【第1章を無料試し読み!】『ハートレス・ケア』(著:小原瑞樹)書影公開のお知らせ
opsol book編集部のヤナガワです。
第1回ハナショウブ小説賞 長編部門大賞受賞作『ハートレス・ケア』(著:小原瑞樹)が、2024年9月上旬に発売となります!
先日、ついに書影が公開されました。
帯なしバージョンがこちら。
しばらく独り占め状態だったのですが、ついに皆さまにお披露目する日がやってきました。毎日のように眺めては一人でニヤニヤする日々に、ようやく終止符を打てます。
うれしいので、帯アリバージョンも公開します!(既にサムネにもありますが)
装丁は、ハナショウブ小説賞の選考委員も務める宮川和夫さん、装画は、多くの書籍・雑誌の装画や挿絵を手がける人気イラストレーター・スカイエマさんが担当。
カバーの表1(表面)には、主人公の正人と同期の美南、表4(裏面)には介護付有料老人ホーム「アライブ矢根川」で共に働く職員や入居者の姿が描かれています(ぜひ、実際にお手に取ってご覧ください! そして、本編を読んだ後はカバーもめくってみてください!!)。
カバーデザインを見たとき、「これだ!」と思いました。
あらすじにもあるとおり、正人はやむなく介護職に就いた新人介護士です。正人の背中に少しだけ隠れているタイトルロゴ。このデザインが、元々抱いている介護職への後ろ向きな気持ちともリンクしていて……!
さらに、全く異なる理由で介護士になった正人と美南との間に、タイトルロゴが斜めに配置されているところもポイントです。二人の表情の差にもご注目ください。
カバーや表紙だけではありません。別丁扉も見ていただきたいのです。小原さんが生み出した登場人物たちが、スカイエマさんの手によってイラストとなり存在しています(実は目次にも……)。
この気持ちを文字にしてお伝えするのが編集者の役目であるものの、今もなお興奮冷めやらぬまま、とにかく読んでいただきたい、もうその一言に尽きます。まいったなこりゃ。
小原さんの作りあげた作品が一冊の本になる過程を一番近くで見ているわけで。自分のデスクに『ハートレス・ケア』の書籍が並ぶ妄想までしちゃったりして。
小説家、装丁家、イラストレーター。プロの仕事を間近で拝見し、改めて偉大さを実感したヤナガワ。編集者にもできることをやらねば!と、こうしてnoteを書くに至ったものの、興奮状態でまともな文章を書けず。発売日も近いのに、いつになったら落ち着くのやら。いや、発売日が近付くにつれて、この胸の高鳴りは増していくのかも……。
今後は制作過程もアップしていきますので、その頃にはまともな文章で『ハートレス・ケア』の魅力をお伝えすることをここに誓います。
2024年9月上旬発売の『ハートレス・ケア』を、どうぞよろしくお願いいたします!
ハートレス・ケア(著:小原瑞樹)
●2024年9月上旬発売予定
●定価1760円(本体1600円+税)
●ISBN 978-4-434-34003-1
●四六版ソフトカバー
●発売元:星雲社
*書籍化に伴いタイトルを変更し、内容を加筆修正しています。
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本編の第一章を大公開!
『ハートレス・ケア』発売を記念し、無料の試し読みを公開いたします。続きが気になった方は、ぜひ書籍版をご覧ください!
CARE1 俺の仕事は○○
「じゃ、社会人デビュー一か月を祝して、かんぱーい!」
かちりと音を立てて四つのグラスが重なり合い、一斉にジョッキを口元に運ぶ。冷たいビールが喉元を通り過ぎ、全員で示し合わせたようにぷはぁっと息をつく。
「やー、やっぱビールは美味ぇなぁ! 学生のときはこんなに美味いって思わなかったけど」
「やっぱ仕事してるからなのかな。疲れた身体に染みるっつうか」
「ああわかるわ。帰ってもつい一杯やりたくなるもんな。逆に飲まないとやってられないっていうか」
そんな他愛もない会話をしながら三人の男が喋っている。俺の友人である加藤照之、田中泰明、太田信彦だ。全員高校の同級生で、クラスで一緒のグループだった奴らだ。当時はかなり仲が良くて、テル、ヤス、ノブと呼び合う仲だった。大学は全員バラバラだったがそれでも二、三か月に一度は集まっていた。大学三年になり、就活が忙しくなってからは何となく連絡を取らなくなっていたが、新社会人になって一か月、仕事が一段落したところで久しぶりに集まろうという話になった。俺以外の奴は全員スーツで、ジャケットを脱ぎ、ワイシャツ一枚になった格好でさらに片手でネクタイを緩めている。
「で、最近どうよ? 仕事もう慣れた?」
ヤスが全員に尋ねた。一杯目を飲み終えたテルが苦笑しながら首を横に振る。
「やーまだまだだな。覚えること多すぎてついていくのに精一杯」
「テルは銀行だっけ? 何の仕事してんの?」
「預金係。お客さんに預金商品の説明したり、資産運用の提案したりするんだよ。いわゆる窓口業務だな」
「そっか。俺勝手に営業だと思ってたよ」
「営業は何年か経ってからだな。担当エリア回って融資の提案とかするみたい。最初は先輩に同行すればいいんだけど、独り立ちしたらノルマとかも出てくるらしい」
「営業はそれが大変だよなー。俺、それが嫌だから市役所にしたんだよ」
「市役所かぁ。部署はどこ?」
「地域生活課。こっちも窓口業務が多いんだけど大変だよ。いろんな届出を受理して、必要な書類を交付するんだけど、なんせ量が多くてさ。記載漏れとかミスも多いから一個一個確認しないといけなくて、全然時間どおりに仕事終わらないんだ」
「へえ、意外。公務員って言ったら九時五時のイメージあるけど」
「俺もそう思ってたけど全然だよ。これなら民間行った方が楽だったかもな。ノブんとこはどう?」
「やー俺もめちゃくちゃ忙しいよ」
早くも二杯目に手をつけているノブが顔をしかめた。それまではぐいぐいとビールを飲んでいたのが、ここぞとばかりに喋り始める。
「商社の仕事がハードってのはわかってたけど予想以上でさ。仕事で普通に英語使うから、仕事覚えるだけじゃなくて英語も勉強しないといけないんだよ。しかも周りがデキる奴ばっかりだからついていくだけで精一杯で、毎日へとへと」
「そっか、大変だな。でも商社っていいよな。いかにもデキる男って感じするし」
「まぁ、そう思われたくて商社選んだってのも正直ある。でもヤスの公務員だっていいじゃん。ノルマないし、安定してるし、合コンとか行ったらモテそう」
「まぁ基本クビにならないのは強いよな。テルは? 銀行員も大概人気ありそうだけど」
「確かに受けはいいかもな。残念ながら今は合コンとか行く暇ないけど」
テルが苦笑し、他の二人もわかる、と言いながらビールを口に運ぶ。話の内容は大半が愚痴ではあるが、それでも三人とも心底仕事を嫌がっているわけではなさそうだった。
俺は三人の会話には加わらず、お通しの枝豆を黙々と摘まみながらビールをちびちびと飲んでいた。どうかそのまま愚痴を続けてくれ、それか脱線して仕事以外の話をしてくれ。
そう思っていた矢先、テルが俺に声をかけてきた。
「マサ? どうかした?」
「え、何?」
不意を突かれて俺はびくりと顔を上げた。ヤスとノブも話を止めて俺の方を見る。
「うん。お前さっきからずっと黙ってるからさ。気分でも悪いのかと思って」
「あ……いや別に。みんな大変だなって思って聞いてただけだよ」
「ならいいけど。そういやお前はどうなんだ? 仕事」
早速地雷を踏まれて俺は言葉に詰まる。が、すぐに何でもないように言った。
「俺? 別に普通だよ。みんなみたいに難しいことしてないし」
「あれ、そもそもマサって何の仕事してたっけ? IT系?」
ヤスが尋ねてきた。頼むからそれ以上深掘りするなと思いながら首を横に振る。
「違う。何でITだと思ったんだ?」
「いや、お前一人だけ私服だからさ。着替えに帰ったわけじゃないんだろ?」
俺は自分の服装を見下ろした。他の三人がスーツ姿の中、俺一人だけがジャージのズボンにフード付きのトレーナーというラフな格好だ。今は十九時を回ったところで、みんな職場から直で店に来たのだろう。もちろん俺もそうだ。
「うん、仕事終わって直行したから。そもそも仕事でスーツ着ないんだ」
「そうなんだ。スーツ着ないってことはアパレル系?」
「いや、違う」
「じゃあベンチャーとか?」
「それも違う」
「じゃあ何? 他に服装自由な仕事ってあったっけ?」
