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連載小説 神霊術少女チェルニ〈連載版〉 4-36

〈おさらば〉 
 
 ミランさんが、そういった瞬間、足下に広がっていた魔術陣が、激しく明滅めいめつし始めた。青黒い光が、〈神秤しんしょうの間〉に広がるにつれ、唇を吊り上げたミランさんの顔が、少しずつ揺らぎ始める。よりにもよって、ルーラ王国の神霊庁の奥の奥、神聖な〈神秤の間〉で、魔術を使おうとしているんだよ、ミランさんは!
 
 〈神秤の間〉に集まっている傍聴の人たちは、突然の事態に、ものすごく混乱しているようだった。ある人は席から立ち上がり、ある人は悲鳴を上げ、ある人は隣の人の手を握り、ある人は必死に周りを見回す……。騒然とした場の空気が、いっそう緊張をあおっているんだと思う。
 わたしたちの暮らすルーラ王国は、ほとんどの国民が神霊術を使う国だから、めったに魔術を見る機会がない。知識としては知っていても、何となく〈御伽噺おとぎばなし〉みたいに思っている魔術が、尊い神霊さんたちの集う〈神秤の間〉で、いきなり使われちゃったなんて、神霊さんたちは、どう思うんだろう? 怒って、呆れて、ルーラ王国を嫌いになったりしないんだろうか?
 
 わたしは、不安な気持ちで、周囲の様子をうかがった。レフ様のいる貴賓席は、御簾みすを下ろしたままで動きがなく、中の様子を見ることができない。御簾が上がらないっていうことが、レフ様の意思表示なのかもしれないけど。
 神霊庁の最高位であるコンラッド猊下げいかは、別の貴賓席に座ったまま、ミランさんに厳しい視線を向けているだけで、何も動こうとはしない。コンラッド猊下が静観しているからなのか、わたしの隣にいるヴェル様も、他の神職さんたちも、フェルトさんたちも、苦い表情で魔術陣を見つめているだけだった。
 
 コンラッド猊下と同じ貴賓席にいる、宰相閣下とネイラ侯爵閣下は、複雑そうな顔をして、じっとミランさんの方を見つめている。面白がっているようにも、怒っているようにも、楽しんでいるようにも、悲しんでいるようにも見える、何とも不思議な顔なんだ。
 そして、ルーラ王国の王太子殿下は……宰相閣下たちよりも、もっと捉えどころのないように見えた。十四歳の少女に過ぎないわたしには、表現するのもむずかしい、まるで人形みたいに人間味を感じさせない表情に見えたんだよ。
 
 〈神秤の間〉にいる人たちが、誰も動こうとしない間に、ミランさんが発動した魔術陣は、ますます輝きを強めていた。思い出すのは、子供たちを誘拐したアイギス王国の外交官で、今はルーラ王国に捕らえられている、セレント子爵のことだった。
 あの夏の日、キュレルの街の守備隊と、レフ様たちによって追い詰められたセレント子爵は、子供たちを乗せたまま、馬車ごと転移の魔術を使おうとしていた。馬車の下に浮かび上がった魔術陣が明滅して、少しずつ馬車の姿が薄くなっていったっけ。ちょうど今、ミランさんの姿が薄くなっているように……。
 
 このままだと、ミランさんに逃げられちゃう! 焦ったわたしは、無意識のうちに、あの夏の日と同じ神霊術を使おうとした。わたしを温かく見守ってくれる、大好きな神霊さんの一柱ひとはしらである、錠前を司る神霊さんに、ミランさんを捕まえてくださいって、お願いしようとしていたんだ。
 わたしが、詠唱も印も無視して、錠前の神霊さんを呼ぼうとした途端、さっと口元がふさがれた。清らかな純白の羽先と、鮮烈な真紅の羽先が、左右から伸ばされて、わたしを黙らせたんだよ。
 
 スイシャク様とアマツ様からは、ちょっと慌てた感じで、イメージが送られてきた。〈あなや〉〈は軽々しき者なり〉〈いずれの神も動かぬは、ゆえあることと覚えけれ〉〈安んじて見護るが吉〉って。
 たくさんの神霊さんが集まり、〈神威しんいげき〉であるレフ様までいる場所で、魔術が使われるんだとしたら、神霊さんたちが、それを許す理由があるっていうことなんだろう。
 
 騒然とした空気の中、ミランさんの姿が、薄く薄くなっていく。まるで幻みたいに、今にも消えそうになったところで、声を上げたのは、王太子殿下だった。優雅に椅子に座ったまま、悠然とした口調で、よくできた人形みたいな王太子殿下が、こういった。
 
