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連載小説 神霊術少女チェルニ〈連載版〉 3-35

 王立学院の入学試験が行われてから、ちょうど二日。わたしが、ひたすらのんびりしている間に、受験生たちの点数と順位が確定したらしい。本当だったら、正式な合格発表の日まで、結果は極秘にされるところなんだけど、推薦による特待生であるわたしには、特別に教えてくれるんだって。
 真っ白なひげのおじいちゃん先生は、〈少しばかり、ご相談したいこともございますので〉って、言葉をにごしていたから、何か早めに結果を知らせる理由があるんだろう。
 
 筆記試験の手応えからいって、点数は良いと思う。皆んなが心配してくれた文字にしても、わたしなりに、とっても丁寧に書いたつもりだ。うっかり解答欄を間違えたりは……していないよね、きっと?
 わりと緊張しながら、試験結果をたずねたわたしに、真っ白なひげのおじいちゃん先生は、優しく笑いかけてくれた。
 
「大変に良く勉強をされていますね、チェルニ・カペラ様。素晴らしい出来栄えでした。今年度の王立学院入試の筆記試験において、ただ一人、満点でしたよ。正確に申しますと、小論文は満点以上の点数がついておりますけれど、便宜上、満点ということにしております。もちろん、首席での合格です。尊き皆様方のご推薦がなくても、これだけの結果を出せば、王立学院はチェルニ・カペラ様を、特待生としてお迎えしたことと存じます」
 
 やった! 満点だって! 自信はあったけど、万が一っていう可能性もないではないから、ちょっとだけ心配していたんだ。良かった、良かった!
 わたしが、大喜びで立ち上がると、大好きなアリアナお姉ちゃんが、すぐに抱きしめてくれた。〈すごいわ、チェルニ!〉って。お父さんとお母さんも、すっごく喜んでくれて、ミル様やヴェル様も、なぜか立ち上がって歓声を上げてくれている。
 スイシャク様はというと、ふっすすすっふっすすすって、大きな鼻息を吹いて胸を張り、アマツ様は、朱色の鱗粉を振りまきながら、部屋中を飛び回り始めた。真っ白なひげのおじいちゃん先生と、おじいちゃんぽい校長先生は、神霊さんのご分体が、いきなり顕現けんげんしたものだから、驚きに硬直しちゃってる。何というか、混沌とした空間になっちゃったけど、とにかく良かった!
 
 しばらくして、皆んなの興奮が収まり、先生たちが二柱ふたはしらに慣れてから、真っ白なひげのおじいちゃん先生……クラルメ先生が、改めて説明してくれた。
 
「王立学院の入学試験では、毎年、大変に難度の高い問題を出しています。そのため、六割ほど正解すれば、おおむね合格水準に達するのです。八割を超える受験生はまれであり、九割を超える生徒は、過去に数えるほどしかおりません。古くはコンラッド猊下やオルソン猊下、ここにいるユーゼフは、九割を超えた優等生でしたな。そして、全問を正解した受験生は、今回のチェルニ・カペラ様と、王国騎士団長閣下のお二人だけでございますよ」
「ネッ、ネイラ様も満点だったんですか?」
「はい。御方様おんかたさまには、お教えすることは何もございませんでした。もともと、コンラッド猊下がもり役についておられ、勉強もお教えしておられたのだとは思いますけれど」
「何の何の。レフ様には、最低限のことしかお教えしてはおりません。彼の方にとって、森羅万象しんらばんしょうたなごころのうちでございますれば、生まれついてより、あらゆる知識をお持ちでございました。まあ、情緒という意味では、無垢な赤子あかごではございましたが。ところで、クラルメ先生。チェルニちゃんの試験の結果をお教えになるためだけに、王立学院の名誉学院長が、わざわざお出でになったわけではございせんでしょう?」
「はい。本日は、現学院長に依頼され、チェルニ・カペラ様とご両親様に、お願いがあって参上致しました」
「何でしょう、名誉学院長閣下? わたくしどもにできることでしたら、ご協力をさせていただきます」
「ありがとうございます、カペラ殿。実は、チェルニ様の神霊術の公開実技についてなのですが、王立学院では、現在採点に苦慮しております。あの奇跡に点数をつけることなど、只人ただびとにできるはずがないのです。また、あの奇跡を神霊術と呼んで良いものかどうかも、意見が分かれておりまして……」
 
