連載小説 神霊術少女チェルニ〈連載版〉 2-15
クローゼ子爵家には、後継ぎになるはずの長男がいること。カリナさん自身にも、婚約者に近い人がいるらしいこと。そのふたつの事実を突き付けた上で、儚げに微笑んだお母さんは、本格的に追撃を開始した。
「貴族様のご事情はわかりませんけれど、不思議には思いますの。生まれてから、ただの一度も顧みられることなく、クローゼ子爵家の籍にも入っていないフェルトさんが、どうして急に必要とされるのでしょう? よろしければ、教えてくださいませんか、お嬢様? フェルトさんも、この疑問が解消されない限り、お話には応じないと思いますわ」
「……。フェルトは、確かに即答はしてくれませんでしたが、乗り気ではあったようよ。わたくしの目を見て、時間がほしいと話してくれましたもの。ですから、事情はフェルトだけに話しますわ。こちらの娘さんの婚約者だといっても、正式なものではないのでしょう? ご理解くださらないかしら?」
髪の毛の中の蛇の頭を、うねうねを通り越して、ぐっねぐっねとのた打ち回らせながら、困ったような笑顔で、カリナさんが長いまつ毛をふせた。
わたしだって、そこは女の端くれだから、ぴんっとひらめいたよ。カリナさんは、正面から敵対してきたお母さんじゃなくて、うちのお父さんを味方にしようとしているんだって。わたしの大好きなお父さんは、平然と無視してたけどね!
後からわかったんだけど、わたしより百倍は〈女の戦い〉に精通しているお母さんは、ここで〈女の武器〉を使うカリナさんとは、正反対の手に出ることを決めたらしい。つまり、言葉遊びで挑発するのはやめて、徹底的な〈情報戦〉で、カリナさんに対抗したんだ。
お母さんは、表情と声だけは可憐なまま、いつの間にか手に持っていた手紙を、ひらひらと優雅に振った。
「まあ! 嫌ですわ、お嬢様ったら。少し誤解があるようですわね。この手紙は、フェルトさんに付き添っている、騎士見習いのアリオンが、神霊術を使って届けてくれた緊急便ですの。中身は、フェルトさんからの自筆の伝言ですわ。カリナお嬢様のご提案は、その場で完全にお断りしたので、もし何かおっしゃっても、信じないでくれって。アリオンという美少年が、フェルトさんのそばにおりましたでしょう? あの可愛い子は、わたくしの甥ですの。手紙、ご覧になられます?」
「……。結構ですわ。わたくしたちとフェルトの間には、まだ少し隔たりがあるかもしれませんけれど、それも話し合いで解決できるものですわ」
「そうだとよろしいですわね。それで、こちらの質問には、お答えいただけませんの? クローゼ子爵家と無関係だったフェルトさんが、急に必要とされた理由は何ですの? それがわかりませんと、わたくしどももご協力のしようがありませんわ」
「あら。協力してくださる気持ちはおありなのかしら、奥様?」
「もちろんですとも。その理由が正当であり、フェルトさんが本心から希望なされば、そのようにいたします。虚偽やごまかしがあるといけませんので、いずれにしても、間に人を立てての話し合いにはなりますけれど」
「間に人を立ててとは、どういう意味ですの? フェルトと婚約しているのだと言い張って、金品でも要求なさるおつもりかしら? さすが、平民はさもしいこと」
「わたくしは下賤な平民ですので、いろいろと慎重なのです。フェルトさんとアリアナは、正式に婚約するために、法理事務所に書類作成の依頼をしているところですのよ。それを覆すとなると、当然、法理事務所に話の仲介をお願いすることになりますわ。幸い、キュレルの街には、マティアス様の法理事務所の分室がございますの。王都の法理院で主席審理官をお務めになった、マティアス・セル・ロザン卿ですわ」