「ミランとやら申す者は、今にも転移しそうではないか。よろしいのか、マチェク猊下? 手を打とうとはなされぬのか、コンラッド猊下? 神霊庁も〈神威の覡〉も、の者の魔術を破れぬとはいわぬであろうな?」
 
 これだけの神霊が集まって、ミランさんの魔術一つに勝てないのか……とは、王太子殿下はいわなかった。でも、わたしには、そうからかっている声が聞こえそうだったし、それは他の人たちも同じだったんだろう。マチェク様も神職さんたちも、わずかに眉をしかめて、悔しそうな表情になったようにも見えた。
 神霊さんを軽く見られた気がして、わたしも、腹が立っちゃって、むにむにと口を動かしたけど、スイシャク様とアマツ様は、羽を離してはくれなかった。代わりに、名指しされたコンラッド猊下が、穏やかに反論したけどね。
 
数多あまたの御神霊の御坐おわします〈神秤の間〉で、魔術一つ破れぬことなど、あろうはずがございませんよ、王太子殿下」
「ほう。では、ミランと申す者の逃亡を許すのも、御神霊の御心みこころの内と申されるのか、大神使だいしんし猊下? 万の軍勢をも縛るといわれる、神鎖しんさのコンラッド猊下よ。そら、間もなく転移の魔術が発動を終え、ミランとやらが逃げおおせそうですよ?」
「すべては御神霊のおぼしでございます。蜂追はちおいのためしもございましょうし」
「なるほど。彼の者は、綿のついた蜂か。厳しきこと……」
 
 文学少女であるわたしは、コンラッド猊下と王太子殿下の会話の意味が、何となく理解できた。〈蜂追い〉って、捕まえた蜂に白い綿をつけてはなし、その綿を目印にして蜂を追いかけることで、巣の蜂蜜を取る方法のことだよね? ということは、ミランさんは、何かの目的があって、わざと逃しちゃうんだろうか?
 わたしの隣にいてくれるヴェル様は、優しく笑いかけてくれるし、スイシャク様やアマツ様は、上機嫌で鼻息と吐息をらしているから、そういうことだとは思うけど。
 
 そうしている間に、ミランさんの姿は、今にも消えそうになっていて……わたしは、おかしなことに気がついた。クローゼ子爵家から元大公のお屋敷まで、転移魔術を使ったとき、ミランさんは、父親であるナリスさんや、元クローゼ子爵のオルトさん、オルトさんの息子であるアレンさんの三人を、自分の近くに引き寄せて、一緒に逃げていった。だから、今回、ナリスさんとアレンさんの肩に手を置いているのも、そのためだって思っていたんだけど、何だか様子が違うんだよ。
 青黒い魔術陣の光の中、ミランさんは、今にも転移してしまいそうなのに、ナリスさんとアレンさんは、全然、まったく、薄くなっていない。それどころか、身体をこわばらせたまま、ひどい苦悶の表情を浮かべているんだよ!
 
 わたしが気がついたのと同時に、すぐ近くにいた元クローゼ子爵のオルトさんが、焦った声で呼びかけた。
 
「待て、ミラン! ナリスもアレンも、様子がおかしい。転移魔術が上手く発動していないんじゃないのか!?」
 
 今は、薄っすらとした残像だけになったミランさんが、楽しそうに喉の奥で笑いながら、オルトさんに答えた。
 
「いえ? わたしは、魔術の才能に恵まれているようで、神霊術などよりも、よほど強い術が使えますからね。失敗などしませんよ」
「では、ナリスとアレンはどうした!? 苦しそうにしているではないか! わたしは、父上と共にこの国に残るが、ナリスとアレンは、おまえと共に行くことになっただろう!?」
「あの外国とつくにまで、三人で転移などできるもですか。わたしだけですよ」
「では、その手は何だ? なぜ、ナリスとアレンを離さない!?」
 
 ミランさんは、微かに残った残像の中で、酷薄に瞳を輝かせ、歌うように、あざけるように、こういった。
 
「わたしには、〈にえ〉が必要なのです。強い魔術を使えるほど、大きな魔術触媒しょくばいを隠し持つことは、囚われの身のわたしには、無理な相談だった。その代わりに、余分な魔力が要るなんて、当たり前の理屈でしょう? 血縁なら、魔力の質は似通っている。父上もアレンも、わたしのための〈贄〉なのですよ」
「ミラン、待て! 許さぬぞ!」
 
