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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 5-8

05 ハイムリヒ 運命は囁く|8 再会

 オローネツ城の領主執務室では、オローネツ辺境伯と家令かれいのイヴァーノが、落ち着かない面持ちで書類に向かい合っていた。その日だけでも何度目になるのか分からない溜息を吐きながら、オローネツ辺境伯は眉間を指先で揉んだ。

「それにしても、アントンは何を考えているのだろう。あの子なら、瞬時に何処どこへでも転移出来るというのに、王都からオローネツ城まで、十日以上も掛けて馬で訪ねて来るなどと。やはり、何か理由が有るのであろうな」

 オローネツ辺境伯が口にしたのは、アントーシャからの手紙で、馬に乗って旅をしてくるのだと知らされて以来、何度も繰り返された問いである。怜悧れいりおもてかげらせたイヴァーノは、遠慮もなく眉をひそめながら、オローネツ辺境伯に答えた。

「この三日の間に、十回は同じ御質問を為さいましたよ、閣下。アントーシャ様は、御気持ちの整理をする時間を必要とされているのでしょう。もっと甘えて下されば、とは思いますが、我らが知るアントーシャ様は、御自分の感情をいたずらに人にぶつけるような真似を為さる御方ではございませんからな。当家を御訪ね下さるということは、少しは御元気になられた証拠でごさいましょう」
「然もあろうな。ゲーナ様が、凄絶な御最期を遂げられたのだ。私達でさえ苦しくてならぬのに、アントンがどれ程に辛い思いをしているのか、考えるだけで心が痛む。自分の足で旅をしている間に、わずかでも前向きになってくれていたら良いのだが」

 オローネツ辺境伯とイヴァーノが、互いに暗い顔を見合わせ、またしても重い溜息を吐いたときである。慌ただしく扉が叩かれ、一人の騎士が執務室に駆け込んできた。瞳を輝かせた騎士は、オローネツ辺境伯やイヴァーノは勿論もちろん、領主執務室に居る全ての者が待ち続けていた知らせを、主人の下へ運んできたのだった。

「失礼致します、閣下。正門前に詰めて居ります門番より、急ぎの報告がございました。アントーシャ様の御迎えに行っておられたルーガ様が、たった今、御戻りになられたそうでございます。アントーシャ様も御一緒でございます」

 途端とたんに表情を明るくしたオローネツ辺境伯は、勢い良く椅子から立ち上がると、雄々しい声で伝令の騎士に言った。

「おお、そうか。それは良かった。アントンは無事なのであろうな。様子は如何いかがであった。ぐに、アントンを連れて来ておくれ」
「アントーシャ様にかれましては、御健やかな御様子と御見受けしたそうでございます。既にオローネツ城内に御入城になられ、執務室を目指しで移動しておられますので、間もなく御到着に為られるものと存じます」
「その言葉を聞いて、私も安心したよ。報告、大義であった。さあ、ようやくアントンが到着したぞ、イヴァーノ。きっと空腹であろうから、あの子に食事の用意をしてやっておくれ。それから、部屋と風呂を。あの子にはめずらしく、自分で馬に乗って長旅をしてきたのだ。さぞかし疲れているに違いない。頼んだぞ、イヴァーノ」
「もう三日前から、全て滞りなく御用意しております、閣下。御座りになり、少し落ち着かれては如何でございましょうか。音に聞こえた地方領の英傑、威風並ぶ者なしと謳われるオローネツ辺境伯爵閣下ともあろう御方が、外出前の幼児のようでございますよ」
「何を言う。イヴァーノこそ、もう早目が潤んでおるではないか。峻厳しゅんげんなること氷雪のごときイヴァーノが、如何した。人が涙脆くなるのは、歳を取った証拠であるな」

 オローネツ辺境伯とイヴァーノが、そうしていささか大人気ない言い争いをしている内に、ルーガに先導されたアントーシャが執務室に姿を現した。恐縮した顔のアントーシャが、心配を掛けた詫びの言葉を言おうとした途端、オローネツ辺境伯は一言も口を利く間を与えずに走り寄り、アントーシャを強く抱き締めた。

