かった。そんな娘の慟哭は、手負いの獣の断末魔にも似て、慰めることさえ出来ない程の絶望に満ちていた。
娘の見せた嘆きの深さに気圧され、為す術もなく立ち竦んだルーガ達に、堪え切れぬ涙に咽んだ村長が、静かに言った。
「あの娘は、幼馴染の許嫁と、三日前に祝言を挙げたばかりだったのです。小さい頃から仲の良い二人で、誰が見ても似合いでしてな。本当に幸せそうでした」
「そうか。村長、娘の夫は生きているか」
「いいえ。あの娘は若くて器量好しですから、蛆虫共は真っ先にあの子に群がっていったのです。夫になった若者は、それを止めようとして、娘の目の前で嬲り殺しにされました。それからずっと、壊れた人形のようにろくに身動きもしなかったのですが」
「代官の職を拝命しながら、俺は皆を護ってやれなかったな。済まない」
ルーガは唇を震わせ、沈痛な声で言った。村長は、娘の慟哭に痛まし気な眼差しを注いだまま、首を横に振った。
「何を申されます。名もない領民を助ける為だけに、無理を承知で駆け付けて下さる代官様など、他の領地に居るものですか。村人の仇を打って下さった代官様を、国に逆らってまで守ろうとなさる御領主様など、他領では夢物語でございます。オローネツ辺境伯爵領の領民は皆、言葉では尽くせぬ程に有難く思っておりますよ、代官様。悪いのは方面騎士団の畜生共と、それを許す王国ではありませんか」
静謐な瞳で自分を見詰める村長からも、激しく慟哭する娘の姿からも逃げるように、ルーガは瞼を伏せた。報恩特例法が齎す地獄は、こうして今も続いている。オローネツ辺境伯爵やルーガが、どれ程に領民を護りたいと願っても、ロジオン王国に報恩特例法がある限り、領民達が真に救われる日は来ないだろう。
巨大なロジオン王国に鉄槌を下し、罪なき人々に救いを齎すことの出来る者は、いつか現れるのだろうか。もしも、その誰かが立ち上がってくれたのなら、最後の血の一雫まで捧げ尽くして見せようと、ルーガは固く心に誓っていた。