連載小説 神霊術少女チェルニ 小ネタ集 パトリック・クレマンの美味探究
こちらは、現在連載中の、〈神霊王国物語〉シリーズ『神霊術少女チェルニ〈連載版〉』の小ネタ作品です。
本日より7日間、小ネタ集を投稿いたしますので、ぜひ『〈連載版〉』や『往復書簡』と合わせてお楽しみください。
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わたしの名前は、パトリック・クレマン。三十二歳、独身。恋人募集中。
わたしは、ルーラ王国で最大の発行部数を誇るグルメ月刊誌、〈美味天空ー星々が選ぶ美味いものー〉、通称〈うま天〉の記者である。王都の名店を食べ尽くしたわたしは、今回は少しばかり足を伸ばし、王都郊外の街のひとつ、キュレルを訪れている。
何事にも情報収集を欠かさないわたしは、事前に編集長に相談して、確かな助言を求めた。すると、グルメ業界にその人ありと謳われる、敏腕編集長ミランダ・ジョルノ女史は、〈キュレルに行くなら、絶対にあの店を取材しなさい!〉と、凄まじく怖い顔で命令してきた。あの店とは、キュレルでも一、二を争う高級宿兼食堂、〈野ばら亭〉である。
この〈野ばら亭〉は、なかなか変わった営業形態を取っている。宿そのものは高級で、値段もかなり張るのだが、同じ敷地内にある大食堂は、なぜか非常に手軽な価格なのである。
そして、宿屋の方の〈野ばら亭〉に泊まった宿泊客は、次の三つのプランの中から、好みの食事を選ぶことになる。
1、コース料理を注文し、宿のレストランで食べる。これは、宿の格式にふさわしい金額で、レストランも洗練されている。
2、宿の中にある食堂で、大食堂と同じメニューの中から選んで食べる。この場合、大食堂の料理の金額に、若干のサービス料が加算されるものの、美しく整えられた食堂で、ゆっくりと料理を堪能できるという利点がある。
3、大食堂を予約し、勝手に好きなものを食べる。値段的には、これが圧倒的に安い。後述するが、〈野ばら亭〉の大食堂は、品質に比べて驚くほど低価格なのである。
〈野ばら亭〉に何泊かするのなら、すべてのプランを試してみたいころだが、一泊しかできない、あるいは他の宿に泊まるのであれば、わたしは3を強くお勧めする。その街の人たちと一緒に、飾り気のない料理を口にすることこそ、グルメの醍醐味というものではないか!
というわけで、わたしは早速、この日の夕飯を求めて、〈野ばら亭〉の大食堂へと踏み込んでいったのである。
あらかじめ予約していたわたしは、待つこともなく、大きなテーブルの一席に案内された。十人は座れる席は、地元の人たちや、わたしのような宿泊客との相席だった。
相席になることは、予約の時点で説明を受けているので、まったく問題がない。むしろ、店の本当の評判を探るには、好都合だろう。3のプランを選んだわたしは、さすが腕利のグルメ記者である。
さて、やたらと種類の多いメニューの中から、わたしは先ず、モツ煮込みとエールを注文した。ありきたりの選択だと、失望した読者諸君は、少しばかり早計というものだ。〈野ばら亭〉のモツ煮込みは、食堂の代名詞ともいえる人気メニューで、ミランダ編集長からも、〈何があっても食べろ!〉と厳命されているのである。
メニューには、やけに汚い子供のような字で、〈たくさんのお客様に食べてほしいから、モツ煮込みは、お一人様一皿でお願いします。勝手をいって、本当にすみません〉と書き添えてあり、手をついて謝っている絵まで書いてあった。絵の方も大変に下手くそだったが、ほのぼのとしたものを感じるのはなぜだろう?
