フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 1-5
01 ロンド 人々は踊り始める|5 もう一人の王子
ヴィリア大宮殿の一画に設けられた財務府の貴賓室には、その日、何組かの客が訪れていた。秋口に迫る来年度の国家予算案の策定に向け、財務大臣を補佐する高官達が、幾つかの組織の責任者を招いては、予算についての意見を聞き取っていたのである。
実務的な場に相応しく、紺色や灰色の控え目なジュストコールを纏うのは、財務府付きの貴族達であり、絹の御仕着せを着用しているのは、苛烈な選抜試験を勝ち抜いた文官達である。大ロジオンの政治の中枢ともいえる財務府では、宰相スヴォーロフ侯爵の号令の元、徹底した能力主義の人事が行われていた。
心地良く張り詰めた空気の中、貴賓室の壁際に置かれた長椅子に、ゆったりと腰掛けている男だけは、見るからに異質だった。二十代の半ばに見える相貌は、どこか仄暗さを湛えて典雅であり、緩く波打つ黒髪の艶めかしさは、然ながら夜の化身のようである。見る者が見れば、一目でエリク王の息子と分かる秀麗な青年は、今は亡きエリク王の第二側妃にして、スヴォーロフ侯爵の実姉オフェリヤの産んだ最初の王子、アイラト・ロジオンに他ならなかった。
王子の身にはめずらしく、己が手で文字を書き付けていたアイラトは、扉を叩く音に顔を上げた。絹の御仕着せ姿の文官が、新たな来訪者を告げたのである。
「御次は、近衛騎士団長のコルニー伯爵閣下でございます。副官方を二名、事務官を二名同行しておられます。直ぐに御入り頂きますか」
大きな長机を囲む貴族達が、揃って頷くのを見て、文官は丁寧に一憂した。室内を守る護衛騎士は、その礼を合図に扉を開き、訪問客を招き入れる。全てに先触れと護衛騎士の誰何が行われる、一見迂遠にも思える遣り取りは、巨大な王城のそこかしこで、一日に何十度となく繰り返される作法だった。
待つ程もなく、貴賓室に足を踏み入れたコルニー伯爵一行は、壁際に座るアイラトに気付くと、驚きに目を見張った。エリク王の王子であるアイラトが、高官達の執務の場に居ることなど、全く想定していなかったのである。一瞬の戸惑いを飲み下し、コルニー伯爵は素早くアイラトに向かって片膝を突き、供の者達も団長に倣った。
ロジオン王国の王城に於いて、臣下が許しもなく王子に話し掛けるなど、無作法でしかない。アイラトは、無言で深く頭を下げるコルニー伯爵に、鷹揚に話し掛けた。
「立ってほしい、コルニー伯爵。陛下の御意向で、私が以前から宰相の仕事を手伝っているのは、伯爵も知っているだろう。今日は予算案の進捗状況を確かめる為に、無理を言って同席を願ったのだよ。質問が有れば聞かせて貰うだろうが、それ以外、私は居ないものとして扱ってくれれば良い」
「御意にございます、アイラト王子殿下。殿下の仰せの通りに致します。御免」
そう言って、思い切り良く立ち上がり、そのまま長机に設けられた席に座ったコルニー伯爵に、アイラトは淡く微笑んだ。典雅と洗練を極めたかに見えるアイラトは、過剰な儀礼を嫌う合理性を有しており、その意味でもエリク王に良く似た王子だった。
財務府付きの貴族達は、アイラトに向かって深々と頭を下げてから、即座に書類を開き、仕事に取り掛かった。
「御出でを頂き恐縮でございます、コルニー伯爵閣下。申し上げるまでもなきことながら、近衛騎士団は王家直属の騎士団であり、宰相府の管轄下にある財務府は、予算案を作成する権限を持っておりません。然しながら、予算案の元となる概算を弾き出すようにと、国王陛下の御下命がございますので、御協力を御願い申し上げます」
「勿論、承知しております。事務方の責任者も同席致させましたので、何なりと御尋ね下さい。よろしく御願い申し上げます」