ノブが首を捻り、他の二人も腕組みをして考え込む。どうもこの話題からは逃げられないらしい。俺はため息をつき、気が進まないながらも答えた。
「その……福祉だよ」
「福祉?」
「そう。制服があるからスーツ着なくていいんだ」
「へえ、そりゃ楽でいいな。スーツって肩凝るし疲れるんだよな」
「わかる。しかも毎日着ないといけないから替えがいるし、金かかるんだよなー」
ノブとヤスが頷き合う。そうそう、俺の仕事の話なんかどうでもいいからそのままスーツについて喋ってくれ。俺は心の中で祈ったが、その祈りも虚む なしくテルがなおも尋ねてきた。
「でも、福祉っていろいろあるけどどんな仕事なんだ?」
「どんなって……」
「あ、わかった。保育士じゃね?」
ノブが一本指を立てて言う。俺は黙って首を横に振った。
「保育士は資格いるもんな。じゃあ福祉事務所とか?」
今度はテルが腕組みをしながら尋ねる。俺はもう一回首を横に振った。
「福祉事務所は公務員試験受けないと働けないしな。ってことは民間の施設の事務職?」
さらにヤスが言ったが、俺はやはり首を横に振った。「え、じゃあ何?」と三人が顔をしかめ、ああでもない、こうでもない、と言い合う。
俺はその様子を見ながらため息をついた。どいつもこいつも的外れなことばっかり言いやがって。それくらい友達があの仕事0 0 0 0 に就くことが考えられないってことか。
半分ほどになったビールを一気に呷り、やけくそ気分になりながら俺は言った。
「……介護だよ」
「介護?」
「うん。老人ホームで働いてるんだ。事務じゃなくて、現場でヘルパーやってる」
「現場? じゃあお前が介護するってこと?」
「そう。利用者の食事の世話したり、風呂入れたりする」
三人が一斉にぽかんとした顔になる。俺の話がすぐに飲み込めないのかもしれない。そりゃそうだろう。普通にデスクワークしてる奴らからしたら、全然かけ離れた仕事の話をしてるんだから。
そのまま五秒ほど沈黙があった後、気まずさを払うようにテルが言った。
「へえ……そうなんだ。なんか意外。マサって介護とか興味あったの?」
「いや、別にない。特に年寄りが好きってわけでもないし」
「じゃあ何でその仕事してるんだ?」
「何でって……他が受からなかったからだよ。俺就活めちゃくちゃ苦労したんだから」
「あ、そうなのか?」
「うん。四年の秋頃まで決まらなかった。お前らはもっと早く決まってたんだろ?」
「そうだな。俺は春頃には決まってたと思う。ヤスとノブも同じくらいじゃなかった?」
「うん。確か去年の今頃には決まってた。そっかー。お前あのときまだ就活してたんだな」
「俺らの周りみんな早かったからなー。お前もとっくに決まってたと思ってたよ」
ノブとヤスが同調する。本人達は何気なく言っているのだろうが、俺からすれば傷口を抉られている気分だった。
そんな俺の心境も知らず、テルが感心した口調でさらに言った。
「にしてもマサ、よく介護とかする気になったよな? だって肉体労働だろ?」
「うん、基本ずっと動いてるし」
「風呂入れるってことは人持ち上げたりするんだよな。体力使いそうだけど、腰とか大丈夫なのか?」
「俺はまだ風呂やったことないから。まぁそれ以外でも人持ち上げることは多いし、実際腰痛める人は多いけど」
「下の世話とかもするんだっけ?」
「それも今はしてないけど、そのうち」
「勤務時間も不規則なんだよな。確か夜勤とかもあるんだっけ?」
「うん、今はまだ日勤しかしてないけど」
「うわーもう聞くだけで大変そうだわ。マサ、お前すごいよな。そんな大変な仕事だってわかってて選んだんだから」
「いや、だから選んだわけじゃなくて、ここしか受からなかっただけで……」
「それでもすごいよ。もし俺が同じ立場でもそんなキツい仕事やろうって絶対思わないし。それなら留年して就活やり直すよ」
「俺もそれなら公務員試験受け直すかな。介護とか絶対無理」
ヤスが便乗して頷く。無理、と断言されて俺はますますぐさりときた。
「でもマサは偉いと思うよ。人の嫌がる仕事をわざわざ引き受けてるんだからさ」
ノブがしみじみと言った。隣でヤスも大きく頷く。
「確かに、介護ってどこも人手不足だってニュースでもよく言ってるしな。マサみたいな若い奴がいたら助かるだろうな」
「マサは高齢化社会を支えてるってわけだ。よっ、日本の期待の星!」
テルが陽気に言って俺の肩を叩く。ノブとヤスもそれに続き、「期待の新星、マサにかんぱーい!」などと言って残りのビールを呷っている。
そんな賛辞を聞いても俺は全く喜ぶ気になれなかった。何が期待の星だ。銀行員とか公務員とか商社マンとか、そんなステータスが高くて女にモテそうな仕事に就いた奴らに言われたところで嫌みにしか聞こえない。俺の仕事には金融の知識や語学力はいらない。頭ではなく身体を使い、スーツではなく制服を着て、クーラーの利いた部屋も自分の机も椅子もない環境で一日中汗だくになって駆けずり回る。それが俺の日常だ。自慢できることなんて何もない。
でも、そんなことを言うと自分がますます惨めになりそうだったので、結局愛想笑いを浮かべて空になったビールを飲む振りをするに留めた。
翌日、世間がGWに突入する中、俺は勤務先である老人ホームに向かっていた。
俺が勤めているのは、関東の矢根川市にある「アライブ矢根川」という介護付有料老人ホームだ。「アライブ・エイジ」という会社が経営している施設で、要介護度が高めの人から、比較的元気な人まで幅広く受け入れている「混合型」と呼ばれるタイプだ。施設によっては資格がないと働けないが、介護付有料老人ホームであれば、「認知症介護基礎研修」という研修を一日だけ受ければ無資格でも働けるため、最初に配属された。勤務は交代制で、月の後半から翌月の前半にかけて一か月単位でシフトが組まれている。勤務時間は日勤の場合は九時から十八時で、慣れてきたら早出や遅出なども出てくるらしい。
下宿先のマンションからアライブ矢根川の最寄り駅までは電車で三十分、それからさらに歩いて十五分ほどかかる。家を出るのは八時前で、普通の会社員の通勤ラッシュと同じ時間帯なので電車もまあまあ混み合っている。みんながスーツに革靴というぱりっとした格好をしている中、一人だけジャージにスニーカーという格好で電車に乗っていると、どうしても浮いてるように感じてしまう。
みんながオフィス街のある大きな駅に向かう中、俺が降りるのは特急の止まらない小さな駅だ。駅を出ても広がるのは住宅ばかりで、高層ビルの立ち並ぶオフィス街とはかけ離れている。コンビニや飲食店もほとんどなく、駅から十分くらい歩いたところにスーパーが一軒あるだけだ。静かで住みやすい環境はアライブ矢根川の売りの一つだが、働いている身からすると、毎日の昼飯の調達に困る。
十五分ほど歩いて住宅街を抜けると、ようやくアライブ矢根川の建物が見えてきた。施設は三階建てで、各階に居室、食堂兼談話室、さらに浴室がある。居室は全部で四十室あり、二階と三階に十五室ずつ、一階に十室ある。一階だけ居室が少ないのは厨房と事務所があるからだ。事務室には施設長やケアマネージャー、生活相談員やナースが詰めている。
道路に面した正面玄関を横に回り込み、裏手にある職員用出入口のキーパッドに暗証番号を入力してから中に入った。この出入口は事務所につながっており、すでに出勤している施設長とケアマネがパソコンに向かっている。
「おはようございまーす」
挨拶をすると「おはよう」という声がばらばらと返ってきた。本部で一週間研修を受けてからここに配属されて早三週間。職員の顔はようやく覚えてきたものの、まだ打ち解けて話せるまでには至っておらず、恐縮しながら更衣室に向かう。
更衣室は男性用が二階、女性用が三階にある。男性用更衣室には誰もおらず、俺は何となくほっとしながら制服に着替えた。薄いピンク色のポロシャツで、胸ポケットに会社のロゴが入っている。
この制服を見るたびに俺は憂鬱になる。ポロシャツってだけでもダサいのにピンクって。
こんな姿絶対にテル達には見られたくないといつも思う。ちなみにボトムスに指定はないので、下だけでもカッコよくしようとプーマの黒ジャージを穿いている。着替えを済ませると八時四十分を回っていた。そろそろ行かないと怒られるかなと思いながら俺はのろのろと更衣室を出た。ちなみに腕時計はできない。利用者さんに金具が当たって怪我をさせるといけないからだ。