 慌てて席を立ったオルトさんが、ミランさんに手を伸ばしたときには、何もかもが遅かった。ミランさんの冷たい笑い声が響く中、誰にも止められないまま、青黒い魔術陣は、一際強い光を放ち、夢のように消えていったんだ……。
 
     ◆
 
 それから、いったい、どれくらいの時間が経ったんだろう。多分、一瞬のことだったはずなのに、すごく長い時間だったような気もする。〈時が止まる〉っていうのは、きっとこういう感覚なんだろうね。
 呆然としていたわたしたちが、正気に戻ったときには、〈神秤の間〉からただ一人、ミランさんの姿だけが消えていた。後に残ったのは、粉々に砕けた硝子がらすっぽいものの欠片かけらと、倒れた椅子。そして、魂が抜けたみたいに、床にうずくまった、ナリスさんとアレンさんだった。
 
 元クローゼ子爵のオルトさんは、被疑者席の椅子を押し退けて、アレンさんの側にいくと、膝をついて息子の顔をのぞき込んだ。オルトさんは、〈大丈夫か、アレン?〉って、いおうとしていたと思うんだけど、その言葉は、アレンさんの名前を呼びかけたところで、凍りついてしまった。
 オルトさんは、呆然と目を見張り、アレンさんの肩から手を離した。意識したわけじゃない。驚きとか恐怖とか衝撃とか、いろいろな感情に襲われて、思わず後ずさっちゃったんだって、わたしにもわかった。
 
 オルトさんの様子を目にしたマチェク様は、小さな金槌かなづちを振って、目の前の大机に打ちつけた。神前裁判の間中、何度も荘厳な鐘の音を響かせていた金槌は、今度は、鋭く短い音を立てた。がんがんがんって、まるで何かを追い立てるみたいに。
 マチェク様の金槌の音と共に、被疑者の席に向かったのは、ひっそりと控えていた何人かの神職さんたちだった。神職さんたちは、素早い動きで被疑者席に向かうと、無言で座り込んだままのオルトさんを引き離し、うずくまったままのナリスさんとアレンさんを、強引に引き起こした。
 
 ミランさんに取り残され、魔力を補充するための〈贄〉にされたらしい二人の顔が、傍聴席の人たちの前にさらされたとき、〈神秤の間〉は、男の人たちの怒号どごうと、女の人たちの悲鳴で騒然となった。ナリスさんとアレンさんは……もう、まったくの別人になっていたんだよ。
 
 わたしは、スイシャク様の雀たちと視界を共有していたから、捕縛される前の二人の姿を目にしている。壮年のナリスさんは、ものすごく傲慢そうだったけど、貴族らしく整った容姿をしていて、女の人に騒がれそうな大人の男の人だった。二十代のアレンさんも、長身でがっしりとしていて、いかにも騎士らしい美青年だったと思う。
 〈神秤の間〉に引き立てられてきた二人は、それぞれにやつれていて、一気に歳を取ったように見えた。わずかの時間で、人って変わるんだなって、わたしも暗い気持ちにさせられた。でも、いま、ミランさんに取り残された二人の変化は、そんなものじゃなかった。ナリスさんもアレンさんも、立つのもむずかしいほどの、お年寄りになっていたんだよ!
 
 ナリスさんの頭には、ほとんど髪の毛が残っていなくて、歯も抜け落ちているらしかった。大柄だった身体は、まるで一本の枯れ枝で、しわとしみに埋め尽くされた顔の中で、ぽっかりと見開かれた目は、すっかり白く濁っていた。
 性格の悪さが顔に出ていることを考えなければ、わりと凛々しい青年だったアレンさんは、ナリスさん以上のおじいちゃんになっていた。針金みたいにやせ細った手足は、今にも折れてしまいそうで、とても自分で立ち上がれるとは思えない。ぜえぜえぜえぜえ、ぜえぜえぜえせえ。アレンさんの苦し気な呼吸音だけが、静まり返った〈神秤の間〉で、不気味に響いていた。
 
 誰も、何も言葉にできない沈黙の中、平然と口を開いたのは、ルーラ王国の王太子殿下だった。〈これは、また〉。どこか楽しそうに、そうつぶやいた王太子殿下は、静かに言葉を続けた。
 
