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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 2-4

02 カルカンド 状況は加速する|4 苦悩

 
 ヴィリア大宮殿の賢者の間にいて、召喚魔術の可否を判断するという名目で行われた、心を削るばかりの会議を終えて、ゲーナは叡智えいちの塔の執務室に帰り着いた。ゲーナを待っていたのは、憂い顔のアントーシャだった。アントーシャは、秘書役の魔術師達に席を外させ、落ち着かない気持ちを抑えて、只一人、ゲーナの首尾を案じていたのである。

「御帰りなさい、大叔父上。御疲れ様でした」

 暗い表情で賢者の間を出てきた筈のゲーナは、アントーシャに脱いだばかりのローブを渡し、人の悪い顔で笑った。

「疲れるには疲れた。会議の内容は愚劣ぐれつであるし、終始、猫を被っておったからな。しかし、首尾は上々だよ、アントン」

 一瞬、湧き上がる激情に耐えるかの如く、アントーシャはゲーナのローブを強く握り締めた。橙色にも近い程に深い黄色をしたローブは、王族以外の禁色である紅金色に近く、ゲーナだけが着ることを許された特別なものである。魔術師団長の権威の象徴ともいえるローブを、感情のまま皺にするわけにはいかず、アントーシャは溜息と共に微かに震える指から力を抜き、丁寧に衣桁いこうに掛けた。
 アントーシャの心の内を知りながら、敢えて微笑みを浮かべたゲーナは、幼子に掛けるような優しい声で言った。

「そのように深刻な顔をせず、こちらに来て御座り、アントン。ロジオン王国でも指折りの高位貴族と王族、そして我ら魔術師の理を踏み外そうとする裏切者が、揃って踊っていた不毛な会議の結果、全てはこちらの想定の通り運んだのだよ」

 ゲーナに手招きされるまま、アントーシャは向かい側の長椅子に腰掛けた。必死に平静を装おうと、無理に浮かべたアントーシャの微笑みの痛々しさに、ゲーナは胸を突かれたものの、表情には出さないままに口を開いた。

「今日の会議は、中々に興味深かったよ。召喚魔術の行使などという愚劣な策を、一体誰が推し進めてきたのか、大体の構図は見えてきたからな。予想という意味では、当初から分かっていたことではあったが、呆れる程にその予想の通りだった」
「主犯格となったのは、やはりダニエ・パーヴェルでしたか。魔術のことわりを知っているはずであり、知っていなければならない叡智えいちの塔の魔術師。それも、歴史上最も偉大な魔術師であるゲーナ・テルミン師に次ぐ地位に在る、次席魔術師ともあろう者が、何という愚かな真似をするのでしょう。ぼくには、ダニエの気持ちが欠片も分かりませんよ、大叔父上」

 まるで幼い子供のように、無意識に唇をとがらしたアントーシャの表情に、ゲーナは思わず笑みを深めた。召喚魔術を巡る心労に晒されるまで、アントーシャを前にしたゲーナが能く浮かべていた、明るく柔らかな微笑みだった。

「そうだろうとも、アントン。おまえには、決してダニエの心は分からない。大空を飛ぶ鷹が、溝の中をい回る鼠の気持ちなど分かるものか。ダニエは、私を貶め、私を越えたいのだろうさ。ダニエ・パーヴェルは、前魔術師団長たるヤキム・パーヴェルの孫であり、魔術師として極めて高い自尊心を持っている。実際、魔力にも才能にも恵まれている。だからこそ、魔術師として私に敵わないことが、我慢ならないのだろう」
「ですが、大叔父上に敵わないのは、当然ではありませんか。ゲーナ・テルミンを超える魔術師など、有史以来一人もおらず、今後も決して現れはしません。大叔父上こそは、至高の魔術師にして、魔術を志す全ての者にとって、夜空の星にも等しい方なのですから。ダニエが大叔父上を妬むなど、犬が月に吠えるようなものです。ぼくは、犬は大好きですから、この例えは嫌ですけれど」

 アントーシャが用意していた果実水で喉を潤しながら、ゲーナは含み笑った。表情には出さなくても、自らをたのむ者の多い叡智の塔の魔術師達は、ゲーナの圧倒的な力を羨みつつ崇拝すうはいし、敬愛しつつ憎んでいる。目の前のアントーシャの如く、わずかな葛藤もなくゲーナの存在を受け入れることの出来る魔術師は、ほとんど存在しなかったのである。アントーシャの無邪気さに、ゲーナは笑いながら言った。

「おまえがそう言ってくれるのは、おまえこそが偉大な魔術師だからだよ、アントン。おまえが生まれてくるまで、強大な魔術師であると自惚れていた私が、嫉妬する気持ちにさえならない程にな。月に吠える犬であっても、次元を超え、界を隔てた天空に輝く太陽には、吠える気にすらならない。只、崇拝すうはい眼差まなざしを向けるだけだろうさ。しかし、今はその話ではなく、賢者の間での会議のことだったな」

