連載小説 神霊術少女チェルニ〈連載版〉 4-35
ご神秤の印を持つマチェク様の声は、〈神秤の間〉いっぱいに、朗々と響きわたった。荒々しいわけじゃないのに、罪のある人を鞭打つみたいな、重みと威厳のこもった声。名前を呼ばれた元大公騎士団長、今は一切の身分を凍結されているから、ただのバルナとしか呼ばれない人は、マチェク様の呼びかけに、応えることはなかった。
正確にいうと、アリアナお姉ちゃんの証言のあたりから、精神的に追いつめられちゃったんだろう。大きな身体を縮め、耳をふさぐような格好で、被疑者席の椅子の上にうずくまったままなんだ。その弱々しい様子に、そっと眉をひそめたマチェク様は、もう一度、元大公騎士団長を呼んだ。
「我が声が聞こえぬか、バルナ殿?」
「…………」
「先ほど、如何なる虚偽も、欺瞞も、詭弁も、尊き御神霊の知ろしめす真実の前には、徒労であると申したが、沈黙もまた意味をなさぬ。そなたの言葉に耳を傾けるのは、裁判官の任を負う我らと、傍聴に集った人々のみ。尊き御神霊は、そなたが声を出さずとも、構わず裁きを下されよう。それでも、そなたは沈黙を選ばれるのか、バルナ殿?」
「……いえ……いえ」
「証言を拒否せぬのなら、早々に立ち上がり、証言台に進まれよ。告発を受けたそなたらは、義務を果たさねばならぬ」
マチェク様の言葉に、元大公騎士団長のバルナさんは、覚悟を決めるしかなかったんだと思う。顔を伏せたまま、ゆらゆらと揺れながら立ち上がり、足を引きずるみたいにして、証言台へと歩いていったんだ。
バルナさんの姿に、〈神秤の間〉は、さっきまでとは違う意味で、重い沈黙に包まれた。普通の裁判だったら、被疑者側の人たちも、自分を弁護したり、事実をごまかしたり、何だったら嘘をついてでも、有利になるように立ち回ろうとするんだろうけど、今ここで行われているのは、神霊さんに裁いてもらう神前裁判だ。どんなに言葉を重ねても、真実かどうかなんて、すぐにわかっちゃうから、誰も、どうしても、逃れようがないんだよ。
鏡を通して見たときには、堂々とした騎士らしい体格で、ものすごく偉そうにしていた元大公騎士団長が、ずっと顔を伏せたまま、ふらふら、とぼとぼと進んでいく。一月も経っていないのに、すっかり痩せてしまって、まるで別の人だった。
そんな元大公騎士団長を目で追いながら、わたしは、怖いなって思った。元大公騎士団長は、元大公に命令されるまま、キュレルの街の守備隊で剣を抜いたし、邪魔になるフェルトさんたちを、斬り殺す可能性だってあった。つまり、文句なしの犯罪者なんだけど、その元大公騎士団長が、神前裁判に出廷しただけで、こんなに憔悴している。
神霊さんたちは、何もかも見ていて、絶対にごまかされたりはしてくれない。実際に罰を与えられるのかどうか、神霊さんの考えは、深過ぎてわからないけど、わたしたち人の子にとっては、真実をあぶり出されるっていう事実そのものが、とっても怖いことなのかもしれないね……。
証言台に立った元大公騎士団長は、両手で台にすがりついて、何とか姿勢を保っていた。元大公騎士団長に視線を送ったマチェク様は、合図の金槌で机を叩いてから、口を開いた。
「現在は身分を凍結されている故、名のみを繰り返す。元は大公騎士団長であったバルナ殿。そなたは、今回の告発において、被疑者の立場にある。その自覚は持っておられるか?」
「……はい」
「それは相槌なのか、肯定の返事なのか、どちらであろう?」
「肯定いたします、猊下」
「よろしい。そなたは、元大公であるアレクサンス殿の命により、キュレルの街の守備隊本部を襲撃し、フェルト・ハルキス殿を襲撃した犯人を連れ去ろうとした。また、フェルト殿ご自身も、同じく連れ去ろうとした。これに相違ないか?」
「……」
「黙秘いたすか、バルナ殿?」
「……いえ。今さら黙秘したところで、何も変わりはいたしませんでしょう。失うべきものは、もう失いました。わたしが知る限りのことは、すべてお話しいたします。こうなったら、人の裁きは仕方ない。せめて、神の裁きの軽からんことを」
「黙れ、バルナ! この愚か者! 父上のご恩を忘れ、罪をなすりつけるつもりか!」