「アントン、く来てくれた。待っていたよ。私もイヴァーノも、オローネツ城の皆も、そなたを待っていたのだよ。ああ、可哀想に。どんなにか辛かったろう」

 オローネツ辺境伯の声は、微かに震えて濡れていた。アントーシャは、口を開きかけたまま驚きに硬直し、やがて静かに涙をこぼした。オローネツ辺境伯は、何がゲーナの死の契機となったのかを察し、だからこそアントーシャを深く案じているのだろう。力強い腕から伝わる思いりに、アントーシャは必死に嗚咽おえつを押し殺したのだった。
 アントーシャとオローネツ辺境伯は、無言で固く抱き締め合い、オローネツ城の領主執務室に、しめやなか追悼の涙が広がっていく。そんな中、場の空気を変えるように口を開いたのは、誰よりも赤い目をしたイヴァーノだった。

「さあ、閣下もアントーシャ様も、ずは御座り下さいませ。アントーシャ様は、長旅をして来られたのです。さぞかし御疲れでございましょうから、休憩に致しましょう。まさか、ぐに御帰りになるなどとは仰らないでしょうな、アントーシャ様。今度こそは、ゆっくり御滞在になって下さらないと、オローネツ城の皆が収まりませんよ」

 アントーシャの肩を抱いたまま離さず、椅子へと連れていきながら、オローネツ辺境伯もイヴァーノに同調した。

「そうだとも、アントン。今回こそ簡単には帰さないよ。最後にゲーナ様に御目に掛かったとき、そなたを猶子ゆうしに迎えたと御聞きしているのだ。リヒテル姓のままゲーナ様の御猶子となったのならば、私の猶子にもなっておくれ。養子とは違い、猶子は必ずしも相続を前提とせぬ制度である故、貴族家の当主であっても縁組に支障は有るまい。いっそのこと、領地に帰らず、このままオローネツ城に住めば良い。そう思うであろう、イヴァーノ」
「余りに性急な御話の運び方に、流石さすがわたくしも驚きましたよ、閣下。とは言え、御猶子に御成り頂くのも、オローネツ城に御住み頂くのも、大賛成でございますな。既に、アントーシャ様の御部屋の御用意も整っております。来賓用の客間ではなく、閣下御自身の御部屋にも近い御子息様用の区画でございます」
「結構。いつもながら、イヴァーノに抜かりはないな。どうだい、アントン。そなたなら、テルミン子爵領との行き来も自由なのだから、住まいはオローネツ城にすれば良いのではないか。元々は王都で暮らしていたのだから、支障は有るまい。皆もそう思うであろう」

 オローネツ辺境伯が執務室を見回すと、アントーシャの供を務てきたルーガも、護衛騎士のルペラも、オローネツ城の文官や護衛騎士達も、揃って大きく頷いた。涙をぬぐったアントーシャは、嬉しそうに頬を緩め、猶子の話には触れないまま言った。

「有難うございます、閣下、イヴァーノさん。ぼくをいたわって下さる御気持ちは、本当に有難く思います。今回は、御言葉に甘えさせて下さい。大事な御相談も有りますので、ぼく達をしばらくオローネツ城に滞在させて頂けると助かります」
「良いとも、良いとも。本当にずっとオローネツ城に居ると良いのだよ、アントン。そなたが居てくれれば、皆とても喜ぶよ。ぼく達ということは、供の者を連れているのかね」
「はい。青毛の馬とこの子達を」

 そう言って、アントーシャは、護衛騎士の一人が持ってきた籠を指し示した。気を利かせ護衛騎士が籠を開けると、中から三匹の猫が顔を出し、挨拶とばかりに揃って甘える声で鳴く。動物好きのオローネツ辺境伯は、途端とたんに顔をほころばせた。