 ゲーナは、勢い良く果実水を飲み干して、緩りと口元を吊り上げた。アントーシャには、悪戯いたずらな笑みに見える表情は、ゲーナを嫌いつつ恐れる者からすれば、悪辣あくらつな策士の顔であり、物語の魔王の如く不吉な微笑だったろう。

「賢者の間に集まったのは、六人だった。クレメンテ公爵、パーヴェル伯爵、ダニエ、アイラト王子、アリスタリス王子。そして、ロジオン王国が誇る宰相にして、〈智の巨人〉と呼ぶに足る天才、エメリヤン・スヴォーロフ侯爵だ。分かりやすいといえば、誠に分かりやすい。アイラト王子を王太子に推す勢力と、一人監視に訪れたアリスタリス王子という構図だろう。あのスヴォーロフ侯爵が、そうした単純な謀略を仕掛けるとは思えないのが、不思議ではあるが」

 ロジオン王国の王位継承は、正嫡せいちゃくの王子が優先されることはなく、同時に生まれた順に決められるとも限らない。絶対的な法として決められているのは、男子にのみ王位継承権があるという一点であり、議会が承認した正妃、側妃の産んだ王子であれば、等しく継承権が与えられるのである。

 また、すべての者が魔力を持つ世界では、生まれつきの魔力量が大きく寿命を左右する。史上最高の魔術師と呼ばれるゲーナは、百四十歳の年齢を重ね未だに壮健であり、魔力量の多い高位貴族ともなれば、百歳を超える者も少なくない。ロジオン王国の王位継承が、生まれた順に拘らないのも、こうした寿命の問題が大きかった。
 現在の国王で在るエリク王は、王族の中でも魔力量が多く、壮年を迎えて尚、衰える気配は微塵みじんもない。当然、在位年数が長くなることが想定されており、次の王太子選定も喫緊きっきんの課題とはなっていなかった。正妃エリザベタの王子であり、王族としては平均的な魔力量である十八歳のアリスタリスと、出産と同時に亡くなった第二側妃オフィリヤの子であり、王族の平均よりも魔力量の多いアイラトは、どちらも有力な王太子候補ではあるものの、未だ決定には至っていなかった。

「エリク王が玉座を去るのは、少なくとも二十年は先のことだろうから、クレメンテ公爵などは焦っているのだろうな。ぐに王の義父になれなくとも、王太子の祖父にはなって、己の地位を押し上げたいのだ。黄白おうはくに取り憑かれた者の気持ちは、我らには理解出来ぬものだな、アントン。王子に許される黄白の色と、王太子に与えられる黄白の色。その違いの為だけに、界を隔てた罪なき者を、奴隷どれいにしようとしても恥じぬのだから」

 ゲーナの言葉に、アントーシャの琥珀色の瞳が燃え上がった。滅多に怒ることもなく、常に優しく穏やかな色をたたえた瞳に浮かぶのは、今は憤怒の色である。アントーシャは、湧き上がる感情を抑えるかのように、ゆっくりと口を開いた。

「ということは、召喚対象は予想通り〈人〉であり、召喚対象者の管理の為に、ダニエが考案したという、隷属れいぞく魔術の術式を使うということですね。何と愚かで、何と恥知らずなことだろう。ダニエ・パーヴェルに魔術師の名を与えるのは、この世の魔術師全てに対する侮辱ですね。それで、召喚魔術の実行はいつ頃になりそうですか」

「一月後と決まった。準備が慌ただしいのは、事が外部に漏れない内に既成事実を作りたいからだろう。ダニエが、既に粗方の準備は整っていると主張して、その意見が取り入れられる結果となった。実際に召喚魔術を実行するときには、私とダニエの他、二十人の魔術師が揃えられる。その全てが、ダニエの息の掛かった配下の魔術師ばかりだよ」

叡智えいちの塔で不満を溜めている、貴族ばかりの一派ですね。そして、その二十人の中から、一等魔術師であるぼくは外された、と」
「最初に私の補佐官としてお前を指名した所、反対の集中砲火を浴びたよ。魔術師として大した能力を持たないお前を選ぶのは、私の身内贔屓に過ぎないそうだ。ダニエなど、私に呆けたのか、とでも言いたそうな顔付きだったな」

 賢者の間で見せたダニエの得意気な顔を思い出し、ゲーナは更に上機嫌に笑った。アントーシャは、呆れたように言った。

「先にぼくの名前を出して、わざと反対させたのですね。相変わらず、大叔父上は悪どい駆け引きが御上手だ。疑われはしなかったのですか」
「クレメンテ公爵とパーヴェル伯爵、ダニエ、それに上品な王子殿下方は騙せただろう。宰相だけは、私にも読めない。あれは、複雑な精神構造をした智の怪物だよ、アントン。全て気付かれていたとしても、驚きはしない。むしろ私が不思議に思うのは、あれ程の天才が、クレメンテ公爵ごとき凡人に味方し、召喚魔術などという下策を実行しようとしている事実の方だ。スヴォーロフ侯爵の思惑は、何処にあるのだろうな」