元大公騎士団長の言葉にかぶせるように、鋭い声で怒鳴ったのは、元クローゼ子爵のオルトさんだった。自分だってやつれているのに、ずっと元大公を気にしていて、心配そうな視線を向けていたオルトさんは、被疑者席の椅子から立ち上がり、ものすごい憎しみを込めて、元大公騎士団長をにらみつけているんだ。
マチェク様は、さっきよりずっと力を入れて、二度三度、金槌で大机を叩いてから、オルトさんを厳しく見据えた。
「黙りなさい」
「しかし、猊下……」
「わたしは、黙れといったのだ。この神聖なる〈神秤の間〉に、沈黙も守れぬ輩は要らぬ。もう一言でも、わたしの許しなく口を開けば、直ちに退廷を命じる」
「……」
「是とするなら、うなずくが良い」
「……」
「よろしい。二度は許さぬ故、そのつもりで」
ものすごく悔しそうな顔で、唇を噛み締めたオルトさんは、しぶしぶっていう感じでうなずいた。オルトさんの胸から生えていた蛇は、レフ様の視線に焼かれて骨になっちゃったけど、今度は別の蛇を生やしそうなくらい、怒りに満ちた表情だった。
マチェク様は、オルトさんが椅子に座るのを確認してから、尋問を再開させた。元大公騎士団長に向かって、こういったんだ。
「では、被疑者であるバルナ殿に、改めて尋ねる。元大公騎士団長として、キュレルの街の守備隊本部に出向いた経緯を述べよ。命令された内容なども、詳細に」
「……はい。わたしは、大公殿下の騎士団において、騎士団長の職を拝命しておりました。あの日、わたしたちが、キュレルの街に向かいましたのは、大公殿下のお下知によって、出撃したからでございます」
「出撃命令は、アレクサンス殿から、直接あったのだろうか?」
「そうです。ただ、命令の具体的な内容は、殿下の執事であるドーラ殿から、改めて聞かされました。これは、いつものことでございます」
「アレクサンス殿の執事、ドーラ殿は、すでに拘束し、別途、尋問しておる。ここでは、バルナ殿の口から、命令の内容を話されよ」
「大公騎士団四十名を連れ、風の神霊術で先を急ぎ、キュレルの街の守備隊の本部を目指せ、と。守備隊には、大公家に害をなした賊が捕らえられているので、引き渡すように伝えよ。連れ出した者たちは、人目のないところで消せ。フェルトは、証人の名目で連行し、やはり消せ、と。大公騎士団の中には、炎の神霊術を使える者が複数おりますので、証拠隠滅のために、死体は燃やしてしまえといわれました」
元大公騎士団長の発言に、〈神秤の間〉を埋め尽くした人たちの間から、今度こそ抑えきれないざわめきが広がった。マチェク様から、何回も静粛にするようにいわれているけど、今回は仕方ないんじゃないかな。ルーラ王国の元大公が、堂々と証拠隠滅を指示したうえ、フェルトさんたちを〈消せ〉とか、〈燃やせ〉とか、命令したっていうんだから。
わたしたちは、当然、元大公の命令も知っていたし、今さら驚いたりはしない。しないけど、それでも、改めて証言されると、震えるくらい怖かった。元大公の命令も、それを平気で実行しようとする大公騎士団も、怖くて怖くて仕方なかった。
マチェク様は、小さな金槌を握ったまま、じっと沈黙していた。傍聴席の人たちが、衝撃を受け止められるまで、ちょっとだけ猶予を与えてくれたんだろう。少しずつ少しずつ、ざわめきが小さくなり、〈神秤の間〉に静けさが戻りかけたところで、マチェク様は、ゆっくりと金槌を打った。
「皆々、静粛に。只今のバルナ殿の証言について、質問を続ける故、静かに耳を傾けられよ。バルナ殿」
「……はい」
「重要な話である故、改めて問い質す。キュレルの守備隊に捕らえられていた不逞の者らと、フェルト殿を連行し、殺害するように指示をいたしたのは、元大公の執事であった、ドーラ殿であるな?」
「さようです」
「ドーラ殿の口から、直接聞かれたか?」
「はい」
「元大公からは、如何か?」
「直接的には、うかがっておりません」
「では、アレクサンス殿の意思を無視して、ドーラ殿が命令を下したという可能性があるのではないか?」
「ございません」
「何故?」
「わたくしは、守備隊への襲撃以前に、大公殿下からの直接のご指示で、類似するご命令を受けていたからです。フェルト殿を誘拐し、有無をいわさず殺害せよ、と」
◆
