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連載小説 神霊術少女チェルニ〈連載版〉 4-23

〈さあ、それでは、一品目の前菜からでございます。どんな意味を持つ会であれ、《野ばら亭》のマルーク・カペラの料理が出されるのなら、そこには純粋な喜びがあるだけですわ。皆様、どうぞ召し上がれ〉
 
 そんなお母さんの言葉と共に、いよいよ〈勝負〉の食事会が始まった。大きな個室には、物件の売り主である、サミュエル・ロッサリオ会頭や奥様たち。もう一つの個室には、わたしとアリアナお姉ちゃん、フェルトさん、総隊長さん、アランさんの五人がいる。
 本当だったら、わたしたちまでご飯を食べる必要はないんだけど、お父さんは、たくさんの料理を作るから、食べるのを手伝ってほしいっていわれたんだ。お父さんとしては、キュレルの街の守備隊を辞めてまで、フェルトさんとお姉ちゃんを守る仕事を選んでくれた、総隊長さんとアランさんに、少しでも感謝を伝えたかったんじゃないかな。
 
 純白のエプロン姿も凛々りりしいルルナお姉さんが、最初に運んできたのは、小さくて可愛らしい陶器の箱と、小さなふた付きのカップだった。サミュエル会頭は、重々しい表情のままで、代わりに横の席に座った奥様が、〈まあ、可愛い!〉って、うれしそうな声を上げた。サミュエル会頭の頭の上の犬は、相変わらず、べったりと頭に貼りついたまま、真っ黒で可愛い鼻を、ひくひくと動かしている。
 ちなみに、隣の個室にいるはずのわたしが、どうして別の部屋の様子を知っているかっていうと、ものすごく優秀な雀たちが、勝手に個室の窓に集まって、視界を共有してくれてるからなんだよ。しかも、クローゼ子爵家の事件の最中さなかから、自重するっていうことを忘れたみたいで、詠唱も対価も、何だったら依頼さえなしに、声まで届けてくれるんだから、感謝しかない……んだろう、多分。
 
 サミュエル会頭は、無言のままカップのふたを取り、じっとスープの金色を見つめている。中に入っているのは、二口ふたくち分くらいの金色のスープ。奥様たちも、早々にふたを開けて、早々に口に入れた。
 〈ああ、美味しい……〉ってつぶやいて、そっと息をいたのは、サミュエル会頭の奥様。〈うっま!! 何これ! うっま!!〉って、大きな声を出しちゃったのは、不動産屋さんの二人。すごい食通で、〈野ばら亭〉にも予約を入れてくれた、不動産開発事務所のマクエルさんは、なぜか固く目をつむって、天をあおいだ。 
 
 肝心のサミュエル会頭は、奥様たちの様子を横目で見て、ゆっくりとカップに口を運んだ。ほんの二口だけの金色のスープは、何回も飲ませてもらったことのある、野菜と自家製ハムのスープだと思う。ことこと煮込んじゃうと、色が濁ってしまうし、少しだけ味の純度が落ちるから、土鍋に入れて蒸し上げるんだ。
 びっくりするくらいの長時間、慎重に蒸し上げたスープは、何回も何回もされて、金色のスープになる。薄茶色や黄色じゃなくて、きらきらと輝く、本物の金色のスープ。絶対においしいってわかっているし、すごく身体にも良いから、いくら味にうるさいサミュエル会頭だって、気に入ってくれると思うんだけど……。
 
 ぴったりと窓に張り付いている雀が、サミュエル会頭を凝視ぎょうししてくれるから、わたしは、細かい表情の変化まで、しっかりと見ることができた。サミュエル会頭は、スープの香りを吸い込み、大きく目を見張ってから、一口、カップに口をつけた。先に飲み干しちゃったらしい奥様たちが、息を呑んで注目するなか、サミュエル会頭は、うめくみたいな声で、こういった。
 