「有名な方ですから、存じ上げておりますわ。ロザン卿のお名前を利用なさるおつもりなのかしら、奥様?」
「とんでもない! ただ、わたくしどもの商売の関係で、マティアス様の事務所とは、懇意にさせていただいておりまして、買収に値する物件の情報なども、よく教えてくださいますのよ。最近ですと、王都の郊外にある貴族様の別荘が、売りに出されているのですって。換金を急がれていて、値も低めになっているので、購入してはどうかと教えてくださって。パレル湖にほど近い、素敵な郊外の別荘らしいですわよ?」
そういって、お母さんは満面の笑顔になった。急に話が変わったから、何のことかわからなくて、わたしが戸惑っていると、ずっと黙って聞いていたヴェル様が、いきなり大声で笑い出した。
「これは、これは。チェルニちゃんの母君は、なかなかの豪腕ですね。パレル湖畔の別荘というのは、クローゼ子爵家が極秘で売りに出しているものなのです。前クローゼ子爵夫人と令嬢の散財で、支払いに苦慮しているのですよ、クローゼ子爵家は。チェルニちゃんの母君は、どこからそんな情報を手に入れたのでしょうね。誠に素晴らしい。どうやら勝負は決まったようですよ、チェルニちゃん。ここまで追い詰めておけば、彼奴らも、我らの罠に飛び込むしかなくなるでしょう」
えっと。クローゼ子爵家がお金に困っていて、うちのお母さんは、その事実を知っているっていうことだよね? そういえば、何日か前に話し合いをしたときに、クローゼ子爵家の資産状況とかも、探ってみるっていってたけど、よくこの短期間に調べられたね。
つまりは、〈偉そうにいばるほどのもんじゃないんだよ、クローゼ子爵家。いろいろと弱みは握ってるんだから、騙そうとしたってむだなんだよ〉って、思いっきり脅しちゃってるんじゃないのかな、お母さん?
カリナさんの髪の毛にもぐりこんでいた蛇は、三匹とも外に出てきて、頭を高く持ち上げながら、よだれ混じりにシャーシャーいった。カリナさん自身は、かろうじて表情を取りつくろっているんだけど、蛇がすべてを裏切ってる。ものすごく動揺して、怒り狂ってるよ、カリナさん。
ゆったりと微笑むお母さんと、顔を引きつらせたカリナさんの間で、素早く動いたのはミランさんだった。ずっとヘラヘラして、バカみたいにみんなを怒らせる発言をくり返していたミランさんは、ぞっとするほど冷たい顔でいったんだ。
「貴女が何をおっしゃっているのか、我々にはわかりかねるが、どうやら敵対心をお持ちになっているらしい。そうであれば、長居をしても時間のむだだろう。今日のところは、失礼する。また、何らかの場で会うこともあるだろう」
ミランさんは、どうやらバカでもなかったらしい。今日の軽薄な言動って、演技だったんだね。さすが、〈嗜虐〉の人は不気味だな。
さっと立ち上がったミランさんは、無言でカリナさんに手を差し出した。カリナさんは、一瞬、悔しそうに顔を歪めたんだけど、すぐに何でもない顔になって、ミランさんの手を取った。頭の上の三匹の蛇は、絡まり合って歯をむき出し、お互いに噛みつき合っていたけどね。
お父さんもお母さんも、二人を止めようとはしなかった。カリナさんとミランさんが、腕を組んで〈野ばら亭〉を出て行く姿を、玄関先まで見送ってから、さっさと中に入っちゃったんだ。
これは、十四歳の少女であるわたしにもわかるくらい、貴族に対する見送りとしては、礼を欠いたやり方だったんだけど、もう取りつくろう気もないんだろう。
わたしの大好きな歴史小説の中に、〈わたしたちは、オーディル川を渡ったのだ。一度切れた縁は二度とつながらず、燃え上がった怒りを消すことは誰にもできない。それが愚かな選択だとしても、この命尽きるまで、ただ戦い続けるのみ〉っていう台詞があるんだけど、そんな感じなんだろう、きっと。
