連載小説 神霊術少女チェルニ〈連載版〉 4-31
ルーラ王国の大貴族中の大貴族にして、前の王弟殿下を祖父に持つ王族。子どもたちの誘拐事件の主犯かもしれない、アレクサンス・ティグネルト・ルーラ元大公は……まったく別人みたいな姿で、わたしたちの前に登場した。
元大公は、重い足を引きずるようにして、被疑者の先頭に立って歩いている。元大公が着ているのは、濃い目の灰色のシャツとズボンで、飾りは何もついていなかったけど、かなり上等な生地であることは、一目でわかった。髪もひげも綺麗に整えられているし、靴もぴかぴかに磨かれているし、ルーラ王国の大貴族として見ても、まったく恥ずかしい装いじゃなかった。
傍聴席にいる人たちが、思わず声にならない悲鳴を漏らし、わたしが大きく身体を震わせたのは、元大公の雰囲気だった。あんなに傲慢そうで、意地悪そうで、堂々としていた人が、今は、死を前にした老人に見えた。本当に、たった数日の間に、元大公は、三十以上も歳をとったようだったんだよ。
大貴族らしく、ぴんと背筋を伸ばしていた元大公は、腰を曲げ、微かにふらつきながら歩いている。艶やかに輝いていた金髪は、真っ白になっていて、半ば抜け落ちている。身体は二回りは細くなり、顔には深いしわが刻まれている。そして、何よりも怖かったのは、元大公の目だった。
アリアナお姉ちゃんたちが、神霊庁に告発した日、鏡越しに見た元大公は、青い瞳だった。人間的には最低だけど、王族らしく整った容姿をしていて、切れ長の瞳も美しかったんだ。
今、元大公の目は、白目も瞳も赤かった。元大公が捕縛されたとき、額に書かれていた、〈神敵〉っていう赤い文字を、白濁させたみたいな感じ。迷いなく歩いているから、視力的には問題がないんだろうけど、ぽっかりと開いた赤い空洞みたいな目は、ものすごく異様で、ものすごく怖かった。
わたしが、思わず身体を震わせると、お父さんが、ぎゅぎゅぎゅっと手を握ってくれた。隣に座っているヴェル様は、薄氷の瞳に、怒りとも畏れともつかない色を浮かべて、わたしにそっと教えてくれた。
「元大公の変わりように、驚かれたでしょう、チェルニちゃん? 念のために申し上げますけれど、わたくしたちが、拷問にかけたり、食事を抜いたりしたわけではありませんからね?」
「そんなことをするなんて、最初から考えていないですよ、ヴェル様。元大公って、捕縛されてから今日まで、どこに居たんですか?」
「王城の敷地内に建てられている、小さな離宮です。〈荊棘の宮〉と呼ばれていて、実質は王族や大貴族を捕らえておくための牢のような離宮です。今回は、神前裁判の被疑者として拘束しておりましたので、神霊庁と近衛騎士団、王国騎士団から、それぞれに監視の手勢を出しました。窓には鉄格子がはまり、部屋からの外出も禁じられていたものの、部屋の作りは豪華なものですし、食事や入浴も自由でした。まだ、罪人と確定したわけではありませんのでね。元大公が、急激に衰え、三十以上も歳を取って見えるのは、牢の環境とは別の理由です」
「……もしかして、レフ様ですか?」
「ああ、チェルニちゃんは、あの断罪の光景を、鏡越しに見ていたのでしたね。〈神託の巫〉で在られるチェルニちゃんには、猊下やわたくしの目に映ったよりも、はるかに多くのものが見えていたのでしょうね」
「見えていた……と思います。怖かったです、とても。元大公なんて、死んじゃったんじゃないかと思ったくらいです」
「神の業火に焼かれたのですから、まさに死に瀕していたのでしょう。王国騎士団の騎士たちに捕縛され、〈荊棘の宮〉に移される頃には、今のような見た目になっていました。人のものとも思われない、あの不気味な赤い瞳も……」
わたしは、捕縛の直前、瞳を銀色に輝かせたネイラ様が、元大公たちを〈視た〉ときのことを思い出した。それまで、傲慢に罪を認めなかった元大公たちは、ネイラ様の視線を受け止めた途端、業火に焼かれたんだ。
元クローゼ子爵のオルトさんが、〈鬼成りり〉しちゃって、胸元から生やしていた四匹の大蛇は、いっせいに青白い炎を噴き上げた。赤黒い炎をまとっていた〈怨嗟〉の蛇も、青黒い炎の〈妬心〉の蛇も、灰色に血管みたいな赤い色の走る炎の〈傲岸〉の蛇も、黒ずんだ黄色い炎の〈憤怒〉の蛇も。
