連載小説 神霊術少女チェルニ〈連載版〉 3-1
すっかり秋の気配が濃くなって、ひんやり冷たい風が吹き抜ける中、わたしは一人で町立学校に向かって歩いていた。とぼとぼとぼとぼ、とぼとぼとぼとぼ。
われながら、元気のない足取りになるのは、仕方のないことだと思う。だって、十四歳のわたし、チェルニ・カペラは、今、大きな悩みを抱えているんだから。
キュレルの街の守備隊分隊長のフェルトさんと、わたしの大好きなアリアナお姉ちゃんをめぐる事件は、一応、三日前に終わりを迎えた。後始末は山ほどあって、神霊庁の裁判まで控えているけど、それはそれ。アリアナお姉ちゃんとフェルトさんは、予定より早めに婚約する予定だし、わたしたちの身の回りも、何とか安全になったらしい。
大公なんていう、とんでもない相手が出てきたことを思うと、本当に皆んなが無事でよかったと思う。力を貸してくれた神霊さんとネイラ様には、感謝しかないよ。
では、どうして、わたしがしょんぼりしているかというと、自分でも知らない間に落っこちちゃった、こっ、恋の悩みなんだ。
ひえぇ。なんかもう、〈恋〉っていう言葉だけで、ものすごい衝撃を感じる。恥ずかしくて、恥ずかしくて、ごろごろ転げ回りたい。頭はぐらぐらするし、顔は真っ赤になるし、手は震えてくるし。そもそも、意味もなく泣きたい気分になるなんて、普通じゃないよね? 大丈夫なのかな、わたし? 全然大丈夫じゃない気がするんだけど、どうなんだろう?
たった十四年だけど、今まで生きてくる中で、同じような気持ちになったことは、一回もなかった。同じどころか、ほんのちょっと〈いいな〉と思う人もいなかった。数少ない女友達からは、〈チェルニって、変〉とか、〈一生そのままな気がして不安になる〉とか、けっこうひどいことをいわれてたんだけど、まったく気にしていなかった。
大好きなお父さんとお母さんのそばにいて、一生懸命に勉強して、やりたい仕事を見つけて、お姉ちゃんの子どもたちを可愛がるっていうのが、わたしの将来設計だった。ちょっと作家に憧れていたり、キュレルの街の文官に興味を持ったり、お母さんみたいな経営者に関心を持ったり……。それだけで、わたしの人生は、十分にきらきらしていたんだ。
ネイラ様に出会ってからは、王国騎士団の事務官とか、神霊庁の神官とか、王城の文官とか、国に尽くす仕事を目指そうって、自分なりに決意を固めたりもした。ご恩返しに、ネイラ様の役に立ちたかったし、ネイラ様の近くにも行きたかったからね。
でも、そんな憧れや感謝の気持ちが、こっ、恋に変わるなんて、夢にも思っていなかった。思うはずがなかった。
だって、ネイラ様だよ? ルーラ王国の英雄で、王国騎士団長で、大貴族で、〈神威の覡〉のネイラ様だよ? 身分違いにもほどがあるって、嫌でもわかる。こう見えて、常識のある少女なのだ、わたしは。
大公たちがそろって捕縛された日、ネイラ様のことを、すっ、好きになっちゃってるって気づいたわたしは、早々に部屋に引きこもった。お姉ちゃんもフェルトさんも、遅くまで守備隊に残っていたし、ヴェル様たちは王都から戻ってこなかったから、都合がよかった。
お父さんとお母さんには、疲れたから早く寝るって、ちゃんと声をかけた。お父さんが、なぜか虚な目をして、前後左右にふらふらと揺れていたのは、やっぱり疲れていたんだろうね。
自分の部屋に戻ったわたしは、壁におでこをくっつけて、じっと考え込んだ。鏡越しに目の合ったネイラ様が、やさしく笑ってくれた顔を思い出すと、心臓が掴まれたみたいに痛くなって、鏡の中に消えていった後ろ姿を思い浮かべると、ぼたぼたと涙が溢れた。
うん。とっても厄介なことに、わたしは本当にネイラ様のことが、すっ、好きみたい。これが、こっ、恋っていうものなのかって、理不尽なまでの感情の強さに、わたしは、どうしたらいいのかわからなかった。
わたしが、深刻な顔で壁と対話している間、スイシャク様とアマツ様は、元気いっぱいだった。スイシャク様ってば、ずっとわたしの膝の上に座っているか、腕の中で抱っこされていただけだったのに、部屋中を飛び回っているんだよ?
