連載小説 神霊術少女チェルニ〈連載版〉 4-11
蛇少女のロザリーが、十四歳の少女が絶対に身に宿しちゃいけないはずの、滴るほどの憎悪に飲み込まれようとしたとき、わたしのポケットから滑り出たのは、〈鬼哭の鏡〉だった。ポケットに入れた覚えなんてないし、呼び出してもいないのに、応接室の中央に浮かぶ〈鬼哭の鏡〉は、どこか清らかさを感じさせる白い光で、白々と応接室を照らし出したんだ。
わたしが、〈鬼哭の鏡〉を目にしたのは、これで三回目になる。最初は、クローゼ子爵家の事件の最中、ヴェル様に連れられて、神霊庁の神器である御神鏡の世界に入っていったときだった。
ほの暗く広大な空間の中、夜空を照らす星のように、数えきれない鏡が瞬いている神秘的な〈鏡界〉で、〈鬼哭の鏡〉は、ぽたぽたと血の涙を流していた。ヴェル様が教えてくれたところによると、〈鬼哭の鏡〉の中には、悲しい女の人の魂が封じ込められているんだって。
何百年も昔、愛する娘さんを理不尽に殺されて、犯人たちを憎み尽くしたお母さんが、血の涙を流しながら〈鬼成り〉してしまった。お母さんは、娘さんの仇を討ったけど、復讐の後も激しい憎しみに囚われ続け、魂を穢してしまった挙句、鏡の虜囚になったんだよ。
〈鏡界〉で見た〈鬼哭の鏡〉は、縁が欠けてぼろぼろになった、両手に乗るくらいの大きさの古ぼけた鏡だった。鏡面は、濃い灰色に煤けて、一切の輝きを失っていた。しかも、その鏡面からは、痛いほどに紅い鮮血が滴り、欠けた縁を伝ってこぼれ落ちては、紅い霧になって消えていったんだ。
怖くて不気味な光景のはずなのに、わたしは、〈鬼哭の鏡〉が、かわいそうでかわいそうで仕方がなかった。結局、スイシャク様に促され、塩と鈴の神霊さんにも助けてもらって、〈鬼哭の鏡〉を浄化できたのは、わたしにとっても幸運なことだったと思うんだ。
二回目に〈鬼哭の鏡〉を目にしたのは、クローゼ子爵家の事件の最終日、元大公のお屋敷で起こった捕縛の場面を、鏡越しに目撃したときだった。ヴェル様が、大公のお屋敷の様子を映し出す鏡を選んでいたら、〈鬼哭の鏡〉が名乗り出てくれたんだって。
ヴェル様は、〈《鬼哭の鏡》は、自分を救ってくれたチェルニちゃんの役に立ちたくて、自分から協力を申し出てくれた〉っていってたけど、つくづく不思議だと思う。鏡に人の魂が封じられていることも、その鏡が意志を持っていることも、わたしに力を貸そうとしてくれることも。何よりも、今、この場に、〈鬼哭の鏡〉が出現したことが、不思議で不思議でしょうがないけどね。
驚きのあまり、わたしが、呆然と〈鬼哭の鏡〉を見つめていると、スイシャク様とアマツ様から、優しいイメージが送られてきた。〈あれなる鏡は、雛を助けんとぞ願いたる〉〈我らが呼び掛けに、瞬く間に応えたる〉〈雛が慈悲の心を以て、鏡を救いたる結果也〉〈因果応報と覚えけん〉〈雛を助ることこそが、鏡の善行となりにける〉〈蛇の少女に相対すに、《鬼哭の鏡》に及くはなし〉って。
これって、スイシャク様とアマツ様が、わたしの手助けをするように、〈鬼哭の鏡〉に呼びかけたっていう意味だよね? わたしに恩を感じてくれている〈鬼哭の鏡〉は、今回もすぐに応じてくれたし、そうして手助けをしてくれることは、〈鬼哭の鏡〉にとってもきっと良い結果につながる。何よりも、ロザリーを落ち着かせるには、〈鬼哭の鏡〉に勝るものはない……んだよね?