元大公騎士団長の言葉に、ざわめきは起きなかった。むしろ、傍聴席の誰もが息を呑んで、しんと静まり返った。元大公騎士団長で、男爵の位だって持っていたバルナさんが、自分自身の口から、元大公の犯罪を告白したんだから。
マチェク様は、追求の手をゆるめず、次々に質問を重ねて、元大公の罪を告白させていく。フェルトさんの誘拐と殺害を命じられて、自分の息子を派遣したこと。その息子から、フェルトさんの襲撃に失敗したって、報告を受けていたこと。元クローゼ子爵のオルトさんたちが、フェルトさんを〈始末〉してほしいって、元大公に頼んできたこと。元大公にとって都合の悪い人なら、殺してしまっても問題がないと思っていたこと……。
話せば話すだけ、元大公の残虐ぶりが明らかになり、元大公騎士団長の罪も暴かれていった。力の神霊さんの印を持っているフェルトさんは、ものすごく強い人だけど、一歩間違っていたら、本当に殺されていたかもしれないんだよ。
あまりにもひどい話に、ため息も出なくなった頃、ひと通りの証言を引き出したマチェク様は、冷たく険しい表情で、元大公騎士団長を見据えながらいった。
「もうよろしい。バルナ殿への尋問は、ひとまず終わりといたそう。尋問の最後に、申し述べたきことがあれば、話すが良い、バルナ殿」
「ございません、猊下。神前裁判に持ち込まれた時点で、我らの負けでございます。今はただ、消え去りたく存じます」
マチェク様は、無言のまま重々しくうなずき、金槌で大机を叩いた。今までの流れだと、ここで証言が真実かどうか、ご神秤に問いかける場面なんだけど、バルナさんの場合はまったく違っていた。
マチェク様は、金槌を着物の袂にしまうと、両手で複雑な印を切り始める。裁判官の席にいる四人の神職さんたちも、やっぱり真剣な顔をして、複雑な印を切っていく。そして、印を切り終えたマチェク様は、ご神秤に向かっていった。
「世にも尊き御神秤、御名〈銀光〉様に、畏み畏み物申す。これよりは、罪を問われし者共の尋問にござります。真偽を知ろしめす一の御神秤、正邪を知ろしめす二の御神秤、共に顕現あれかしと、希い奉る。バルナ殿の証言について、天秤をお示しあれかし」
マチェク様の言葉が終わると同時に、大机に載っている巨大なご神秤が、銀色と赤色の光を交互に放ちながら、小さく左右に揺らぎ始めた。ゆらゆらゆらゆら、ゆらゆらゆらゆら。不思議な光景に、傍聴席の人たちが見入っているうちに、小さく揺れているご神秤の姿が、二重写しになっていく。
ご神秤が揺れていたのは、わずかな時間だったと思う。気がつくと、一つだったはずのご神秤が、二つに増えていた。銀色に光るご神秤と、赤色に光るご神秤が、はっきり別々に存在しているんじゃなく、本当に二重写しのまま存在しているんだよ。
いったい何が起こったのか、首を傾げているうちに、〈神秤の間〉には次々と光球が現れていた。大小さまざまな光球は、告発者が証言したときよりも、もっとずっと数が多くて、〈神秤の間〉の広い空間を埋め尽くしそうなくらい。色とりどりの霊力の輝きは、美しい光の渦みたいだった。
〈神秤の間〉を自由に飛び回っていた光球は、やがて、ご神秤へと向かっていった。二重写しになったご神秤の前の方、大きな秤皿の左の方へ。それは、さっきまで〈神判〉を下していた、銀色の天秤だった。
大小、色とりどりの光球は、少しの迷いも見せず、見る見るうちに左側の秤皿に積み上がった。〈神秤の間〉の空中には、まだ半分くらい光球が残っているけど、動き出す気配はない。やがて、二度三度と震えたご神秤は、強い光を放ちながら、一気に左側に傾いたんだ。
マチェク様は、その光景を見ても、口を開こうとはしなかった。残った光球は、すぐに〈神秤の間〉を旋回し始めたから、〈神判〉は続くんだろう。気がつくと、いつの間にか天秤の位置が入れ替わり、二重写しの後ろ側になっていたはずの赤光の天秤が、前になっていたんだよ。
たくさんの光球は、勢い良く飛んでいき、今度は二つ目の天秤の右側の秤皿に積み上がっていく。色とりどりの光球が、一つ残らず秤皿に載った途端、巨大な天秤は、ふるふると震えてから、秤皿を傾けた。もちろん、右側に。
傍聴席の人たちが、息を殺して見つめる中、堂々とした威厳をまとって、マチェク様の声が響いていった。