 ああ、うん。クラルメ先生の言い分は、わたしにもわかる。何らかの神霊術を行使するときに、霊力の欠片かけらである光球じゃなく、神霊さんのお姿で顕現けんげんするのが〈霊降たまおろし〉。この〈霊降〉だったら、間違いなく神霊術を行使したっていえると思う。
 ところが、わたしがやったのは、神霊さんが自由に降臨こうりんされる〈神降かみおろし〉だから、神霊術だと考えていいのかどうか、微妙なものがあるんだろう。そもそも、わたしが、意識して神霊術を使えたわけでもないしね。
 
 クラルメ先生の言葉に、ミル様とヴェル様は、すぐに大きくうなずいた。クラルメ先生とおじいちゃんの校長先生は、ミル様たちを怒らせるんじゃないかって、心配していたみたいだけど、全然、そんな素振りはなかった。神霊庁の神使様からしても、クラルメ先生の言葉は納得できるものだったんだろう。
 
「クラルメ先生のおっしゃることは、道理でしょうな。〈神降〉を成し遂げられるのは、げきがほとんどで、巫覡にあらざる者は、御神霊が必要だと思われたとき、稀に〈神降〉の器となるに過ぎません。まして、〈斎庭さにわ〉の奇跡ともなると、御神霊から〈そうしたものもある〉と教えられるのみにて、過去の巫覡はもちろん、数百年前に一度ご誕生になられた、過去の〈神託しんたくの巫〉でさえ、実現できなかったのですから……」
「猊下のおおせの通りでございますな。チェルニちゃんのされた奇跡を、神霊術として採点するなど、それこそ御神霊に対する不敬でございましょう」
「やはり、そなたもそう思うか、パヴェル?」
「もちろんでございます、猊下。王立学院の先生方がお気づきなき場合は、こちらから一言、申し上げるべきところでございましたな」
「ありがとうございます、コンラッド猊下、オルソン猊下。両猊下のお言葉に甘えて、チェルニ様とカペラ殿にお願い申します。今回のチェルニ様の公開実技は、採点不可につき、模範演技ということにさせていただけませんでしょうか?」
「なるほど。王立学院にも、思慮深い先生方がおられるようですな。いかがですか、チェルニちゃん? カペラ殿?」
「わたくしには、異論はございません、コンラッド猊下、名誉学院長閣下。可愛い娘が、できるだけ目立たないようにする……のは、もう無理でしょうが、わざわざ注目を集める必要もございませんでしょう。模範演技にすることによって、娘の入試結果が変わるわけでもありませんでしょう?」
「もちろんでございます、カペラ殿。チェルニ・カペラ様は満点の首席入学でございます。もともと、神霊術の実技は、筆記試験とは別枠でございますので」
「了解いたしました。どうだ、チェルニ?」
「いいですけど、一つ、条件があります」
「ほう。何でも仰ってくださいませ、チェルニ・カペラ様」
「その〈チェルニ・カペラ様〉っていう呼び方を、やめてもらっていいですか? 〈神託の巫〉に選ばれちゃったので、必要なときは我慢しますけど、普段までそれって、ちょっと気分が滅入っちゃうし、わたしは、先生方の教え子なので」
 
 わたしがいうと、クラルメ先生は、にっこりと微笑んだ。ミル様に似た感じの、穏やかで徳の高い笑顔。大神使のミル様は、威厳とか威圧感とかも備えているけど、クラルメ先生は、本当に温厚な教育者っていう感じだった。
 クラルメ先生は、横でずっと沈黙を守っていた、おじいちゃんの校長先生の方を見て、楽しそうにいった。
 
「そなたの話の通りのお嬢様ですね、ユーゼフ。素晴らしいことです」
「はい、クラルメ先生。チェルニ・カペラ様……わがキュレル町立学校の誇る英才であり、わたしたちの可愛い〈サクラっ娘〉なら、本心からそう考えているでしょう」
「ほうほう。では、わたくしも〈サクラっ娘〉とお呼びしてもよろしいですか、チェルニ・カペラ様?」
「……いえ、その呼び方をするのは、校長先生だけなので、もうちょっと普通が良いです。ミル様やヴェル様みたいに、〈チェルニちゃん〉でいかがでしょう? 呼び捨てとか、〈チェルニくん〉とかでも良いです」
「〈サクラっ娘〉はいけませんか。少し残念ですが、我慢いたしましょう。では、チェルニちゃんでお願いいたします。わたくしのことは、お好きにお呼びくださいませ。いっそ〈じい〉などは、いかがですか?」
「先生は先生なので、クラルメ先生でお願いします。校長先生も、校長先生って呼ばせてもらってますから」
「仕方がありませんね。では、完全に王立学院の職を離れましたら、〈爺〉でお願いいたします。ここにいるユーゼフが、王立学院に来てくれることになりましたので、そう遠い話ではないでしょうし。早ければ、チェルニちゃんの入学と同時に、わたくしもお役御免ごめんといきたいのですけれど……」
 
