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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 5-1

既刊『フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 黄金国の黄昏』を大幅リニューアルしたものを、投稿しております。
同じものを小説家になろうでも連載中です。

opsol bookオプソルブックより書籍化された作品に加筆修正を加えたリニューアル版で、改めての書籍化も決定しており、2022年春期刊行予定となっています!
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05 ハイムリヒ 運命は囁く|1 別れ

 王城を揺るがせた召喚魔術から十日程後、ゲーナによって既に魔術師団の職を解かれていたアントーシャは、深い紺色のジュストコールを羽織った姿で叡智えいちの塔を訪れていた。アントーシャにしては誠にめずらしい、ロジオン王国の貴族の正装である。
 ゲーナから正式に子爵位を譲られたアントーシャが、王城の敷地内に入ろうとするなら、一切の身分を問わない魔術師のローブか、謂わゆる貴族服を着るしかない。金糸銀糸きんしぎんしの刺繍や宝石の鈕を全て取り払ったこしらえに、上質な生地だけが贅沢な装いは、ゲーナの喪に服するアントーシャが耐えられる、限界値とも言えるものだった。

 アントーシャは、ず一等魔術師として自身が使っていた部屋に入り、全ての私物を一つにまとめ上げた。叡智の塔が所有する書籍や研究用の魔術触媒しょくばい等は、何度も丁寧に数え直し、目録と共に係の者に返却する。黒い御仕着おしきせ姿の従僕じゅうぼくを制し、自ら部屋を拭き清めたアントーシャは、そのまま叡智の塔の十三階に上ると、ゲーナの秘書官だった魔術師達に静かに声を掛けた。

「ゲーナ・テルミン魔術師団長の猶子ゆうし、アントーシャ・リヒテル子爵です。本日は、亡き父の執務室を整理する為に伺いました。入室の許可を頂けますか」

 常に親し気な微笑みを向けてきた秘書官達が、この日はアントーシャの視線を避けるかのごとく俯き、黙って深々と頭を下げた。その中から一人の秘書官が進み出て、アントーシャの前に立った。召喚魔術の行使が決まった日、ゲーナに呼び出されたアントーシャを、慇懃いんぎんに出迎えてくれた二等魔術師だった。

「宰相府から叡智えいちの塔へ、御連絡と御指示を頂いております。リヒテル子爵閣下が御出でになられたら、執務室に御案内せよとのおおせでございます。誠に失礼ながら、貴方様は既に叡智の塔を御辞めになられた方ですので、規則に沿って同席させて頂きます」
「分かりました。御気遣い頂いて、有難うございます、ロモノフ殿。父は、この度の結果を招くことも想定しておりましたので、既に粗方は片付けられております。ほとんど時間は掛かりませんし、どうぞ御同席頂いて結構ですよ」

 アントーシャと二等魔術師、ロモノフと呼ばれた年若い男は、他の秘書官達を伴ってゲーナの執務室だった部屋に入室した。二等魔術師が、驚いたように言う。

「これはまた、本当に綺麗さっぱりと整理されておりますね。魔術師団長閣下は、普段はそれなりに散らかされる方だったと思いましたが」

 一目で貴族家の者だと察せられる相貌そうぼうに、驚きの色を浮かべた二等魔術師に対し、曖昧な微笑を浮かべたままのアントーシャは、小さく頷いた。

「最初に会議室から始めましょうか。会議室には、もう何一つ父の物は残っておりません。元々、会議机と椅子くらいしかない部屋ではありましたけれど。魔術師団長の専用書庫に就いては、そちらで蔵書目録を御持ちですね」
「はい。用意してございます」

 そう言って、二等魔術師が後ろを振り返ると、長年に渡ってゲーナの秘書官を務めていた老齢の魔術師が、微かに震える手で冊子を取り出した。年齢に相応ふさわしいしわを刻みながら、常に溌剌はつらつとした様子でゲーナに付き従っていた魔術師である。ゲーナの死の衝撃が、魔術師に残された若々しさをぬぐい去ったようにも見え、アントーシャは思わず瞳を潤ませた。優しい労りを潜ませて、アントーシャが言う。

「結構です。有難うございます、カールさん。目録もそうですけれど、長い間、父の側に居て下さったことも。それでは、書庫の中身と目録を突き合わせて下さい。父が個人で揃えていた物は、既に屋敷に運んでおります。間違って叡智えいちの塔の書籍が紛れ込んでいる可能性も有りますので、確認を御願いしたいのです」
かしこまりました。御言葉、勿体のうございます、アントーシャ様。ぐに致しますので、しばし御待ち下さいませ」

 カールと呼ばれた秘書官は、アントーシャに丁寧に頭を下げて書庫に入っていった。その後ろ姿を見送ったアントーシャは、ゲーナが私室として使っていた部屋の扉を開けると、二等魔術師達を中に招き入れた。