スイシャク様とアマツ様は、わたしに祈祷をさせたいときは、はっきりと指示を出してくれる。つまり、今回は、そうしない方が良いんだろう。祈祷によって顕現するのは、尊い御神霊と決まっているから、ロザリーには受け止め切れないんじゃないかって、何となく思ったのは、そうそう的外れでもないんじゃないかな。
わたしが、二柱が送ってくれたイメージを、受け止めている間に、応接室の空気は一変していた。憎悪をたぎらせていた蛇も、鬼の形相に顔を歪めていたロザリーも、様子がおかしい。まるで魅入られたみたいに、じっと〈鬼哭の鏡〉を見つめているんだ。
〈鬼哭の鏡〉は、蛇とロザリーの視線を釘づけにしながら、どんどん大きくなっていった。両手に乗るくらいの大きさだったはずなのに、何回か瞬きをしているうちに、両手を広げても届かないくらいの、大きな大きな鏡になった。ふわりと宙に浮いた〈鬼哭の鏡〉は、そのまま滑るように移動して、わたしとロザリーの間に割って入ってきた。ちょうど、ロザリーと蛇の視界から、わたしを隠すみたいに。
〈鬼哭の鏡〉の鏡面は、ロザリーと蛇の方を向いている。だから、わたしの正面には、鏡の裏側が見えているはずなのに、わたしの目にも、ロザリーと蛇が見えている。すごく不思議だけど、わたしの見ているものが、〈鬼哭の鏡〉に映ったロザリーたちの姿なんだって、なぜだかはっきりとわかった。
〈鬼哭の鏡〉に映るロザリーは、憎しみにぎらぎらしていた瞳を見開いて、じっと自分の姿を凝視している。可愛らしい造作の顔を歪め、小さな歯を剥き出しに、額には不気味に光る〈邪見〉の文字が鈍く光る。そして、何よりも、威嚇するように立ち上がった、穢らしい泥色の巨大な蛇が、ロザリーの胸元に尻尾を埋めているんだよ。
〈鬼哭の鏡〉が、ロザリーたちに見せているのは、人の子には見えないはずの光景だった。わたしが、スイシャク様やアマツ様のお力で、見えるようしてもらっている、現世を超えた実態が、〈鬼哭の鏡〉にも映し出されたんだろう。
わたしは、自分の勘がささやくまま、とっさに指で耳をふさいだ。どうしてそうしたかっていうと、わたしがロザリーの立場だったら、絶叫するしかないと思ったんだ。次の瞬間、校長先生の個室に隣り合った応接室に、甲高い少女の絶叫が響き渡った。
「嫌ーーっ! 嫌、嫌、嫌、嫌! 気持ち悪い! 何よ? 何よ? この蛇は? 怖い! 怖い!」
ロザリーは、顔を真っ青にして、めちゃくちゃに腕を振り回した。蛇を引き剥がそうとしているのかもしれないし、単に混乱しちゃってるのかもしれない。〈嫌!〉〈気持ち悪い!〉〈怖い!〉って叫びながら、半狂乱になっている。
認識された途端、ロザリーに全力で拒絶された蛇は、ものすごく怒っているようだった。シャーシャーいう鳴き声は、もうジャギャージャギャーっていう感じの唸りになり、牙を剥いた口は、耳元まで大きく裂けている。ぽたぽたとこぼしていたよだれは、白く泡立って、ロザリーの肌にぼたぼたと落ちていった。
この蛇って、誰に怒っているんだろう? わたしへの憎しみは感じるけど、今は、蛇の視界には映っていないと思う。ロザリーを混乱させた〈鬼哭の鏡〉なのか、気がついた瞬間に自分を否定した、ロザリー本人になのか? わたしには、穢れた蛇の気持ちなんてわからないし、わかりたくもないから、何だって良いんだけどね。
〈鬼哭の鏡〉を通して見ているおかげで、わたしは、あんまり恐怖を感じることなく、ロザリーと蛇の様子を観察できた。ロザリーは、まったく落ち着く気配がないし、蛇はますます怒っている。これって、どうやって収拾をつけるんだろうって、さすがに心配になったとき、応接間に響いた声があった。
〈いくら喚こうと、何も変わりはせぬものを。其方が厭う穢れた蛇は、其方自身が招き寄せたのものなのだから〉
驚いた。何だったら、驚愕したっていっても良い。だって、尊い神霊さんのものとは違う、だけど、絶対に人のものでもない気配を漂わせた声は、〈鬼哭の鏡〉から聞こえてきたんだから。
それは、落ち着いた女の人の声で、微かに震えて重々しく、遠くから聞こえてくるようにも、耳元でささやかれているようにも聞こえた。神霊さんたちの使っている〈古語〉じゃなく、わたしたち人の子が使う普通の言葉が、古い鐘を思わせる響きをまとって聞こえてきたんだよ。
〈鬼哭の鏡〉がしゃべったっていう衝撃に、思わずぶるぶるっと身体を震わせたとき、スイシャク様とアマツ様から、またしてもメッセージが送られてきた。〈其は鏡の声也〉〈《鬼哭の鏡》は禊を終えたり〉〈虜囚の軛から放たれし《鬼哭》は、鏡の霊と成らん〉〈遥かなる刻を経て、《神成り》遂げるか否かは、我らも知らぬ定めの末にて〉〈穢れし《鬼成り》を食い止めしは、霊をば磨く手立ての一〉〈罪に堕ちんとする蛇少女に、己が実相をば伝えるらん〉って。
わりとむずかしいことを、いきなり教えられちゃったけど、わたしは、頑張ってメッセージを読み解いた。娘さんを失った哀しみのあまり、犯人たちに復讐し、その罪を償った後も、〈鬼哭の鏡〉に囚われていたお母さんの魂は、〈霊〉っていうものになって、ある種の自我を持つようになった……んだよね? そして、遥かな刻の流れの末に、御神鋏の〈紫光〉様みたいに、〈神成り〉するかもしれないから、魂の修行の一つとして、〈鬼成り〉を食い止めようとしている……んだよね?