 ん? んん? クラルメ先生ってば、今、何ていったの? わたしの大好きな、おじいちゃんぽいけど、そこまでおじいちゃんじゃない校長先生。いろいろなことを教えてくれた、本物の恩師である校長先生が、王立学院に来るって、そういった?
 慌ててお父さんたちを見ると、わたしと同じように、びっくりした顔で校長先生を見ている。ミル様やヴェル様も、やっぱり知らなかったみたい。クラルメ先生の言葉は、のどかなカペラ家の午後に、ちょっとした混乱を運んできたんだ……。
 
     ◆
 
 クラルメ先生の発言に驚いて、目を見交わしているわたしたちの前で、おじいちゃんの校長先生は、何とも複雑そうな顔で、苦笑いをしていた。わたしは、慌てて聞いた。
 
「今、クラルメ先生が仰ったことって、本当なんですか、校長先生? 先生が王立学院に来るって、どういうことですか?」
「ああ、その、なんじゃ。この歳になって気が引けるんじゃが、わしも転職を考えておるんじゃよ、サクラっ娘。わしにとって、唯一の恩師とも呼ぶべきクラルメ先生に、お誘いいただいたのでな。思い切って、王立学院の教師になろうかと思っておるんじゃ」
 
 口の重い校長先生に代わって、クラルメ先生が詳しく説明してくれた。ネッ、ネイラ様に手紙で教えてもらっていた通り、うちの町立学校の校長先生は、実は王都の学会では有名な人だったこと。平民として唯一、首席で入学して首席で卒業したこと。王立学院で教師として働いていたこと。学者としても、すごい実績を残していたんだけど、そのことで逆にねたまれたり邪魔にされたりしたこと。クラルメ先生だけはかばってくれて、全力で頑張ったこと。でも、クラルメ先生にまで圧力がかかりそうになって、王立学院を飛び出したこと……。
 王立学院を退職した校長先生は、たくさんの本を書いて、もっと有名な学者になった。生活のために、キュレルの町立学校の先生もすることにしたんだけど、その仕事を紹介してくれたのも、やっぱりクラルメ先生だったんだって。
 
 話をしながら、クラルメ先生は、何回も悔しそうな顔になった。誰よりも優秀だった校長先生が、平民だからって馬鹿にされて、王立学院を追われたのが、本当につらかったんだろうなって、話を聞いているだけのわたしたちにも、よくわかる表情だった。
 
「当時のわたしは、一介いっかいの学年主任に過ぎず、ユーゼフを守ることができませんでした。わたくしの実家が、有力な貴族家であれば、また違ったのでしょうけれど……」
「とんでもないことです、クラルメ先生。先生が庇ってくださらなかったら、もっとひねくれて、学問の道も断念していたに違いありません。感謝あるのみでございます」
「そういってはくれますが、このユーゼフは、とてつもない頑固がんこ者なのです。わたくしが学院長となり、人事を差配できるようになってから、何度も呼び戻そうとしたのですが、一向に応じてはくれませんでした。わたくしは、ユーゼフのためではなく、王立学院の未来ある生徒のためにこそ、ユーゼフの教えを受けさせたかったのですが。キュレルの街の町立学校は、よほど居心地が良かったのでございましょう」
「はは。穏やかな良い街ですからな、キュレルは。生徒たちも、素直な良い子たちばかりでした。王立学院の生徒たちを見慣れた目には、いっそう清々しく感じたものです。特に、サクラっ娘が入学してからの八年間は、誠に楽しい日々でございました。毎日毎日、父上の手作りおやつを持って、校長室を訪ねてくれましたのでな」
「わたくしが、王立学院で苦労している間に、ずいぶんと恵まれた日々を送っていたようですね、ユーゼフ。まあ、今回こそは、わたしの招聘しょうへいを受け入れてくれるそうなので、良しといたしますけれど」
「はい! はい!」
「何かね、サクラっ娘?」
「校長先生は、王立学院の先生になるんですか? それって、これからも、校長先生に教えてもらえるっていうことですか?」
「そうしようかと思っておるよ。どうかね、サクラっ娘?」
「もちろん、すっごくうれしいです! でも、あの……」
 