炎の蛇さえ焼き尽くす業火は、大公の執務室いっぱいに燃え広がり、オルトさんとアレンさん、ナリスさん、ミランさんの身体にも燃え移り、四人は胸を掻き毟って、苦しそうに喘いでいたんだった。
そんな中、誰よりも悲惨なことになっていたのは、元大公だった。元大公は、赤い〈神敵〉の文字から、すさまじい勢いで業火を吹き上げたまま、まるで死人みたいな顔で、力なく痙攣していたんだよ。
あのとき、コンラッド猊下が、ネイラ様の視線をさえぎらなかったら、元大公は、どうなっていたかわからないと思う。コンラッド猊下は、神前裁判でちゃんと証言させたいから、〈神の断罪〉をやめてほしいって、ネイラ様に頼んだんだ。
ずるりずるり、ずるりずるり。そんな音が聞こえてきそうなくらい、重そうに足を引きずりながら、元大公は、ゆっくりと傍聴席の間の通路を進んでいく。傍聴席の人たちは、もう悲鳴さえ漏らすことなく、息をひそめて、じっと元大公を見つめている。何人か、涙を拭う仕草をしている人がいるのは、あまりの元大公の激変に、衝撃を受けたんだろう、きっと。
元大公の後ろには、クローゼ子爵家の四人が続いている。元大公に比べると、変化がないようにも見えるけど、実際には、ものすごく様変わりしていた。胸元から生えた四匹の大蛇を、骨になるまで業火で燃やされたオルトさんは、髪の毛が真っ白になって、身体つきも二回りりは細くなっていた。オルトさんの視線は、前を歩く元大公だけに注がれていて、元大公がよろける度に、心配そうに手を伸ばそうとするのが、何だか無性に悲しかった。
オルトさんの息子であるアレンさんと、オルトさんの弟であるナリスさんは、やっぱり痩せていて、顔色も青白かった。二人とも、傲然と顔を上げて、必死に堂々と歩こうとしているのがわかるから、それが逆に痛々しい。罪の重さを考えれば、同情する必要なんてないとは思うけどね。
元大公騎士団長のバルナさんっていう人も、すっかり顔つきが変わっていた。キュレルの街の守備隊本部を襲撃しようとしたときは、たくましくて強そうで、見るからに偉そうだったのに、今は、不安そうに視線を泳がせていて、一回りは小さく見えるんだ。
ただ、一番後ろを歩いてきたミランさんだけは、少し様子が違っていた。痩せているのも、顔色が悪いのも同じなのに、妙に余裕を感じるんだよ。人を苦しめ、人を傷つけることを楽しむ、本当の意味での悪人……神霊さんたちによって、額に〈嗜虐〉の文字を刻まれたミランさんは、口元に薄っすらと微笑みを貼りつけて、奇妙なくらい生き生きと、瞳を輝かせていた。
わたしの膝の上のスイシャク様と、肩の上のアマツ様が、わずかに反応した。それまでは、気配を消したまま、上機嫌で〈神秤の間〉の様子を見回していたのに、警戒するような、おもしろがっているような、どちらともいえない雰囲気で、ミランさんに目を向けていたんだ。
そんな二柱の反応は、わりとめずらしい。どういう意味なのか、教えてもらおうとしたところで、進行役のハイムさんが、口を開いた。
「六名の被疑者は、壇上に設けられた席に座り、神前裁判の開廷を待つように。同じ壇上には、すでに告発者の皆様が着席しておられますが、決して自分から話しかけてはなりません。ここから先、〈神秤の間〉での被疑者の言動は、すべてが記録されますので、そのおつもりで」
元大公たちは、うながされるまま、それぞれの席に着いた。元大公は、段を上がるのも大変そうで、足元をふらふらさせていたんだけど、オルトさんがすかさず手を差し出し、優しく肩を抱くようにして、元大公の身体を支えていた。
わたしは、そんなオルトさんを見ているうちに、どうしようもなく悲しくなった。元クローゼ子爵のオルトさんは、疑う余地もなく悪人で、たくさんの子どもたちを誘拐する手助けをしたし、フェルトさんやわたしたちを殺そうともした。最悪なことに、〈野ばら亭〉のお客さんまで一緒に、焼き殺そうとしたんだから、大罪人であることは間違いない。間違いないんだけど……実の父親である、元大公を慕う気持ちだけは、真実なんじゃないかって、そう思ったんだよ……。
お父さんやお母さんに気づかれないように、わたしが、そっとため息を吐いたとき、ハイムさんが、高らかに神前裁判の開始を告げた。
