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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 3-6

03 リトゥス 儀式は止められず|6 決断

 その夜、五歳ばかりの幼子は、高熱にうなされていた。柔らかな金色が辺りを満たす豪華な寝室の一角、大人でも持て余す程に巨大な寝台の上で、その子は荒い息を吐きながら、赤い顔で背を丸めている。医薬の手は尽くされており、傍らには医師が常に付き添っていたものの、幼子が望んでいるものは与えられていなかった。

「陛下の御成りでございます」

 密やかな声と共に、何人もの人が動き出す気配を感じ、幼子は必死になって薄眼を開けた。すると、滑らかで冷たい手が、そっと幼子の頬を包み込んだ。

「可愛いトーチカ。具合はどうだい」

 全ての者を平伏させるだけの力を持った声が、優しく幼子に呼び掛けた。生まれると同時に母を亡くした幼子を、トーチカという愛称で呼んでくれる人など、この世に一人しかいない。幼子は、力のない腕を伸ばして、その声にすがり付こうとした。声の主は、幼子の気持ちを察してくれたのだろう。小さな手を握り締め、柔らかな声で囁いた。

「余はここに居るよ。今宵は夜通し、こうしてそなたの手を握っていよう。安心してゆっくりと御休み、トーチカ」
「何を仰るのですか、陛下。アイラト殿下の御風邪が、陛下にまで移ってしまうかも知れません。殿下の御様子は、医師が付き添って診させて頂きますので、どうかボーフ宮に御戻り下さいませ。尊き御身は、何者にも代えられは致しません」
「良いではないか、タラス。余の可愛いトーチカが、これ程までに寂しがっているのだ。他の王子王女と違い、この子には甘えられる母が居ない。そうであれば、父である余が、病んでいるときくらい側にいてやろうではないか」

 アイラトの求める声の主が、別の誰かと密やかに話している。どこか遠い所から聞こえてくるような言葉に、幼子は自分がアイラトという名であり、声の主がロジオン王国の至尊の主たる父王ちちおうであることを思い出した。母を亡くし、後見すべき祖父も亡くしたアイラトを、広大な王城の中でただ一人、父王だけが気に掛けてくれるのである。自分が望んでいたものが、父の優しい手であると気付いたアイラトは、そっと満足の吐息を吐いた。

「そばにいて、おとうさま」
勿論もちろんだとも、可愛いトーチカ」

 甘えてすがり付くアイラトに目を細め、喉の奥で柔らかく笑いながら、エリク王は小さな王子に言った。威厳よりも優しさをにじませた父王の囁きに、深く安堵したアイラトは、ようやく安穏とした眠りに落ちていったのだった。

 また別の夜、十歳ばかりに成長したアイラトは、きらびやかな宮殿の片隅で、一人膝を抱えて座り込んでいた。夕刻から浮き足だった気配を漂わせていた王城では、夜も更けたというのに、彼方此方あちこち煌々こうこうと篝火が焚かれ、何度も祝砲らしき音が響いている。アイラトの暮らすアルヒデーヤ宮でも、見知らぬ女官達が現れては消え、消えては現れて、ざわめきに拍車を掛けていた。
 常の女官達であれば、アイラトの姿が見えないだけで青褪あおざめ、必死に少年の姿を探しただろう。しかし、この夜に限って、アイラトを呼ぶ声はいつまでも聞こえず、母のいない幼い王子は、女官達の意地悪気な囁きを耳にしたのである。

「王妃陛下が遂に王子殿下を御出産になられて、陛下はさぞや御喜びでしょうね。待ちに待っておられた、正嫡せいちゃくの王子殿下ですもの」
「王太子位は、これで決まりではないの。母君は正妃エリザベタ陛下で、祖父君はグリンカ公爵閣下だもの。今のロジオン王国に、敵対出来る勢力などないでしょう。だとすると、アイラト殿下はどうなるのかしら」
「母君が産褥で亡くなられたのはともかく、ぐに祖父君が亡くなられたのが、致命的だったわね。跡を御継ぎになられたスヴォーロフ侯爵閣下は、まだやっと御成人なさったばかりですもの。有名な英才でいらっしゃるから、いずれは宰相にもなられるでしょうけど、本当の意味でアイラト殿下の後見が務まるのは、少なく見積もっても十年は先でしょう」
「でも、陛下はアイラト殿下を御寵愛ちょうあいよ。頻繁にこの宮殿まで御出まし遊ばして、アイラト殿下に御会いになられているじゃない」
「母君を亡くされた殿下を、哀れに思っておられるのでしょう。でも、今度御誕生になられたのは、正嫡の王子殿下ですもの」
「御産まれになったばかりなのに、まるで絵画の中の赤子のように、御可愛らしい王子殿下なのですって。陛下はとても御喜びになって、御手に抱き上げられたそうよ。陛下の御寵愛も、この先はアリスタリス殿下が独占なさるのでしょうね」

 直ぐにでも立ち上がり、不敬な会話を漏らす女官達を叱責しっせきしようと思いながら、アイラトは立ち上がることさえ出来なかった。せめて耳を塞ぎ、悪意に満ちた言葉を聞かなければ良かったのかも知れないが、か細い腕を上げる力さえ出てこない。見覚えのない女官達が、腐った花の甘さを含んだ声で吐き出す言葉が、アイラトを深く絡め取ったのである。