「どうぞ御覧下さい。この私室に就いても、父の物は既に残っておりません。机の上に置かれているのは、叡智の塔の予算で購入された物品の目録だそうですので、御確認下さい。魔術師団長として、百年の余もこの部屋を使っておられた割には、購入目録に記載された品数が少ないので、こちらも然程の時間は掛からないと思いますよ。父上の気配は、今も残されている気がしますけれど」

 一瞬、アントーシャは目元を柔らげ、ゲーナの面影を探すように部屋を見回した。二等魔術師のミロン・ロモノフは、柔和な笑顔を浮かべたまま頷き、他の魔術師達はそっとアントーシャから目を逸らした。アントーシャは、それ以上は何も言わず、片手を差し伸べて魔術師達をうながすと、再びゲーナのものだった執務室へと戻った。

「さあ、この執務室で最後となります。父上の手配によって、既に引き出しの中まで空になっていますよ。執務机の上に並べられているのは、何人かの方々への手紙です。父からは、これまでの感謝と別れの御挨拶を綴った御礼状だと聞いております。御手数ですけれど、宛名の通りに御渡し下さいますか。父が使っていた私物は、事前に全て屋敷の方に運んでおりますので、叡智えいちの塔の備品の中に紛失している物がないかどうかだけ、皆さんで御確認頂けますか。父がまとめた目録も、執務机の上に置いております」

 淡々と告げるアントーシャの言葉に、直ぐに応える者はいなかった。暫くの後、それまで無言でアントーシャに付き従っていた壮年の秘書官が、悲哀ひあいに震える声で言った。

「ゲーナ様は、本当に御覚悟を持って召喚魔術の儀式に臨まれたのですね。何という、御見事な身の処し方をなさることか。ゲーナ様を犠牲にしてしまった我々には、その見事さが辛うございます。誠に、誠に申し訳ございません、アントーシャ様。私くし達は、貴方様の大切な御父君を御護り出来ませんでした。わたくしも、あの夜、儀式の間の片隅に居りましたのに。力なき身が、口惜しゅうございます」

 それまでは苦し気な表情で目を逸らしていた秘書役の一人、騎士にも見える立派な体格をした青年は、アントーシャの顔を見詰めて恐る恐るたずねた。

「ゲーナ様の御遺体は、もう埋葬されたのでしょうか。偉大な魔術師団長で在られたのに、とむらいの式典さえ行わないと、ゲーナ様が御遺言を残されたと聞いております。叡智の塔の魔術師には、そもそも弔いに参列する資格はないのかも知れませんが」

 アントーシャは、穏やかな笑顔を浮かべ、優しい瞳で二人を見詰め返した。ゲーナの秘書役として長くかたわらに在った壮年の魔術師や、若い情熱を傾けてゲーナに尽くしてくれた魔術師に、アントーシャは心をめて言った。

とむらいの式典を行わないというのは、生前からの父の強い希望でしたので、王都の貴族街の墓地に埋葬だけを致しました。ぐに分かる場所ですので、よろしかったら一度訪ねてあげて下さい。父は皆様が大好きでしたから、とても喜ぶだろうと思います。生前は父が御世話になり、本当に有難うございました。皆様方の御心は、ぼくもずっと忘れません。ぼくは明日、父が残してくれた領地に戻ります。これからは滅多めったに王都には来ないでしょうから、父の遺髪を持っていき、領地にも墓を建てる心算つもりでいます」

 二人の秘書官は黙って涙をぬぐい、深々とアントーシャに頭を下げてから、目録との突き合わせ作業の為に、その場を離れていった。後に残ったのは、アントーシャと最初に声を掛けた二等魔術師、ロモノフの名で呼ばれた青年の二人だけである。長椅子に腰掛けたアントーシャは、ロモノフにも席を勧めてから、さり気なく言った。

「ああ、忘れる所でした。目録にはないでしょうけれど、この執務室に仕掛けられている盗聴の魔術機器は叡智えいちの塔の備品ですから、そのままにしてありますよ」

 突然のアントーシャの言葉に、ロモノフは目を見開き、大きく身体を震わせた。しかし、次の瞬間には平静を取り戻し、困惑した表情でアントーシャに問い掛けた。
「これはまた、何を仰っているのか分かりませんね。よりにもよって魔術師団長閣下の執務室に、盗聴の魔術機器を仕掛けるなどという無礼を、叡智の塔の誰が致しましょう。何か勘違いをしておられるのではありませんか、アントーシャ様」

