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フェオファーン聖譚曲op.Ⅰ 2-3

02 カルカンド 状況は加速する|3 薔薇色の王女

 国王が居住するボーフ宮殿、その庭園の一角に造られたガゼボで、エリク王は今を盛りと咲き誇る花を眺めていた。単なる四阿あずまやに過ぎないとはいえ、そこは大ロジオンの国王宮にしつらえられた設備である。壮麗な宮殿の中にあって、敢えて自然な趣を演出する庭園に溶け込むよう、計算され尽くした素朴さを持たせながらも、その造りは豪奢ごうしゃを極めていた。
 庭園の自然な風情に合わせて、ガゼボの周りの風景も、穏やかな雰囲気に満ちていた。大国の君主であるエリク王の周囲には、十人を超える護衛騎士が護りを固めているにも拘(かか)わらず、王の目に触れる位置に立つのは、近衛このえ騎士団の略正装である白銀の胸鎧をまとった二人の近衛騎士と、エリク王の内向きの諸事を差配する王家の家令かれい、タラス・トリフォン伯爵だけだった。

 そこへ、侍従じじゅうや女官に先導されながら、一人の少女が現れた。純白の絹に薔薇色の飾り帯を締めた贅沢なドレスを身に付けた姿は、幼いながらも気位の高さをうかがわせる。それも道理か、少女はエリク王の数多いる王女の一人なのである。
 先導役の一人である侍従は、緊張した面持ちでタラスの前に進み出ると、深々と腰を折った。白絹のブラウスに纏った漆黒の上着には、胸元に金糸の太陽が刺繍されている。王国の太陽と称えられる国王の宮殿に侍る者だと、一目で分かる出で立ちである。許しもなくエリク王に話し掛けることなど、決して出来ない立場の侍従は、タラスが頷くのを待ってからおもむろに口を開いた。

おそれながら申し上げます、トリフォン伯爵閣下。ロージナ王女殿下が、陛下に是非とも御見せしたいものが有るとおおせになり、既に庭園まで御越しでございます」

 ロージナが姿を見せた瞬間から、一度として王女に視線を向ける素振そぶりを見せないタラスは、虫を払うかの如く答えた。

「本日、ロージナ王女殿下が御越しになられる予定はなく、陛下への謁見えっけんも許されていない。何故、先触さきぶれを出して陛下の御裁可を仰がない。如何いかに王女殿下であれ、陛下への突然の御訪問など認められぬと、王女殿下の女官に申し伝えよ」

 取りつく島もないタラスの様子に、侍従が為す術もなく顔を伏せる一方、ロージナに付き従ってきた女官は、構わずタラスの前に歩み出た。女官が言う。

「そうは申されましても、こちらは姫君の御名前で、何度も御面会を願い出ております。無作法は承知のことながら、こうでも致しませんと、姫君が御父君に御会いになれないのでございます。陛下とて、愛娘たる姫君の御願いとあらば、ほんのわずか御時間を作って下さるのではございませんか」
「女官如きが、陛下の御心を忖度そんたくするのは不敬である。口を閉じ、く戻るが良い」
「そのように仰らず、どうか陛下に御取り次ぎ下さいませ」
「ならぬ。疾く戻るが良い」

 タラスを説得することは、王女の名を以てしても難しいと悟った女官は、そっとロージナに目配せをした。ロージナは小さく頷くと、三十セルラ程先に姿の見えるエリク王に向かって、大きな声で話し掛けた。

「御父様、わたくし、御父様に御目に掛けたいものがございますの。少しの間で構いませんので、御話し出来ませんか。御願い致します、御父様」

 五百年を超す歴史を経て、作法一つにも洗練を極めた大ロジオンの王城にあっては、到底許されるはずのない無作法に、タラスは眉間に深く皺を寄せたまま、エリク王に視線で問い掛けた。エリク王は、然程興味を惹かれた様子も見せず、只一度だけ鷹揚おうように頷いた。王家の家令かれいとして、常にエリク王に付き従うタラスには、それだけで十分だった。

「誠におそれ多きことながら、陛下の特別の御慈悲でございます。ロージナ王女殿下、陛下の御前に御進み下さい」

 タラスの重々しい許可を得て、ロージナと女官は喜色を浮かべ、弾む足取りでエリク王に近寄った。そして、ドレスの裾を左右の手で摘み、片足の膝を曲げて挨拶をする。ロージナは軽く膝を折る上位礼、女官は深く腰を落とした最上位礼である。

 エリク王は、礼から直るように合図しただけで、自分からロージナに話し掛けず、椅子を勧めもしなかった。居ない者として扱われたロージナと女官は、タラスに困惑した視線を向けたものの、いつの間にかエリク王の後ろに控えていたタラスも、石像かと見紛みまごうばかりの無表情を貫いて、平然とその場に立っているだけだった。