 校長先生に聞きたいことがあるのに、なかなか言葉にできなくて、わたしは、思わず口ごもった。わたしってば、お世話になった校長先生に、自分が〈神託の巫〉なんだって、一回も話していないんだよ。わたしの大好きな、おじいちゃんぽい校長先生は、わたしが何者であっても、今までと同じように接してくれるって信じているけど、結果的に隠し事をしていたことが、気になっていたんだ……。
 どうやって謝ろうか、ぐるぐる考えていると、校長先生は、すっごく優しい顔になって、こういってくれた。
 
「どうした、サクラっ娘? ひょっとして、〈神託の巫〉であるといわなんだことを、気にしているのかね?」
「はい。すみません、校長先生。何となくいいにくくて。神霊術の公開実技の内容とか、あんなに相談に乗ってもらっていたのに……」
「良い良い。気にするでないよ。サクラっ娘が、どれほど尊いお役目を持っていたとしても、強い力を振るえたとしても、わしには可愛い教え子じゃからな。それよりも、本当に素晴らしい奇跡を体験させてもらって、寿命が伸びたようじゃよ。ありがとうな」
「……校長先生ってば、まだそんなにおじいちゃんじゃないじゃないですか。でも、良かった。本当は、ずっと気になっていたんです、わたし」
「ユーゼフは、チェルニちゃんに大きな力があることには、気づいていたのですよ。だからこそ、チェルニちゃんの近くで教え導くために、王立学院に復職する決意を固めてくれたのです。まあ、ただ単に、可愛い孫娘のような教え子と、離れるのが寂しかったのかもしれませんけれど」
 
 クラルメ先生の言葉に、校長先生は照れた顔をして、皆んなも温かい笑顔になった。わたしも、校長先生にずっと教えてもらえるんだと思うと、顔がゆるんで仕方なかった。校長先生は、本当に素晴らしい教育者だからね。町立学校の生徒たちには申し訳ないけど、本当にうれしかったんだ。
 誰も知り合いのいない王都で、一人で下宿してでも、王立学院で勉強しようって覚悟を決めていたのに、お父さんもお母さんもアリアナお姉ちゃんも、王都で一緒に住んでくれることになった。ミル様やヴェル様を始め、心強い知り合いもたくさんできた。そして、今度は大好きな校長先生まで! わたしの学院生活は、わりと薔薇色だよね? 
 
 それから、お父さんの発案で、わたしの首席をお祝いする食事会が開かれることになった。いきなりといえばいきなりだけど、カペラ家としては、いつもの流れだよね?
 クラルメ先生と校長先生は、すっごく恐縮していたけど、ミル様は大喜びしてくれた。ヴェル様から、ずっと自慢されていたから、お父さんのご飯を食べたかったんだって。ミル様は、神霊庁の大神使様だから、神霊さんへの供物である〈神饌しんせん〉を口にする機会も多いけど、うちのお父さんの料理は、本当に特別なんだって。
 
 この夜、お父さんが作ってくれたのは、肌寒い秋の夜にぴったりのご馳走だった。皮目をぱりぱりに焼き上げ、きのこのクリームソースを合わせた鶏肉のソテー。小さくて可愛い形に丸めた、さつまいもとパセリのコロッケ。うっとりするほど脂の乗った、秋鮭のハーブ焼き。クリームソースのかぼちゃのニョッキと、チーズソースのじゃがいものニョッキ。いちじくとセロリとかぶと自家製生ハムのサラダ。緑の葉物野菜のサラダは、甘酸っぱい木の実のドレッシングで。爽やかなライムの酸味が隠し味の、淡い金色に輝く魚介のスープ。薔薇色をした子羊のローストは、ハニーマスタードソースとマデラソースの二種類。そして、この日の焼き立てパンは、定番の田舎パンと、バジルと黒胡椒入りのパン、ドライトマトとチーズのパン、バターたっぷりのクロワッサン……。
 クラルメ先生と校長先生は、神霊さんと食卓を囲むことに驚愕していたものの、二柱が神威を抑えてくれたから、すぐに馴染んでくれた。皆んな、おいしいおいしいって、本当にたくさん食べてくれた。デザートは、めずらしい柿のプディングで、ほのかな甘さが大好評だったし、とっても楽しい食事会だったんだ。
 