「このスープを飲むお客さんって、どんな人たちなのかな? あんまり美味しくて、びっくりするんじゃないか? へへへ。喜んでくれたら、おれたちもうれしいな」
「今日も、誠心誠意せいしんせいい、頑張って働こう!」
「さあ、次はじゃがいもの山との戦いだ。一つ一つ、丁寧にいていくぞ。薄く薄く、でも、皮の一欠片ひとかけらだって残さずに。おれたちが、少しでも荒い仕事をしたら、〈野ばら亭〉の恥だからな」
「さっきのまかないも、ものすごく美味かったな。〈野ばら亭〉に拾ってもらってから、一度だって飢えていない。ありがたいな。帰りには、母ちゃんたちに食べさせるパンまで、渡してくれるんだもんな。売れ残りだっていうけど、いつも閉店時間の間際まぎわになっても、大量のパンを焼くんだから。まったく、どこまでお人好しなんだよ、親父さん」
「美味しくなれ、美味しくなれ。最高に美味い〈野ばら亭〉の料理が、もっともっと美味しくなれ。食べた人が、皆んな、幸せになるように」
 
 サミュエル会頭が、次々に口に出したのは、料理に対する感想でも、奥様たちに対する言葉でもなかった。え? ええ? サミュエル会頭ってば、何をいってるの? 味にうるさいって聞いていたけど、今の発言って、どういう意味なの?
 わたしは、びっくりして、ぱかんと口が開いちゃった。驚いたのは、他の人たちも同じみたいで、奥様以外の三人も、やっぱりぱかんと口を開けている。奥様は……うれしそうに微笑んだまま、陶器の箱のふたを開けた。〈主人のことは気になさらないで、いただきましょう〉っていって。
 
 可憐な秋桜コスモスの図柄が描かれている、小さな陶器の箱の中には、色とりどりの季節の前菜が、何種類も並べられていた。どれも一口で食べてしまえる大きさで、うっとりするほど綺麗だった。
 翡翠ひすいみたいな輝きの上に金色の砂糖粒が載っている、緑の野菜のゼリー寄せ。ほたて貝と海老を交互に重ねて、黒胡椒で味を引き締めたマリネ。栗のいがいがの形を真似た、栗とひき肉の小さなコロッケ。親指くらいの大きさのシュー生地に、きのこのペーストとフォアグラを詰めたもの。鮮やかに赤くきらめいている三角錐さんかくすいは、甘酸っぱいベリーとクリームチーズのムース。焼いたお肉のしんの部分で、官能的な薔薇色に光っているところを四角に切って、うにやハーブを載せたもの……。昨日、お父さんから教えてもらったとき、思わず喉が鳴っちゃうくらい、手が込んでいて、おいしそうなメニューなんだ。
 
 サミュエル会頭の奥様や、不動産屋さんたちは、次々に前菜を口に入れては、歓声を上げてくれた。〈野ばら亭〉の前菜は、手が込んでいて上品で、まるで芸術品のような見た目で、すっごくおいしいんだよ。
 奥様や不動産屋さんたちは、もう満面の笑顔になっていて、ぱくぱくと食べ進んでいく。〈ゆっくり味わいたいのに、美味しくって手が止まらないわ。どうしましょう?〉って、奥様が困った顔でいって、サミュエル会頭以外の人たちは、何度も何度もうなずいていた。サミュエル会頭は……ものすごく真剣な表情で、前菜を見つめていたかと思うと、一つ一つ丁寧に口に入れては、またしても不思議なことをいったんだ。
 
「なんて綺麗な前菜なんだろう。それに、発想が豊かだよな。お客さんも、口に入れるのをもったいないって思うんじゃないか? すごいや、親父さん」
「こうして〈野ばら亭〉で働くのも、今月で最後か。めちゃくちゃ寂しいけど、やりたい仕事ができたんだから、仕方ないよな。おれが従業員じゃなくなっても、ずっと〈野ばら亭〉の一員だって、いつでも帰ってこいって、いってくれたもんな、皆んな。ここに居場所があるんだから、頑張って夢を追いかけるぞ」
「父さん、今朝も体調が良さそうだったな。毎日毎日、最高に美味いパンを食べさせてもらうおかげだよな。芋を洗うのだって、〈野ばら亭〉への恩返しだ。手なんか抜けるもんか」
「〈野ばら亭〉の味を支えるのは、おれたちなんだ。それが、おれたちの誇りだ」
「さっきのお客さん、泣いちゃってたな。何かつらいことでもあったのかな? 大丈夫。〈野ばら亭〉の飯を食えば、嫌なことなんて忘れちまうさ」
 