 ゲーナにとって、警戒するべき唯一の対象はスヴォーロフ侯爵だった。ロジオン王国という巨大国家の政治を主導し、欠片の隙もなく運営してきたスヴォーロフ侯爵を、ゲーナは高く評価している。ゲーナが千年に一人の天才魔術師と呼ばれるように、宰相スヴォーロフ侯爵は、比類なき内政の天才にして、智の巨人の名をほしいままにしているのである。ゲーナの懸念けねんを知りながら、アントーシャは敢えて明るく言った。

「己がおいを至尊の座に就けて権力を握る、という筋書きは如何ですか、大叔父上。正妃の父であるクレメンテ公爵と、亡き母の実弟であるスヴォーロフ侯爵は、アイラト王子の最大の後ろ盾です。アイラト王子が未来の王となれば、王城は宰相の天下でしょう」
「自分でも思っていないことを言うものではないよ、アントン。あのスヴォーロフ侯爵が本気でそう望んでいるのなら、とうの昔にアイラト殿下が王太子宮の主人になっているに違いない。まあ、分からないなら分からないで仕方がない。今は我々を見逃してくれているのだから、それで良しとしよう。ともあれ、召喚魔術を行使する間、おまえは自由を得た。監視は付いたとしても、アントンならその程度は問題にならないだろう。おまえが召喚魔術の輪の中に入れられてしまったら、身動きが取れなくなる所だったよ」
「どうしても、御気持ちは変わりませんか、大叔父上」

 アントーシャは、ゲーナにすがるような目を向けた。何度も話し合い、仕方なく納得した心算つもりでいても、ゲーナの立てた計画は、やはりアントーシャには耐え難かった。普段なら、物事をくどくどと言わないはずのアントーシャも、今回だけは諦めなど付かなかったのである。

「身勝手な私を許しておくれ。アントン。優しいお前を酷く苦しめると分かっていても、他に方法はないのだよ」

 ゲーナは、アントーシャを深い眼差まなざしで見詰めながら、己の胸に刻まれた魔術紋の上を、そっと指で撫でた。

「この忌々いまいましい魔術紋の御陰で、私は百二十年もの間この国に縛られてきた。その間、愛する祖国が道を誤り、己が国民や他国の人々を蹂躙じゅうりんするのに手を貸してきたのだよ。今度こそそれを止めるために、この身体を捧げるしかあるまい」
「ぼくなら、その魔術紋を無効化出来ると思います。どうかそうさせて下さい、大叔父上。御願いします。他に方法が有るのに、大叔父上を犠牲にするなど、ぼくにはとても耐えられそうにないのです」
「気持ちは嬉しいよ、アントン。しかし、それは成らぬと、何十回も話したであろう。この魔術紋は、私と前魔術師団長との相互契約だった。私は王家に隷属させられ、ヤキム・パーヴェルは契約に必要な魔力を己れ一人で贖った。大きな魔力量を誇っていたヤキムは、だからこそわずか五十歳でこの世を去ったのだ」

 アントーシャは、彼にしては誠にめずらしいことに、まるで頑是がんぜない幼子のような口調で激しく言い慕った。

「それは自業自得ではありませんか。偉大な魔術師である大叔父上に、ぼくの只一人の家族に、こんなに酷い真似をして。死んでいなければ、ぼくがこの手で殺してやるのに」
「やめておくれ、アントン。いつも優しい言葉しか紡がぬおまえが、私の為に人を殺すなどと口にするものではないよ」
「もう一度、御願いします。どうか、その魔術紋を解除させて下さい。ぼくから、父にも勝る方を取り上げないで下さい」

 目に一杯の涙を溜めながら、必死になって言葉を重ねるアントーシャを、ゲーナは深い愛情を 籠めた眼差まなざしで見詰めた。

「許しておくれ、アントン。魔術師として交わした契約を一方的に破るのは、私の誇りが許さない。何よりも、おまえと出会う前の長き間に、私の手は汚れてしまった。今更、自分一人救われるわけにはいかぬのだよ」
「だから、ぼくが、貴方を殺す手伝いをするのですね」

 うめくように言って、アントーシャはたまらずに両手で顔を覆った。ゲーナは、席を立ってアントーシャの傍に寄り添い、強く抱き締めた。アントーシャは必死になって嗚咽おえつこらえ、ゲーナは愛おしむように背中を撫で続ける。もう二人とも何も言わず、只、緩やかに時間だけが過ぎていった。