連載小説 神霊術少女チェルニ〈連載版〉 4-33
初めて目にしたご神秤、御名〈銀光〉様の神威に、〈神秤の間〉にきた人たちが、揃って頭を下げたあと、マチェク様の声が、さらに朗々と響き渡った。
「続いて、新たなる告発者に移ろう。第一の告発者でもある、カペラ家長女、アリアナ・カペラ殿」
「はい」
「証言台に進まれよ」
「畏まりましてございます、マチェク猊下」
マチェク様が呼んだのは、わたしの大好きなアリアナお姉ちゃんだった。お姉ちゃんは、鈴を振ったみたいに可憐な声で返事をすると、告発者の席から立ち上がり、マチェク様と貴賓席、傍聴席に向かって、深々と頭を下げた。
そのときのアリアナお姉ちゃんは、本当に物語に出てくるお姫様みたいだった。とてつもなく綺麗で、上品で、優雅で、清楚で……。そして、そんなありふれた言葉では、表現できない〈何か〉があった。
お姉ちゃんの周りだけ、きらきらと光が当たっているような、人の目を奪わずにはいられない、ものすごい吸引力。厳粛な〈神秤の間〉は、アリアナお姉ちゃんの登場によって、まるで物語の舞台になったかのようだった。
お姉ちゃんを見つめているうちに、わたしは、ようやく気がついた。真に美しい人っていうのは、顔の造作じゃないんだね。アリアナお姉ちゃんは、顔も姿も、例えようもなく綺麗に整っているけど、それだけだったら、ここまで人を惹きつけることも、美しさに感動させることもないと思うんだ。
神霊さんたちは、〈衣を通しても美しさが透けて見える〉っていう意味で、お姉ちゃんのことを〈衣通〉って呼んでいる。神霊さんたちの啓示は、正しく真実で、アリアナお姉ちゃんの類稀な美しさの秘密は、存在としての輝きにあるんだろう。
アリアナお姉ちゃんが、証言台に向かって歩いている間、〈神秤の間〉にいる人たちは、息を呑んで、お姉ちゃんだけを見つめていた。わたしが物心ついたときから、何度も何度も見ている光景だった。
わたしは……わたしは、こっそりと、貴賓席のレフ様に目を向けた。御簾が下りているから、レフ様は見えないんだってわかっていたのに、そうせずにはいられなかった。そう。わたしは、絶世の美少女で、物語のお姫様みたいに輝いている、アリアナお姉ちゃんを見て、レフ様がどんな顔をしているのか、気になって仕方がなかったんだよ。
わたしの知っているレフ様は、女の人の顔形を重視する人じゃない。わたしに求婚してくれたんだから、簡単にその気持ちを変えるような人でもない。頭ではわかっているのに、壇上のアリアナお姉ちゃんが、あまりにも美しいから。顔形だけじゃなく、魂まで光り輝いているから。レフ様だって、少しくらいは惹かれてしまうんじゃないかって、胸が痛かったんだ。
自分でも制御できないくらい、もやもやして、ひやひやして、むかむかする。わたしの大好きなアリアナお姉ちゃんなのに、今、このときだけは、お姉ちゃんを見たくなかった。正確には、レフ様が、アリアナお姉ちゃんに目を向けているだろうって、想像するだけでも嫌だった。何よりも、そんな馬鹿な自分が嫌だった。
十三歳から十四歳になって、レフ様を好きだって自覚して、求婚までしてもらって、わたしは、少しだけ大人になったと思う。この嫌な気持ち、もやもや、ひやひや、むかむかする心の動きが、嫉妬っていうものなんだって、わたしは、ちゃんと自覚している。
今までは、どんなにアリアナお姉ちゃんが綺麗でも、うらやましいとは思わなかった。アリアナお姉ちゃんと比べたら、わたしなんて、そこまで美少女じゃないって自覚しても、まったく平気だった。自分でも、容姿にこだわりのない少女だって、自画自賛していたけど、違うんだね。わたしは、幼くて、恋さえ知らなかっただけだったんだよ。
そのとき、わたしの頭の中に浮かんできたのは、おじいちゃんの校長先生の言葉だった。〈ロザリーの存在を、どうか覚えていてやっておくれ、サクラっ娘。人の世には、何千人、何万人のロザリーがおるのでな〉って。
もしも、もしも、レフ様が、アリアナお姉ちゃんを好きになったら、わたしもロザリーみたいになるのかな? 胸の奥に蛇を飼って、大好きなお姉ちゃんの存在さえ、うとましく思うようになるのかな? わたしの大嫌いなロザリーだって、苦しくて悲しくて、仕方なかっただけなのかな? もしかすると、わたしだって、何万人のロザリーの内の一人になる可能性が、あるのかもしれない……。
