フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 4-13
04 アマーロ 悲しみは訪れる|13 手にしたものは
蹲って鮮血を吐き出すゲーナと、決死の形相で聖紫石を握り締めたダニエが、全力で魔力を振り絞ろうとしている最中、アントーシャの投げ入れた熱量体を掴んだ魔術陣は、儀式の間へと戻る為、正に次元の壁を超えようとしていた。深い苦悩を浮かべた表情で、魔術陣の動きを見定めていたアントーシャは、光線が次元の壁に触れようとした瞬間、己が創り出した熱量体の質量を、それまでの十倍に引き上げた。
急激に質量を増した熱量体に耐え切れず、ゲーナのものである銀色の魔力が大きく揺らいだ。紫の光線の描く軌道を追い切れず、銀の光線は次元の壁に弾かれて二度、三度と空転したのである。アントーシャの黄金の瞳には、限界を超えて枯渇し掛けたゲーナの魔力が、透明の壁に当たっては弾かれ、弾かれては当たりながら、必死に次元の壁を超えていく様子が鮮明に見えていた。
悲しみと絶望に喘ぎ、瞬きもせずにゲーナの魔力を凝視するアントーシャに、足下のシェールがおずおずと鳴き声を上げた。アントーシャは、一瞬も銀色の光線から目を離さないまま、優しく言った。
「心配してくれるのかい、シェール。お前は優しい子だね。大丈夫、これは父上とぼくとで考えた通りの展開なのだよ。召喚魔術を阻止するといっても、父上は隷属の魔術紋に縛られていて、全力で術を行使しなければならないし、中途半端な形で召喚魔術を失敗させると、今後も同じ試みを繰り返す可能性が有る。だから、千年に一人の天才、真の大魔術師たるゲーナ・テルミンの魔力量を以てしても、召喚対象を抱えたまま次元の壁は超えられないのだと、奴らに思い込ませなくてはならないのだ」
アントーシャの言葉に、シェールは一層細い声で鳴いた。母猫のベルーハは、思慮深い緑金の瞳で不安そうにアントーシャを見詰め、悪戯猫のコーフィでさえ、悲し気な瞳で主人の様子を伺った。アントーシャは悲し気に囁いた。
「そう、このやり方は父上に苦痛を強いるよ。ああ、ぼくが作った熱量体の重さで、父上は今、どんなに苦しんでおられるのだろう。堪らなく辛いよ。それでも、絶対に止めるわけにはいかない。他でもない父上が、そう決められたのだから」
アントーシャは、血が滲む程強く唇を噛み締めた。その心の揺れを表すかの如く、真実の間には激しく雷鳴が轟き、突風が吹き荒れた。三匹の猫達は、突然の変化に耐えようと、必死で床に爪を立てる。猫達が口々に鳴く声を聞いたアントーシャは、漸く我に返り、真実の間は再び静けさを取り戻した。アントーシャは、慌てて三匹の無事を確かめると、それぞれの小さな頭をそっと撫でた。
「大事はないかい。驚かせてしまって、本当に済まなかった。どうか許しておくれ。ちゃんと気持ちを整理した心算だったのに、いざというときに動揺してしまうのだから、弱い人間だな、ぼくは。大丈夫だよ。苦しいのは、ぼくではなく父上の方だ。ぼくは自分の責任を果たすよ」
アントーシャは、そう言って微笑んだ。もし目の前にゲーナがいれば、流石の大魔術師も誇りを捨て、最愛の息子と呼んだ者の為に固い決心を翻したのではないかと思わせる程、苦悩に満ちた哀切な笑顔だった。
やがて、大きく揺らぎ、速度を落としていたゲーナの魔力が、次の壁に差し掛かった。アントーシャは、更に強く唇を噛み締め、今度は熱量体の質量をもう五倍に引き上げた。銀色の光線は先程よりも一層苦し気に蛇行し、何度も壁に激突する。紫の光線も軌道を保てず、銀の光線と交差しながら壁の周りを回った。途中、何度も新しい魔力らしき光線が放たれてきたものの、次元の壁を超えるには余りにも弱々しく、到底ゲーナの魔力を補完することなど出来なかった。