 すっかり夜になって、お腹もいっぱいになって、皆んなが帰る時間になって、わたしたちは、玄関までお見送りに出た。カペラ家も王都に住むんだから、これからは定期的に食事会をしましょうって、楽しいご挨拶をしている間……ヴェル様は、ずっと悪戯な笑顔を浮かべていた。
 
「今日は、本当にありがとうございました。しばらく振りにカペラ殿のお料理をいただいて、寿命が伸びた思いでございます。奥方もアリアナ嬢も、ありがとうございました。誠に楽しい夜でした。そして、チェルニちゃん。明日は、よろしくお願いいたしますね?」
「ん? わたし、何か頼まれていましたか、ヴェル様?」
「ふふふ。忘れた振りというよりは、考えないようにしているのでしょうか? 空を見てください、チェルニちゃん」
 
 ヴェル様が指差した夜空には、星々の光を消し去るほどの明るさで、見たこともないくらい大きくて美しい、鏡のような月が輝いていた。でも、その大きな月は、ほんの少しだけ端が欠けていて……。
 
「明日の夜は、王立学院の入試から三日後、まったき満月の輝く夜でございます。レフ様からお使者が参られましょうから、よろしくお願いいたしますね、チェルニちゃん。レフ様は、それはそれは楽しみにしておられますよ?」
 
 わたしは……わたしは、何もいえなくて、がちんと硬直したまま、呆然と月を見上げていた。どこかで、お母さんの声がして、〈ダーリン、しっかりして!〉〈許可しちゃったんだから、仕方ないじゃない〉〈ああ、わたしがいるんだから、泣かないで、ダーリン〉とかいってる気がするけど、それもはっきりとはしない。
 そう、ずっと、必死で考えないようにしていたけど、明日の夜には、魂魄とはいえ、ネッ、ネイラ様に会うんだよ、わたし!?
 
 そこからの記憶は、わりと曖昧あいまいだった。はっきりと覚えているのは、なぜか潤んだ瞳で、お父さんがじっと見つめてきたことと、お母さんとアリアナお姉ちゃんに優しく抱きしめられたこと。お風呂に入って、ひたすら丁寧に髪を洗ったこと……。
 
 あんまり眠れないまま迎えた翌日は、もちろん、ものすごく緊張していた。一日中そわそわと落ち着かなくて、気を抜くと震えそうになって、うたた寝をしては飛び起きた。日が暮れる頃には、家中を意味もなく歩き回って、お母さんとお姉ちゃんに生暖かい目で見られたりもした。自分でも変だって思ったけど、どうしようもなかった。だって、わたしは、ネッ、ネイラ様のことが、すっ、好きなんだから。
 スイシャク様とアマツ様は、〈我は知る。れを《青春》とぞ言う也〉〈可愛ゆきこと〉〈彼の御方おんかた如何いかに〉〈落ち着きのなき様子にて、めずらしきこと天変地異てんぺんちいごとし〉〈面白きこと也〉って、いつも通りに上機嫌だったけどね。
 
 わたしの大好きなお父さんは、深刻そうな顔をして、何度もわたしに話しかけようとしては、黙って溜息をついていた。でも、何とか晩ご飯を食べて、ゆっくりお風呂に入って、いよいよ寝ようかっていうときになって、赤い目をしたお父さんが、階段の下で待っていて、わたしにいってくれたんだ。〈おやすみ、チェルニ。これから、ネイラ様に会えるんだろう? 良かったな〉って。 
 お父さんの優しい顔を見ているうちに、なぜだか鼻の奥がつんとして、ちょっとだけ泣いちゃったよ、わたし。チェルニ・カペラ十四歳は、多感な思春期の少女なのだ。
 
 心臓が壊れそうなくらいどきどきして、また寝られそうにないと思ったのに、寝台に潜り込んだ途端、わたしは、あっさりと深い眠りに落ちた。そして、真夜中になった頃、不意に目を覚ましたんだ。どこからともなく、例えようもないくらい美しい音色が、微かに聞こえてきたから。
 こういう音を、きっと〈妙音みょうおん〉っていうんだなって、感心した瞬間、わたし、チェルニ・カペラの意識は、ふわりと身体から起き上がった。わたしが、一生忘れることのないだろう、月の銀橋でのひとときは、こうして始まったんだ……。