「傍聴者、告発者、被疑者が揃いましたので、只今より、神前裁判を開始いたします。本日、裁判官に相当する役割を務めさせていただきますのは、神霊庁が神使の一、クレメンス・ド・マチェクにございます。神使マチェクは、神霊庁が御神霊から賜りし神器の一つ、尊き御神秤の加護を以て、重き裁きを司ります」
◆
ハイムさんの声に応えるように、〈神秤の間〉の入り口から現れたのは、純白の着物と袴を身につけた、マチェク様だった。マチェク様の後ろには、同じ白い着物と袴姿の神職さんが四人、静々と続いている。傍聴席の人たちは、深く頭を下げて、敬意を表しているんだけど、それは、多分、マチェク様が捧げ持っている、神器に対するものだったんじゃないだろうか。
マチェク様は、白木の三方を運んでいた。三方っていうのは、神霊さんへの供物を載せるための台で、四角の板の下に、四角い筒形の足台がついている。一般の家庭でも、〈神座〉に供物を捧げるときに使ったりするから、ルーラ王国の国民は、わりと見慣れていると思う。
マチェク様の持っている三方は、かなり大きくて、すごく上等そうだった。台の上には、底光りするほど美しい純白の布が敷かれ、その上には、白銀の秤が置かれている。左右に天秤のついた、天秤ばかり。神秤は、一目みた瞬間に、普通の秤じゃないってわかるくらいの、圧倒的な神々しさを湛えて、白々とした光を放っていたんだ。
マチェク様たちは、〈神秤の間〉の最奥に作られた壇に上がり、さらに階段を登って、それぞれに席に着いた。マチェク様は、階段の一番上、わたしたちのいる貴賓席と同じ高さの席まで進むと、側に付き従った神職さんに三方を渡し、恭しい手つきで神秤を持ち上げた。
マチェク様は、立派な大机の上に神秤を置き、深く礼をしてから、椅子に座った。正面には、神前裁判の傍聴に訪れた人たちが座り、左右には、告発者であるアリアナお姉ちゃんたちと、被疑者である元大公たちがいる。マチェク様は、ゆっくりと〈神秤の間〉を見渡してから、重々しい声でいった。
「定刻に至り、関係者一同、お揃いと存じます故、只今より、裁判を始めさせていただきまする。この場は、世の常の裁きに非ず。御神々の御前にて、真偽、正邪、善悪を問い正し、御神々の御裁きを賜る場でございまする。御神々の御裁きの有りてこそ、人の裁きもございましょう。その理を、決して違えてはなりませぬ。畏み畏み」
そういって、マチェク様は、神秤に向かって深々と頭を下げ、祈りを捧げているようだった。傍聴席の人たちも、揃って頭を下げている中、わたしの隣にいるヴェル様が、小さな声で聞いてくれた。
「マチェク猊下のお言葉の意味が、おわかりになりますか、チェルニちゃん?」
「多分、わかると思います。真偽を明らかにして、罪があるかどうかを教えてくれるのは、神秤の神霊さんだけど、刑罰は人の作った法律によって決められる……っていうことでしょうか?」
「これはまた、素晴らしい。大正解ですよ、チェルニちゃん。王立学院への入学さえしていないお嬢様が、神前裁判の意味を正しく理解しておられるとは、驚きました」
「おじいちゃんの校長先生が、教えてくれたんです。校長先生は、授業もすごくわかりやすいし、授業以外でも、いろいろなことを教えてくれるんです」
「ユーゼフ・バラン先生ですね。バラン先生は、〈学会の反逆児〉などと呼ばれておられますけれど、その呼び名まで不適切ですね。〈真の教育者〉、あるいは〈知の申し子〉とお呼びするに相応しい方です。ああ、すみません、チェルニちゃん。これから、マチェク猊下が、極めて重大な発表をなさいますよ」
ヴェル様にいわれて、わたしは、慌ててマチェク様に注目した。マチェク様は、ゆっくりと頭を上げると、姿勢を正し、微かに震えているようにも聞こえる声で、こういった。
「これまでの例では、ここから裁判に入るのでございますけれど、本日は、皆様にお知らせすべき重大事がございます。これより裁かれますのは、ルーラ王国が大公閣下であられた、アレクサンス・ティグネルト・ルーラ殿。王族が被疑者であり、他国をも巻き込む重大事件につながる可能性があることから、不測の事態に備え、ルーラ王国、王国騎士団長、レフヴォレフ・ティルグ・ネイラ様が、御臨席遊ばされます。また、本日のネイラ様は、王国騎士団長閣下としてではなく、畏れ多くも〈神威の覡〉としての御降臨でございまする。皆様、〈神威の覡〉として在られる御方様には、万に一つの不敬もなきようになされませ。〈神威の覡〉への不敬は、我ら神霊庁の誇りに懸けて、決して許しはいたしませぬ」