「これは愛らしい猫達だ。勿論もちろん、おまえ達も大歓迎だよ。我が城の料理長は有能な男である故、おまえ達の喜ぶ食事を作ってくれるだろう。しかし、アントン。そなたは猫を三匹も連れて、王都から旅をしてきたのかい」
「それどころか、アントーシャ様はこの猫達を籠にも入れず、オローネツの領民達と仲良く談笑しながら、一般用の通用門に並んでおられましたよ。馬のくらの上に二匹、御自身の肩の上に一匹乗せて。猫達も猫達で、馬や人混みを怖がる様子も見せず、済ました顔で我々を眺めているのですからな。面白いやら不思議やら、閣下とイヴァーノ様が御待ちでなければ、その場で色々と問い詰めたい所でしたよ」

 楽しそうに言ったのは、寛いだ様子のルーガである。ルーガは通用門での情景を思い浮かべたのか、くぐもった笑い声を漏らした。オローネツ辺境伯は、思いの外大らかなアントーシャの表情に安堵し、明るく笑った。

「相変わらず愉快な子だな、アントン。そなたの言動には、いつも意表を突かれるよ。それにしても、猫達はく迷子にならなかったものだな。王都からの旅の間、籠にも入れずに連れてこられる猫など居らぬだろうに。やはり、そなたの魔術なのかい」
おおせの通りです、閣下。この子達は、特別な契約によって、ぼくの眷属けんぞくとなっています。既に魔術的な繋がりが出来ていますので、人の話す言葉もほぼ完璧に理解していますよ。それに、麗しい白猫のベルーハの御陰で、ぼくは父上を完全には失わずに済んだのです」

 瞬間、オローネツ城の領主執務室は、重い沈黙に包まれた。改めて口には出さなくとも、ゲーナ・テルミンの壮絶な死は、執務室に居る誰もが知っているのである。アントーシャの言葉の意味を計り兼ね、オローネツ辺境伯が、戸惑いがちにたずねた。

「そなたが父上というのは、当然、ゲーナ様だろう。失わずに済んだとは一体どういう意味なのか、聞いての良いのかい、アントン」

 まるで夢を見ているかのごとく、とらえ所のない微笑みを浮かべていたアントーシャは、表情を真剣なものに改めると、部屋にいる者達に向かって丁寧に頭を下げた。

「この話は、落ち着いてからゆっくりと御伝えする心算つもりでした。魔術師でない方々に理解して頂くには、長い説明が必要でしょうから。けれど、閣下や皆様方が、ぼくの為に御心を痛めて下さっていると分かりましたので、かなり長くなりますけれど、この場で御話しさせて頂きます。閣下、皆さん。我が最愛の父、ゲーナ・テルミンは、かねてからの計画の通り、召喚魔術の失敗によって亡くなりました。直接的に死の契機となったのは、ぼくが行使した魔術であり、どれ程嘆こうとも事実は変えられません」

 アントーシャは、敢えて淡々と言った。ゲーナ自身の口から宣告され、召喚魔術の後にはアントーシャの手紙で知らされ、イヴァーノが王都に放っている〈目〉や〈耳〉からも情報を得てはいても、アントーシャ自身の言葉には、想像を超えた悲哀ひあいにじんでいる。執務室に集まった者達は、思わずアントーシャから視線を逸らさずには居られなかった。

「何も仰らなくても、父を悼み、ぼくを案じて下さる皆さんの御気持ちが伝わってきます。叡智えいちの塔から消え失せてしまった、これが真実の思いりなのでしょうね。けれども、御心配には及びません。白猫のベルーハの指摘によって、我が父上の魂と魔力は、一端ここに繋ぎ止められたのです」

 そう言って、アントーシャは、そっと手を差し出した。掌に大切に乗せていたのは、銀色に光り輝く小さな鍵だった。純銀よりも白銀よりも輝かしく、いっそ神々しい程の光をまとって、鍵はアントーシャの下に在った。オローネツ辺境伯は、鍵を凝視ぎょうししたまま尋ねた。