 ロモノフの応えに、アントーシャがわらった。叡智の塔に居たときのアントーシャが、一度たりとも見せなかった、冷たい軽蔑の嗤いだった。

「ロモノフ子爵家次男、ミロン・ロモノフ殿。貴方がダニエ・パーヴェルに命令されて、父が過去に作った魔術機器を盗み出したのでしょう。ダニエはそれを加工して、父の動向を探る為の盗聴用の魔術機器とし、秘書官の一人である貴方がこの部屋に仕掛けたのです。我が父が、の大魔術師ゲーナ・テルミンが、それに気付かないなどと本当に思っていたのですか、ロモノフ殿」

 咄嗟とっさに反論する言葉を失い、ロモノフは奥歯を噛み締めた。二等魔術師という高い地位にあり、ゲーナの秘書官の中では唯一の貴族らしい貴族であったロモノフは、アントーシャの言葉によってもたらされた衝撃に、喘ぎにも似た声を漏らした。

「知らない。私は何も知らない。ダニエ様にも、命令などされていない。誤解です。第一、仮にそうだとするなら、何故、とがめもせずに放置していたのですか。何故です」
勿論もちろん、情報を操作するからに決まっているではありませんか。相手を誘導する為の情報だけを流し、その反応を見ることで、逆に相手方の動向を知るのです。貴方は、父上がダニエ達の動きを見張る為に泳がされていた、父上の〈目〉だったのですよ」

 アントーシャは、唇を笑いの形に吊り上げた。澄んだ琥珀色の瞳が、冷たい怒りをたたえて輝いていなければ、穏やかな微笑みに見えたかも知れない。アントーシャから放たれる重々しい威圧に、ロモノフはたまらず顔を伏せた。

「父上は、ぼくに全てを与えて下さいました。深い愛情と知識だけではなく、爵位も領地も財産も何もかも。その中には、父上が使っていた〈目〉も含まれているので、貴方も今後はぼくの為に動いて下さいね」

 ロモノフは、弾かれたように顔を上げた。その表情は屈辱と怒り、不信と恐怖にいろどられ、今にも叫び出しそうだったが、実際には一言も言葉を発しなかった。ロモノフの額には、いつの間にか禍々まがまがしく赤い隷属れいぞくの魔術紋が浮かび上がり、数度瞬いて消えたのである。アントーシャは、冷たく言った。

ようやく気付きましたか。貴方の額には、ずっと以前から、父上の魔術紋が刻まれていたのですよ。ああ、大丈夫です。ぐに今日の出来事を忘れ、貴方は今まで通りに〈目〉の役割を果たしてくれますから。何も心配しないで下さいね、ミロン・ロモノフ殿」

 アントーシャの言葉は、魔術師としてのロモノフの誇りを、粉微塵こなみじんに打ち砕いたのだろう。顔面を蒼白にしたロモノフは、唇を戦慄わななかせながら必死に声を出した。

「嘘だ。この私が、何一つ気付かないまま隷属の魔術紋を刻まれているなど、嘘に決まっている。第一、自分が隷属を強いられている影響で、隷属や契約の魔術は使えなかったのではなかったのか、魔術師団長は」
「まさか。真の天才たる父上に、苦手な魔術などあるものですか。父上は、罪なき人の自由を奪う魔術が御嫌いだったから、王家に使用を強いられないよう、出来ない振りをしていただけです。本当は、得意中の得意なのですよ。それこそ、心からダニエに忠誠を誓っていた貴方を、本人さえ気付かないまま傀儡かいらいに出来るくらいにね。卑劣な裏切り者を縛る為なら、父上は術を躊躇ちゅうちょしたりはなさいませんよ」

 ロモノフは、絶望の表情を浮かべると、両手で顔を覆って身を縮めた。アントーシャは、そんなロモノフをさげすみの目で一瞥いちべつすると、無言のまま術を発動した。アントーシャの指先から生み出された、小さな金色の光球が、ロモノフの額に吸い込まれていく。次の瞬間、ゆっくりと顔を上げたロモノフは、今の一幕など忘れ果てた明るい顔で、再び人好きする微笑をたたえていたのである。

 目録との突き合わせを終えた秘書官達が、揃って執務室に戻ってきたとき、アントーシャとミロンは、穏やかに向き合っていた。アントーシャは椅子から立ち上がると、秘書官達に向かって会釈した。老齢の魔術師であるカールが、沈んだ声で言う。

「御待たせ致しました、アントーシャ様。全て確認をさせて頂きました。書籍の一冊、小物の一つも誤りなく、目録の通りにございました」
「それは良かった。では、ぼくはもう、叡智えいちの塔の魔術師ではありませんので、早々に失礼すると致しましょう。皆さん、生前の父への御厚情に、改めて御礼申し上げます。有難うございました」

 そう言って、アントーシャは再び深く頭を下げた。ゲーナの秘書官達は、未だ何かを言いたそうにしていたものの、アントーシャは丁寧に、しかし決然と別れを告げた。ゲーナの居ない叡智の塔は、アントーシャにとって、欠片の愛着も湧かない過去の墓標に過ぎなかったのである。


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