恐怖に引きつったロザリーの表情と、激しい怒りに身をくねらせる蛇を、じっと見つめながら、わたしは、あまりにも不思議な成り行きに、言葉もなく固まっていたんだよ……。
◆
硬直したわたしをよそに、ある意味で元気いっぱいなロザリーは、いっそう混乱したみたいで、めちゃくちゃに振り回していた腕で、今度は自分の頭を掻きむしった。〈鬼哭の鏡〉に視線を吸い寄せられたまま、悲鳴のような声で〈嫌!〉っと叫び続けている。半狂乱のロザリーに、〈鬼哭の鏡〉が再び話しかけた。
〈蛇の娘よ。何故、斯程に取り乱す?〉
「嫌! 嫌! 鏡がしゃべってる! 気持ち悪い! 誰か、蛇を取って! 気持ち悪い!」
〈穢れし蛇を身の内に招いたは、其方の仕業であろうにな。蛇は、其方自身と知るが良いよ、蛇の娘〉
「嫌! 嫌! え……? え? 蛇が何だって?」
〈蛇は、其方自身であると申した。さあ、目を凝らして見て御覧、蛇の娘。蛇と其方を繋ぐ因果が、其方にも感じられるであろう?」
〈鬼哭の鏡〉は、呆れた気配を漂わせた声で、辛抱強くロザリーに話し続ける。神霊さんの言霊やイメージは、いつも〈古語〉だったから、すごく古めかしくても、わたしたちが使っているものに近い言葉が、〈鬼哭の鏡〉から聞こえてくるのは、すごく不思議な気分だよね。
「この蛇が、わたし自身? そんな馬鹿なことって……」
〈やれ、漸く我が声が聞こえましたか。其方の胸元に潜り込めし蛇は、真の蛇には非ず。其方の醜き性根、卑しき妬み、捻れし望みが、其方の魂魄を穢し、蛇の姿を取っているだけのこと。蛇を厭うは、己が魂を厭うのと同じことであろうな〉
「嘘よ! 汚い鏡のくせに、嘘をいうんじゃないわよ!」
〈何とまあ、困った娘であることか。蛇に魅入られるのも、道理じゃな。目を背けず、見て御覧。蛇と其方は、同じ顔をしておろう?〉
「何をいわれているのか、わからないわよ! わたしは、わたしは、可愛いんだから。可愛くて、綺麗で、誰にでも好かれて、学校でも注目の的で、トマスだって……トマスだって、わたしを好きになるはずなのよ。幼馴染で、あんなに仲が良かったのに。親同士で、婚約させちゃおうかなんていってたくらいなのに。わたし、好きなのに。トマスだって、わたしを好きだったはずなのに。町立学校に入った途端に、カペラさん、カペラさんって! いつか、カペラさんが振り向いてくれるかもしれないから、わたしとは付き合えないって! でも、大切な幼馴染だって! 嫌いじゃないけど、幼馴染としては大好きだけど、付き合いたいのはカペラさんだって! 悔しい。悔しい。カペラさんなんて、いつも何を考えているのかわからなくて、わたしたちを馬鹿にした目で見ているくせに。憎い。憎い。わたしより、カペラさんの方が可愛い。わたしより、カペラさんの方が綺麗だ。わかっているけど、わかっているけど、憎くて憎くて仕方ないのよ。ずるい。わたしのほしいものを、何でも持っているくせに、何にも大切にしようとしないカペラさんは、ずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるい」
ろくに息継ぎもしないまま、ロザリーの口をついて出てくる言葉が、少しずつ強く、高く叫ばれていく様子は、控えめにいって怖かった。〈鬼哭の鏡〉が、一生懸命に説得してくれて、ちょっとだけ会話が成立しかけたと思ったら、またしても自分の世界に入っていっちゃってるよ、ロザリーってば。
ロザリーが、半狂乱になっているのって、わたしがいるからだよね? わたし、また何か失敗しちゃったんだろうか?