 やっと聞き取れるくらいの小さな声で、前菜を食べるたびに、つぶやいていたサミュエル会頭は、何かに耐えるみたいに、ぎゅっと固く目を閉じて、下を向いた。綺麗に食べ終わってくれたから、気に入らないわけじゃないと思うんだけど、いったい何なんだろう?
 あまりにも変てこな、サミュエル会頭の言動に、わたしが戸惑っているうちに、変化が起こっていた。サミュエル会頭の頭の上に、ぺたんと張り付いていた犬が、よろよろと立ち上がったんだよ! つやつやだった毛並みは、ますます輝きを増して、つやっつやというか、きらっきらというか……。比べてみると、さっきまでの綺麗な毛並みでさえ、どこかくすんでいたんだってわかるくらい、美しい犬になっちゃってるよ!
 
 きらきらになった犬は、個室の扉の方を向いて、真っ黒で可愛い鼻を動かした。そこに登場したのは、次のお料理を運んできたルルナお姉さんで、ワゴンの上に載っているのは、ふた付きの平べったい陶器のお皿。純白の陶器に一輪、野ばらの模様が描かれた器は、高級宿の方の〈野ばら亭〉で、モツ煮込みを出すときに、決まって使うものだった。
 瞳を輝かせた犬は、三本の尻尾を、すごい勢いで振り始めた。これは、あれか。いくら尊い御霊みたまでも、犬っぽい存在としての本能が、お父さんのモツ煮込みに反応しちゃってるんだろうか?
 
 お父さんのモツ煮込みは、〈野ばら亭〉の名物の一つだから、そりゃあもう、びっくりするくらいおいしい。しょっちゅう食べているわたしでも、毎回、味の深みと豊かさに感動するんだ。奥様たちも、一口食べた瞬間に、うっとりとした顔になったし、食通のマクエルさんなんて、〈美味い、美味い、美味過ぎる〉って、ずっとうなっていたよ。
 
 そして、肝心のサミュエル会頭は、無言のままモツ煮込みを噛み締め、食べ終わったと思ったら、ぽろぽろと涙を流したんだ! サミュエル会頭は、今度は、ため息みたいな声で一言、こういった。
 
「……ああ……美しい……」
 
     ◆
 
 モツ煮込みを食べた感想としては、あんまり適切だとは思えない、〈美しい〉っていう言葉を告げて、サミュエル会頭は、彫刻になった。もちろん、本当に石になっちゃったわけじゃなく、下を向き、固く目を閉じたまま、動かなくなったんだ。
 反対に、頭の上で立ち上がった犬は、ますます毛並みをきらめかせ、元気良く尻尾を振り続け……わたしの目が確かなら、さっきまで三本だったはずの尻尾が、今は四本に増えているように……見えるよ……。
 
 サミュエル会頭の様子が、あまりにも変だから、さすがに無視するわけにはいかなかったんだろう。お給仕を手伝いながら、ずっと側に控えていたお母さんが、サミュエル会頭の奥様に向かって、そっと声をかけた。
 
「あの、奥様。会頭様は、具合がお悪いわけではございませんの? よろしければ、お休みいただくように、別室をご用意いたしますわ」
「恐れ入ります、奥様。皆様も、ご心配をおかけして、申し訳ございません。主人は、大丈夫でございます。主人が、このような状態になりましたのは、わたくしも初めて目にいたしますけれど、具合が悪くなったわけでも、気分を害したわけでもございませんの。むしろ、主人の人生の中で、感じたことのないほどの喜びに包まれて、思わず泣いてしまったのですわ、きっと。ねえ、あなた。そうでしょう?」
 
 奥様は、優しい手つきでサミュエル会頭の背中をさすりながら、柔らかな声でいった。いつの間に取り出したのか、そっとハンカチを渡すあたり、すっごく良い奥様なんだろうな。
 サミュエル会頭は、渡されたハンカチで目元をぬぐって、大きく深呼吸をして、ようやく目を開いた。そのときのサミュエル会頭の表情は、お父さんの料理を食べる前とは、まったく別のものだった。威厳いげんがあるっていうのか、丁寧な物腰ものごしの中にも、どこか厳しい雰囲気を出していたのに、今はものすごく優しくて、穏やかな感じなんだ。サミュエル会頭は、小さな微笑みを浮かべて、お母さんに会釈えしゃくした。
 