 厳粛な貴族社会であるロジオン王国には、明確な作法が存在する。その一つには、身分が上の者から話し掛けるか、許可を表す合図を出さない限り、下の者から口を聞いてはならないと決められている。明文化された法による決まりではなく、王城にける不文律なのである。ところが、エリク王の無言に対して為す術がなく、思い余った女官によって小声で促されたロージナは、再び自分から父王ちちおうに声を掛けた。

「御父様、御久し振りでございます。もう一月も御目に掛かれませんでしたので、ロージナは寂しゅうございました」
「そうか。今日は、寂しいからといって来たのか、姫よ」

 漸くロージナに注がれたエリク王の声音は、ほとんど温度を持っていなかった。まだ幼いロージナは、エリク王の言葉の意味を考えることのないまま、父王が自分に視線を向けてくれた喜びに、淡く頬を染めた。

「そうですわ、御父様。わたくし、御父様に御会いしたかったのです。それに、御母様の猫が子を産みましたので、御父様にも御見せしたかったのです。御父様、猫は御好きでいらっしゃるでしょう。とても可愛いのです」
「猫か。確かに猫は好きだよ。前の猫が死んでしまってから、しばらくは飼っていないがね。良かろう。見せて御覧」

 エリク王の許可を得て、ボーフ宮の侍従じじゅうの一人が捧げ持っていた籐籠とうかごの蓋を開けた。途端に、頼りない子猫の鳴き声がか細く響く。控えていた近衛このえ騎士の一人が、素早く籐籠を覗き込み、何かを確かめてから猫を抱き上げた。雪かと見紛う程に白く、艶やかに長い毛並みの子猫である。タラスは、近衛騎士から猫を受け取り、やはり何かを確かめてからエリク王に言った。

「生後二月程でございましょうか。元気で可愛らしい子猫でございます故、何も問題は有りますまい。如何いかが致しますか、陛下」

 エリク王は、目の前の机の上に置かれていたガラス製の遊戯盤を、自らの手で横にずらし、空いた場所を指差した。タラスによって、そっと机に座らされた子猫は、騒ぐでも暴れるでもなく、只じっとエリク王を見詰めている。存外、猫の扱いに慣れたエリク王が、軽く曲げた人差し指を子猫の鼻先に突き出してやると、子猫は何度も指の匂いを嗅いでから、小さく喉を鳴らした。子猫とエリク王は、明らかに何かが通じ合った様子だった。

「純白の毛並みに相応しく、そなたをスニェーク〈雪〉と名付けよう。今からそなたは、ボーフ宮に住まうが良い」

 子猫に申し渡すには重々しく、ほのかな愛情をまとった父王ちちおうの宣言に、ロージナは瞳を輝かせて喜びの声を上げた。

「御父様が飼って下さるのですね。同時に生まれた子猫の中でも、一番綺麗で賢い猫だから、きっと気に入って頂けると思いましたの。スニェークだなんて、素敵な名前だわ。御父様に気に入って頂けて、とても嬉しいわ」
「スニェークは、余が大切に可愛がると約束しよう。大儀であった、ロージナ」

 ロージナの喜びに構うことなく、呆気なく退席を促すエリク王の言葉に、ロージナは慌てて言い募った。

「あの、御父様。これからはスニェークに会いに、ボーフ宮まで来てもよろしいでしょう。わたくしも御父様と同じで、猫はとても好きですの。御父様の御側でスニェークと遊べたら、どんなにか楽しく思いますわ」
先触さきぶれを出してたずねなさい。状況が許せば許可が出るだろう」
「スニェークの母猫は、御母様が飼っていらっしゃるの。御父様、御母様の所まで、母猫に会いにいらして下さるかしら。ローザ宮には、スニェークと同時に生まれた子猫も、後二匹おりますの。とても可愛いのよ。きっと御父様の御気に入るのではないかしら」

 段々と必死になって行くロージナに、女官もすがるような目を向けて、無言でエリク王に懇願こんがんした。そんな王女らを一顧いっこだにせず、言葉を挟んだのはタラスだった。

「ロージナ王女殿下が御帰りになられる。御見送りせよ」

 即座に動いた近衛このえ騎士に促され、流石のロージナと女官も、これ以上居座ることは出来なかった。物言いた気な瞳でエリク王を見遣みやってから、ロージナは何度も振り返りつつ、ゆっくりと庭園を去って行く。その歩みの遅さは、エリク王から引き止める声が掛かることを期待してのものだったが、エリク王は最後まで、眉一つ動かさないままだった。
 ロージナ達の姿が完全に見えなくなってから、エリク王は底冷えのするような声で、傍に立つタラスに尋ねた。