自分で自分が情けなくて、涙が浮かびそうになった瞬間、レフ様の姿を隠している御簾の一部が、少しだけ開かれた。細くて長い人差し指が、純白の御簾にかかって、ちょうどレフ様の目元をのぞかせてくれたんだ。
レフ様の視線は、アリアナお姉ちゃんには向いていなかった。離れたところからでもわかる、ご神鏡そのものみたいに、煌々と輝く瞳は、まっすぐにわたしを射抜いて……次の瞬間、優しく細められた。
わたしは、あっという間に真っ赤になった。レフ様と目が合ってうれしい。アリアナお姉ちゃんに嫉妬していたのが、とっても恥ずかしい。神前裁判の場だってことを、すっかり忘れちゃってたのが、ものすごく情けない。でも、レフ様に気づいてもらえて、目で微笑みかけてもらったのが、うれしくてうれしくて仕方なかった。
それと同時に、レフ様の視線を感じただけで頭が冷えた。わたしは、多分、どうかしていたんだと思う。すっと背筋を伸ばして、証言台に向かって歩いていくアリアナお姉ちゃんが、あまりにも現実離れして綺麗だったから、いつもは意識していない劣等感が、刺激されちゃったんだろう。後になって思い出したら、あまりの恥ずかしさに、絶叫して転げ回りたくなっちゃうかも。
真っ赤な顔になりながら、水飲み人形かっていうくらい、こくこく、こくこく頭を下げるわたしに、もっと優しい目を向けてくれたレフ様は、不意に眉をひそめ、証言台を見下ろした。
何があったのか、わたしにも、すぐにわかった。髪の毛が根本から逆立つような、ものすごい不快感と嫌悪感を感じて、慌てて周りを見回すと、証言台に立ったアリアナお姉ちゃんに向かって、何十本もの糸が、うねうねと延びていたんだ。
赤黒くて細い糸は、尖った刃物みたいに光を弾いていて、震えるくらい危険なものに見えた。腐った生ごみの色をした、ぶよぶよとした太い糸は、わたしのところまで悪臭が漂ってきそうだった。汚らしい泥の色をした糸は、ぽたぽたと雫を垂らし、鳥肌が立つほど気持ちが悪かった。濁った紫色の糸も、禍々しい墨色の糸も、けばけばしい黄色の糸も、すべてが穢らわしかった。
何十本もの糸は、神聖で荘厳な〈神秤の間〉の中を、うねうね、ぐねぐねと泳いでいく。糸の進む先には、アリアナお姉ちゃんがいるんだから、このままにはしておけないって、わたしが腰を浮かせるよりも早く、〈神秤の間〉に響き渡ったのは、鋭い金属音だった。
向かってくる糸を恐れることなく、傍聴席に向いて、毅然と胸を張るアリアナお姉ちゃんの頭上には、いつの間に顕現したのか、燦然と銀色の光を放つ巨大鋏、何度もお姉ちゃんを守ってくれている、ご神鋏の〈紫光〉様が、悠然と浮かんでいたんだよ。
アリアナお姉ちゃんに向かって延ばされる糸は、いつもは誰にも見えないみたいだった。わたしたち家族や、神職さんたちを別にすると、糸が延びていても、〈紫光〉様が浮かんでいても、誰も気にしていなかった。
でも、今、〈神秤の間〉に集まった人たちには、〈紫光〉様も、気味の悪い糸も、はっきりと見えているんだろう。ある人は、呆然と〈紫光〉様を見つめている。ある人は、自分の胸元から、穢れた糸が延びている情景に、細い悲鳴を上げている。ある人は、鳥肌が立ったのか、忙しなく自分の腕をさすっている。どの人も、一様に青ざめた顔をして、今にも叫び出しそうだった。
巨大なご神鋏の〈紫光〉様は、そんな人たちを威圧するみたいに、ゆっくりと二度、三度、空中で回転した。〈紫光〉様の輝きは、ますます強くなり、もう〈神秤の間〉をおおい尽くすばかりになっている。
〈紫光〉様が顕現したときから、ぴたりと静止していた何十本もの糸は、うねうねと震え始め、〈紫光〉様から離れたがっているようにも見えたけど、峻厳なる断罪のご神鋏が、それを許すはずがない。回転を止めた〈紫光〉様は、勢い良く刃を打ち鳴らし、糸へと向かっていった。
それは、時間にしたら、あっという間のことだったと思う。じゃきじゃきじゃきじゃき、じゃきじゃきじゃきじゃき。傍聴席の上を、縦横無尽に飛び回った〈紫光〉様は、何度か刃を鳴らしただけで、アリアナお姉ちゃんに向かっていた不気味な糸を、すべて截ち切っていったんだ。
切られた糸は、霧になって消えていった。呆然としたまま、誰も何もいえない空間の中で、マチェク様が堂々と宣言した。