更衣室を出たら二階にある詰め所に向かう。アライブ矢根川では階ごとに担当のヘルパーが決まっていて、その階に居室がある利用者さんの介護をする。担当を決めることで利用者さんの情報を把握しやすくするという配慮らしい。俺の担当は二階だ。
詰め所に行くと先輩ヘルパーである潘さんがいた。潘光津江さんという女性社員で、長い黒髪を後ろで一つ結びにし、細フレームのスクエアタイプの眼鏡をかけている。年齢は三十代後半のはずだが、ヘルパー歴は十年にもなり、二階のフロア主任も務めている。アライブ矢根川ではオープン当初から働いているらしく、二階のことは熟知している。
「あ、潘さん、おはようございます」
挨拶をしながら潘さんの近くに行くと、潘さんの手元に置かれた紙が目に入った。これは経過表と呼ばれるもので、利用者さんの一日の様子が一覧で見られるようになっている。
食事や水分をどれだけ摂ったか、いつ排泄をしたか、巡回時に寝ていたか起きていたかなどの行動を全て記録し、共有するのだ。
「ああ大石君、おはよう。今日日勤だったよね。よろしく」
「はい。潘さんは夜勤明けですか?」
「うん。昨日は大変だったよ。筒井さんは熱発してるのに杉山さんがずっと徘徊するし、おまけに三島さんが失禁して全更衣したから。もうバタバタ」
「そうなんですか……。大変ですね」
熱発は発熱、徘徊は居室を出てうろうろすること、失禁は尿や便を服やシーツに漏らしてしまうこと、全更衣は服を全部着替えることだ。聞き慣れない用語の数々も、一か月で少しずつ理解できるようになってきた。
「他人事みたいに言ってるけど、大石君もそのうち夜勤入ってもらうんだからね。いつまでも日勤だけで済むと思ったら大間違いだよ」
潘さんにぴしゃりと言われて俺は肩を竦めた。潘さんは新人にも厳しいタイプのようで、配属当初にすることがわからずに詰め所で突っ立っていると、「経過表見るとか利用者さんに話しかけるとかすることあるでしょ!」と散々叱られた。今でも正直この人は苦手だ。
「経過表の記録途中だけど、申し送りあるから朝礼行ってくるわ。後は松井さんが西村さんのトイレ介助行ってるから、そのうち戻ってくると思う」
潘さんがボールペンをウエストポーチにしまいながら言った。申し送りというのは、利用者さんの夜間の様子やその日の予定を全体で共有することだ。まず全体の申し送りが、八時五十分から事務所でする朝礼のときに行われる。メンバーは夜勤のヘルパー、施設長、ケアマネ、生活相談員、ナース、それと各階からヘルパーができれば一人。それぞれの情報を伝えた後でヘルパーは各階に戻り、詰め所で待機している残りのヘルパーにさらに申し送りをする。夜間に利用者さんがどんな状態だったか、注意することはあるかなどがここでヘルパー全体に伝えられる。さっき潘さんが言っていた、熱発や徘徊などの情報も申し送りで共有される。専門用語を早口で並べ立てられるので最初は理解できずに苦労した。
「わかりました。遅出で井上君が来るんですよね?」
「そう。十時から。交代で帰れたらいいけど、記録全然書けてないから残業なるかも」
潘さんがため息交じりに言って詰め所を出て行く。夜勤は十六時から翌日十時までだ。
遅出の人と交代で帰れるようにシフトが組まれているが、実際には時間どおりに帰れることは滅多にないらしい。夜勤の様子を経過表に書いたり、申し送り事項を記入したり、そういうことをしているとどうしても時間がずれ込み、ようやく帰れる頃には昼食の誘導が始まっている、なんてことも珍しくないそうだ。
一人になった詰め所で俺は経過表を確認した。熱発していた筒井さんは朝六時の時点で体温は三十六.八度。朝食も五割食べられているから落ち着いているようだ。徘徊していた杉山さんは巡回のたびに「覚醒」の文字、つまり一晩中起きていたということだ。失禁した三島さんは深夜二時に排尿ありの記述。オムツを替えるだけでも大変そうなのに、着替えまでするなんてもっと大変だろうな、とやはり他人事のように考えてしまう。
「ああ大石君、おはよう!」
横から大きな声がしたので俺は顔を上げた。ふくよかな体格の中年の女性が詰め所に入ってくる。潘さんが言っていた松井さんとはこの人のことだ。松井康代さんという五十代の女性で、パートではあるがヘルパー歴は十八年にもなるベテランだ。茶髪をベリーショートにした髪型はファッションというよりも楽さ重視のようで、いかにも肝っ玉母さんという雰囲気がある。
「あ、松井さん、おはようございます。今日は早出ですか?」
「そうそう。潘ちゃんが夜勤だったから二人でフロア回してね。もー朝から大変よ。山根さんも前本さんも全然食べようとしなくて、しょうがないから潘ちゃんと二人で食介してね。そしたら今度は上野さんと川口さんが文句言いだして。まぁいつものことなんだけど、早く部屋帰りたいって言ってね。でもこっちもすぐ対応できないから、ちょっと待ってって何回も言ってるのに全然聞いてくれなくって。ほんと朝からバタバタよ」
食介というのは食事介助の略だ。寝たきりになった人などは一人では食事ができないため、ヘルパーが手伝う必要がある。中には一日中ベッドの上で過ごす人もいるが、二階の利用者さんはそこまで重度ではなく、車椅子に移った上で食事をする。イメージとしては椅子に座った赤ちゃんにご飯を食べさせるみたいな感じだ。ただし食介だけすればいいわけではなく、食べ終わった車椅子や歩行器の人を居室まで連れて帰らないといけない。俺達はこれを「誘導」と呼んでいる。じゃあヘルパー全員が誘導をすればいいかというとそうでもなくて、「見守り」と呼ばれる職員を食堂に一人は残しておかないといけない。それで誘導に順番待ちが発生して、利用者さんから不満が上がるのはよくある光景だ。
「朝は人少ないから大変ですよね。松井さんは早出多いから大変じゃないですか?」
「んー、まぁ大変は大変だけど、早く上がれるのは有り難いかな。早く帰ったらその分家事もできるしね」
早出の勤務時間は朝七時から十六時までだ。十六時に上がれば買い物をしてから晩ご飯も作れるし、家庭を持つ身には確かに有り難いだろう。ただ、俺自身は朝早く起きられる自信がないので、できるだけ早出は避けたいと思っている。
そんな話をしているうちに潘さんが戻ってきた。俺と松井さんは話を止め、潘さんからの申し送りを聞くためにメモを準備した。
「じゃあ申し送りします。二階は筒井さんが昨日の晩から三十七度後半の熱発のため、ドクター処方のカロナール服用、朝六時の時点で三十六.八度まで下がったので、食事は食堂対応してます。入浴は中止です。坂田さんが夜間に歯痛の訴えあったので、ナース確認の上でロキソニン服用してます。今朝は訴えありませんでした。後は前本さんがコート三なので、朝食時に下剤服用してます。排便あればナースまで知らせてください。その他の方お変わりなしです」
潘さんが早口で言う申し送りの内容を急いでメモする。今日はまだ少ない方だが、多いときには七、八人分の情報が共有されることもあり、聞き取るだけで手いっぱいだ。ちなみにカロナール、ロキソニンのどちらも解熱・鎮痛剤のことだ。また、コートは便のことで、コート三というのは排便が三日ない、つまり便秘が三日続いているという意味だ。コート三以上だと下剤を服用してもらい、排便があれば服用を中止する。
「じゃ、私は早速風呂行ってくるわ。筒井さんが中止ってことは、今日は三人?」
松井さんが潘さんに尋ねる。潘さんは詰め所にある入浴表を見ながら頷いた。
「そうですね。その代わり明日は多いですよ。午前中だけで五人いますから」
「五人かあ。ちょっと大変かもね。今日一人先に入れとこうか?」
松井さんも入浴表を見ながら尋ねる。利用者さんの入浴日はケアマネが作るサービス計画書で決められていて、入浴日を変えると厳密には計画書を変更しないといけないらしい。
ただ、実際には今みたいに、人員に合わせてこっそり入浴日を変えることは珍しくない。
「そうですね。余裕があればお願いしたいですけど、無理はしなくていいですよ。焦って事故が起きたら大変ですから」
「はいはい。じゃ、さっさと行ってきますか」
松井さんがひらひらと手を振って詰め所を出て行く。入浴介助は一人の職員が連続してするのが基本で、今日は松井さんが担当だ。一日に三人から五人くらいの人を介助するので終わる頃にはみんな汗だくになっていて、俺は見るたびに大変そうだなと思っていた。