「ロージナは第四側妃の娘。では、第四側妃は誰の娘だったか」
「外務大臣を務めておられる、エドガル侯爵閣下でございます」
「そう、外務大臣である。その孫娘が、王城の作法さえも身に付けておらぬとは、異な事も有るものだな、タラスよ」
「ここ二月程、陛下は第四側妃様と御会いになっておられませんし、最後に彼の側妃様の元に御渡りになられましたのは、三年前でございます。先様も、色々と焦っておられるのでございましょう。いずれにしろ、本命はロージナ王女殿下の兄君かと存じます」

 エリク王は色のない微笑みを浮かべ、壮年の男とは思えない程美しく整えられた指先で、そっとスニェークの頬を撫でた。

「王太子位争いから脱落しない為に、子猫と小娘を使うか。姑息なことよ。利用されるロージナも不憫ふびん故、そろそろ動くとしよう」
「どこまでなさいますか」
「第四側妃には、半年前から愛人がいたのだったな」
「第四側妃様付の護衛騎士の一人が、ねやはべっております。未だ年若い近衛でございます。証拠も既に揃っておりますので、如何様いかようにも」
「ならば、第四側妃をその男に下げ渡すとしよう。第四側妃の産んだ王子王女は、全て王籍を剥奪し、相手の男の貴族籍に入れよ」
「罰せずとも良い、と仰るのでございますか、陛下」

 タラスは、エリク王の家令かれいとしては極めてめずらしくも、内心の不満をあらわにした。この大王国を統べる絶対君主たるエリク王を、タラスは若い頃から一心に敬愛し、命を懸けた忠誠を貫いてきた。その至高の主に対して、事もあろうに〈寝取られ男〉の汚名を着せた第四側妃は、タラスにとって八つ裂きにしても飽き足らない敵だったのである。
 一方のエリク王は、議会が定めた政略に従って迎えたに過ぎない第四側妃に、不貞ふていを憎む程の関心さえ持ってはいなかった。

「そうではない、タラス。余は、この栄えあるロジオン王国の正史に、不義を犯した側妃がいたなどという恥を、書き残されたくないだけなのだ。何らかの問題の有った側妃を、国王が手近な男に下げ渡し、王子王女ごと王城から遠ざけた。それで良かろう。第一、第四側妃の不義を公に問うてしまえば、子らも全て殺さねばならぬ。愚かな女一人の為に、そこまでせずとも良かろう」
「御意にございます。一両日中に準備を整えます」
「愛人を引き入れる手助けをした者や、知っていて沈黙していた者は、一人残らず殺すが良い。王城の口さがない雀共には、それだけで口に出来ぬ真実が伝わろう。子らの為に側妃の命は奪わぬのだから、不忠者を罰して見せしめと致せ」
「必ずや、全員を炙り出しましょう。御任せ下さいませ、陛下」

 タラスは、強い意志を秘めた瞳で一揖いちゆうした。タラスの峻厳しゅんげんなる心の内で、兼ねてから作られていた名簿には、ロージナを煽って王城の不文律を破らせた、先程の無礼な女官の名も、はっきりと刻まれているのである。

 それだけで第四側妃の問題に関心をなくしたエリク王は、大人しく机の上で座り込んでいる子猫に話し掛けた。黄白おうはくで作られた遊戯用の駒の中から、優雅な手付きで馬の頭部を模した駒を摘み上げると、静かに子猫の近くに置く。

「スニェークよ、この馬は騎士を意味するのだよ。この馬の後ろには、近衛このえの騎士が多く付き従っているだろう」

 次に、エリク王は、馬から少し離れた位置に、上部が半球形の形をした駒を置く。盤上の遊戯のでは、僧侶と呼ばれる駒である。

「この僧侶の駒は、貴族や官吏かんりを従えている。勿論、全てではないが、中々に強かであり、複雑な動きをするだけの知恵が有る」

 更に、上部を城らしき形に整えた駒を取り上げると、今度は馬と僧侶の間、丁度三角形の頂点を示す場所に置いた。

「城は、近衛以外の騎士を指すと考えれば良い。この盤で動くのは、王国騎士団であろう。彼らは、馬とも僧侶とも仲が悪い」

 ほのかな微笑みを浮かべながら、最後に、エリク王は人の形を模した駒を取り、馬と僧侶と城から成る三角形から離れた机の端に、静かに置いた。

「この人型は地方貴族であり、普段は関わってはこない。但し、やり方を誤ると他の駒を薙ぎ倒すかも知れぬので、注意が要るあろう。この四つの駒の内の三つ、せめて二つを合わせれば、王の駒に手が届くかも知れぬのに、今はそれぞれがいがみ合っている。さて、ロジオン王国の王太子位争いは、どうなるであろうな、スニェークよ」

 優しく語り掛けられた子猫は、出会ったばかりの主人に柔かく湿った鼻先を擦り寄せ、新しい主人に答えようと健気な声で鳴いたのだった。