「ご心配をおかけして、申し訳ありません、カペラさん。あまりにも素晴らしいお料理に、感動してしまったのです。公言こうげんはしておりませんが、わたしは、御神霊から少々複雑な印と加護をたまわっておりまして、自分が口にする料理には、うるさくならざるを得なかったのです」
「まあ! とても繊細な舌をお持ちでいらっしゃり、まれに見る食通だとうかがっておりましたけれど、それだけではありませんでしたのね?」
「ええ。家内の作ってくれたものなら、げた卵焼きでも、出汁だしのきいていないスープでも、カラッとしていない揚げ物でも、美味しく……はいい過ぎですが、ありがたくいただいておりますからな」
「ええ? だったら、この店を売る条件として、会頭が納得する味を出せる料理店っていう指定があるのは、どういう意味なのですか?」
「ああ、無理なお願いをして、申し訳なかったね、ダニエルくん。それはそれで、わたしの切実な願いなんだ。わたしは、他の人たちのように、純粋に料理の味だけを楽しむことはできない。味覚を司る御神霊から、〈真実の舌〉という加護を賜っているんだよ」
 
 サミュエル会頭の言葉に、お母さんも不動産屋さんたちも、もちろん、わたしだって、疑問でいっぱいになった。ルーラ王国は、〈森羅万象しんらばんしょう 八百万やおよろず あまね神霊みたま御坐おわします〉神霊王国だから、不思議なことや、不思議な印や、たまには不思議な加護にだって事欠ことかかないけど、〈真実の舌〉なんて加護を受けている人には、初めて出会ったよ。
 
 ちなみに、印っていうのは、神霊さんの力を貸してもらうための、許可証のようなもので、詠唱し、印を切り、対価を決めることによって、人の力を超えた現象を引き起こす。加護の方は、神霊さんから特別に賜った〈守り〉みたいなもので、対価も詠唱もなく、本人も意識しないうちに、神霊さんのお力を貸してもらっているんだって。
 わたしの大好きな、おじいちゃんの校長先生によると、ルーラ王国の国民は、ほとんどすべて、何らかの印を許されているけど、加護を賜っている人は、あんまりいないらしい。多分、千人に一人か、一万人に一人くらい。稀有けうっていうほどじゃないけど、かなりめずらしいものだって考えていいだろう。
 
 数多あまたある加護の中では、真実と名のつく加護は、有名なものだっていっていいと思う。その物が本物かどうかを見抜ける〈真実の目〉や、人の言葉が本当かどうかを判断できる〈真実の耳〉は、加護の代表格だからね。
 ただ、サミュエル会頭のいう〈真実の舌〉っていうのは、わたしは、聞いた覚えのない加護だった。普通に考えると、本当においしいかどうかを見極められる舌っていう意味だろうけど、サミュエル会頭の様子を見ていると、そうは思えないし……。
 
 わたしの疑問に応えるように、サミュエル会頭は、〈真実の舌〉について、丁寧に説明してくれた。それは、わたしが想像していたよりも、ずっと不思議で、ずっと重くて、ずっと悲しい話だったんだけど。
 
「わたしが賜った、〈真実の舌〉という加護は、味の良し悪しを判断するものではありません。料理を作っている人々の心の声、嘘偽うそいつわりのない、いわば心の真実とでもいうものが、料理を味わう舌を通して、声として聞こえてくるのです」
「それは、また。何て不思議な加護なんだ」
「しかし、ダニエル。ものを食べるたびに、作った人の心の声が聞こえてくるなんて、わりと厄介やっかいだぞ。おちおち食べてもいられないじゃないか? あっ、失礼な事を言ってしまって、申し訳ありません、会頭」
「いや、マクエルくんのいう通りだ。どんなに素晴らしい味でも、それでは美味しく食べられない。〈安い給料でこき使いやがって〉だの、〈ちょっと形が崩れたけど、ソースをかけりゃごまかせるな〉だの、〈高く売るために、余分に金粉きんぷんを振っておくか〉だの、ひっきりなしに声が聞こえるんだからな。正直、外食をするのは苦痛なんだ。特に、たくさんの料理人を雇っている高級店となると、わたしの精神がもたないんだよ」
「それでは、まさか、先ほど、会頭様がつぶやいておられたお言葉は……」
「ええ。ご想像の通りです、カペラ夫人。〈野ばら亭〉の料理を作っておられる人々の心の声が、料理を通して聞こえてきました。一生懸命で、誠実で、意欲と感謝にあふれ、自分の仕事に誇りを持ち、食べる人を深く思いやっている、料理人たちの声が。それが、あまりにも尊く、美しく、思わず涙がこぼれてしまったのです」
「そういっていただけると、とてもうれしいですわ、会頭様。〈野ばら亭〉の料理人は、入ったばかりの見習いの子供たちに至るまで、主人が愛情をもって育てておりますの。皆んな、主人の気持ちを理解してくれているのだと、信じておりますわ」
「ご主人は、料理人としても人としても、素晴らしい方ですね。少しお料理をいただいただけで、よくわかりました。ご主人らしき方の声も聞こえましたが、言葉としては聞き取れませんでした。只々ただただ、尊く美しい、神楽かぐらのごとき響きが感じ取れるだけで……。料理をしておられるとき、ご主人のお心は、現世うつしよを離れ、天の高みにおられるのかもしれませんね」
 