ふっくふくの巨大な身体に比べ、羽根は小さめで可愛かったから、飛んでいるっていうよりは、飛び上がっているようにしか見えなかったのは、わたしだけの秘密だね。
アマツ様は、なぜかいきなり二倍くらいになっちゃって、体長だけならスイシャク様よりも大きかった。真紅の羽根を優雅に広げて、羽ばたきもせずに部屋を飛んでいる姿は、とっても神秘的で美しくて、ついでに鱗粉がすごかった。
いつもの朱色に加えて、金色や銀色や紫色や緑色が混じってて、わたしの部屋が極彩色に染まってた……。
世にも尊い神霊さんのご分体なんだけど、山ほど助けてもらったありがたい神様なんだけど、本当に尊敬してて大好きなんだけど、繊細な少女の気持ちに配慮して、静かにしていてほしいなって、ちょっとだけ思っちゃったよ。
結局、飛びたいだけ飛んでから、スイシャク様とアマツ様は、不意にいなくなった。わたしに残されたメッセージは、〈これを以て微睡の終わりと為すべきか、八百万の神霊に諮らん〉〈現世神世の動くや否や〉〈雛の目覚めを言祝がん〉〈愛し、愛し〉っていう、あんまり意味のわからないものだった。
ただ、スイシャク様は、〈疾く現世に顕現し、其の導きと為らん〉って、イメージを残してくれたから、すぐに帰ってきてくれるんじゃないかな? この数日の間に、わたしはスイシャク様が大好きになって、抱っこしているのが当たり前になったから、うちにいてくれると、とっても嬉しい。
アマツ様は……大好きなのは同じだけど、ネイラ様のことを思い出し過ぎるんだよね。すっ、好きな人の気配を感じていたい反面、諦めなくっちゃいけないんなら、それはそれでつらい。少女の心は複雑なんだよ、本当に。
そんなことを考えながら、とぼとぼ歩いているうちに、町立学校に到着した。卒業する学年は、もう授業そのものは終わっていて、受験のための指導とか、卒業するための補習とかがあるだけになっている。
今日のわたしは、校長先生と担任の先生に呼ばれていて、今日は王立学院の受験のための、最終的な打ち合わせをしてもらう予定なんだ。過去の受験生たちが、神霊術の実技試験で、どんな術を使ったのか、調べてくれたんだって。
下級生たちは、授業の最中だから、学校の中は静かだった。でも、校長室に続く階段を上がっていると、耳障りな声が響いた。階段の踊り場から、わたしのことを見下ろしながら、三人の女の子が話しかけてきたんだ。
「あら、チェル……カペラさんじゃない? 補習っていうことはないだろうし、受験の準備か何かなのかな?」
「いいよねぇ、カペラさんってば。校長先生に贔屓されてるから、特別に教えてもらうんだよ、きっと」
「ずるいと思わない? カペラさんみたいに特別扱いされたら、わたしたちだって、王立学院を受験できたかもしれないのに」
「本当だよね。でも、合格できるのかな? キュレルの街の秀才でも、王都じゃ普通だったりして。合格できなかったら、キュレルの街の高等学校に行くのかな。ねえ、どうなの、カペラさん?」
この子たちは、全員が同じクラスで、真ん中で腕を組んでいる子は、すごく可愛いって有名だった。正直なところ、あんまり性格がよろしくない。男の子には媚びるし、女の子はいじめるし、わたしは好きになれない。
実は、わたしが王立学院を受験するってわかったときも、この子たちには絡まれている。〈チェルニちゃんだけ、王立学院を受験するなんて、ずるい〉〈だから、わたしたちと一緒に、街の高等学校に行きましょう〉って。
何が〈ずるい〉で、何が〈だから〉なのか、まったく理解できなかったわたしは、速攻で断った。無視したっていってもいいだろう。
それからは、〈つーん〉とした顔をされるだけで、何もいってこなかったから、もういいのかと思っていたのに、そうでもなかったのかな。まさか、わたしの予定に合わせて、わざわざ学校に来るほど、暇なわけじゃないよね?
わたしは、黙っていじめられるような性格はしていないので、適当にいい返すことにした。うちのお母さんも、〈面倒な人間関係は、遠慮して避けるより、ある程度まで叩き潰しておいた方が、結局は効率的なのよ、子猫ちゃん〉っていってたし。
本当に面倒だし、くだらない。そう思いながら、女の子たちと視線を合わせ、口を開こうとしたところで、異変が起こった。まだ少女のくせに、にやにやといやらしく笑っていた三人が、目を見開いて、急に黙り込んだんだ。
可愛いって評判の子は、血の気が引いたみたいな顔になって、ふらっとよろめいた。あとの二人も、怖いものでも見たみたいに、わたしから目を逸らした。
え? どうして? わたし、まだ何もいってないし、睨んだりもしてないよ? え? これって、どういうこと??