 大ロジオンの王子として産まれ、自分だけの為に整えられた豪奢ごうしゃな宮殿に暮らし、多くの人々にかしずかれ、何一つ不自由のない日々を過ごしながら、アイラトの心にはぬぐがた寂寥せきりょうが巣食っていた。この世でただ一人、父王ちちおうの傍にいる瞬間だけ、跡形もなく消えていく寂しさである。その父王が、自分を見捨てるというのなら、アイラトはどう生きていけば良いのだろうか。正嫡の王子の誕生を祝う二十一発の祝砲が、アルヒデーヤ宮までも揺るがせる中、アイラトはいつまでも暗闇に座り続けていたのだった。

 このときの見知らぬ女官達が、王妃エリザベタの息の掛かった者達であり、わざと政敵となる王子の耳に毒を吹き込んだのだと、アイラトは何年もしてから気付いた。しかし、幼く柔らかな心に打ち込まれたくさびは、その後も長くアイラトを蝕んだ。以来、アイラトの寂寥は消え去らず、父王を前にしてさえ、わずかにして確固たる隔たりを生んだのである。

「殿下。只今、ボーフ宮より御返事を頂戴致しました。陛下が早速、ボーフ宮にて御会い下さるとのことでございます。御用意を遊ばされませ」

 不意に掛けられた呼び声に、アイラトの意識が緩りと覚醒した。五歳の幼な子ではなく、十歳の少年でもない、二十八歳に成長したアイラトは、正妃マリベルとの婚姻と同時にたまわったドロフェイ宮の最奥、己が正妃にさえ立ち入りを許さない私室で、長椅子に沈み込んでいたのである。父であるエリク王への面会を求め、その返事を待つ間に、幼い頃の記憶に揺蕩たゆたっていたのだと、アイラトはようやく思い出した。

「ああ。いつの間にか、少し眠ってしまったらしい。昔の夢を見たよ。懐かしくも暖かな夢と、記憶から消してしまいたい程に苦しい夢を。だが、ぐに起きなければならないな。御忙しい陛下が、御時間を取ってくださったのだから」
「御顔の色が悪うございます。御気分が優れないのではございませんか、殿下。何か御飲み物を御持ち致しましょうか」

 心配そうな表情で問い掛けるのは、アイラトの家令かれいを務めるゼーニャ・カルヒナ子爵である。王子の家令ともなると、伯爵以上の家柄の者が務めるのが慣例であり、子爵位に過ぎないゼーニャは、有力な臣下とは言えなかった。リーリヤ宮の女官達であれば、ゼーニャの任命そのものが、アイラトの立場の弱さを物語っているのだとわらっただろう。

 しかし、穏やかで優しく、高潔な人格者であると同時に、権力への関心が極めて薄いゼーニャは、エリク王が直々に命じて選び抜いた家令だった。寂しい境遇の王子が何を必要としていたのか、エリク王やタラスはく理解していたのである。老齢を迎えた家令から注がれる、常に変わらない慈愛のこもった眼差まなざしを受け止め、アイラトは静かに言った。

「大丈夫だ。少し夢見が悪かっただけだから、心配には及ばないよ。それよりも、そなたに詫びねばならないことがある。長く仕えてくれたのに、私はそなたの忠誠に応えられなくなった。今日を以て、私は王子ではなくなると思うのだ」

 余りにも唐突なアイラトの言葉に、ゼーニャは目を大きく見開き、思わず身を震わせたものの、それ以上は取り乱さなかった。数瞬の沈黙の後、大きく息を吐いたゼーニャは、落ち着いた口調でたずねた。

「昨日、殿下が内密に御教え下さいました、マリベル妃殿下の件でございますね。おそれ多くも、大ロジオンの太陽で在られる陛下の御名を、愚劣なはかりごとで貶めたという」
「然り。一晩考えてみたものの、私の気持ちは微塵みじんも変わらなかった。余事なら知らず、陛下の尊き御名に泥を塗る陰謀だけは、断じて許すわけにはいかない。たとえ全てを失う結果になったとしても、陛下を虚仮こけにした女をそのままには出来ない。我が正妃を名乗らせるなど、私の誇りが許さない。増して、父を貶める裏切り者だと、私まで陛下に疑われるくらいなら、死んでしまった方が良い。私は、今から陛下に御会いして、マリベルの罪を告発して来るよ」
「左様でございますか。それでは、わたくしも御供致しましょう」
「止めないのか、ゼーニャ」
「何の故を以て、殿下を御止め致しましょう。私くしもロジオン王国の忠実なる臣下でございますれば、陛下への侮辱など、絶対に許すことは出来ません。御立派な御判断でございますよ、殿下。殿下がどのような御身の上になられましても、私くしは御側におります。いざともなれば、私くしの領地に蟄居ちっきょして、二人で畑でも耕せばよろしゅうございます」

 本気で語られるゼーニャの冗談に、アイラトは会心の笑みを向けた。最もエリク王に似た容貌だと評されるアイラトが、常に浮かべている艶やかな笑みとは違う、屈託のない穏やかな笑顔だった。

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