わたしが言葉を失っている間に、ロザリーの胸元で渦巻いていた黒いもやもやは、その動きを早めていった。ぐるぐるしていたのが、ぐるんぐるん、ぐるんぐるんって。渦の中心には、今にも穴が開きそうにも見えるんだ。
憎悪にぎらついていた蛇は、ロザリーが〈ずるいずるい〉っていい始めた途端、うれしそうに笑い出した。蛇のくせに、はっきり喜んでいるってわかる表情で、にしゃあって笑ったんだよ。わたしは、怖いよりも腹が立って、思わず蛇を睨みつけた。そして、わたしよりももっと怒っていたのが、〈鬼哭の鏡〉だった。
〈鬼哭の鏡〉は、蛇の〈嗤い〉を映しながら、いきなり強く発光した。ほのぼのと白い、柔らかなもやを思わせる光から、滴り落ちる鮮血そのままの、赤い光へと色を変えて。アマツ様の真紅の光が、どこまでも清らかに澄み切った、荘厳で神々しい光だとすると、〈鬼哭の鏡〉の真紅の光は、見ているだけで怖くなってくる、生々しい怒りと憎しみを感じさせるものだった。
赤い光は、禍々しささえ感じさせる真紅の縄っぽいものになって、すごい勢いで、真っ直ぐに蛇へと伸びていった。穢らしい蛇は、とっさに身体をよじって、ロザリーの胸元で渦巻く黒いもやもやに、頭から潜り込もうとしたんだけど、まだ魂に食い込むための〈道〉は、開いていなかったんだろう。二度、三度と弾かれている間に、真紅の縄は、蛇をきりきりと縛り上げちゃったんだ。
いつの間にか、少女の足くらいの太さになっていた蛇は、真紅の縄から逃れようと、めちゃくちゃに暴れているけど、縄はまったくゆるまない。それどころか、ぎりぎりと音が聞こえそうなくらいの勢いで、蛇の身体を捩じ上げていく。ぽたぽたと、血の涙に見える鮮血を滴らせながら……。
わたしは、急に不安になって、スイシャク様とアマツ様にイメージを送った。はっきり眷属って意識したからなのか、〈神託の巫〉の宣旨を受けたからなのか、レフ様と、とっ、特別な縁ができたからなのか、今のわたしと二柱の間で交わされるイメージは、言葉そのままに明快だった。
〈これって、大丈夫なんでしょうか? 《鬼哭の鏡》の赤い縄が、すごく怖いんですけど。血まで流れちゃってるし。《鬼哭の鏡》ってば、わたしを助けるために、また魂を穢したりしていませんか? もしそうなら、何としてでも止めなくっちゃ……〉
〈雛の案ずるには及ばず〉
〈神の慈悲、神の裁きは神なればこそ。霊には霊の仕様もあれば〉
〈荒ぶる《鬼哭》の有様こそは、子をば愛しむ母の念。刻の彼方に至りせば、荒御霊へと変ずるや〉
〈至りし刻の更に末、荒御霊、和御霊の揃いたれば、目出たく〈神成り〉遂げるらん〉
〈えっと、つまり、禍々(まがまが)しい感じの鮮血も、心配することじゃないんですね? 《鬼哭の鏡》は、気が遠くなるくらいの時間をかけて、本当に救われて、もしかしたら神霊さんに《神成り》するかもしれないんですね?〉
〈然り〉
〈然り〉
わたしが、すっかり安心して、ほっとため息を吐く間にも、〈鬼哭の鏡〉の鮮血の縄は、強い力で蛇を締め上げて、ロザリーの身体から引き剥がそうとしていた。穢らしい蛇は、今や全身を波打たせて暴れまわっているんだけど、鮮血の縄はゆるまない。じりじりじりじり、じりじりじりじり。縄は蛇を絡め取ったまま、ゆっくりとその動きを封じていくんだ。
少女の足くらいの太さのあった蛇は、身体中に巻きついた鮮血の縄の中で、少しずつ身体を縮めていった。腕くらいの太さになって、手首くらいの太さになって、親指くらいの太さになったあたりで、とうとうロザリーの身体から引きずり出された。ギシャーギシャーっていう鳴き声も、どこか悲鳴のようだった。