◆
女の子たちの態度に驚いて、わたしは、思わず階段を駆け上がった。青い顔をして、目を逸らしたままの子たちに、意識して穏やかに話しかける。
「あのね」
「ひいっ!」
「ごめんなさい!」
「何でもないの。何にもいってないから! 許して!」
……。いや、声をかけただけなのに、どうして怯えられてるんだろう? この三人って、けっこう気が強いんだよ? この子たちにきついことをいわれて、泣いてた子なんて、いくらでもいるくらい。わたしとだって、何回も衝突したのに、どうしていきなり怖がられないといけないんだろう?
あんまりにも変だから、わたしは、女の子たちを見つめた。別に、何かの予感があったわけじゃない。ただ、吸い寄せられるみたいに、じっと視線を向けたんだ。
最初に気がついたのは、可愛いって評判の女の子の肩の上で、チッチ、チッチって鳴いている、小さな蛇の存在だった。
〈鬼成り〉したクローゼ子爵や、娘のカリナさんみたいに、身体から生えた蛇じゃない。薄っすらと透けているから、実体もないんだろう。でも、それは確かに蛇で、女の子の肩の上でとぐろを巻いて、わたしを必死に威嚇していたんだ。
びっくりして、もうちょっとで叫び出しそうなところを、わたしは必死に我慢した。わたしの目に見えている半透明の蛇が、現世の存在ではなくて、他の人には見えていないんだって、わかっていたからね。
こういう蛇って、本来は〈人の子には見えない〉もので、スイシャク様のお力を借りているときだけ、認識できるはずだったのに。今、わたしと蛇は、ばっちりと視線を合わせて、睨み合ってるよ……。
慌てて、両隣の女の子たちに目を向けると、二人の周りには蛇はいなかった。ただ、泥みたいに汚らしい色をした、小さな霧みたいな塊が、胸のあたりでもやもや、もやもや動いている。
ひょっとすると、あれかな? 悪い気持ちを持った人は、霧みたいな塊をまとわりつかせるようになって、それが進むと蛇になって、最後には身体から生えてきちゃうのかな?
女の子たちは、わたしのことが怖いみたいで、顔色を青くしたまま、微かに震えていた。蛇なんて、小さな牙を剥き出しにして威嚇しているくせに、身体の方は後ずさって、少しずつ女の子の髪の毛の中に潜り込んでいってる。
でも、本当に怖いのは、わたしの方だからね? スイシャク様やアマツ様の光に包まれて、遥か遠くから視界だけ共有しているのならともかく、すぐ目の前に蛇がいるんだよ?
いくら小さいものだからって、十四歳の少女には、過酷な恐怖体験だと思うんだ。
本当に怖くて、そんなものが見えたことが衝撃的で、〈嫌だな〉って思った瞬間、蛇も霧も見えなくなった。あっという間に、音もなく消え失せて、もう一度目を凝らしても、やっぱり見えなかった。
すごく安心して、でも、怖いのは変わらなくて、女の子たちから離れようかと思ったときに、肩に蛇を乗せていた子が、震える声でいった。
「さっきの目の色って、何なの、カペラさん?」
「え? 何のこと?」
「目よ! さっき、カペラさんの目が、変な色になってたよ!」
「変な色っていわれても、わたしの目は、生まれたときからずっと青っぽい色だよ? 今もそうじゃない?」
「そうだけど、そうだけど、さっきは変だったのよ。ぴかぴかして、鏡みたいで、すごく不気味だった!」
「不気味って。さすがに怒るよ? ほら。わたしの目は、ずっと青いままでしょう? よく見てよ」
そういって、蛇の女の子の目を見つめたまま、近くに寄ろうとした途端、思いっきり叫ばれた。〈来ないで、気持ち悪い!〉って。そして、女の子たちは、わたしの横をすり抜けると、そのまま逃げていったんだ……。
本当は、女の子のいうことに、何となく察しがついていた。ご神鏡みたいに綺麗で、ひと目で〈鬼成り〉の蛇を焼き尽くす、あのネイラ様の瞳が、煌々とした銀色だったからね。
スイシャク様とアマツ様に、〈御名〉を許されたからなのか、畏れ多くも眷属扱いになった影響なのか、神秘的な体験を重ねた結果なのか、原因はわからないけど。人の子の目に見えないものを見る瞳は、本来、人の目の色にはないはずの、銀色に輝くのかもしれないね。れっ、恋愛問題以外では、とっても勘のいい少女なのだ、わたしは。
スイシャク様とアマツ様は、どこかに行っちゃってるし、質問したからといって、教えてもらえるとは限らない。だから、ネイラ様に会いたいなって思った。ネイラ様なら、答を知っているはずだし、今のもやもやした悲しい気持ちも、きっとわかってくれるんじゃないかなって。
同級生に〈気持ち悪い!〉って叫ばれたわたしは、やっぱり傷ついているみたいで、ネイラ様に慰めてほしくてたまらなかった。でも、そのネイラ様に、こっ、恋をしちゃったことが、今のわたしの悩みでもあるっていう……。
お母さんが買ってくれた、〈哲学入門〉の本に書いてあった、〈二律背反〉って、こういうことなんだろうか?