「じゃ、あたしは夜勤の記録つけるから、大石君は水補しといてくれる?」
「わかりました」
潘さんに頷き、俺は詰め所を出て談話室に向かった。朝食を片づけたテーブルの前にいる車椅子のおばあちゃんに向かって声をかける。
「菊池さんおはようございます。お茶飲みませんか?」
「え? 何?」
菊池さんが耳に片手を当てる。俺はめんどくせえなと思いながら菊池さんの耳元に口を近づけ、大きめの声でもう一回言った。
「お茶、飲みませんか?」
「ああ、お茶ねぇ」
ようやく理解した菊池さんが、目の前に置かれた取っ手付きのコップを見つめる。しかし手をつける気配はない。さっさと飲めよと思いながら俺はさらに言った。
「菊池さん、あんまり水分摂れてないから、ちょっとでも飲んだ方がいいですよ」
「いらないよ。トイレ行きたくなるもん」
「一口でもいいからどうですか?」
つい口調が強くなるのを感じながら、コップを菊池さんの手に近づける。菊池さんは「しつこいなぁ……」と顔をしかめ、ようやく一口だけお茶を飲んだ。
実に不毛なやり取りだが、こんな会話は老人ホームでは日常茶飯事だ。高齢者は水分を摂らないと脱水症状や熱中症を起こすこともあるため、まめにお茶やら水やらを飲むよう勧めないといけない。これが「水補」だ。目安としては一日一リットル。この量を飲まなそうな人を中心に声をかけていく。まぁ俺からすれば、わざわざ声をかけてお茶を飲ませるなんてままごととしか思えないわけだが。
「もっと飲んでくださいね。じゃ、一旦失礼します」
ああくだらねぇと内心毒づき、菊池さんの許も とを離れて別のテーブルに向かう。リクライニング式の車椅子に座ったおじいちゃんに声をかけた。
「益川さんおはようございます。お茶飲みませんか?」
益川さんが何も言わずに俺の方を見る。益川さんは認知症と麻痺があり、言葉を発することも、自分で手足を動かすこともできない。当然、食事も一人では摂れないので水補もヘルパーが行う。
俺はやかんからぬるめのお茶をコップに注ぎ、その中に粉を入れてスプーンでかき混ぜた。この粉は「とろみ剤」と呼ばれるもので、液体に混ぜると固まって粘り気を出す効果がある。水分にとろみを付けることによって誤嚥、つまり食べ物が食道ではなく気管に入るのを防ぐ効果があるらしい。
適度にとろみを付けたところで、俺は益川さんの隣の椅子に座り、スプーンでお茶を掬って益川さんの口元に運んだ。口元にスプーンが触れると、益川さんが啜ってお茶を飲み込んだ。
「美味しいですか?」
ただのお茶に美味しいも何もないだろうと思いながらも尋ねる。益川さんは反応しなかったが、スプーンを近づけると二杯目も飲んでくれたので、たぶん嫌がってはいないんだろう。
まだ大した介護ができないので、俺の仕事の大半はこの水補だ。談話室に残った利用者さんに声をかけたり、介助したりしながら少しでも多く水分を摂ってもらう。
でも、嫌がる相手や反応のない相手にお茶を飲ませるだけの仕事なんてはっきり言って虚しい。一日一リットルのノルマを達成したところで明日も同じことを続けるだけで、来る日も来る日も同じ作業を繰り返すことがだんだん嫌になってくる。
益川さんがコップ一杯分のお茶を飲んだところで俺は詰め所に戻り、経過表の益川さんの欄に「200」と書き込んだ。アライブ矢根川で使うコップは大きさが決まっており、一杯飲めば二百ミリリットル飲んだと見るだけでわかるようになっているのだ。
潘さんはトイレにでも行っているのか詰め所にはいなかった。鬼の居ぬ間に休憩しようと思っていると、後ろから声をかけられた。
「あ、大石さん。はよっす」
振り返ると、遅出で出勤してきた井上君が詰め所に入ってくるところだった。井上浩二君というまだ十八歳の男の子で、中卒から仕事を転々として、アライブ矢根川では一年前からバイトで働いているそうだ。将来はミュージシャンになりたいとのことで、正社員になる気はないらしい。ひょろりとした身体に毛先を遊ばせた明るい茶髪をしていて、言っちゃ悪いがいかにもチャラそうな若者だ。
「あ、井上君、おはよう。今日も遅A?」
「はい。今日で三日連続っす。明日は遅Bっすね」
遅A、遅Bというのはどっちも遅出勤務のことだ。遅出Aは十時から十九時まで、遅出Bは十三時から二十二時まで働く。井上君のシフトはほとんどが遅出AかBだった。
「井上君って遅出多いよね。帰るの遅くなると嫌じゃない?」
「そうでもないっすよ。俺元々夜行性なんで、朝早いよりよっぽどいいっす」
「確かに朝遅いのは有り難いよな。電車も空いてそうだし、俺も入るなら遅出がいいな」
「大石さんは電車通勤っすから、早出だとキツいっすよね。何時起きになるんすか?」
「たぶん五時くらいかな。六時前には家出ないといけないと思うから」
「うわーキツいっすね。つーか前から不思議だったんすけど、大石さん何でわざわざこんな遠いとこまで来てるんすか?」
「それはほら、社員だから……」
「社員だってもっと近いとこあるでしょ。潘さんだってバイクで十五分くらいだって言ってましたよ。何でもっと近所で働かないんすか?」
「それは……ほら、潘さんは中途採用で、最初からこの施設で働くつもりで入ったんだろ? でも俺は新卒だから、配属先は本部が決めるんだ。それでたまたま遠いとこに配属になったんだよ」
「ふーん。よくわかんないけど大変っすね」
自分から訊いておきながら井上君が興味なさそうに言う。俺が新卒だろうが中途だろうがどうでもいいのかもしれない。
「あ、もう十時っすね。申し送りなんかありました?」
「あ、えーと……筒井さんが昨日まで熱発してたけど今朝は下がってた。入浴は中止。それから坂田さんが夜に歯痛の訴えあったからロキソニン飲んでる。今朝は訴えなかった。後は前本さんがコート三で下剤服用してる」
「下剤ね。じゃ、次の排泄のときは要注意っすね。松井さんは風呂っすか?」
「うん。さっき三人目入ったから、十一時には戻ってくると思う」
「了解っす。じゃ、俺巡回と排泄行ってきます」
井上君が言ってさっさと詰め所を出て行く。アライブ矢根川では十時と十四時に巡回を行い、職員が利用者さんの居室を見て回る。利用者さんがいなくなっていたり、部屋で倒れたりしていないかなどを確認するためだ。二階には介助の必要ない「自立」と呼ばれるタイプの人もいて、そういう人は簡単に声をかけるだけでいいが、寝たきりの人はここで排泄介助、つまりオムツ交換も一緒に済ませてしまう。
「あ、井上君もう行っちゃった?」
井上君が出て行くとほぼ同時に潘さんが戻ってきた。まっすぐ経過表のボードに向かって記入する。ボードには「排尿」の文字。自分のトイレではなく、介助に行っていたようだ。
「あ、はい。ついさっき来て、今巡回に行ったとこです」
「巡回行くのはいいけど、記録もちゃんと付けてよね。昨日も二時の記録が抜けてたから注意しようと思ってたのに」
潘さんが顔をしかめて言う。経過表への記録は忘れがちではあるが、これが抜けていると、一日の排泄回数や水分摂取量が正確に把握できないので大事な仕事らしい。俺も最初はよく水補の記載を忘れて潘さんにこっぴどく叱られた。
「俺が後で言っておきましょうか? 潘さんもう上がりですよね?」
「うーん。まだ記録終わってないし、もうちょっと残るわ。あたしから言わないと効き目ないと思うし」
確かに新米の俺が言っても右から左に聞き流されるだけだろう。年下相手に何も言えないというのも悲しいが。
「とりあえず大石君は水補続けといて。十一時になったら松井さんと一緒に誘導行ってもらうから」
「わかりました」
あの苦行をもう一時間続けるのか、と俺はげんなりしながら談話室に戻った。だからといって、排泄介助や入浴介助をしたいかと訊かれれば断固拒否するが。
長い一時間を終えたところで松井さんが詰め所に戻ってきた。井上君も巡回から戻ってきて、潘さんにきっちり怒られている。その後でようやく潘さんは帰っていった。
時刻は十一時。会社員ならお昼前で気が抜けてくる時間だろうが、ヘルパーにとってはここからが正念場だ。これから全員で分担して「昼ケア」を行う。
昼ケアというのは、要するに昼食のお世話だ。食堂への誘導、その前後の排泄介助、食介、それらを全部ひっくるめて昼ケアと呼んでいる。昼食は十一時半からなので時間との勝負だ。
「じゃ、私らは誘導行くから、井上君は食堂の見守り頼むわ」
「了解っす。排泄は全員終わってるんで、誘導だけでオッケーっす」