わたしが首を捻っていると、横の席に座っていたご常連が、〈看板娘の妹の方の、チェルニちゃんが書いているんだ。可愛いだろう?〉と、満面の笑みを浮かべていた。なるほど。この字の汚さからいって、勉強は苦手な少女なのかもしれないが、きっと性格の良いお嬢さんで、皆に可愛がられているのだろう。微笑ましいことである。
待つほどのこともなく、わたしの目の前に、湯気を立てたモツ煮込みと、見るからによく冷えたエールが運ばれてきた。
モツ煮込みは、胃袋を直撃するような芳香を放ちながら、淡い脂の膜を輝かせている。これは美味い。食べなくてもわかる。本当においしい食べものは、見ただけで人の心を魅了する力を持っているものなのだ。
慎重にスプーンを運び、とろりとした煮汁ごと、ひと口目を口に入れる。最初に舌を刺激したのは、複雑な層をなして襲ってくる、圧倒的な旨味だった。牛骨と香味野菜から取ったと思われる、複雑にして奥深い出汁の滋味。さわやかに食欲を刺激する、トマトの酸味。モツから滲み出たであろう、臭みとは無縁の野性味。そうした何種類もの旨味が、たったひと口の中に凝縮されていたのである。
いつまでも煮汁を味わっていたいのに、わたしの口は、簡単に持ち主の意志を無視したようだ。豊潤な煮汁を喉へと押しやり、いつの間にか、味の染みたモツを噛み締めていたのだから。
数種類の部位を揃えたモツは、様々な食感の楽しさを、存分に味合わせてくれた。よく煮込まれていて、決して硬くはないのに、どこまでも弾力のあるモツには、一切の雑味が存在しなかった。
王都なら、紅茶の一杯も飲めないほどに安価な、たった一皿のモツ煮込みを作るために、いったいどれだけの下処理を重ねていることか。わたしは、このひと口目で、〈野ばら亭〉の実力と誠実さを感じ取り、深く感動したのだった。
いや、待て、パトリック・クレマン。感動するのは後で良い。今は、〈野ばら亭〉の料理を堪能すべきときだ。
一口目を飲み込み、ふた口目を口に入れたところで、わたしは猛然とエールが飲みたくなった。すかさず、コップまで冷えたエールを捧げ持ち、一気に喉に流し込む。
うんまいぃ! これはもう、べらぼうに旨い! モツ煮込みの、ほんのわずかな味の濃さが、エールの清々しい苦味を引き立てて、まさに天上の星が目の前で瞬いたかのような、衝撃的な旨さが炸裂したのである。
深い満足の吐息をもらし、わたしは、三口目を口に入れ、エールを飲む。四口目も口に入れ、エールを飲む。ここで、エールが残りわずかになったので、早速お代わりを注文してから、五口目を口に入れ、残りのエールを飲む。六口目を口に入れ、速やかに運ばれてきた、お代わりのエールを飲む。これはもう、一種の永久運動ではないだろうか。
すると、横の席のご常連が、素晴らしい助言をしてくれた。煮汁の一滴まで飲み干したいところではあるが、今は待て、と。〈野ばら亭〉では、一時間ごとにサービスのパンが焼き上がってくるので、その焼きたてパンにひたして食べる分の煮汁を残しておくのが、ご常連の楽しみ方らしい。
なるほど。誠に残念だが、看板娘の妹の方に、お願いされているのだから、モツ煮込みは一皿しか頼めない。だとしたら、モツ煮込みの煮汁は、涙ながらに残しておいて、パンが焼けるまでの間に、他の料理をいただくとしよう。
わたしは、自分からいそいそと話しかけ、同じテーブルのご常連たちに、お勧めのメニューを教えてもらった。どの人も、にこにこと微笑みながら、自分の好きな料理を教えてくれた。キュレルの街の人たちは、皆んなが〈野ばら亭〉を愛しているのである。
店の中を見渡せば、宿泊客もご常連も、和気藹々と同じテーブルを囲んでいる。子供たちを連れてきて、家族で楽しそうに食事をしている人もいれば、一人でやってきて、周りの人と語り合っているお客もいる。誰もが騒ぐわけではなく、それでいて賑やかな空気に包まれているのは、〈野ばら亭〉が本当に旨い店だからに違いない。
やがて、遠くからでもはっきりと、食欲を刺激する香りが漂ってきた。横の席のご常連が、〈王都でもめったに食べられない〉と断言した、〈野ばら亭〉自慢のパンが、焼き上がってきたのだろう。
今夜のわたしは、〈美味天空ー星々が選ぶ美味いものー〉、通称〈うま天〉の記者という、名誉ある看板を下ろすことにする。ただの客の一人として、胃袋の許す限り、この店の料理を食べ尽くすのだ!
わたしの名前は、パトリック・クレマン。三十二歳、独身。〈野ばら亭〉のある、キュレルの街への移住を、真剣に考え始めているところである。