わたしが、重いため息をついたところに、今度は優しい声が降ってきた。猫が大好きで、いつでも洋服を毛だらけにしていて、にこにこと笑っている、お母さんみたいな担任の先生。校長室の扉から、ひょこっと顔を出して、先生がいった。
「いらっしゃい、カペラさん。何だか叫び声がしたみたいだけど、大丈夫? 何かあったんじゃない?」
「あ、大丈夫です。何でもありません。お待たせしました」
「まだ時間前よ。校長先生もいらっしゃるから、入ってきてね」
えいや! って気持ちを切り替えて、先生に手招きされるまま、校長室に入っていくと、テーブルの上に資料を広げながら、大好きな校長先生が笑いかけてくれた。〈よう来たの、サクラっ娘〉って。白い髪の毛と、白いひげの校長先生は、とってもおじいちゃんだから、あだ名の付け方も古いんだよ。
でも、すごく深みのある授業をしてくれて、いろんなことを教えてくれて、誰にでも優しくて、必要なときには厳しい、素晴らしい校長先生だからね。お母さんの〈子猫ちゃん〉と、校長先生の〈サクラっ娘〉は、わたしが耐えるべき魂の試練なんだよ、多分。
「今日は、お時間をとってもらって、ありがとうございます。よろしくお願いします」
「相変わらず、きちんと挨拶ができて、いい子じゃな、サクラっ娘。王立学院の受験担当者に、爪の垢でも飲ませたいところじゃ。いいから、お座り。今日は、おもしろい話をしてやろうな」
「校長先生は、ご自分で王都まで行って、入試の話を聞いてきてくださったのよ、カペラさん。お知り合いに、王立学院の関係者がいらっしゃるんですって」
「すごい! ありがとうございます、校長先生」
「いいとも、いいとも。サクラっ娘のためなら、お安いご用じゃよ。勉強の方は、進んでいるのかね? 過去の入試問題はどうじゃった?」
「先生に貸していただいた分は、全部終わりました。ほとんど間違えなかったので、大丈夫だと思います」
「よしよし。偉いのう。神霊術の実技についても、サクラっ娘に勝てるものなど、王都にもそうはおらんのだから、後はどの術を使うかの選択じゃろう。神霊術は、優劣を競うものではないということは、置いておいてな」
そういって、校長先生が話してくれたのは、過去の入試で高評価だった人の事例だった。風の神霊術で身体を浮かせて、空を飛んだ人。小さな雨雲を呼んで、実際に雨を降らせた人。持ってきた種を芽吹かせて、校庭の一部を花畑にした人。巨大な氷を出現させて、白熊の氷像を彫った人……。
校長先生の話は、とってもおもしろくて、わたしは、さっきまでの憂鬱な気持ちを振り払って、すっかり元気になったんだ。
「何年かに一人は、驚くほど高度な神霊術を披露して、周りを驚かせる生徒がいるのでな。今、例にあげた生徒は、もちろん全員が合格して、多くは卒業後、王城や神霊庁に職を得たそうじゃ」
「すごいですね。さすが、王立学院の受験生です」
「しかし、過去の入試において、圧倒的な神霊術を使ってみせた生徒といえば、やはりネイラ様じゃな。サクラっ娘も、お名前は知っておるじゃろう? ルーラ王国の英雄で、王国騎士団長であられる、ネイラ様じゃよ」
「……。はい。知ってます」
「ん? えらく顔が赤くなったが、どうかしたか?」
「暑いだけです。気にしないでください」
「いや、冷たかろうが、今日は」
「大丈夫です。それで、ネっ、ネイラ様の術は、どんなふうだったんですか?」
急にネイラ様の名前を出されて、わたしは、ぐらぐらに動揺した。すっ、好きな人の名前って、それだけで攻撃力があるんだね。
平常心、平常心! 必死に自分にいい聞かせて、わたしは、話の先を促した。気づいたばかりの、こっ、恋心は、本当にわたしには荷が重いよ……。