松井さんと井上君が声をかけ合う。排泄介助は食事の前後どちらかにすることになっているが、オムツが綺麗な方が食事も気持ちよく食べられるということで、極力食事前にすることになっている。ただし誘導前にオムツ交換をすると慌ただしいので、できるだけ巡回のときに済ませておくというわけだ。
「大石君は自立の人に声かけてくれる? その後で車椅子組一緒に誘導するから」
「わかりました」
自立の人でも杖やシルバーカーを使っている人はいるが、一緒に付いて歩く必要はなく、声さえかければ一人で来てくれるので楽だ。二階の自立組は三人。昨日徘徊していた杉山さんもその一人だ。一晩中起きていて疲れたのか、居室に入ると杉山さんは寝ていた。
「杉山さーん、お昼ですよー」
声をかけると杉山さんはあっさり起きた。「もうお昼?」と寝ぼけた顔で呟く。
「はい、お昼です。待ってますんで食堂来てくださいね」
「はいはい、ありがとね」
杉山さんが笑ってベッドから起き出す。昼に話す分には気さくなおばあちゃんなのだが、夜になると豹変するのだろうか。
他の二人にも声をかけたところでちょうど松井さんと鉢合わせた。すでに二人誘導したらしい。さすがに速い。そのまま二人で一番近くにある三島さんの居室に入る。
「三島さーん、こんにちはー。お昼ですよー」
声をかけながら俺は三島さんのベッドに近づいた。仰向けに寝ていたおばあちゃんがこちらを見て顔をくしゃっとさせた。三島さんは認知症の影響で発話ができないが、その分表情は豊かで、誘導に行くといつもこうやって笑って出迎えてくれる。
「ベッド上げますねー」
ベッドの頭部分に付いているスイッチを持ち、ボタンを押すと高さがゆっくりと上がっていく。介護ベッドはこんな風にボタン一つで高さを調整できる。万が一ベッドから落ちても怪我をしないよう、ヘルパーが居室を離れるときには高さを一番下まで下げるのが鉄則だ。
ベッドと車椅子の高さを同じにしたところで、俺は車椅子をベッド横の下側に付けた。真横ではなく、少し斜めの角度に設置する。
「身体起こしますよー」
仰向けに寝ている三島さんの背中と膝裏に手を当て、手前に転がす。そのまま足を下ろすと同時に上半身を持ち上げ、ベッドに座る格好にする。ただし一人では座っていられず、手を離したらすぐに倒れてしまうため身体は支えたままだ。
「移動しますねー。僕の身体持ってくださーい」
両足を大きく広げて脚で車椅子と三島さんを挟むようにした後、三島さんを抱きしめるような格好で身体をぐっと手前に引き寄せる。三島さんも俺の背中に手を回して摑まった。
ベッドから車椅子までの動線を目で確認し、スライドさせるような形で三島さんの身体を車椅子に移動する。
この一連の過程が「移乗」だ。車椅子からベッドへ、ベッドから車椅子へ。老人ホームでは移乗を一日に何回も行うため、俺も真っ先に覚えさせられた。人を移動させるとなるとどうしても力任せに持ち上げるイメージがあり、俺も最初はそうしていたのだがすぐに腰を痛めた。見かねた潘さんに教えてもらったのが今のやり方だ。両足を開く、自分と利用者さんの身体を近づけるといった細かい点に気をつけることで、最小限の力で人を動かせる。俺もこのやり方を覚えてからは身体の負担が軽くなった。
「うん。移乗はかなりスムーズだね。これならもう一人で大丈夫じゃない?」
一連の動きを見ていた松井さんが満足そうに言った。移乗に失敗すると大怪我につながるため、慣れるまでは誰かに見てもらうことになっていた。
「うーん。確かに慣れてはきましたけど、男性だとまだちょっと不安ですね。村上さんとかだと身体大きいんで支えきれる気がしないです」
「大丈夫だと思うけどねぇ。まぁ心配だったらまた呼んでくれればいいよ」
松井さんが朗らかに笑う。何かと手厳しい潘さんに対し、松井さんはおおらかに俺に接してくれる。元々の性格に加え、社員とパートという立場の違いがあるからだろう。俺としても、潘さんよりは松井さんの方が質問しやすかった。
「じゃ、残りの誘導お願いしていい? 西村さんは立てるし、前本さんと上野さんは今の感じで移乗してくれたらいいから」
「わかりました」
「私は岡部さんと金田さん行くわ。後は筒井さんの様子見てくる」
「熱がぶり返してないといいですけどね」
俺が三島さんを食堂に誘導し、松井さんは居室に向かう。食堂では井上君がお茶を配っていた。時間は十一時十五分。誘導だけなら何とか間に合うだろうか。
幸い、残りの三名の誘導もスムーズに行き、十一時半には利用者さん全員が食堂に揃っていた。筒井さんも熱発から回復したようで、元気そうに向かいの杉山さんと喋っている。
食堂を見回し、お茶が出ているか、エプロンがつけられているかなどを点検する。エプロンというのは赤ちゃんの前掛けのようなもので、主に食介が必要な利用者さんに使う。食べこぼしが服に落ちるのを防ぐためだ。
準備ができたところで、井上君が厨房からワゴンを運んできた。料理と一緒に、利用者さんの名前を書いたプレートがお盆に載っている。利用者さんによってはアレルギーがあったり、「きざみ」と呼ばれる細かく刻んだ料理しか食べられなかったりするので、配膳間違いがないよう注意しないといけない。
配膳を終えたタイミングで早出の松井さんが休憩に入った。残った俺と井上君で食堂を見守りつつ食介を行う。食介が必要なのは益川さんと金田さんだ。俺が益川さん、井上君が金田さんの車椅子の横に椅子を付けて座り、スプーンで料理を掬って介助をする。
「益川さーん、今日は肉じゃがですよー」
そう声をかけつつも、益川さんの前にあるのは全く肉じゃがには見えない液体状の料理だ。「ペースト食」と呼ばれるもので、噛んだり飲み込んだりする力が弱まっている人のために料理をどろどろの状態にしたものだ。固形のままだと喉に詰まらせてしまう人も、この状態なら安心して食べられる。でも、原型のわからない料理ははっきり言って食欲が湧かず、益川さんも水補のときほどスムーズに食べてくれなかった。
「こっちはほうれん草のおひたしですよー。美味しいから食べましょかー」
心にもないことを言ってスプーンを口に当てる。益川さんが辛うじて口を開けた隙にスプーン一杯の料理を流し込む。食介にもタイミングがあって、口の中のものを飲み込んでからでないと次を入れてはいけない。そうはいっても、一口食べるたびに待っているととてつもなく時間がかかるため、ついつい焦って次を入れてしまいたくなる。
「ほら、金田さん、あーんして」
横から井上君の声が聞こえる。井上君は慣れた手つきで食介を進めており、料理はすでに半分以上減っている。口に入れてはすぐに次の料理を掬い、金田さんが飲み込んだタイミングですかさずスプーンを口に当てる。食介に時間をかけすぎても利用者さんが疲れてしまうので、テンポ良く進めること自体はたぶん間違っていない。ただ、機械的な井上君の動きを見ていると、鳥に餌を食べさせているみたいに思えてやるせなくなる。
「あ、大石さん、坂田さんの薬行ってもらっていいっすか?」
井上君に言われ、俺は慌てて坂田さんの方を見た。坂田さんは自立のおじいちゃんだ。
人と関わるのが好きでないらしく、五分くらいで食事を済ませるとすぐに居室へ戻ってしまう。ただし食後の服薬があるので、薬を飲まない限りは帰れない。
「あ、はい。坂田さんお薬行きまーす」
益川さんの傍を離れ、詰め所に置いてある薬ボックスの方へ向かう。ナースが準備してくれた薬が、利用者さんの名前をテプラで貼った小さな箱に分けて収納されている。
「はい、じゃあ坂田さん、四月二十九日昼食後のお薬です」
坂田さんの傍に行き、薬や く包ほ うに印字された日付と食事時間を読み上げる。坂田さんは「ん」とだけ言って手を差し出してきたので、薬包を千切って中に入った錠剤をその上に載せた。口に入れるまで見届けた後、空になった薬包と食器を回収して戻った。
坂田さんは完食していたので、経過表にその旨を記入する。他にも何人か食べ終わっている人がいたので、服薬をしてから益川さんの食介に戻る。入れ替わりで井上君が完食した金田さんの食器を下げた。
「大石さん、川口さんの誘導行ってきていいっすか?」
井上君が尋ねてくる。川口さんは歩行器を使っているおじいちゃんだ。一人では歩行が不安定なため、誘導時はヘルパーが傍に付く。トイレは自分で行けるので居室まで送るだけだ。
「いいよ。服薬は俺がやっとくから」