「神霊庁が神使の一、クレメンス・ド・マチェクが宣言いたす。現世に神の奇跡をもたらし賜う御神秤、御名〈銀光〉様は、元大公騎士団長、バルナ殿の証言を、すべて真実とお認めになられた。また、〈銀光〉様の御姿の一つにして、正邪を測る御神秤、御名〈赤光〉様は、バルナ殿を罪ある者とお認めになられた。これこそが、御神秤の〈神判〉にござる」
〈神秤の間〉に集まった人たちは、半ば呆然として、世にも不思議な裁きに目を奪われていた。ご神秤に罪を突きつけられた大罪人、元大公騎士団長のバルナさんは……もう立っていることもできなくなったのか、砂が崩れるように座り込み、顔を上げることさえできずに、頭を抱えている。
バルナさんの大きな身体は、抑え切れない震えに揺れていて、苦しそうな息遣いが聞こえてくる。小さく小さくなるように、うずくまって身を縮めている姿からは、神霊さんたちへの恐れがにじみ出ているように見えた。敬意を込めて畏怖するんじゃなく、恐怖に慄く恐れ。優しくて親切な神霊さんたちが、罪ある人にとっては、恐怖の対象になっちゃうのかもしれないね……。
見えないところに待機していたらしい、立派な体格の神職さんが、引きずるようにして、バルナさんを被疑者の席に戻していく。わたしは、いつの間にか強張っていた身体から、何とか力を抜きながら、被疑者の席に目を向けた。
バルナさんだけでも、十四歳の少女が聞くには、重過ぎる証言だったのに、まだまだこれからなんだよね? ちょっとうんざりして、大きく息を吐いたとき、マチェク様が、新しい名前を呼んだ。〈元クローゼ子爵家、ミラン殿〉って。
「元クローゼ子爵家からは、四名が被疑者席に着いている。元クローゼ子爵、オルト殿。元クローゼ子爵家嫡男、アレン殿。元クローゼ子爵弟である元騎士爵、ナリス殿。元騎士爵嫡男、ミラン殿である。まずは、ミラン殿より尋問を始める故、証言台に進まれよ」
「……」
「ミラン殿。証言台に進まれよ」
「……」
「証言を拒まれるのか、ミラン殿? 尊き御神霊を前にして、沈黙は意味をなさぬ。そなたが証言を拒否するなら、黙秘のまま〈神判〉となるが、よろしいか?」
マチェク様の問いかけに、ミランさんは、返事をしようとしなかった。でも、さっきの元大公騎士団長みたいに、震えたりうずくまったりしているわけじゃない。どこか優雅さを感じさせる姿で椅子に座ったまま、横に座っているナリスさんと、斜め前に座っているアレンさんの肩に手をかけて、薄い笑いを浮かべているんだ。
はっきりとした根拠はないけど、ものすごく不気味で、ものすごく不穏な気配を感じる。傍聴席の人たちは、不穏な成り行きに、ざわざわとし始めたけど、ミランさん本人は、まったく気にしていないんだと思う。すごく整っているのに、すごく酷薄に見える唇が、微かに何かをつぶやいているみたいで……。
何かがおかしいと思ったときには、もう手遅れだったのかもしれない。ミランさんの足下から、青黒い光が漏れ始め、ミランさんとナリスさん、アレンさんの三人を包み込んだんだ。
ちょっとしか見えなかったけど、いつの間にかミランさんの足下に描かれていたのは、何回か見たことのある魔術陣だと思う。ミランさんってば、よりにもよって、この〈神秤の間〉で、魔術を使おうとしているんじゃないよね!?
「そなた、何をする? 神霊王国が中枢、神聖なる〈神秤の間〉で、悪しき魔術を使うつもりか? この慮外者めが!」
マチェク様の鋭い叱咤に、詠唱を終えたらしいミランさんは、薄く微笑みながら答えた。
「わたしには、わからないのですよ、マチェク猊下。答の決まっている裁きを続ける意味も、暑苦しい正義を押しつけられる理由も、人の世に神霊などという存在が介入してくる必然性も。わからないから、付き合う必要性も感じない。わたしと皆さんは、永遠の平行線なのでしょう。ですから……」
ミランさんは、薄い微笑みを大きく歪め、唇を吊り上げて、こういった。
「わたしは、わたしが自由に生きられる世界に行きましょう。名も、身分も、血族も、道理も、義理も、正義も、神霊も、わたしには必要がない」
〈おさらば〉。その一言を最後に、ミランさんの足下の魔術陣は、青黒い光を放ちながら、激しく明滅し始めた……。