「その程度の脆弱な魔力で、我が父上の助けになるものか。身の程知らずの愚か者共が、恥を知れ。二度と愚劣な召喚魔術を行おうなどと、誰にも思わせはしない。これから先の光景を、己が魂に刻み込むが良い」
何重にもなって放たれてくる微かな魔力の光線を、冷たく凍えた目で見詰めながら、アントーシャは言った。怒りに満ちた言葉は、それ自体が命を宿したかの如く煌めき、星となって果てしない夜空に吸い込まれていった。
様々な色の魔力が立ち上っては消えていく中、ゲーナの銀色の魔力は、遂に最後の次元の壁に到達した。その力は既に弱く、もう一度壁を突破出来るとは思えなかった。アントーシャが眉を顰め、次の手を打とうとした瞬間、儀式の間から新しい魔力が放たれた。ゲーナやアントーシャには遠く及ばないものの、膨大と言っていい量を持った深い緑の光線は、ダニエ・パーヴェルの魔力だった。
ダニエが支援に入ったことを知ったアントーシャは、迷いを捨て去るしかなかった。一気に物事を終わらせる為、熱量体の質量を一気にこれまでの十倍にまで引き上げ、銀と紫、緑の三色の魔力が次元の壁を超えようとした正にそのとき、熱量体に積み重なった質量の全てを、絡みついたままの術式に叩き付けたのである。
瞬間、まるで世界の崩壊を思わせる音を響かせながら、次元の壁諸共、召喚魔術の術式が砕け散った。人知を超えたアントーシャの法眼は、その一つ一つの欠片が行き着く先を、余さず見捉えていた。儀式の間の聖紫石は粉々になり、正四角形の床にも大きく深い亀裂が走る。そして、召喚魔術の破壊と同時に、百年以上に渡ってゲーナを縛り付けていた隷属の魔術紋も砕け散ったのである。
アントーシャは、目には見えない手を伸ばし、ゲーナの身体を離れて空中に霧散しようとする魔術紋の術式を掴み取ると、素早く契約対象を書き換えた。縛られる者は、ゲーナ・テルミンからヤキム・パーヴェルへ。縛り付ける者は、王家からゲーナへ。事前に決めていたわけでもなく、今更意味を持つとも思えなかったが、隷属の魔術紋がゲーナに与えた苦痛と屈辱を知るアントーシャは、そうせずには居られなかったのである。
召喚魔術の破壊と共に、アントーシャの作った熱量体は役割を終え、大気に解けて掻き消えた。アントーシャは、そちらを一瞥しただけで、直ぐに意識を切り替えた。アントーシャにとって何よりも大切なものが、星の夜空に浮かび上がってきたからである。
それは、美しい三色の光球だった。煌々と光り輝く銀色の光、微かに瞬く黄色の光、鋭利に澄み切った水色の光である。アントーシャが一心に見詰める内に、黄色の光は小さく収斂し、地上の何処かに流れて消えていった。アントーシャは、嗚咽を噛み殺し、じっと黄色の光を見詰め続けた。
次いで、銀色と水色の光球が消え去ろうとしたとき、静かに座っていたベルーハが、不意に鋭く鳴いた。アントーシャが一度も聞いたことのない、強く厳しい声だった。アントーシャは、驚愕に目を見開いた。
「ぼくを叱ってくれているのだね。ああ、そうか。そうなのか。ぼくは馬鹿だ。分かったよ、ベルーハ。本当に有難う。心から愛しているよ、我が眷属」
アントーシャは、間髪を入れずに魔力を飛ばし、今にも消えようとしていた二つの光球を掴み取った。それを大切に引き寄せながら、アントーシャは微笑んだ。涙に濡れた、しかし歓喜に輝く微笑みだった。