「お願いします。あ、金田さんはもう服薬終わってるっす」
服薬は食後が基本だが、食介が必要な人は食後に疲れて服薬を拒否することも多い。それを防ぐため、半分くらい食べたところで服薬をし、それからまた食介に戻ることがある。
調子が悪くてご飯を食べられないときは、二、三口だけ食べてもらってから服薬をすることもある。何はともあれ薬だけは飲んでもらおうというわけだ。
井上君が川口さんを誘導するのを横目に、俺は益川さんの隣に戻った。益川さんはまだ三割くらいしか食べていない。せめて半分は食べてもらわないとまた潘さんに何か言われるかもしれない。謎のプレッシャーを感じながら俺は食介を再開した。
その後の昼ケアは滞りなく進んだ。井上君が誘導し、俺が食堂に残って服薬と食介をする。ヘルパーの人数が足りない場合、事務所にいるナースやケアマネがヘルプに来てくれるときもあるが、今日は大丈夫そうだ。
十二時半になったところで、松井さんが休憩から戻ってきた。食堂に残っているのは車椅子が四台。益川さん、金田さん、菊池さん、前本さんだ。前本さんは調子のいいときは自分で食べるのだが、今日は全然食べる気配がなかったので、途中から益川さんと同じように食介をした。食介するとスムーズに食べてくれてあっという間に完食した。
「大石君お疲れさま。後は私と井上君でやっとくから、休憩行っていいよ」
松井さんが食堂を見回しながら言った。やっと午前中が終わったと思ってほっとする。
「あ、はい。前本さん今日調子悪いみたいですね。最初全然食べてくれなくて」
「日によってムラがあるからねぇ。調子いいときはほっといても一人で食べるんだけど」
「菊池さんは水分摂らないですね。お茶も味噌汁もほとんど残してます」
「朝から合計三百か。ちょっと少ないな。まぁでも食事摂れてるからいいよ」
「後は益川さんですね。三割くらいしか食べてないんですけど、大丈夫でしょうか?」
「んー、ちょっと少ないけど、薬飲んでればとりあえずいいよ」
俺が何を言っても松井さんは軽くあしらってしまう。ヘルパー歴十八年のベテランからすればどれも些細なことらしい。
「じゃ、休憩行ってきます。服薬は全員終わってますんで」
「はいよ。ゆっくりしといで」
松井さんが言い、「菊池さーん、お茶飲みよー! 全部飲まんと晩ご飯抜きにするよー!」と大声で呼びかける。脅しのような言葉を大声で言うものだから俺も最初はビビったのだが、よくよく聞けばその口調は冗談っぽく、コミュニケーションの一つとして言っていることがわかった。言われた菊池さん本人も、顔をしかめながらもお茶を飲んでいて怒る様子はなかった。肝っ玉母さんキャラの松井さんだから許されるんだろう。
休憩室は事務所の向かいにある。机が一台と、椅子が二脚ずつ向かい合わせに並んでいるだけの小部屋だ。ヘルパーに個別の机はないのでここで飯を食うしかないが、仲良くない人と休憩が重なると結構気まずい。喋るにしても話題が続かないし、向かい合わせで座っているのに、無視してスマホをいじるのもそれはそれで変に思われる。外に食べに行ければ一番いいのだが、あいにく近くに飲食店はない。
今日いるメンバーは誰だっけ。施設長はいつも事務所で食べるし、ケアマネは会議で外出している。生活相談員は休みだし、残るはナースと、一階と三階のヘルパーくらい。話しやすい人が一緒だといいけど、と思いながら俺はそっと休憩室の引き戸を開けた。
「あ、大石君、お疲れさま!」
その声を聞いた瞬間、介助と虚しさで疲れ切っていた俺の身体から一気に疲労が吹っ飛んだ。肩までの黒髪をポニーテールにした女の子が奥側に座っている。同期の鮎川美南ちゃんだ。小柄な上に華奢で、色白の肌に薄ピンクの制服がよく似合っている。
「あ……美南ちゃん、お疲れ。もしかして美南ちゃんも休憩?」
「うん。十二時から! ついさっき入ったとこ」
「そうなんだ。今日は日勤?」
「うん。大石君も?」
「うん。でも同じ時間帯なのに全然会わないよな」
「まぁフロア違うししょうがないよね。なかなか他のフロアまで行く余裕ないし」
美南ちゃんは三階の担当だ。アライブ矢根川はベテランの職員が多く、新人をまとめて育てようということで同じ施設に配属になったらしい。ちなみに、内定式の時点では同期は四人だったのだが、一人は三月になって辞退し、一人は入社後一週間でバックれたので、残っているのは俺と美南ちゃんだけだ。
「大石君は今日何してたの?」
「水補と食介。いつもと一緒だよ」
「私も。でもそろそろ他のこともできるようになりたいよね」
「まぁな。ずっと同じことばっかしてても飽きるし」
「飽きるっていうか、私はもっと利用者さんと関わりたいから。普段はどうしてもバタバタしちゃうけど、お風呂とかだとゆっくりお話しできるしいいなって思って」
他に受からなかったから入社した俺とは違い、美南ちゃんは最初から介護職を志望していた。大学も福祉系で、福祉以外の仕事に就くことは端は なから考えなかったらしい。
「美南ちゃんは偉いよな……。ちゃんと好きでこの仕事してんだから」
「そんなことないよ。私はただ人の役に立ちたいだけ」
「でも介護って肉体労働だし、キツいとか辞めたいとか思わないの?」
「うーん、大変だって思うことはあるけど、利用者さんから感謝されたら嬉しいし、辞めたいとは思わないかな」
美南ちゃんがあっけらかんと言う。「人の役に立ちたい」とか「感謝されたら嬉しい」とか、俺からしたら面接対策用の上っ面の言葉だ。でも美南ちゃんの言葉には全く繕ったところがなく、本気で言っていることがよくわかる。
「大石君だって、ありがとうって言われたら嬉しいでしょ? それと同じだよ」
「うーん。確かに感謝はされるけど、他の条件悪すぎっていうか……」
「まぁ、大変なわりにお給料は低めだもんね。でもその分やりがいあるし、私は好きだよ、この仕事!」
美南ちゃんがにっこり笑って言う。あ、ヤバい、可愛い。思わず見とれてしまったところで、美南ちゃんが思い出したように壁の時計を見た。
「あ、もうこんな時間! そろそろ戻らなきゃ」
「え、もう? 休憩一時までじゃないの?」
壁の時計を見ながら俺は尋ねる。針は十二時五十分を指していた。
「そうなんだけど、今日フロア手薄だから、早めに戻った方がいいかと思って」
「そんな気遣わなくても……。休憩中なんだしゆっくりしてりゃいいじゃん」
「うーん、でもやっぱり気になるからもう行くね。大石君はゆっくりしてて!」
美南ちゃんが言っていそいそと立ち上がる。俺が引き留める間もなく出て行ってしまい、休憩室には俺一人だけが残された。
「……なんだよ、あっさり行っちまって。そんなに年寄りが好きなのかよ」
脱力して椅子にもたれながら、拗ねたように俺は呟いた。同じ施設で働いていても美南ちゃんと顔を合わせる機会は滅多にない。だからもっと喋りたかったのに、あっという間に行ってしまった。自主的に休憩を切り上げるほど美南ちゃんは介護の仕事に熱心でいる。
こんな仕事にそこまでエネルギー使わなくていいのに、とせっかくのチャンスを奪われた俺は恨み言を垂れ流したくなった。
その後休憩室には誰も来ず、俺は休憩時間の終わりギリギリまで粘ってから二階に戻った。入れ替わりで井上君が休憩に行き、松井さんは詰め所で経過表を書いている。
「お、前本さんが食後に排便ありか。下剤抜いてもらわないと」
「金田さんも排便あったんですね。今日なかったらコート三なんでよかったですね」
経過表を見つつ松井さんの言葉に答える。食後に排泄の話をするのもすっかり慣れてしまったが、自分でオムツ交換をし始めると飯が食えなくなるのだろうか。まぁ、今はまだ関係ないので、コート三だろうが四だろうが正直どうでもいいのだが。
「この後は二時から巡回して、三時からレクか。レクの誘導は井上君が戻ってきてからでいいかな。巡回は私が行くから、大石君は水補しといてくれる?」
「はい……」
内心またかよと思いながら俺は頷いた。美南ちゃんとは違った意味で別の仕事がしたくなる。
談話室には利用者さんが何人か残っている。食事が終わったら普通は居室に誘導するのだが、利用者さんの中にはいろいろな理由で居室に戻さない方がいい人もいる。例えば、昼間から居室にいるとつい寝てしまって夜に眠れなくなる人。そういう人は生活が昼夜逆転になるので、昼間は談話室でお茶を飲むなどして起きていてもらう。また、歩けないのにベッドから起き上がる人もいて、そういう人は一人にすると転倒する危険があるので、昼間は談話室にいてもらってヘルパーの目が届くようにする。そんな理由で食後も談