カリナさんとミランさんを乗せた馬車は、あっという間に〈野ばら亭〉を後にしていった。恐くて汚らしい〈鬼成り〉が出ていってくれて、わたしが安心のため息を吐いたところで、スイシャク様とアマツ様が、そっと合図を送ってくれた。
ふっすふっす、すりすり、ふっすふっす、すりすり。人の子の心の不思議さが見られるかもしれないから、注目してご覧って。
何のことかと思って、もう一度意識を集中させると、厩から自分の馬が引かれてくるのを、肩を落として待っていた使者AとBのところへ、ちょうど人影が近づいていくところだったんだ。
◆
使者AとBのところへ、小さな包みを持ってそっと近寄ってきたのは、〈野ばら亭〉の食堂で働いてくれている、従業員のお姉さんだった。わたしが小さいときには、いつも頭をなでてくれて、ふっくらした手が気持ち良かった、優しいお姉さん。
わたしの大好きなお姉さんのことは、使者Bも気に入ったみたいで、昨日〈野ばら亭〉に来たときは、上機嫌で絡んでいた。〈おまえのやや太めの腹が、微妙にわたしの好み〉とか、失礼極まりないことをいってたからね。
使者Bは、お姉さんに気がつくと、びっくりした顔をして、バツが悪そうに下を向いて、それから不思議そうにたずねた。
「どうした、何か用があったのか?」
「お客さん、今日は食事をしていかないんですか? 〈野ばら亭〉のおすすめメニューは日替わりだから、毎日食べても飽きませんよ?」
使者Bは、情けない感じに目尻を下げて、小さな声で返事をした。
「……食べたいな。この田舎臭い店は、本当にうまいからな。だが、時間がないんだ。主家の方々が、われわれを置いていってしまったから、すぐに追いかけるしかない。それに……もう、おまえの店には入れないだろう?」
「どうしてですか?」
「おまえの主人たちを怒らせた。事情はわからなくても、その事実だけは知っているはずだ。だから、来てくれたんだろう? おまえ、やっぱり優しい女だな」
「そうですか?」
「ああ。昨日、初めて会ったときから、そう思ってた。可愛いしな、おまえ。田舎臭くて、わりと年増で、ちょっと太めなところも、可愛いと思う」
「お客さんは、やっぱり失礼な人ですねぇ。あんまり失礼で、あんまりおいしそうに食べてくれるから、すっかり覚えちゃいましたよ」
「ギョーム」
「え?」
「ギョーム・ド・パルセ。わたしの名前だ。きっと、もう来られないから、名前だけでも覚えていてほしい。くそっ。わたしらしくないな、まったく」
「わたしは、ルルナですよ。ただの平民だから、簡単な名前なんです。待ってますから、また来てくださいよ」
「……」
「それから、これ、途中で食べてください」
「なんだ?」
「焼き立てパンに、そのへんの具を適当にはさんだだけの、サンドイッチですよ。わたしの〈まかない〉なんです。適当でも、すごくおいしいから、どうぞ。大きいのを二つ入れときましたから、お連れの方と一緒に召し上がれ。馬に乗ったままでも、チャチャッと食べられますよ」
「おまえの昼食なんだろう? おまえが、腹を空かすじゃないか」
「……。また作ってもらいますから、大丈夫です。〈野ばら亭〉は、おかわり自由なんですよ」
「そうか。本当にいい店だな。また、来られたらいいな」
「来てくださいよ。待ってますから」
使者Bはもう、なんにもいえないみたいで、悲しそうな顔でお姉さんを見つめていた。お姉さんは、もう一度包みを差し出して、使者Bに手渡してから、〈野ばら亭〉に戻っていった。横にいた使者Aに、軽く頭を下げてからね。
……って、なにこれ? え? 急に何が始まったの? お姉さんと使者B、どうしてそんなに親密なムードになっちゃってるの? いきなりすぎない? 使者Aなんて、びっくりして目を見開いたまま、硬直しちゃってるよ?