「これは何の鍵なのだい、アントン。ゲーナ様の魂と魔力を繋ぎ止めるとは、一体どういう意味なのか、私達に教えてくれるのかね」
勿論もちろんです、閣下。鍵の形はしていますけれど、この世の何かを開ける鍵ではありません。これは、父上の魔力が結晶化したものなのです。父上が、ぼくを王家の干渉から護るために、ぼくの能力の一部を封印して下さっていたことは、閣下やイヴァーノさんも御存知だと思います。その為に、父上は二十年以上も膨大な魔力を使い続けて下さった。その結果、封印を解く為にぼくに渡された暗号まで、こうして魔力結晶の形に成ったのです」

 魔術師為らざる物達にとって、アントーシャの説明は難解なものだったが、ただ一人、多くの知識に精通し、魔術への造詣ぞうけいも深いイヴァーノだけは、大きく頷いた。

「封印や術式を保護する為に、魔術師が術式の核となる部分を暗号化するという話を、聞いた記憶がございます。アントーシャ様は、その暗号を鍵と表現しておられるのですね。どの暗号も鍵の形になるのですか」
「イヴァーノさんは本当に博識でいらっしゃる。仰る通り、魔術師の多くは、暗号を鍵という言葉で表現しますけれど、それは便宜上使っている比喩に過ぎません。暗号である鍵は、形而上けいじじょう的な鍵であって物質的な鍵ではなく、暗号を解除したら後には何も残りません。長い魔術の歴史の中でも、暗号としての鍵が物質化した例はなく、我が父上だけが成し得た奇跡なのです。この鍵には、それ程までに膨大な魔力がめられているのでしょう」

 オローネツ辺境伯は、アントーシャが持つ鍵に深い眼差まなざしを注いでいた。魔術のことわりは理解していなくとも、英傑と呼ばれる男は、人の心というものを知っている。オローネツ辺境伯は、涙を含んだ声でこう言った。

「そうではない。そうではないよ、アントン。魔力の量でなどあるものか。本当は、そなたにもく分かっているのだろう。ゲーナ様がそなたを愛する御気持ちが、それ程までに深く強かったということなのだよ」
「はい、閣下。ぼくもそう思います。物質ならざるものが物質化し、術が解けた後も残り続けるのは、父上の愛情の故です。父上の大いなる愛は、生涯に亘ってぼくを温め、生まれてきた意味を与えて下さるでしょう」

 流れる涙をぬぐいもせず、アントーシャは静かに微笑んだ。掌の鍵を見詰め、一度ゆっくりと瞬きをしてから、アントーシャは説明を続けた。

「召喚魔術を行使する直前、ぼくは父上から鍵を継承し、自分の封印を解きました。そして、父上と約束していた通り、この手で召喚魔術の術式を破壊して、父上を死に至らしめました。父上は、ぼくが叩き付けた術を受けて亡くなったのです。先程も申し上げましたが、どう言葉を飾ろうとも事実は変わらず、ぼくは終生それを背負って生きていくでしょう」

 ゲーナとアントーシャが交わした約束に就いて、ゲーナの口から聞かされていた二人、オローネツ辺境伯とイヴァーノは、内心の激情に重く蓋をして、沈黙のままアントーシャを見守った。ルーガ達もまた、口を閉ざして耳を傾けた。オローネツ城の領主執務室の中を、アントーシャの湿った声が吹き抜けていく。

「父上が亡くなった瞬間、ぼくは次元の狭間ともいうべき場所に在って、父上の魂魄こなぱくが理の中に溶けてゆくのを見送ろうとしていました。覚悟をしていたはずだったのに、ぼくがこの手で父上を殺してしまったのだと見せ付けられて、死にたい程に苦しかった。そのとき、ベルーハがぼくを叱ってくれたのです。泣くよりも先に、父上の魂と魔力を追い掛けろ、と」

 アントーシャは、そっと目を閉じた。脳裏に浮かび上がるのは、あの日、真実の間で確かに起こった、この世ならぬ出来事だった。