マチェク様が口をつぐんだとき、〈神秤の間〉の空気が変わった。もともと緊張感に包まれていたし、ご神秤の神々しさが色濃く漂っている空間だったんだけど、それとは比べものにならないくらい、濃密で荘厳な神威が、〈神秤の間〉を満たしたんだ。
抑え切れなかったのか、何人かの悲鳴が響いた。声も出せず、椅子の上で頭を伏せている人もいる。告発者の席にいる人たちは、身体を硬くしたくらいだけど、被疑者席にいる元大公たちは、わたしの席からでもはっきりとわかるくらい、がたがたと震えていて、今にも倒れそうだった。
「レフヴォレフ・ティルグ・ネイラ様、御出座にございます」
緊張に震えている声で、進行役のハイムさんが、レフ様を呼んだ。わたしは、反射的に入り口を見ようとして、実際には、マチェク様の方を向いた。だって、神霊さんそのものとしか思えない、怖いほどに尊い神威は、そちらから感じられたから。
机につきそうなほど、深く頭を下げたマチェク様の真上、わたしのいる貴賓席からでも、視線を上げる位置に、光が灯った。さっきまでは、白い壁に見えていたはずなのに、天井に近い壁の一角に、いつの間にか純白の御簾が下げられている。光は、その御簾の奥から生まれ、すぐに〈神秤の間〉を満たすほどの輝きとなった。
ゆるりゆるりと、純白の御簾が引き上げられ、ようやく目に入ったのは、わたしの大好きな、わたしを大好きだっていってくれる、レフ様だった。あまりにも神々しくて、人とは思えなくて、わたしも、思わず跪きそうになっちゃったけどね。
レフ様は、布そのものが発光しているように見える、純白の着物と袴を着ていた。ふわりと羽織っている、薄物の格衣は、多分、床について引きずるくらいに長い。格衣には、白金の刺繍がされているのに、どんな柄なのかは、いくら目を凝らしてもわからなかった。
レフ様の瞳は、ご神鏡みたいに煌々と輝く銀色で、さっぱりと整えられた髪だけが、目にも鮮やかな真紅だった。ただ紅いだけじゃない、宝玉そのものの透明感のある真紅は、人の髪としては美し過ぎて、めずらし過ぎて、一目で忘れられなくなるんじゃないだろうか。
考えてみたら、鏡越しに見たり、魂魄で会ったりしたことはあっても、生身のレフ様と遭遇するのは、これが二回目なんだよね、わたし。きっ、求婚してもらって、こっ、婚約の話が決まりそうなのに、二回目!
改めて自覚した事実に、ちょっとめまいを起こしそうになりながら、わたしは、必死にレフ様を見つめた。神霊さんそのものに見えて、あまりにも尊くて、思わず気後れしそうになっても、目は逸らさない。逸らす気になれない。どんなに距離を感じたとしても、レフ様はレフ様なんだから。
レフ様の後ろには、マルティノ様を始め、何人かの副官さんがいた。漆黒の団服に、銀の星が刻印された佩刀は、ルーラ王国の誇る王国騎士団の証。そして、団服の胸元に、銀糸で刺繍された太陽の紋章は、レフ様の副官さんだけに許されたものなんだって、マルティノ様が教えてくれたからね。
レフ様は、一言も話そうとはせず、一つ、会釈をした。ものすごく熱い目で、レフ様だけを見つめていたマルティノ様は、すぐに一歩進み出て、マチェク様に声をかけた。
「〈神威の覡〉たる御方様は、これより神前裁判を傍聴遊ばされます。いざ、お始めくださいませ、マチェク猊下」
マチェク様は、〈御意にござります〉っていって、ゆっくりと頭を上げた。巻き上がっていた純白の御簾が、するすると下がっていき、レフ様たちの姿が隠されたところで、神々しい鐘の音が響いた。一度、二度、三度、四度……。
〈神秤の間〉に響く四度目の鐘の音は、神前裁判が開始される合図なんだ。マチェク様が、それまでの丁寧な口調を事務的なものに変えて、こういった。
「只今より、開廷いたす。告発者、被疑者とも、偽りを申さず、語るべきことを語られよ。まずは、告発者の一。ルーラ大公家、継嗣予定者、フェルト・ハルキス殿」
「はっ!」
「中央の証言席へ進まれよ」
「畏まりました、猊下」
真っ先に名前を呼ばれたフェルトさんは、アリアナお姉ちゃんに微笑みかけてから、堂々と胸を張り、力強い足取りで、証言席へと向かった。ついに、いよいよ、神前裁判が始まるんだよ……。