話室に残っているのが二階では四人。山根さん、益川さん、菊池さん、村上さんだ。ただし、菊池さんは家族さんが面会に来ているので今は談話室にいない。
益川さんばかり介助するのも飽きたので、別の人の水補をすることにした。まず談話室の端にいる車椅子のおじいちゃんに近づいて声をかける。
「山根さんこんにちは。お茶飲みましょか」
「お、ちゃ」
山根さんが区切りながら返事をする。お茶のコップを差し出すと、ゆっくりと持ち上げて飲んでくれた。こういう素直な人は有り難い。
「美味しいですか?」
「ふ、つう」
「ですよね」
思わず笑い、山根さんも口を開けて笑った。認知症の影響で失語があり、滑らかに喋ることはできないが、この人とのコミュニケーションは苦にならない。
「もっと飲んでくださいね。じゃ、失礼します」
山根さんから離れ、テレビの前で車椅子に座っている大柄なおじいちゃんの許へ行く。
茶色いレンズの眼鏡をかけた姿は見るからに強こ わ面も てで、話しかけるのに少し勇気がいった。
「村上さんこんにちは。お茶飲みませんか?」
「いらん」
にべもなく言われる。「ですよね」と言って引き下がりたかったがそうもいかない。
「村上さん、今日あんまり水分摂ってないから、摂らないと脱水になりますよ」
「いらん言うとるじゃろ!」
村上さんの大声が響き、お茶を飲んでいた山根さんがびくりと肩を上げる。村上さんは人に指図されるのが嫌いらしく、ヘルパーが少しでも何かを言うとすぐに大声を上げる。
だが居室に戻すとベッドから起き上がろうとして危ないので、昼間はこうして人の目のある場所にいてもらっている。
「……すみません。お茶、置いときますから、ちょっとでも飲んでくださいね」
ビビりながら言って足早に遠ざかる。詰め所を見ると、松井さんが苦笑して首を横に振っていた。「無理しなくていい」というサインだ。一人でテレビを観ている限り村上さんは怒らない。触らぬ神に祟りなしというやつだ。
山根さんのところに戻ろうかと思ったが、一人で飲める人の傍に付いていても仕方がない。迷った末、結局益川さんの水補をすることにした。
十四時半になると井上君が戻ってきた。松井さんは巡回に行っている。
「もうそろそろレクっすね。大石さん、誘導行ってもらえます?」
「わかった」
井上君と短く会話をし、水補を切り上げて居室に向かう。レクというのはレクリエーションのことだ。毎日十五時から、利用者さんに談話室に集まってもらって何かをする。
内容は日によって変わり、クイズをすることもあれば、ラジオ体操などの軽い運動をすることもある。レクを楽しみにしている利用者さんは多いが、やる側からすると毎日違う内容を考えるのが大変だ。
自立の人には例によって声だけかけ、車椅子や歩行器の人を誘導する。俺はまず西村さんの居室に向かった。西村さんは車椅子のおばあちゃんだが、手すりを持てば立てるのでトイレで用を足すことができる。トイレに行きたいときは自分でナースコールを押してくれるので、ヘルパーはそのときだけトイレ介助を行う。
「西村さーん、こんにちはー。レク行きましょかー」
居室に入り、ベッドに腰かけてテレビを観ている西村さんに声をかける。西村さんは「もうそんな時間かいな」と言って枕元にある時計を見た。
「さっき部屋戻った思ったらまた呼びに来て、帰った思ったらまた夕食じゃろ? 慌ただしいてしゃあないわ」
「すみません。でもずっと部屋にいるのもよくないので」
「まぁあんたらも仕事じゃから、文句言うてもいかんな」
西村さんが訳知り顔で言ってリモコンでテレビを消す。利用者さんの中にはこんな風に施設に不満を抱える人もいるが、面と向かって文句を言う人は少ない。下手にクレームをつけられても面倒だったので俺はほっとした。
「とりあえず車椅子つけますから、乗ってください」
入口近くに置いてあった車椅子をベッドの傍まで運ぶ。西村さんのように立てる人の場合、移乗もヘルパーが抱える必要はなく、転倒しないかを近くで見守るだけでいい。今日も西村さんはベッドの手すりを持ってひょこひょこ歩きながら自分で移乗した。
「トイレ行きますか?」
「いや、さっきも連れてってもらったからええ」
「わかりました。じゃあ動かしますね」
声をかけてから車椅子を前進させる。談話室に行くと自立の人がぽつぽつ集まってきており、井上君がコーヒーの準備をしている。レクが終わった後にはコーヒーとおやつが提供され、これを楽しみにレクに来る人も結構いる。
「あ、大石さん、松井さんが巡回終わって村上さんの排泄行ってるんで、他の人誘導してもらっていいっすか?」
井上君が声をかけてくる。特に決まりがあるわけではないが、談話室にいる利用者さんの排泄介助は最後に回すのが何となくの流れになっていた。
「わかった。えーっと、居室にいるのは三島さん、前本さん、金田さん、岡部さんか。三島さんと前本さんはさっきも移乗したし大丈夫かな」
「上野さんは直前でいいっすよ。あんまり早く誘導するとうるさいんで」
上野さんは車椅子のおじいちゃんだ。待たされるのが嫌いなため、食事やレクのときには最後に誘導し、終わった後は真っ先に誘導することになっている。ただし実際には他の人の対応で遅れることも多く、そうなるとすぐに文句を言う。
「とりあえず行ってくるよ。全員の誘導は無理かもしれないけど」
「まぁちょっとくらい遅れてもいいっすよ。誰も時間気にしてないんで」
とはいえ、二十分も三十分も開始が遅れたら文句を言う人もいるだろう。そうならない程度に急ごうと思いながら俺は居室に向かった。
三人を誘導したところで十五時を回ってしまったが、ちょうど排泄介助を終えた松井さんが手伝ってくれたので、五分ほど遅れただけでレクを開始できた。
「はーい、じゃあレク始めまーす」
並んだ車椅子の前に立って俺は言った。介助ができない俺はレクを担当することが多い。
場を盛り上げるのは苦手だが、他にできることがないので文句は言えない。
「今日は皆さんが大好きな風船バレーです。ルールは簡単、風船を床に落とさないように叩くだけです。力入れすぎると風船が割れるので注意してください。じゃあ行きますよ……よーい、ドン!」
声を張り上げて持っていた風船を放り投げる。風船はゆっくりと空中を飛んで山根さんの車椅子の方に向かった。山根さんが軽く背を伸ばして片手で風船を叩く。風船はふわふわと飛んで今度は立っている杉山さんの方に向かった。杉山さんは両手でトスをし、風船がまた別の利用者さんの方に向かう。みんな夢中になって風船を追いかけており、その様子だけ見れば楽しんでいるように見える。ただし俺からすれば、毎日同じことを繰り返すだけの退屈な老人ホーム生活の中で、他の時間よりはマシだと思い込んでいるだけじゃないかと思うのだが。
「あ、三島さん風船来てますよ! ほら、トスして!」
内心は冷めつつもサボっていると思われると怒られるので、声を張り上げつつ半分寝かけている三島さんの傍に駆け寄る。三島さんはトスをしようと両手を上げたが、失敗して風船が頭にぶつかった。もちろん風船なので怪我はしない。
「ああ残念。でも本番はこれからですよ!」
大袈裟に悔しがってみせた後、まだ風船に触っていない利用者さんを探す。そこで詰め所で経過表を書いている松井さんと、コーヒーにとろみを付けている井上君の姿が目に入った。二人ともこちらには関心がない様子で自分の仕事に集中している。その様子を見ていると、一人でテンションを上げている自分が急にバカみたいに思えてくる。
(……俺、何やってんだろうな)
急速に心が冷えていくのを感じるが、レクの最中に職員がしらけた顔をしていると文句を言われるかもしれない。俺は葛藤を振り払うように風船を勢いよく放り投げた。
二十分ほど風船バレーをした後で休憩となり、全員におやつが配られた。今日のおやつはクッキーだ。といっても、きざみやペーストの人は原型がわからない状態で提供される。
「益川さーん、クッキーですよー、頑張って食べましょかー」
例によって俺は益川さんの食介をしていた。食事に比べておやつは比較的スムーズに食べてくれることが多く、すでにクッキーは半分ほどに減っている。介助される状態でもおやつは楽しみなものなのだろうか。
「菊池さーん、クッキーだけじゃなくてコーヒーも飲んでよー!」