 サミュエル会頭は、そういって、まぶしいものを見たときのような顔で、優しく微笑んだ。うちのお父さんは、神霊さんの召し上がる〈神饌しんせん〉を司る神霊さんから、強い加護と印を賜っている人だから、サミュエル会頭の感覚は、かなり真実に近いんじゃないかと思う。すごいんだね、〈真実の舌〉の加護って。
 サミュエル会頭の奥様は、にこにこと微笑んでいて、不動産屋さんたちも、安心した顔をしていて、すっかり打ち解けた雰囲気になったところで、お母さんが、何気なくたずねた。
 
「それにしても、希少な加護ですわね。会頭様がお生まれになったときから、たまわった加護ですの? もしくは、何かきっかけがございましたの? 不躾ぶしつけな質問でございましたら、お許しくださいませね?」
「これほどの料理を出して、わたしの心を浮き立たせてくださった、カペラ夫人のご質問でしたら、いくらでもお答えしますよ。大変に外聞がいぶんの悪い話ですが、すでに過去の出来事ですし、調べようと思えば、神霊庁の裁判記録などにも、記録のある話ですし。この加護を賜ったのは、四十年ほど前、わたしが八歳の頃のことです。父の正妻に毒を盛られ、殺されそうになりましてね。その事件から数日のうちには、わたしは〈真実の舌〉の持ち主になっていたのです」
 
 さり気なく、ものすごい重大発言を口にしてから、サミュエル会頭は、大きなため息をついた。その表情はすごく悲しそうで、〈毒殺未遂〉事件が、今でもサミュエル会頭の心に傷を残しているんだって、すぐにわかった。
 あまりの驚きと衝撃に、言葉を失っている皆んなに向かって、サミュエル会頭は、暗く沈んだ声で続けた。
 
「わたしの父は、大きな商会の跡取り息子で、親に決められた女性と婚姻していました。わたしの母は、その商会で働いていた娘で……まあ、よくあるなりゆきで、父に囲われるようになったのです。正妻には、二人の息子と娘が一人。母には、わたしという一人息子が産まれました。自分でいうのもなんですが、わたしは、大変に優秀な息子でしたし、父は母を愛しておりましたから、正妻たちは不安になったのです。父が、わたしを商会の跡取りにしようとするのではないか、と」
「まさか、その可能性を消そうとして、会頭様に毒を?」
「ええ。そうです、カペラ夫人。正妻は、母とわたしの暮らしていた屋敷で働く者たちを、次々に買収して、いろいろな形で危害を加えようとし、ついには毒殺をたくらんだのです。わたしの親友、今も忘れられない唯一の友達である愛犬が、毒味のせいで死んでいなかったら、わたしは今、この席にはいなかったでしょう」
 
 そういって、サミュエル会頭は、お祈りをするみたいに、顔を伏せて目をつむった。その頭の上では、力なく四本の尻尾を落とした犬が、きゅうきゅう鳴きながら、サミュエル会頭の頭に顔をこすりつけている。
 もしかして、多分、きっと。サミュエル会頭の代わりに死んじゃった愛犬って、わたしの目にはっきりと見えている、神霊さんっぽい犬のこと……なの……?