「これはまた、何とも劇的な成り行きであるな。壮年と青年の二人が、一瞬でおきなに変わるとは、まるで物語のようではないか。ミランとやらは、二人の魔力を〈贄〉にすると申していた。魔力を奪われると、人は歳を取るものなのか? 魔力の回復と共に、二人も若返るのか? 神前裁判の場ではあるものの、気になってしまうのは、無理のないところだろう。答をご存知だろうか、コンラッド猊下?」
「残念ながら、正確な答は存じませんよ、王太子殿下。文献などは読んでおりますので、単なる推測でよろしければ、お答えもできますけれど」
「どうぞ、猊下」 
「ご存知のように、すべての人は、身の内に魔力を持っております。ルーラ王国では、その魔力を御神霊に捧げることによって、印を持つ神霊術を使い、他国の人々は、魔術触媒となるものに魔力を流して、魔術を発動いたします。神霊術の場合、必要とされる魔力の量は、御神霊がお決めになられ、魔術の場合、魔術の難易度や魔術触媒の力に応じて、必要とされる魔力の量が異なります」
。続けられよ、猊下」 
「先ほどの魔術は、転移の魔術でありましょう。その後の逃走経路を考えれば、かなりの長距離を移動する魔術と考えられます。一方、長く捕縛されていた被疑者が、大きな魔術触媒を持っていたとは考えにくく、必然的に求められる魔力量は多くなります。残された二人の姿を見るに、身の内の魔力を、限界を超えて奪われたとしか思えませぬな。古い書物には、〈身の内に溜まりし魔力を消費し尽くせば、人は心身の苦痛を覚え、魔術を継続することはできない。それでも、限界を超えて魔力の消費を続けた場合は、自身の生命力を魔力に変換する結果となる〉と。そうなった場合、二度と元には戻れないとも、書かれていたと思います」
 
 淡々としたコンラッド猊下の言葉に、王太子殿下は、満足そうにうなずいただけだった。傍聴席のひとたちも、神職さんたちも、告発者席の人たちも、無言のままナリスさんとアレンさんを見つめている。元大公は、こんなときでさえ、暗い瞳を揺らせただけで、身動き一つしようとしない。ただ、オルトさんは……。
 オルトさんは、血を吐くみたいな声で絶叫した。一人で逃げ去ったミランさんの名前と、魔力を奪われておじいちゃんになっちゃった、アレンさんの名前を……。
 
 オルトさんの慟哭どうこくともいえる叫びに呑まれて、静まり返った〈神秤の間〉に、マチェク猊下の声が響いた。
 
如何いかなる事態となろうとも、尊き御神霊の御下知おげちなくして、神前裁判を取りやめることはできぬ。裁判を続けるゆえ、ナリス殿とアレン殿を別室へ。二人は、すでに証言のできる状態ではなかろうから、我が裁量にて、今回の被疑者からは一時的に除外するものとする。さあ」
 
 マチェク様が合図をすると、ナリスさんとアレンさんを取り囲んでいた神職さんたちが、そっと支えるようにして、二人を連れ出した。ナリスさんは、まったく一人では歩けなかったし、アレンさんに至っては、神職さんに抱き上げてもらわないと、立つことすらできなかったけど。
 二人が壇上から降ろされるのを確認してから、マチェク猊下が、床にうずくまったままのオルトさんに、静かに声をかけた。
 
「オルト殿」
「……」
「我が声が聞こえぬか、オルト殿?」
「……」
「非常なる事態となったゆえ、そなたの動揺も無理からぬことであろうが、先ほども申し述べた通り、神前裁判の中断は許されず、そなたにかけられた嫌疑も変わりはせぬ。そなたが、証言できぬのであれば、ナリス殿、アレン殿と同じく、被疑者の黙秘のままの〈神判しんぱん〉となろうが、よろしいか?」
「……」
「誰か、オルト殿を別室へ」
「……いえ」
「何か申されたか、オルト殿?」
「いえ、猊下。黙秘などしません。するものか」
「……真実を述べるといわれるのか? そなたにとっての事実を。あるいは、御神霊をあざむけるものかどうか、試してみられるのか?」
「真実か欺瞞ぎまんかはともかく、話したいことを、話したいように話しましょう。わたしには、もう失うものなどないのだから」
「よろしい。では、証言台に進まれよ、オルト殿」
 
 マチェク様の声に、オルトさんは、のろのろと立ち上がった。ミランさんが消えてからの、ほんのわずかの間に、目は落ちくぼみ、さらにやつれたように見えたけど、その暗い瞳だけは、炯々けいけいと輝いていた。
 
 スイシャク様とアマツ様から送られてきた、〈手負ておいのけものごとく也〉〈崩れゆく廃墟とも見ゆ〉っていうイメージを噛み締めながら、わたしは、なぜか無性に悲しくなったんだよ……。
 

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