使者Bとお姉さんは、昨日、〈野ばら亭〉で会ってただけのはずなんだ。それも、お客さんと従業員さんとして。話をしていた時間なんて、ほんのちょっぴりだし、使者Bなんて、最初から最後まで、失礼なことしかいってないのに。
お姉さんは、実はけっこう男の人に人気がある。おおらかで優しいし、見た目だってわたしはすごく可愛いと思う。性格の良さが、にじみ出ている感じ。
ご両親が早くに亡くなって、ずっと弟さんたちを養っているから、まだ決まった人はいないらしい。お客さんに交際を申し込まれることもあるみたいだけど、お姉さんは、一回も応じたことはないんだ。
それなのに、失礼極まりない使者Bとの、あの親密さ。お姉さんってば、どうしちゃったんだろう? 使者Bも、どうしていい人っぽい感じになってるのか、わたしにはまったくわからないよ。
わたしが、困った顔でヴェル様を見ると、ヴェル様は楽しそうに笑ってた。
「ふふ。チェルニちゃんには、あの者たちの心の機微は、まだわからないかもしれませんね。誠に、人生とはおもしろいものです」
ヴェル様の言葉に、〈人の生〉とは遠くかけ離れた、尊い存在であるはずのスイシャク様とアマツ様が、そろって肯定するイメージを送ってきた。〈衆生の営みこそ、いとあわれ〉〈巫には巫の、覡には覡の定があれど、小さき者の行く方もまた、神に連なる恩寵の内〉って。
よくわからないけど、お姉さんと使者Bの交流も、神霊さんのお心にかなうものだったのかな?
お姉さんの後ろ姿を見送っていた使者Bは、ため息をついてから、引き出されてきた馬に乗った。半分口を開けたまま、呆然としていた使者Aも、慌てて馬に飛び乗った。
そして、カリナさんたちに追いつくことを諦めたのか、ゆっくりと馬を歩かせているうちに、使者Bが、お姉さんからもらったサンドイッチを取り出したんだ。
「ひとつ召し上がりますか、ロマン様?」
「……良いのか?」
「あんまり良くはありませんが、ロマン様にもお渡しするように、女が、いや、ルルナがいってくれましたからね。二人で食べましょうよ。カリナ様たちは、わたしたちのことなど忘れているでしょうから、焦ってもしかたありませんよ」
「そうだな。もらおう。わたしも、腹が減っているみたいだ。カリナ様やミラン様のおそばにいると、一向に空腹を感じないんだがな」
「わたしもですよ。反対に、ルルナの顔を見た途端に、腹が減りました。不思議なものですな、人というのは」
「まったくだ。うまいな、このサンドイッチ。中に入っているベーコンが、ものすごく香り高い。本当にうまい店だ」
「うまいですよね。うますぎて、泣けてきそうですよ」
「おまえ、これからどうするんだ? さっきの話を聞いている限り、フェルト殿を王都に連れていくのは無理だろう。終わりかもしれないぞ、クローゼ子爵家は」
「どうしましょうかね。クローゼ子爵家と縁を切りたい気はしますが、いろいろと知りすぎているのではありませんか、わたしたち。〈神去り〉になったのは、もう手遅れだっていう証拠かと思うんですがね」
「……ああ。わたしも、力を強くする神霊術だけ、使えなくなっているようだ。手遅れなんだろうな、われわれは」
「カリナ様やクローゼ子爵閣下は、この先、力づくの手段に出てくると思われますか、ロマン様?」
「必ず。どこまでの力づくかは、わからないが」
「でしょうね。いくら言い負かされたからって、諦めないでしょう、カリナ様も」
「いっそう意地になるだろうさ。明日からは、じょじょに強硬策に出るんじ
ゃないか? 困ったことだ」
「ですよね。それにしても、本当にうまいな、このサンドイッチ。もっと早くに食べたかったですよ」
「そうだな。もっと早くに食べていたら、何かが変わっていたのかもしれないな」
肩を落とした使者AとBの後ろ姿は、とっても寂しそうで、なんだか悲しそうだった。わたしの目には、二人の肩の辺りから、黒い小さな砂粒みたいなものが、少しずつ少しずつ、こぼれては消えてるように見えるんだけど、きっと気のせいなんだろう。
敵の一味である使者AとBのせいで、わたしまで、気持ちが暗くなっちゃったよ。AとBが、クローゼ子爵家に見切りをつけてくれるように、ちょっと祈ってみたいと思い始めたことは、お父さんとお母さんには内緒にしておこう……。