蛇が縮んでいくにつれて、ロザリーにも変化が起こった。胸元で渦巻いていた黒いもやが、薄っすらとした灰色の霧に変わり、ぐるんぐるんの渦巻きも、ぐるぐるくらいに弱まった。精神的にも、ちょっとだけまともになったようで、鬼の形相だった顔には、美少女っぽい可愛らしさが戻りつつあったんだ。
ロザリーは、自分の身体からほんの少し遠ざかった泥色の蛇と、蛇に巻きついた鮮血の縄、そして目の前に浮かぶ〈鬼哭の鏡〉に視線を向け、どこか呆然とした口調でいった。
「何なの、これ? カペラさんの神霊術なの? わたしに気味の悪い蛇をけしかけたのは、カペラさんなの?」
「いや、そっちこそ何なの、ロザリー? めちゃくちゃないいがかりだよ。断固として否定し、抗議します。ふざけるな」
「だって、急に変な鏡が出てきて、わたしの身体に蛇が入り込もうとしているんだもの。ああ、本当に気持ち悪い! カペラさんの神霊術じゃないのなら、何なのよ、この不気味な蛇と鏡は! 第一、どうして、わたしとカペラさんの間に、こんな鏡があるのよ?」
〈其方の如き性悪娘に、尊き雛の姿は毒であろう?〉
「きゃ! 鏡がしゃべってる! 気持ち悪い!」
「だから、失礼だってば。鏡は、ロザリーから蛇を遠ざけてくれているのに。さっきから、気持ち悪いとか嫌だとか、単語でしかしゃべらないのも、どうかと思うよ? 会話が成り立たないからさ。そういう態度なら、鏡に頼んで、蛇を返してもらおうか?」
「わたしを脅す気? 要らないわよ! 返すも何も、わたしの蛇じゃないし! わたしの蛇って、何よ、それ!」
「いや、自分でいって、自分で否定しないでよ。その蛇は、ロザリーのだよ。ロザリーの心の穢れが、蛇の形で現れただけだからね」
「はあ? どういう意味? わけのわかんないことをいわないで! カペラさんの、そういう思わせぶりな話し方って、すっごく嫌味よね」
「……もう疲れたよ、わたし。やっぱり帰って良い?」
「良いとも、良いとも。早々に家にお帰り、サクラっ娘」
突然、入り込んできた声に、わたしとロザリーは、揃って顔を向けた。いつの間にか、校長先生の個室と応接室をつなぐ扉が空いていて、そこには、わたしの大好きなおじいちゃんぽい校長先生が、悲しそうな表情で佇んでいた。
「ロザリーもな、本当はわかっておるのじゃよ。蛇の存在の意味も、誰が蛇を生み出したのかも。賢い子じゃからの。後は、わしが話を聞いてみるので、サクラっ娘は家にお帰り。最後でもあるし、わしにも、校長先生らしいことをさせておくれ。卒業式を終えたとはいえ、ロザリーもサクラっ娘も、わしの大切な生徒であるからの。どうか、この場は任せていただきたいと、並々ならぬ力をお持ちの御鏡にも、取りなしておくれ」
校長先生の言葉に、スイシャク様とアマツ様が、すかさず〈是〉とイメージを送ってきた。すごく中途半端で、責任を放棄した気もするけど、わたしは、心底ほっとした。だって、一度だけって決めていた、蛇少女との対決は、予想を遥かに上回るほどの疲労の末、ようやく幕を下ろそうとしていたんだから。
ただ、深々と頭を下げて、応接室を出るとき、校長先生からかけられた言葉だけは、いつまでも心に残っていた。校長先生は、優しい声でいったんだ。〈ロザリーの存在を、どうか覚えていてやっておくれ、サクラっ娘。人の世には、何千人、何万人のロザリーがおるのでな〉って……。