コルニー伯爵の言葉を皮切りに、話題は直ぐ様資金繰りへと移っていった。近衛騎士団の人員は、年々増加を続けており、それに比例して人件費が上昇しているのは何故なのか。王族の護衛と王城の警護を受け持つ近衛は、遠出など想定されていないのだから、所有する馬の数を減らせるのではないか。対外的な戦闘の結果ならともかく、訓練で負傷する騎士が多過ぎることが、財政に悪影響を与えているのではないか。何よりも、魔術触媒となる輝石類の使用量は、絶対に抑えてほしいと、洗練された会話を装った激論が交わされるのである。
やがて、互いに一歩も引かない駆け引きの後、最後の意見と質問を求められたコルニー伯爵は、僅かな沈黙の後、貴賓室の誰にとっても予想外の問い掛けを行った。
「方面騎士団に関する予算の扱いは、例年の通りなのでしょうか。私くしの管轄でもないのに、僭越な質問だとは思いますが」
僅かな沈黙の後、コルニー伯爵の質問に答えたのは、財務副大臣の一人であるキーラ・ストルピン伯爵だった。ストルピン伯爵は、若々しい面に戸惑いの色を浮かべながら、慇懃にコルニー伯爵に説明した。
「あくまでも、私くしの権限の範囲内での御答えということになります。それでもよろしいでしょうか、近衛騎士団長閣下」
「勿論です、ストルピン伯爵」
「端的に申し上げますと、例年通りの結果になる公算が大きいものと存じます。詰まり、方面騎士団に対する予算枠は設けられておらず、非常時に備えた予備費のみが、例年と同額計上されるのではないでしょうか」
「では、百万人近い方面騎士団を養うのは、相変わらず地方領から拠出される維持費と、報恩特例法の運用による利益だけであり、ロジオン王国の国家予算としては、ほぼ割り振られないというわけですね」
「左様でございます、近衛騎士団長閣下。それが、法の定めでございますので」
コルニー伯爵は、険しい表情で黙り込んだ。近衛騎士団の予算について折衝していたときよりも、暗い落胆の気配を孕んだ沈黙だった。ストルピン伯爵は、敢えてコルニー伯爵の真意を尋ねようとはせず、然りげなく話題を変えた。
「しかし、不思議なものですね、近衛騎士団長閣下。今回の聞き取りの間に、閣下と全く同じ質問をなさった方が、もう御一方おられるのですよ」
「それはまた、奇遇ですね。何方なのか、御尋ねしても構いませんか」
「私的に話しているわけではありませんので、構いませんでしょう。王国騎士団長を務めておられる、キース・スラーヴァ伯爵閣下ですよ。近衛騎士団長閣下と共に、ロジオン王国の双璧と讃えられる御方ですね。言うまでもなく、スラーヴァ伯爵閣下にも先程と同様の回答をさせて頂きました所、近衛騎士団長閣下と同じ御顔をなさっておられました」
内心の不満と不安を押し殺した、危うくも険しい顔だとは、ストルピン伯爵は言わなかった。しかし、その意図は明確にコルニー伯爵に伝わり、長椅子の上で軽く身を乗り出していたアイラトにも伝わった。コルニー伯爵は、唇を微笑みの形に変え、静かな声で言った。
「御教え頂き有難うございます、ストルピン伯爵。閣下の御好意に感謝申し上げます。近衛騎士団と王国騎士団、方面騎士団の三騎士団は、等しく我が国の軍務を担い、国王陛下に無二の忠誠を捧げるべき騎士ですから、何かと気に掛かるのですよ。私くしも、スラーヴァ伯爵も。他意などは有りませんよ」
コルニー伯爵は、もう一度はっきりとした笑顔を見せた。ストルピン伯爵は、黙礼するに留め、長椅子からじっと視線を注いでいたアイラトも、何も言おうとはしなかった。そうして、ストルピン伯爵の後ろに控えていた文官が、予定時間の終了を告げるまでの短い間、文字盤に色水晶を嵌め込んだ置き時計だけが、微かに針の音を響かせていたのだった。