「前本さーん、人のおやつ食べたら駄目よー! 晩ご飯食べれんなるよー!」
松井さんはあちこちに声をかけながら金田さんの食介をしている。後ろの席の川口さんが立ち上がろうとするとすかさず「川口さーん、危ないから座っとってよー!」と声をかける。大勢の利用者さんを一度にあしらう様子はまさに子どもをあやす母親だ。
「うわ、このバンドかっけぇ……。次のバイト代でCD買おうかな」
井上君は山根さんの食介をしつつも半分テレビを観ている。潘さんがいないときの井上君はいつもこんな感じだ。松井さんも注意することはなく、むしろ自分もワイドショーを観ては、「え、あの人また離婚したの?」などと呟いている。
二人の様子を横目で見ながら、俺はどんどん気持ちが沈んでいくのを感じた。
俺はいったい何をやってるんだろう。こんな動物園みたいなところで、やる気も学歴もない人達と一緒に仕事をして、何の知識もスキルも身につけないまま、毎日ひたすら同じことを繰り返している。そんな日々が虚しくてならない。
いったいいつまでこの生活を続ければいいのだろう。介護の仕事がどんなものかについて入社前に説明は聞いていたし、施設見学もしていたが、自分がこの中で介護をする姿がイメージできていたかと訊かれればそうではない。友人がスーツを着てパソコンに向かって仕事をする中、ダサいポロシャツを着て、ひたすら施設内を歩き回る仕事がこんなに虚しさを感じさせるものだなんて思わなかった。
確かにこの仕事を選んだのは自分だ。でも俺は美南ちゃんみたいに好きでこの仕事をしているわけじゃない。他に受からなかったから入っただけで、人の世話がしたいわけでも、年寄りが好きなわけでもない。
だけど、そんな俺の気持ちは誰にも理解されることはない。テルのように「大変だな」と高みから同情されるか、ノブのように「人の嫌がる仕事を引き受けて偉い」と形だけの称賛を寄せられるだけだ。でもそんな言葉は俺の心には響かない。
正直に言おう。俺はこの仕事が嫌いだ。
十六時前になったところで、自立の人は一旦居室に戻っていった。井上君は夕食前の排泄介助のため、車椅子の人を一旦居室に戻している。松井さんは早出なのでもうすぐ上がる。
「田沼ちゃん遅いねぇ。いつも十五分前には来てるのに」
松井さんが壁の時計を見て呟いた。田沼さんは四十代の正社員で、今日は夜勤だがまだ詰め所に来ていない。時計は十五時五十五分を指している。
「確かに珍しいですよね。なんかあったんでしょうか?」
「さあねぇ。四時までに来てくれるといいけど」
松井さんが気忙しそうに身体を揺する。時間どおりに帰れるか心配なのだろう。
俺達が話をしていると階段の方から足音がした。黒髪をボブにし、丸眼鏡をかけた小柄な女性が小走りで階段を上がってくる。今まさに話をしていた田沼明子さんだ。ヘルパー歴二十年以上の大ベテランで、肝っ玉母さんキャラの松井さんとは違い、優しいお母さんという雰囲気だ。
「あ、田沼さん。おはようございます。遅かったですね」
詰め所に入ってくる田沼さんに俺は声をかけた。田沼さんが頷き、申し訳なさそうに胸の前で両手を合わせる。
「うん、家出ようとしたら雨降ってきて、洗濯物入れてたら遅くなっちゃったの。ごめんね、遅くなって」
「まだ四時回ってないし大丈夫ですよ。事故とかじゃなくてよかったです」
「そうそう。気にしなくていいよ。じゃ、私は帰るから後よろしくー」
松井さんが手をひらひらさせて詰め所を出て行く。歩くたびにふくよかな身体が揺れ、のっしのっしと足音が聞こえる気がする。
去っていく松井さんの姿を見送った後、俺は田沼さんに簡単に申し送りをした。
「えーと、今井上君が排泄行ってます。コートの人はいません」
「あ、前本さんお通じあったのね。よかった。水分はどう?」
「菊池さんはまだ五百なので少ないですね。益川さんは八百飲んでます」
「なら夕食のときはコップ一杯で十分かな。大石君が頑張って水補してくれてるおかげだね」
「それしかすることないだけですよ。俺は排泄も入浴もできませんし」
「そんなことないよ。見守りしてもらえるだけでも有り難いし、私はすごく助かってるよ」
田沼さんが目を細めて優しく笑う。その陽だまりみたいな笑顔を見ていると、何となくこっちも気持ちが明るくなったような気がした。
「夕食五時からですし、誘導はちょっと早いですよね。菊池さんの水補しましょうか?」
「うーん。でも大石君ずっと水補してたんでしょ? 夕食でも飲んでもらえるし、ちょっと休んでてもいいよ」
「でも……」
「まだ慣れてないだろうし、無理はしたら駄目だよ。頑張りすぎて倒れたら大変だからね」
田沼さんに諭されて俺は頷き、詰め所に戻って来月のイベントのチラシなどを見ることにした。田沼さんはその間に菊池さんに近づき、「菊池さん、ちょっとでもお茶飲もうか」と目線を合わせて声をかけている。
田沼さんと顔を合わせるたび、俺は何となく安心した気持ちになる。田沼さんは潘さんと違って優しく、何もわからずに現場に放り込まれた俺を気遣い、手取り足取り仕事を教えてくれた。利用者さんにも親身になって寄り添う姿はまさに理想のヘルパーという感じで、美南ちゃんはいつも田沼さんみたいなヘルパーが憧れと言っていた。
(……憧れ、か)
もし俺が最初から介護の仕事を志望していたら、自分も田沼さんのようなヘルパーを目指そうと考えたかもしれない。でも、ともすれば仕事を嫌だと思い、続ける気にもなれずにいる俺にとっては、田沼さんのような人が身近にいたところで何の意味もない。俺の内心を知らず、熱心に仕事を教えてくれることを申し訳なく思うくらいだ。
(……ここが普通の会社だったらよかったのにな)
俺は小さくため息をつき、気のない顔でチラシを捲った。
十七時からの夕食は普段どおり過ぎた。金田さんと益川さんの食介をし、菊池さんに水補を促し、一番早く食べ終わった坂田さんの服薬をし、手が止まっている山根さんと前本さんに声をかけ、居室に帰りたがる川口さんと上野さんをあしらい、そんなことを繰り返しているうちにあっという間に十八時を回った。
「大石君お疲れさま、もう時間だし上がっていいよ」
誘導から戻ってきた田沼さんが俺に声をかけた。俺は経過表に三島さんの食事量を記入しているところだった。食堂には車椅子が四台残っている。
「いいんですか? まだ結構残ってますけど」
「うん。順番に誘導するから大丈夫。大石君、明日も日勤でしょ? 早く帰って休んだ方がいいよ」
確かに一日働いてくたくただ。俺は田沼さんの言葉に甘えることにした。
「じゃ、すいません、お先に失礼します。夜勤頑張ってください」
「うん、ありがとう。また明日ね」
田沼さんが笑顔で言い、食堂に残った食器を下げ始める。利用者さんの横を通るたびに「ごめんね、もうちょっと待っててね」と声をかけている。
先に帰ることに俺は少しだけ申し訳なさを感じたが、この場からさっさと立ち去りたい気持ちの方が勝ち、誰かに呼び止められないうちに足早に更衣室へと向かった。
私服に着替えて外に出ると、ようやく生き返った心地がした。外はまだ明るいが車の通りは少ない。きっとGWで出かけているのだろう。世間は浮かれているのかもしれないが、ヘルパーには土日も祝日も関係なく、大型連休なんて夢のまた夢だ。
駅まで徒歩十五分の道のりをのろのろと歩く。今から帰ったら家に着くのは十九時を回る。就職を機に一人暮らしを始めたはいいが、自炊をする元気はないから食事はいつもコンビニだ。軽くテレビを観てから風呂に入って、二十二時になる頃には疲れて寝る。そしてまた七時に起きて、出勤してダサい制服に着替えてひたすら年寄りの世話をする。
これが俺の日常だ。何の面白みもない、繰り返しの日々。現状に嫌気が差し、一週間でバックれた同期に続こうと考えたことは一度や二度ではない。
それでも何とか踏ん張っているのは、一か月やそこらで辞めたところで次がないと考えているからだ。せめて半年は続けないと、根気がない奴だと思われて次のところでも採用されない。だから半年だけの辛抱だと自分に言い聞かせて続けている。でもその間に排泄とか入浴とか夜勤とか、今よりもっと気の滅入る仕事をさせられるのかと思うと憂鬱になる。
いくら気になる女の子や優しい先輩がいたところで、それでこの仕事を好きになれるわけじゃない。俺がこの仕事をしているのは自分のため。感謝されるのが嬉しいとか、利用者さんの役に立ちたいとか、そんな綺麗なことはこれっぽっちも考えちゃいないのだ。