「アリアナ・カペラ嬢は、〈神託の巫〉で在らせられる、チェルニ・カペラ様の姉君にして、尊き御神鋏の加護を受けし乙女。欲に穢れた思念など、届かぬものと知られませ。畏み畏み」
◆
アリアナお姉ちゃんに向かって延ばされた、思念の何十本もの糸と、それを截ち切ったご神鋏の存在に、〈神秤の間〉は大きな衝撃に包まれた。神霊さんと共にあり、神秘的な出来事に慣れているルーラ王国でも、神器の奇跡を目の当たりにする機会なんて、そうそうあるはずがないんだよ。
そして、傍聴席にいた人たちの多くは、自分の胸元から、穢らしい色をした糸が延びていき、〈紫光〉様に切られる瞬間を、はっきりと目にしている。いってみれば、自分の欲望を自覚させられたわけだから、そういう意味でも、動揺が大きかったんだろう。
傍聴席にいた人たちだって、悪気があったわけじゃないんだから、普通に考えたら、休憩の時間を入れたり、慰めの言葉をかけたりするものだと思うんだけど、神前裁判で裁判官の役目を担うマチェク様は、ものすごく厳しかった。ちょっと眉をしかめて、小さな金槌を取り出すと、力を込めて目の前の大机を叩いたんだ。
澄んだ音を立てて、何度も振るわれる金槌の勢いに、〈神秤の間〉のざわめきは、少しずつ落ち着いていった。マチェク様は、最後に一度、力強く金槌を打ち付けてから、傍聴席に向かって、こういった。
「静粛に。本日、この言葉を口にするのは、三度目になろうか。次に、騒ぎを起こした場合は、何人であろうとも、退出していただく故、そのつもりで。アリアナ・カペラ嬢」
「はい、猊下」
「お騒がせをして、恐縮でした。尊き御神鋏の守護、祝着に存ずる」
「ありがたき幸せにございます。わたくしの方こそ、お騒がせをして、誠に申し訳ございませんでした」
「何の。アリアナ嬢には、如何なる咎もなきことにござる。さて、早速、証言を始めていただきたいのだが、よろしいか?」
「御意にございます、猊下」
「まずは、ご自身の身上を述べられよ」
「畏まりました。わたくしの名は、アリアナ・カペラと申します。父はマルーク・カペラ、母はローズ・カペラ。身分は平民で、カペラ家の長女でございます」
「そのアリアナ嬢が、第一の告発者となった経緯を述べられよ」
「はい。わたくしは、先ほど証言台に立たれたフェルト・ハルキス様と、正式に婚約しておりますので、フェルト様とクローゼ子爵家との間に諍いがあることは、よく存じ上げておりました。また、婚約者の身として、フェルト様が心配でもございましたので、神霊術で見た目を変え、常にフェルト様のお側におりました。神霊庁に告発いたしましたのは、こうした事情から、大公騎士団の横暴を、目の当たりにしたからでございます」
「神霊庁への告発を決めたのは、いつ頃ですか?」
「問題が起こりましてすぐ、可能性は考慮しておりました。ルーラ王国の平民にとりまして、身分や権力に左右されない神霊庁は、最期の拠り所でございます」
前から思っていたけど、アリアナお姉ちゃんてば、本当に大物だよね。王太子殿下まで傍聴している神前裁判で、たった一人、証言台に立っているのに、まったく緊張しているように見えないんだから。まして、証言の直前には、穢れた思念の糸に向かってこられて、すごく怖かったはずなのに、みじんも動揺を感じさせないんだよ。
腕の中のスイシャク様と、肩の上のアマツ様からは、次々にイメージが送られてきた。〈其が姉たる《衣通》は、相も変わらず剛毅也〉〈神鋏の喜びたる〉〈彼の《衣通》の有り様なれば、他者の糸をも截ち切らん〉〈八つ目となるや、ならずや〉〈可愛ゆき雛の姉なれば〉〈《神威の覡》の導かん〉って。
さり気なく、重要なことをほのめかされたみたいで、二柱を問いつめたいのは山々だったけど、そうする間もなく、お姉ちゃんの証言は、どんどん進んでいった。クローゼ子爵たちが〈神去り〉になり、フェルトさんを養子にする必要があるって、教えられたこと。フェルトさんは、断固として断るつもりだったから、法理院に養子縁組の〈不受理申立て〉をしたりして、対抗手段を取ったこと。クローゼ子爵家の指示で、〈野ばら亭〉が放火されそうになったこと。フェルトさんを襲撃した犯人たちを、キュレルの街の守備隊に連行したら、元大公の騎士団がやってきて、剣を抜いて脅したこと……。
フェルトさんとアリアナお姉ちゃんは、ずっと一緒に行動していたんだから、さっきのフェルトさんの証言と、ほとんど同じ内容になったのは、当たり前だろう。お姉ちゃんの証言も、一切の迷いがなくて、すごくわかりやすかったよ。
マチェク様は、大きくうなずいてから、裁判官の席についている四人の神職さんに視線を投げた。神職さんたちは、どの人も軽く頭を下げるだけで、口を開こうとはしない。マチェク様は、微かに微笑んでから、お姉ちゃんにいった。
「長き証言、ご苦労でした、アリアナ嬢。証言の最後に、申し述べたきことがあれば、この機会にお話しあれ」
「ありがとうございます、猊下。お話しすべきことは、すべて申し上げましたが、お許しいただけるのでしたら、一つだけ、皆様にお目にかけたいものがございます」
「あの貴重な証拠……ですか、アリアナ嬢?」
「はい。左様でございます。神霊庁の皆様には、すでにお目にかけておりますが、お差し支えなければ、傍聴席の皆様にもと思いまして」
「よろしい。ご覧に入れられよ」
マチェク様は、アリアナお姉ちゃんに向かって、ちょっといたずらな感じで微笑みかけた。アリアナお姉ちゃんは、深々と頭を下げてから、優雅に傍聴席に向き直ると、灰色のドレスのポケットから、薔薇の縁飾りの手鏡を取り出した。お姉ちゃんが、神霊庁に告発したときにも、手にしていた手鏡だよ。
いつもおっとりとしているお姉ちゃんが、すごい勢いで印を切り、可憐な声で詠唱した。〈薔薇の鏡の神霊さん。わたしの魔力と引き換えに、先日のやり取りを見せてください〉って。
すると、お姉ちゃんが手に持っていた手鏡から、淡い光が溢れ出て、鏡面にたくさんの人影を映し出した。キュレルの守備隊の人たちや、たくさんの大公騎士団の人たち。鏡の中の人影は、あのときのやり取りを、正確に再現し始めたんだ。
小さな手鏡だから、そこに映る人の姿は小さくて、ほとんど見えなかったかもしれないけど、声は明瞭に響いていた。〈時が惜しい。退け。退かねば斬る!〉。そういって、被疑者の席にいる大公騎士団長が、剣を振り上げたところで、手鏡の映像が止まった。
〈神秤の間〉に集まった人たちは、水を打ったように静まり返り、当の大公騎士団の元団長は……両手で頭を覆って、椅子の上でうずくまっていた。我が姉ながら、こういうところは、本当に容赦しないんだよね、アリアナお姉ちゃんってば。
「畏み畏み、アリアナ嬢」
「恐れ入ります、猊下」
「では、これにて、アリアナ・カペラ嬢の、最初の証言を終了する。詠唱の儀は、先に終えておる故、略儀にて、世にも尊き御神秤、御名〈銀光〉様に言上仕る。アリアナ・カペラ嬢の証言について、天秤をお示しあれかし」
マチェク様の声に応えて、美しく輝いていた巨大なご神秤は、ますます神々しい光を放った。瞬く間に、どこからともなく色とりどりの光球が現れ、さっきと同じように、勢い良く〈神秤の間〉をあちらこちらを飛び回る。大きな光球もあれば、小さな光球もあり、濃く色づいた光球もあれば、淡い色の光球もあって、その数はどんどん増えていく。
一度、フェルトさんの〈神判〉が、終わったからだろうか。色とりどりの光球は、くるくるくると何回か旋回した後、今度は躊躇なく、ご神秤の秤皿に向かって飛んでいった。すべて、一つ残らず、左側の秤皿に。
大きな秤皿は、あっという間に、色とりどりの光球でいっぱいになった。かちかちかちかち、かちかちかちかち。すぐに不思議な機械音が響き、音が消えると同時に、山盛りになっていた光球も、幻のように消えていた。
〈神判〉っていう、マチェク様の声に応え、またしても微かに震えながら、左右の秤皿が、上へ下へと揺れ動く。まぶしい光を放ち、一気に傾いたのは、もちろん左側。フェルトさんのときと同じ、真実の〈神判〉だった。
「神霊庁が神使の一、クレメンス・ド・マチェクが宣言いたす。現世に神の奇跡をもたらし賜う御神秤、御名〈銀光〉様は、アリアナ・カペラ嬢の証言のすべてを、真実とお認めになられた。皆々、心得られませ」
マチェク様の朗々とした声が、〈神秤の間〉に響いた後、アリアナお姉ちゃんは、深々とお辞儀をしてから、告発者の席に戻っていった。可憐な美少女であるアリアナお姉ちゃんが、このときばかりは、まるで女王様のようだったよ……。